はてなキーワード: アーメンとは
生まれてきて、大人になって、暮らしを営んでいることに幸あれと本当に思う。碌でもない出来事が日々石ころのように転がっていて、それを道から除けるか、避けて通るか、人それぞれなんだけど、なんというかその、道があることが愛おしい。僕らはみんな生きている。生きているからすごいんだ。
世を苦行だと捉えるのが一般的な仏教の根本原理だ。聖なき衆生が業のもとに救いなく永久に続く苦行を生きる煩悩の有様を目に見える世界だとする。解脱とはメタ世界への移行でその業の世界からの脱出を意味してそれを神聖視するわけだけど、そもそもの動機は業からの逃避な訳で。ものを食って、うんこしてる身で。要は、苦行してるお坊さん方は、世の中から逃げたくて逃げたくて仕方がなかった。だから糞下流には混じり合わず、己の世界の内でしんどいことをやり続ければ報われる、というのが原始仏教。こいつらくだらねぇな、つきあってられねぇな、なんて、分かりやすいエリート意識。
しかし、苦しい世だからこそ、そこに生きることが尊いのではないか。そこで泥水をすすり、愛欲に溺れ、駆け引きを駆使しながら己と子を護り、肉を喰らって、眠りと朝日を保障する。おい、ねえ、すごくない?俺できないし。というのを愚直に見つめた男がいる。それが親鸞だ。
教義としてのオリジナリティは法然にあるのかもしれないが、親鸞は事実、泥水をすすりセックスをし、酒を飲み肉を喰らいながら、そんな俺が信じてるよ、と阿弥陀の救いを説いた。私が知る、あなたたちをこそ救わずして、何が仏か、と。
ここからは俺の独自の解釈。かつて僧という「形」のために頭を剃った愚行を「愚禿」と表わし、今現に業を一身に背負うこと=菩薩行を積んでいる目の前の人々をこそ、哀れまず慈しまず尊んで、己より行を達した者とし、敢えて同じことをした。世は、かき集めた金をつぎ込んで寺を建て、加持祈祷をさせれば徳=得の時代。そのような儀式、「計らい」は要はショートカットであり邪であるとし、業に直面しながら苦しみ生きることこそ解脱の道であり尊い行いだと、己の身をそこに投じた上で彼は知って、そして説いた。
生きよ、生きよ、生きよ。あなたたちは尊い。何が何でも生きて生き抜く中で、だからこそ届く念がある=救いがある。「南無阿弥陀仏」とは、何者をも超越した阿弥陀仏に帰依いたします、という意味だけど、きっと多分なんでもよくて、怒られるかもだけどアーメンでもきっと全然良かった。念仏なんて要するにお題目でしかない。生きよ、あなたたちは間違っていないと、そのためになんか支えが要るならとりあえず南無阿弥陀仏っていっとけ、それを親鸞は言いたかったのだと俺は思う。
結果いろいろあったんだけどね。親鸞だって所詮エリートだ。パンピーとは頭の出来が違うし、思想の落としどころも多分違う。阿弥陀の前に人は平等まではいいけど、衆を集めて暴力的人権運動が起こせまでは多分思ってなかったろうし。いやまあ、どうなんだろうそこのところはまだ腑に落ちてないんだけれども。
ああ、酔っぱらって書いてるから面倒くさくなってきた。誰か、増田にも真宗の門徒いんだろ。西でも東でもいいや、門外漢のお説に捕捉してくれ。
最近のスマホは5インチを上回る大きいサイズのものばかりで手が小さい私にとっては本当に困ります
スマホは片手で使えるのが最大の利点で、両手でスマホをいじっている人をを見ると"わざわざ両手使うならタブレットで良くないですか?"
片手でも5インチのスマホの端には一応親指が届きますが、長時間使うと親指がつります
今は4sを使っていてマルチタスク使用時によく落ちるようになったので買い替えを検討中です
最新機種は皆5インチ超えのものばかりで、ボーダーラインのiphone 5s以下の大きさの機種となると型落ちを選ぶしかありません
appleだったらiphone 6は諦めてiphone 5sを選んだ場合動作的にも親指的にもあまり違いはないでしょうから、今はそれほど問題ではありません
近い将来、携帯売り場が5インチ超えのスマホしかない状況になってしまうのではないかと心配しています
4年後、みんながiphone 10をtwitterで自慢しているのをiphone 5s で見るのはもちろん親指的には問題ないですが精神的、動作的につらいでしょう
とりあえず今私に出来ることは、手が大きくなるように祈ることです。
{追記}
4インチ最高!!
