http://d.hatena.ne.jp/teruyastar/20131207/1386476138
この記事を読んで、うーんそうは言ってもなあ、と思った。
自己目的的な行為は、その行為自体が善である、正解である、ポジティブである、といった自分の評価軸が前提に無いか?
でも自分の評価軸って、よっぽど意思の強い人じゃない限り環境や立ち位置でけっこう簡単に変わっちゃわないか?
例を出すと、
大学時代パンクロックのグループを組んでいて、そのメンバーと取り巻き達の価値観では半社会的な行為がカッコ良くて評価されていたから、ネガティブな歌を歌ったりライブで暴れ回ったり散々ヤンチャしまくった。
その後卒業して会社員として真面目に働き出して仕事の仕方を覚えてからというものの、外回りの営業で人としゃべるのが楽しくって、それに伴って売り上げが伸びていき、上司からも得意先から褒められ順風満帆だった。
しかしある時大学時代のバンドのメンバーと偶然再開し、飲み屋で思い出話してたらパンク熱が再燃。真面目に営業なんかやってられっかと、途端に営業熱が冷めてしまって売り上げが伸びなくなった。とかね。
まあこの例は極端だけど、それ以外にも
子供の頃絵を描くことが楽しくてひたすらマンガを描いてたら、親に見つかって「こんなくだらないことやってないで勉強しなさい!」って怒られて、そうか、これはくだらないことなんだ、と思って挫折したり。
他にも、日本の捕鯨船を敵とみなし過激な思想を教え込まれ絶対悪として捕鯨船を威嚇・攻撃することに燃えていたけど、ついに海上保安庁に捕まって留置場に入れられ奴らにどんな酷いことされるんだろうと思ってたら思いの外紳士的に扱われたので、彼らはそんなに悪い人達ではなかったんだな、と改心したり。
要は自己目的的な行為をしている状態って一種の洗脳状態というか「これをやっている自分は確実に善・正解・ポジティブな存在」という思い込みの元に成立しているんだと思うんだけど、一旦その状態を外部から「別にお前は善・正解・ポジティブじゃないよ?」と否定されたら一気に評価軸がブレてしまって、自己目的的な行為が断絶してしまうんじゃないかと思うんだよね。
今までの俺の経験からしても自己目的的でフロー状態に入りノリにノっている時もあったけど、同僚から足を引っ張られたり上司から出る杭を打たれたりする度にその状態が断絶されてきた。
でもこれは俺だけじゃなくてみんなそうだと思うのね。俺らはずっと嫉妬や僻み、そして異なる価値観と戦ってきた。
嫉妬や僻みをはね返す程の、多少傲慢さがあるくらい俺は正しいと思い込まなきゃ自己目的的にはなれないよ。しかしこの情報化社会で評価軸がブレずに生きていけるだろうかね?俺はなんだか自信が無い。