はてなキーワード: ジ・オとは
「昔はオッサンもおったしアバもおったし、夫婦も三すがいもおったし家族はたくさんだった」と語られるが、オッサン・アバというのは、親族呼称上の区分として、長男・長女をアニ・アネと呼ぶのに対し、次三男以下、次女以下の呼称であるオジ・オバである者が、結婚適齢期である二十歳過ぎても、未婚のまま生家に継続してとどまっているような状態を指す。オバは嫁として他家の正規な一員となる可能性が高かったが、オジは「二十四まで家に奉公して、シンゲ(自立)しろよ」といわれ、二十五歳からは家業以外の仕事で得た収入はシンガイ(個人の自由になる私財)にして良いとされ、独立することが望まれた。明治になって転居の自由が認められてからは、松前イカの盛況で、北海道へ行ったオッサンも多かったといわれている。
しかし「オジゴンボウ(牛蒡の分かれ根は余計なもの)」とか「アバ見りゃ荷が重い」といった言い回しが残っているように、かつては独立できず生家にとどまっていた傍系親族も多かった。生家にとどまっている間は、以前は結婚が認められず、独身生活を強いられたわけであるが、明治の末年頃まではオッサン・アバのまま一生を終える者もみられたという。オッサン・アバのまま死ぬと、縁付かずに死んだということで、夭折した子供と同様、「先祖」にはなれず、「無縁さんになる」といった。
明治になれば少なくとも結婚の自由は保障されたわけであるが、明治末年の頃のオッサン・アバの暮らしは聞書きで、ある程度は捉えられる。明治三十年生まれの宇川ハルさんによれぽ、オッサンのなかには仮の住まいを作ってアバと一緒になって暮らす者もあったが、ただし「寝床は下にコンクリー固めてムロみたいの作ってのぉ、そこに馬の糞の乾燥したのをそこに入れておくとホカホカとしてくる。その上で寝ていた」という。それぞれ生家の仕事を手伝って、その日暮しの生活を送っていたが、よくしたものでそのうちに潰れた家や立退く者の跡を継いだり、両養子やナカモチ(中継相続)に入って何とかなるものだったという。
どこまでフィクションかは分からないけど、映画「ゴッドファーザー」製作の舞台裏を描いたドラマ、ジ・オファーの中で、監督のコッポラと原作者のマリオ・プーゾは良い関係性だった。
元々は自分で脚本を書くつもりだったコッポラに、原作者が直訴して自分で脚本を書いた。
小説はともかく脚本は初めて書いたマリオ・プーゾは、書き方がうまく掴めず挫折しそうになるが、コッポラが「君から書くと言い出したんだろ!」と発破をかけたり、「なんてこった、君は天才だ!」と褒め上げたり、遅れる脚本の進捗をプロデューサーに誤魔化したりしながら、二人三脚で仕上げていく。
たぶん理想的な原作者あり脚本作り方というのは、監督と脚本家と原作者があーでもないこーでもないと行ったり来たりしながら、時間をかけて理想の姿を探ることなんだろう。
しかし現在の映像製作のサイクルがそれを許さない。特にテレビでは。
コミュニケーションによる理想の姿の追求ができないのであれば、ビジネスライクに事前合意が取れるためのルール作りとルール施行の徹底を目指すしかないんだろう。
私は切り抜き動画をハナクソ穿りながら見たことがあるだけなので
シャアがザクの安全装置を全部オフにしてものすごい速度を出したということになっているようだ(アホか…)。
ルウム戦役でシャアはマゼランとかサラミスを踏み台にして足で蹴飛ばしてから
エンジン全開でバーニア吹かしたからすごいスピードが出た説、とか。
でもサイド7でムサイから射出されたザクがホワイトベースに向かっている宙域に踏み台にするようなものはなかったからこの説はあまり意味がない。
誰が言い出したことなのか?
