はてなキーワード: 総中流社会とは
自民党によれば金融庁の報告書はなくなってしまったそうだが金融庁のサイトに行けば誰でも簡単に無料で読める。
https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/tosin/20190603.html
しかし、興味と時間があるなら報告書ばかりでなく議事録も読んでほしい。議事録は直近2回の文はまだ上がっていないが、それ以外はすべて簡単に読める。
https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/base_gijiroku.html#market_wg
とりあえず上がっている中では最新の第22回の議事録に軽く目を通してみたが、けっこう面白いことが書いてある。
一方で、最初に委員からコメントがございましたのと同様に、表現がぬるくなったなと感じます。最近の金融庁さんのメッセージというのは非常に強くなって、具体的になった。そして、行動惹起に向けた、よりはっきりしたメッセージという意味で、僕は非常に高く評価していると、僭越ですが考えていたものですから、この言葉遣いがすごくぬるくなって、残念だと感じているところです。
そして、全般にぬるくなった部分があることも含めてですが、特に現役期に対しては強烈な危機意識の惹起があってもいいのではないか。
危機意識というのは、言ってみれば20世紀の1億総中流社会というものがまだ前提にあって、親御さんが教育をしてきて、その認識から抜け切れていないという途上に日本の我々世代がある中で、もうそうではないのだ、これから訪れる社会はいや応なく格差社会だ。格差社会というものが本来のグローバルスタンダードであって、格差社会をしっかりと受け入れた上で、自分たちがどう行動しなければいけないかという行動惹起につながるような表現がもう少しあったほうが、本気度が高まるであろうと感じています。
一方で、矛盾することですが、全般に見ると、悲観トーン一辺倒が強過ぎるといいますか、これだと、国民がうれしそうに読むことができないのは当然のことなので、実際にここに入れていただきたいことは、まず、お金を持っている高齢層、持っていない高齢層が二極化しているというデータが先ほどはっきり示されているとおりでもありますので、とりわけ持っている世代に向けてはもっと前向きに、より豊かな人生を実現していくことの目的を盛り込んでいただきたいです。
お金を抱え込んでいるだけでなく、もっともっと有効に活用させて、お金を働かせることで、より豊かな人生が実現できて、それは具体的にアメリカでも、ヨーロッパでも、高齢世代にミリオネアというような人たちが普通の中でも出てきている。こういったことをイメージできるような表現を一緒に入れていただければ、より明るいものになるのではないかと思います。
もう一つが、預貯金偏重という現実の中で、それはゼロ金利で、お金を退蔵させているだけ。それでは新たな富を生まないということに対して、お金を動かしていくということが次の世代のために、リスクマネーを供給していくという意識に導かれることで、その行為が自分だけではなくて、将来に向けての社会的意義を持つといったより前向きな行動惹起のサポートの考え方になるのではないかと思っております。
先ほど高田委員からインベストメントチェーンという重要なフレーズがあったとおりで、それこそが国民全体で、我々自身の持っている資産がインベストメントチェーンの担い手になって、そして、それがちゃんと回ることによって、はっきりと日本自身が経済成長しないでも金融立国として存続し得るのだと思います。
ですから、前向きな期待というのをこの中にぜひ盛り込んでいただけると、みんなが気持ちよく読めるようになるのではないかと感じております。
https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/market_wg/gijiroku/20190412.html
なんというか、優良な家庭で育った人と、普通の家庭で育った人と、不幸な家庭で育った人ではコミュニケーションが取れないが・・・
なんというか残念なことに、不幸な家庭って全体の3%ぐらいしかないのよね。日本だと。総中流社会だったから。