人が生きるには堕ちる他に手立てはないし
逆にいえば、死にたければ完璧を目指せば良いだろう
>たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。
>私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。
>俺は生まれながらに嵐なら良かった 脅威ならば良かった 一つの炸薬ならば良かった
>心無く涙もない ただの恐ろしい暴風なら良かった
>これを突き刺す事で そうなれるなら そうしよう そうあれかし(アーメン)
人が綺麗に、劇画的に、ドラマチックに、高潔に、鉄血に、真剣に、敬虔に、倫理的に生きようとすれば、生きられなくなる
綺麗は汚い、汚いは綺麗 闇と汚泥の中を飛ぼう
結婚してもうすぐ丸三年。
夫も性欲皆無ってわけではないみたい。オナニーしてるって言ってるし。でも私には求めてこない。
てか私はセックスしたいんです。なんだったら露骨に誘う(それがよくないのか?笑)
でも夫は、疲れてるから、えー、みたいな感じ。優しいから最悪強要したらしてくれるけど。
だけど強要してまでもやりたくはないよね。なんか必要とされてない感がして虚しくなる。(性に限っての話よ。めんどくさい女認定しないでね笑)
何回か切実に話し合ってみた。
夫はこれまでもそこまでセックスに対して貪欲な方じゃなかったらしい。それでも最初の頃は人並みにやってたしさ。夫自身の経験人数も決して少なくない。
ところが夫が言うには、セックスがそこまで夫婦生活に必要な理由が思いつかないのだと言う。性的結合という不純な要素がなくても成り立っている素晴らしい関係ってことじゃないの?それこそ愛じゃん!みたいなさ。エロスがアガペーに昇格したよ!アーメン!
それに対する私の反論としては、「言葉ではどうがんばっても伝わらないことがある。だから究極のコミュニケーション手段であるセックスでそこを埋めましょ」ってことなんだけど。
まあ自分で言っててポエム乙wwwwって感じで、学術的な根拠もないし、夫も全然納得してなかった。はは。
なんか不毛すぎて、性の不一致が離婚事由になるってのも、こうなるとなんでだろう?って思う。夫婦間における根本的なセックスの必要性ってなに??
教えてエロい人ーーー
さまよえる惨めな子羊よ、神に祈りなさい。アーメン。
怒れる子羊よ、神に祈りなさい。アーメン。
薄汚れて、汚らわしい子羊よ、神に祈りなさい。アーメン。
このカメラマンが男のヌードを撮っていたのも知っていたし、その裏事情もちょっと知っていたので正直ザマーって気分だ。
この逮捕に対してモデルや関わりのある人たちがこの国は芸術が無くて残念だとか何とか書いているが、俺が不思議に思ったのは
そいつらが芸術とポルノの線引きをどこでしているかって所だ。掲示板に転載されていた猥褻図画として認識された画像を見たけど、
あれが芸術だっていうならアダルトビデオだって芸術だろ。あの写真が「猥褻じゃなくて芸術です、だからチンコ見せてもいいんです」っていうなら
女のマンコも今すぐ解禁だ!だってアートだもん。女のマンコは人間を生み出す神秘のエリア!そういう神聖な場所を猥褻などと言ったら神様に罰が当たるね。
男のちんぽから出る白い液体だって人間を生み出しているんだし、そのチンコとマンコが繋げて男と女と女と男がそのプリミティブな欲望をたぎらせて
動物のように無我夢中で腰を振る行為を猥褻だなんて言ってモザイクかけたりしたら地獄行きは確実。
だからポルノはもはやアートではなく神聖な物で家族で正座して二礼二拍手一礼をしたのち厳かな気持ちで拝見させていただいき、見終わった後に
「アーメン」の代わりに「ザーメン」と言って十字をきって神に祈りを捧げるべきだよな。Dickが芸術ならFuckなんてもう神の粋だろ!