といえばホワイトベースのオペレーターのマーカーとオスカー(だっけ?)のどちらかだ。
「通常の3倍の速度です!」
って言ったわけだ。
と。
これがな。元凶でみんなを悩ませてきた。
誤認なんだよ。
まずスピードの比較対象がルウム戦役では主力だった旧型ザク、ザクⅠとの比較なのだ。
ホワイトベースもムサイから遠距離射撃とかはされていたかもしれないけれど
モビルスーツを迎え撃つのは初めてのことでそこらへんに混乱があったんだ。
オペレーターも新造戦艦で使い慣れてない機器を使いこなすのに忙しくてうっかりミスに気づかなかったんだ。
なんか一台だけ異常に早いザクがある。
2倍?いや2.2倍?これ3倍くらい速いんじゃないのか?
とか思ってしまったんだ。
これでいいと思う。
いや駄目といったら言い過ぎなんだけど、なんと言ったらいいのかな?
だってさ初代ガンダムの作監で言うてみたら「初代ガンダムの絵」を描ける唯一の人なわけじゃない。
そんな人が初代ガンダムの漫画を、誰が描いても面白くなるはずの初代ガンダムの漫画を描いて出来上がったものがジ・オリジンだぜ?
なんで面白さの本質というものをあれほど外していけるのかねえ?
素人ならともかくガンダムを一緒に作り上げていった人のはずなのに。
アニメーション能力なんかでも宮崎駿とかとタメを張れるのはこの人くらいだったわけじゃん。
なのにさヴィナス戦記とか長年封印していたのは正しい判断だったのか?と思わせられるところが多々あるわけやん。
いや、いい部分もあるんだよすごく。
若者のくすぶり感とかきっちり出てて90年代とかそこらへんっぽくていいよな、
と思う部分もあるんだけどさ、なんせ冒頭からパンティーパンティーの
パンティーネタを天丼でやるわけやん、増田かよ!増田かよ!2回言っちゃたけど増田じゃないんだから。
いや作家性があるのはわかるんだよ。漫画賞なんかもとって評価されてるしさ。
でも、根本の面白さが欠けているのはどういったことなんだろうな?
つまんないけど絵はうまくて味はある漫画家。
なんてポジションにおさまるような才能のわけないのになあ。
そう、これ。あまりにも偉大な才能と、それほどでもないかな……という作家性が同居してしまっているのが残念としか言いようがない。
無念なんだよ。
ボ・ク・ラ、ラ・ジ・オ、異星人~♪
先日、来年の劇場版ポケットモンスターのタイトルと特報の発表があった。
来年はアニメの放送が20周年ということもあり心機一転原点回帰、無印アニメのリメイクとなるようだ。
映画ポケモンは例年、「前売り券や劇場で限定ポケモンを原作ゲームでゲットできる」というキャンペーンを行ってきたが、
タイミング的に見てどうも今回はポケモンGOとの連動となるのではないかと言われている。
今回の映画のメインビジュアルにはアニメ第1話で登場したポケットモンスター金・銀の伝説のポケモン、ホウオウの姿が描かれており、
ちょうど先日から金・銀のポケモンの一部がGOで解禁されているのもあって、
その締めくくりとして映画を見に行くとポケモンGOでホウオウがゲットできるという仕掛けが用意されているのではと考えられているのだ。
だが、制作サイドがこれを予想していたかは分からないが、現在ポケモンGOをプレイしているユーザーは年配者が多い言われている。
一方で来年の映画は初代アニメをリアルタイムで見ていた世代=20、30代をターゲットとしているようにみえる。
おそらくポケモンGOをプレイしている年配者は主人公サトシの名前ぐらいしか知らない程度の人が多いのではないだろうか。
実際、ポケモンGOの話題は多く見られるはてなでも、映画の情報に反応している人は殆ど見られず、
同日に情報公開された「夜は短し歩けよ乙女」の方が注目を集めている。
これが元々ターゲットとされていなかった年配層がポケモンGO効果で劇場に入り、興行収入に更にプラスとなればそれは理想なのだが、
子供連れの多い映画館に足を運ぶのは20、30代でも割りと行きづらく、動機がしっかりしていないとなかなか劇場へ足を運びづらい。
流石に普段よりも興行収入が上がるとは思われるが、ターゲットと動機付けが噛み合わず、製作サイドが思ったほど人が入らないということは十分あり得る。