そのため、なんと、不幸な家庭の子どもが悪い。という事になっている。
だからといって、社会に何かしてくれってことはなく、わからない人が、わからないまま何かしても事態は悪化するだけだろうから
僕らが一方的に、その差を埋めなきゃならんのだが、辛いわな。
まさに、親業自徳
とはいえ、仕組みと構造はわかってきてるから、僕らよりも若い世代でこれが広がるのは防げるんじゃないかな。
いつも思うのだが、
スーパーはどの店も
「鮮度が自慢」「美味しさが自慢」「国産で・・・」と宣伝する。
「安さが自慢」とも言ってはいるが、
「当店は多少鮮度を犠牲にしてでも、とことんまで安くします」とまでは
踏み込んだ店は見たことがない。
あの「下品」なドンキですら、
と店内放送している。
「あまり美味しくないが、メチャ安い」という表現は、ドンキですらしない。
1つ位
「当店は美味しさ・鮮度を犠牲にしてでも、安さを追求しました、
ビンボー人の味方です」というスーパーが、あってもいい。
どの店も
「当店は美味しさを追求します」とタテマエを語っているが、
「ホンネベースの客」を、真っ向から受け止めてくれる「ホンネベースの店」が欲しい。
「あからさまな安さ追求は、恥」のような文化が存在していたが、
「恥ずかしいなんて言ってられない、兎に角安さだ」という客も
増えてくると思う。
で、このチェーン店だが、
名は体を表わす、で、例えば
「『ビ』商会」(ビ、の周りにマル。一時期流行ったマルビ=貧乏を表わす)
という名前とか
「スーパー質より量」
という名前とか
「安かろう●かろうストア」(一応伏字)
という名前とか
「鮮度や美味しさを求める人は他店に行ってください」
とか
当然、店の商品は鮮度二の次で、
「ブレンド米」とか「中国産コメ」とか「福島セシウム牛」とか「遺伝子組み換え」とかを販売する。
恐らく、子持ちは買い物に来ないだろう。
「どうせ自分が食うものだから」ということで、一切見栄を張らない顧客。
勿論EDLP(エブリデイロープライス)なので、チラシなんか打たない。
広告なんかする原資があれば、それで値下げだ値下げだ。
「ビンボー自慢」のコーナーを設ける。
店に来るビンボー人が、それを参考にビンボーレシピを組み立てる算段。
ついでなので、
・・・我ながら名案だ、と思っていたが、
よく考えると、事業化に向けて3点「超えられないハードル」があった・・・
1.恐らくこの店の周りをビンボー人とか浮浪者がたむろして、
この店の周りにビンボー人が「住み着く」ので、
近隣住民から「スーパー質より量が出店すると、この辺の地価が下がる」と
猛反対運動を受ける
2.仕入れが難航する。
「●●豆腐店さん、あんた『安かろう●かろうストア』に豆腐卸しているの?
そんな豆腐だと、ウチは買わないよ」と、イオンから仕入れ打切の通告を受ける・・・
という風に、
「他の店との正常取引に影響が出てしまう」
「『ビ』商会に勤めているなんて、親に話せない」
てな感じで。
別に経済指標のために生きてる訳じゃないだろ。アメリカや日本韓国よりも大陸欧州に生きてる人々のほうが生活の質が高いのはどういう事なんだ。
そこは俺は認めてるぜ?「経済指標なんか気にしないで、フランス目指そうぜ!」が俺の持論。(それが、経済的にはじり貧の道なのは認めるけどなw)
ただ、俺やアンタみたいな考えは、グローバリゼーション環境下での実績データが揃ってきた現在では「経済指標以外の目的は考慮に値しない」という人たちを説得する術を持たなくなっちまってるんだよ。
全体的にそこそこ賢いコミュニティのほうが情報伝達がスムーズだし価値観を共有しやすいじゃないか。賢い奴がバカに物事を教えるのは、そこそこ賢い奴がそこそこ賢い奴に物事を教えるよりも時間とエネルギーが膨大にかかるんだよ。
いや、体感的にはそれは判るぜ?ただ経済の実績データは、それだけ考えちゃ駄目だ、ってことを示してるだろ。
【だいたいみんな同じレベルでそこそこいい仕事>突出的に賢い奴がいるが、馬鹿な奴もたっぷり、入り交じって足引っ張っりあい】
はいいんだが、その先に
【突出的に賢い奴らがその少数だけで回して凄くいい仕事、馬鹿は切り捨て>だいたいみんな同じレベルでそこそこいい仕事】
ってのがあったってことだよ。
1人の生産性x生産に寄与する人数、で考えた場合に、総中流社会ってのは「生産性そこそこ、生産人数たくさん」を目指した方向で、それはなかなかいい