今回の事件で「これは芸術なんです。」とかいう奴には、そんな事偉そうに言うならお前がカメラマンを逮捕した警察に素っ裸で突入して
「DickとCuntは猥褻ではない。SuckしてFuckして芸術は爆発だ!俺はこの国を開放する為に放尿する!お前らはみんな大島渚の元に行け!」って叫んで
飛びかかってやれ!って言ってやりたいよ。テメーの偉そうな上から目線のオナニー文章をブログやツイッターに書き込んだって世界は変わらないよ。
くそったれが。
よだれをだらだら流しながら、同性愛者の恋愛を覗き見て下らん欲求を満たしてる連中は滅べばいいと思うんですヨ
とかなんとか言ったら『男オタクだって、普通に男女の恋愛とか見てるじゃん! だったら私たちにだって(ry』とかそういう微妙にピントのずれた反論がやってくるんですよね、まあ鬱陶しいことこの上ない
あのね、社会的な承認を受けている異性愛と、同性愛をいっしょくたにしないでくださいヨ、と僕は思うわけです。というか、いっしょくたにしてないからこそお前らは同性愛の観察を好んでるんだろ? と
異性愛者とセクシャルマイノリティの具体的な差異って何かというと、自殺率なんですね
異性愛者の自殺率に比べて、セクシャルマイノリティの自殺は、最大で5~6倍に上るんだそうです。しかも、これは申告があった人間に限定した上での統計ですから、潜在的な自殺者はもっといるんでしょうね。そうなると5~6倍とか言ってられませんわな。まあもっといるでしょうね、どう考えても。イカソース
http://www.nhk.or.jp/heart-net/mukiau/shirou3.html
要するにね、普通の異性愛とかと違って、セクシャルマイノリティの恋愛っていうのは、極めて濃密に死と近接してるという訳なんですヨ
命掛けてんですヨ、と。そこには異性愛者における些か穏やかな恋愛とは違って、たくさんの血が流れてるんですヨ、と。たくさんの人間が死んでるんですヨ、と
そういうのを涎垂れ流しながら喜んで見てるクソ蛆虫共が、とっとと世の中から撲滅されることを僕は願ってやまないわけです。アーメン
補足すると、まれにだが僧の読むお経に合わせて輪読しなければならない時がある。
「私が「ぎゃーてーぎゃーてー」というところに差し掛かったら、みなさん「はーらーぎゃーてー」と唱えてください」
と言われることがまれにある。
リズムがわからなくて大丈夫かなっと心配するかもしれないけど大丈夫。
意味は考えなくていい。
もちろん、そんな必要はなくただ聞いてるだけでいい場合が多い。
読まれるお経は宗派によって異なる。
座敷だと外履きの脱ぎ履きが必要になるので、紐靴だと面倒かもしれない(といっても金具がついたモンクストラップもあまり適切ではない)
少し長い時間正座することになるけど、流石にそればっかりは慣れしか無いので、まあ我慢。
正座のしかた、正座からの立ち方は知ってたほうがいいかもしれないが、まあなにも言われないと思う。
あと、御香典の中のお札は新札と偶数はダメというのはとりあえず守ったほうがいい。
それから、一般的な黒のスーツと、礼服の生地はよくみるとちょっと違う。
特殊な染め方で毛の芯まで染めるので、黒が深く光沢がない。
ただし若ければそこまでは要求されない。
平服がbetterというだけで、礼服ではダメではないらしい。
あまりにしっかりした格好で出向くと死ぬのを待ってたようで失礼ということらしいが、もちろん派手な格好はよろしくないので自己判断で。
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1008/02/news088.html
ちょっとまえ、このニュースを読んだときに
なんかきもいなと思ったので、wikipediaでWHOを調べた。
単に疾病又は病弱の存在しないことではない」(WHO憲章前文より)
とされていて、かなり広い目標を掲げている。
不幸にして健康の維持が難しい人に、
完全な肉体。完全な精神。完全な福祉。
神の国ですか。すばらしい。
「一病息災」とか呟いたらえらい怒られそうだ。
我ら迷える子羊は完全体にはなりえないので、
世界保健機関憲章第1条
を選択できることを目的」じゃなくて
「に到達することを目的」なのですね。
まあ、飲み放題は使わないから、個人的には困らないけど。
この件についてはね。