最もクレヨンしんちゃんのロボとーちゃんやドラえもんのスタンド・バイ・ミーの様に、原典を知らない年配者でも楽しめるような、
「一つの映画として完成された作品」を作れれば問題はない話ではあるのだが、
面白いものは多けれど、そこまで「間口の広いもの」をこれまでの映画ポケモンでは作れなかったというのも事実ではある。
とはいえ近年ポケットモンスターのアニメ展開はゲームPV、ジ・オリジン、XY、ポケジェネ、サンムーンと、どれも高い品質の作品が続いているので、
グラブルはやったことはないですが、ガチャの大体の相場観を知るためにいろいろと計算してみました。
詳細な確率等は公式には公開されていないため、ほとんどは有志の調査した確率を参考にしています。
間違った認識や値があればご指摘ください。
300円とする
排出率:
SSR排出率 (基本3%, キャンペーン中6%として計算) * SSR内キャラ排出率 (基本1%として計算)
あなたが対象のキャラが出るまでガチャを引き続けるとき、対象のキャラが出るまでにあなたが投入する資金の平均額です。
あなたが予算上限までガチャを引き続けるとき、対象のキャラが一体以上出る確率が95%となる金額です。
ガチャ1回あたりの価格 * log[1 - 排出率](1 - 0.95)
http://program-study.hatenablog.com/entry/2016/01/27/023455
レアリティSSRのいずれかのキャラクター (キャラの種別は問わない)
排出率: 3%
排出率: SSR排出率 3% * キャラ排出率 1% = 0.03%
レアリティSSRのうち、特に確率が低く設定されていると推測されているキャラクターのことかと思います。
(バハムート、ルシファー、ジ・オーダー・グランデのことでしょうか)
http://b.hatena.ne.jp/entry/279404417/comment/syobonslime
排出率: 0.0054%
新キャラクター追加時にはキャンペーンが行われ、新キャラクターの排出率が20%程度になるらしいです。
http://ikke.hateblo.jp/entry/2016/01/07/215332
排出率: SSR排出率 3% * キャラ排出率 20% = 0.6%
http://ikke.hateblo.jp/entry/2016/01/07/215332
排出率: SSR排出率 6% * キャラ排出率 10% = 0.6%
http://ikke.hateblo.jp/entry/2016/01/07/215332
排出率: SSR排出率 6% * キャラ排出率 1% = 0.06%
今回のキャンペーンで問題になったのは、公式で各キャラクターの排出率が
公表されないなか、多くの利用者がアンチラの価値を誤認したこと (させられたこと) が
問題なのではないかと思う。
利用者がアンチラの排出率を6.6% (新キャラ確率アップ20% / 3) と誤認した場合、
排出率: SSR排出率 6% * キャラ排出率 6.6% = 0.4%
予算: 22.5万円 (224230.3円)
利用者がアンチラの排出率をベアトリクスと同等と誤認した場合、
排出率: SSR排出率 6% * キャラ排出率 10% = 0.6%
もう終わってしまったけれど、『ザ・オフィス』というテレビコメディがあった。主演は『リトル・ミス・サンシャイン』『四十歳の童貞男』のスティーブ・カレル。元はイギリスの同名コメディ(日本語タイトルは『ジ・オフィス』)だけれど、結果的に本国版より息の長い番組になった。ちなみにイギリス版もアメリカ版も hulu で観られる(はず)だ。
『ザ・オフィス』でスティーブ・カレル演じる製紙会社の課長は日本で言えば昭和世代のセクハラおやじである。ゲイフォビアで男根主義的、アメリカン・マッチョな価値観に染まっていて、ことあるごとに自分の面白ジョーク(大半は性差別、人種差別ネタ)で課内の雰囲気を和ませようとするが、逆にそのジョークのせいで場の空気をきまずくさせてしまう。なにせ、自分の部下がその当該マイノリティであることが多いのだ。