アプローチに見えたんだが、現実のマクロ経済データが示すのは「生産性最強、生産人数は少なくても仕方無い」の勝ちっぽいってことだな。
「生産性そこそこ」と「生産性最強」の間にに常識的な感覚以上の大きな差があった、というのが現在のマクロ経済データの妥当な解釈だと思うぜ。
だから俺たちみたいな考え方は「経済で(おろそかにしろとは言わんけど)のみ勝ってもしょうがないだろ、それって幸福面でのデメリット大きいぞ?」
というスタート地点で同意してもらわなきゃ、説得力ないんだよ。
突然だが,今注目されているバンド「神聖かまってちゃん」の、日本社会史あるいはパンク史的な意義はもっと指摘されてよい。
和製パンクロックが生まれて30年、日本人はついにこうしたバンドが評価される社会へたどり着いてしまったのかと言うレベルである。
少し回り道をすれば、2年前の6月8日の秋葉原の路上、私もその場所に居合わせたから忘れもしない。
「非リア充」の26歳男が赤の他人7人を次々とぶっ殺した。「格差社会」「ニート」「希望のなさ」などのバズワードとともに、秋葉原連続殺人は、00年以降の社会に訪れたこうした変化の象徴と言われた。
その時、私たちは気づくべきだった。不適切かもしれないが、その事件は別の見方をすれば、パンク好きにとって願ってもない時代の到来を告げていたのである。すなわち、日本で訪れることのなかった、本来のパンクロックが受容される時代へと、日本が変化(退化?)しているという事実だ。
教科書的になるが、1970年代に生まれたパンクロックは、当時の英国社会のなんとも言えないクソッタレな社会環境で生まれた。自国産業は衰退し失業率は最悪だった。若者は職も金もなく伝統的な階級社会に阻まれてはい上がることも出来ない。こんな絶望感の中で若者はロックという媒介手段を用いて不満を発散させた。セックスピストルズは、たとえ演奏技術はなくても圧倒的な説得力をもって浸透していった。
80年代以降、パンクロックが日本にも輸入され、反社会的な曲が大量生産された。もちろん素晴らしい曲やミュージシャンも次々と生まれたが、すべてに共通する根本的な欠陥があった。それは、当時の日本が総中流社会で、基本的に成長を続ける豊かな社会だったということだ。「フリーター」は当時は今とは逆に希望を持った生き方として受け入れられていた。若者が抵抗する相手は、両親とか、学校の先公(古い!)とか、そんな微笑ましいものだった。ザ・スターリンに影響されてビリビリに破けたTシャツを着る人たち。80年代後半のバンドブームでカラフルに染めた髪の毛をツンツンに立て演奏する人たち。彼らの反抗的なパフォーマンスは、すべて豊かな日本人の”真似事”でしかなかった。たとえ人気を呼んだブルーハーツでも、社会派的な曲は空回りしていた。
「神聖かまってちゃん」には、こうした日本のロックが抱えてきた嘘くささがない。それが決定的に新しい点だ。いわば日本のパンクロッカー達が、演技的に”狙って”なろうとしたポジションに、不気味なぐらいナチュラルにすっぽりと収まっている。なぜならば、彼らは間違いなく格差社会になった現代日本の底辺に生々しく存在しているからだ。「ナンバーワンよりオンリーワン」などという腐ったバズワードが好意的に受け入れられていた時代の生ぬるさの中に、彼らはいない。
ボーカルのの子は、高校をすぐに中退しネットに没入した腐れニートだ。感情に極度に左右されやすい社会生活上致命的な問題も抱える。他のメンバーも派遣やバイトなど非正規労働の日々を送る。彼らは、ピアキャスやニコニコ生放送を使って、そのどうしようもない自分自身の生活を、包み隠さずそのまま見せる。渋谷の路上でライブパフォーマンスをし警察に補導されたり、メンバーの自宅では酒を片手に1時間でも2時間でも暇つぶしのグダグダトークを展開する。楽曲もありえないほど”ありのまま”、ただ心の中の衝動をぶちまけているだけのように見える。曲は洗練されてなく子供のような詩だ。歌い方や演奏も改善の余地がかなり大きい。それを意図的にやったかどうかはともかく、結果としてこれらの行為すべてが人気の要因だった。彼らがいる底辺、そして彼らが底辺にむけて放つ叫びはあまりにリアルに映る。熱狂的なファンがいるのもうなずける。パンクを歌うにあたり、彼らよりも”適した”ポジションはないからだ。「そんな立ち位置からロックを歌われたら、もはや彼ら以外の誰もロックを歌うことなんかできなくなってしまうよ」的な反則技の感すらある。
私は「神聖かまってちゃん」とそれを受け入れる日本社会に1970年代のイギリスを感じる。もちろん実際経験した訳ではないが、おそらくこんな感じだったのだろう。戦後の急成長はどこ吹く風,かつての英国のように格差が拡大し、ゆるやかに衰退する日本。もはや自分をわざとアウトロー的に脚色する必要すらない、無加工の生き方がそのまま”パンク”的表現になって若者の共感を呼ぶ。いいにしろ悪いにしろ、私たちは今、そんな時代に生きているのである。
オンライン上で、fromdusktildawn氏のエントリを見て正面から、反論してくる組合の人はいるだろうか。
と呼ばれたので少し書いてみようと思う。もっと分裂君(fromdusktildawn氏のこと。以下こう略す)のエントリに言及するのは気が進まない。だって本人が「このブログの内容は極論でありありていにいえば嘘、極論を述べて楽しみ、極論の中の一片の真実を探るものだ」と言ってるわけだから。
だから、正直「正面からの反論」に意味があるとは思えない。その極論は、「極論」だけに様々なことを故意に無視して、あるいは故意に前提としてできあがっているから。
その中には、たとえば引用した上の増田さんが指摘した通り「想像上のサヨクでなく、現実の左翼が日々どういう活動をし社会の中にどう組み込まれているか」と言った問題が潜んでいたりする。大体御用組合とそうでない組合の差なんて、組合の中枢部で動いている人間にだって分からん。それこそ「経営評価委員会」みたいなものでもつくって、組合の功罪について裏表全て出してみて、「結果として」その組合が労働者により役立っているのか、会社にとってより役立っているのかが評価できるかどうか、というところだし。大体、労働者だけに有利で会社にとっては不利な存在でしかない組合など、現代の労働者自身が求めていないしね。
まあ、増田さんとは違って分裂君は、そのあたりの事情をあえて無視している(経営者とかにも知り合いが多いと書いてるから知らないわけはない)のだと思う。まあこれは些細なことに過ぎないけれども。
そんな彼のエントリが「真面目に」読まれているとしたら、それはやっぱり不幸なことだ。だから反論しようとは思うのだけど、そうやって真面目に分裂君のエントリに「反論」しようとすると結局それは彼の「極論」を成立させているネタのネタバラシみたいなことをするしかない。これはぶっちゃけ彼のエントリをつまらなくするので読まない方がいいくらいだ。やれと言われたからやるけど、本来これは自分の作法ではない。先に謝っておく。
:::::::::::::::::::::::ツッコミ開始:::::::::::::::::::::::
(1)経営についてもサヨクにしても、実は想像上のそれしか比較されていないこと。
彼のサヨクに対する批判が想像上のものだと上で述べたが、良く読めば分かる通り彼が述べる「経営体」としての企業の役割や社会に対する貢献、そしてその評価についても、全て理念的な話でしかない。
現実の所、企業が提供する「豊かさ」(A)が、我々の望む豊かさ(B)とイコールであるかどうかについて評価しない限り両者は比較できない。そして、明らかにAをBに一致させるよりは、AをBだと勘違いさせる方が安上がりであり、そして現実の社会というのはそういう安易で安上がりな方向へと流れていくものだ、ということさえ、分裂君はあえて触れない。
一方、ネオリベの提唱する「理想社会」のイメージだけを見て褒め称えているが、本当の所彼だって、現実のネオリベが混乱と貧困をもたらしていたとしてそれを「ネオリベの『理想を正しく実現していないからだ』」などという原理主義者のようなことは言わないだろう。だから「極論」
というわけで、理想だけを見て現実をみていない、これが第一ポイントです。
(2)話の根幹となっている「労働者に必要な『経営スキル』という概念」について