しかし自由の国アメリカといえど、上司に反駁するのは容易じゃない。カレルはアブナイおっさんなのでことあるごとに人事権や給与査定をタテに(実際にその権限が彼にあるかは別にして)振る舞う。部下たちは自然、事なかれ主義でだんまりを決め込んでしまう
しかも、カレルは場の空気を悪くしているのが自分であることに無自覚だ。勇気ある誰かから「それは差別じゃないか?」と指摘されると「これは差別じゃないよ。ただの冗談だろ?」とキレる。本当に差別ではないと信じこんでいるのだ。あげくのはてに破綻しそうになると、別の部下に責任を押し付けようとしたりもする。
まあ、要するに、最低のセクハラおやじが職場の空気を最低にするドラマなのだ。
ドキュメンタリーという体裁だから、シットコムみたいに「ここが笑いどころですよ」という観客の歓声も挿入されておらず、しかもカレルに対するツッコミはなされないか、なされたとしてもシリアスな雰囲気にならざるをえない。
こんな悲惨な番組がコメディになるのか、といえば、なってしまう。アメリカでは成立してしまう。
『ザ・オフィス』で笑うためには、まず「無自覚な差別ネタをジョークのつもりで放言しまくって場の空気を凍らせてしまう困った人(しかも自分では差別ではないと信じている)」というステロタイプを共有していなくてはならない。いわゆる、あるあるネタってやつなのだが、これが一筋縄ではいかない。
このステロタイプで笑うためには更に「こういう困ったおじさんは時代遅れのダサい人間である」という認識も広まっていないといけない。現状ではこういうおっさんが存在を許されないものという(現実はともかく)共通了解が流通していなければならない。
『ドラえもん』やちょっと前のドラマで日本でもあった、「江戸時代の人間が現代にタイムスリップしてきてカルチャーギャップを体験し、その反応に視聴者が笑いをもたらす」タイプの話とキモは一緒なのかもしれない。
仮想の原始人を笑いの的に立てるのだ。
その「原始人」に「かつてどこにでもいて、今もおそらくは地域によっては跳梁しているであろう人間」をあて、都市部のリベラルな価値観、すなわち我々の言うところのポリティカル・コレクトネスの観点からその野蛮さを笑う。言い方は悪いかもしれないが、そういう捻れた観方をできる人間がすくなくともこの番組を8年140エピソード続けさせられるぶんだけ存在する、ということだ。
そうして恐ろしいことに、『ザ・オフィス』は例外中の例外ではない。『サタデー・ナイト・ライブ』といった老舗番組から、オトナ向けのカートゥーンアニメまで、そうした政治的正しさが視聴者の間で広く染み込んでいることを前提にギャグをスケッチしている。
アメリカン・コメディにおける政治的正しさとはもはや「あるべき理念」でもなんでもない。常識であり、前提だ。
アメリカは広いし、チャンネルは山ほど存在するので、コメディ番組がすべてそうだという確証はない。
けれど、日本に紹介されてくるコメディ番組は肌感覚のレベルで政治的正しさを呑み込んでなければなかなか笑えない。
むしろ、政治的正しさに反発を抱く人より、「あるべき理念」としてフィクションに政治的正しさを求めている人のほうが笑いにくいかもしれない。リベラルの風刺とは身内にすら向けられる過激さを持つもので、笑いの矛先が政治的正しさそのものに向けられることも珍しくないからだ。それを半可にしか理解できてなくて、そういうジョークを無理してわかったフリして喜ぶ人間は多いけれど(私もその一人だ)。
シリアスな映画とかはまだわかりやすく「女性が強い」とか「マイノリティが救われる」とかをストレートな形で描いてくれるから、日本でも受け入れやすいんだろうけれどね。マッドマックスみたいに。
海の向こうには、「政治的正しさを前提にしたホンづくりしてる」なんてわざわざ公言しなくても、そんなもん当然前提に据えてるだろって界隈が存在するのだ。おそろしい、おそろしい。
余談だけど、「空気を読めない人の空気の読めなさ加減を笑う」という点ではアメリカ版よりイギリス版のほうが百倍ブラックだ。もはや、気まずい場の空気そのものを笑いに換えているといってもいい。これもこれで、ウルトラハイコンテクストな文化だよなあ、と思います。