さんざんドラッカーを引用して語って、これも各個人が戦略的に社長のように振る舞い、その総和としての社会が…という話に見えて、全然違う。本当のところ分裂君のこれ、実は『資本論』を下敷きにしてるんだろう。「サヨク」を揶揄しながらこういうことをする。分裂君、結構人が悪い。マルクスが言ったことの中でもっとも重要なポイントの一つはまさに「労働者は企業の奴隷じゃねえ!『労働力』を企業に販売する経営者なんだZE!」ってことで、言ってみればそれは組合の理念の根幹部分。だから、個人的にはこれ笑うところかなと思いながら読んだ。このエントリ自体が高度な釣りというかJokeなのだとすれば、このあたりに一つクスグリをいれてみたということではないか。
(3)結局のところ彼の論に基づけば、社会的なセーフティネットは『無い』という事実
まず、一所懸命繕おうとして繕い切れない問題として、分裂君は有効に機能する社会的セーフティネットについて論じていない、という点。たとえば教育に関して「教育クーポン」が機会の平等を実現するかのように語っていますが、教育クーポン自体こそが社会的強者にとって最も有効に使えるツールであるという点には触れない、つまり結果の不平等が拡大されやすい政策だ、とかね(個人的には、アイデアとしての教育クーポン自体には意外と賛成だがそういう負の問題を解決しないとどうにもならないとも思う)。公害問題についても、色々なアイデアは紹介するけど、それが実際に公害を解決するかどうか、は言わない。
そこを彼は「経済的自由と結果の平等はトレードオフだから仕方ない」という理屈でクリアしようとしてるわけですが、ここにも詐術があって、
1.経済的自由と結果の平等がトレードオフだというためには、「稼ぐ金=やる気(インセンティブ)」という価値観が前提される必要があるが、これが正しいとは限らない。というより、それは明らかにドラッカーさんに批判される考え方。
2.結果の平等を実現することで発生するインセンティブには触れない。『歴史的な社会主義の失敗』を批判する一方で、『ある種の成功した社会主義』と言える社会(たとえば戦後「総中流社会」日本)には全く触れない。
という二点。
この二つを無視し、そして人間を統計の比喩で語って「一部の10km/hでしか走れない車のために、大多数の時速を10km/h制限にするのは正しいか?」という極端な比喩を持ち出す。
確かに、人間を統計的にしか処理しないなら「1%の人を見捨てる社会は99%にとって住みよい社会」と言えるかもしれない。でも実際問題、そんな風に考えて我々は暮らしていけるだろうか。
たとえばみなさんが子どもなら、1%の人を見捨てて幸せを謳歌する自分の両親を見て心豊かに育つだろうか?
行動力ある青年なら、1%の人が見捨てられている社会に対して信頼感がもてるだろうか?
実際に見捨てられる1%になったとき、ナイフをもってトラックに乗り込み秋葉原に行く以外の幸せをみつけられるか?
実際に見捨てている99%になったとき、何の心配もなく秋葉原に行って楽しむことができるだろうか?
友達が見捨てられる1%になったとき、それは君自身の責任だと切り捨てることができるだろうか?
自分の子が見捨てられる1%になったとき、それは君自身の責任だと切り捨てることができるだろうか?
……
こういう『人間性』に根ざしていない「社会」論は、本当は無意味。
繰り返しますが、良く読めば分かる通り《結果の不平等》の発生を分裂君は認めている。それは「起こさないように頑張って起きてしまう」ではなく「社会が計画的に(貧困を)発生させる」ということで、そんな社会が我々の「人間性」に反していることもまた明らかである。
:::::::::::::::::::::::ツッコミここまで:::::::::::::::::::::::
まあ、ドラッカーが考える『仕事における人の「位置づけ」と「役割」の両方を満たすために組織の「マネジメント」がある』という話は普通に面白いので、「ドラッカーの仕事観」を推奨する分裂君はもっとそちらを丁寧に紹介して欲しいと思う。できれば偉大な経済学者E.シューマッハーの仕事観と併せて論じたりしてくれると面白い。また、『近代国家システム自体が1000万人を越えると機能しないのではないか』という指摘も大変面白いので、そのあたりを丁寧に研究してくれると読み応えがあって面白いのだけど、そうすると釣りにはならないんだろうな。
というわけで、お返事してみました。以上。
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080803/p1
あと、今日になって真面目に反論している人がいた。