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はてなキーワード: 黒沢とは

2015-04-01

思うところあって昔スピリッツでやってた『ハクバノ王子サマ』を読み返した。

読み返したというか当時は5巻くらいまでで読まなくなってしまったのを昨日一日で全10巻を読み切った。

様々な思いがめぐっているのだが、それを全て書いていたら冗長なので、ポイントを絞って書く。

登場人物の中で今の自分立場と最も近しいのは黒沢っちである

黒沢っちは誰がどう見ても「悪役」だろう。

でも9巻収録の91~93話は一応彼にも理由がある的なエピソードが入る(ストーリー的救済?)。

恐らく当時読んでたら何言ってんだこいつって思っただろうけど、悲しいかな今の自分にはわかってしまった。

あれを「寂しい」と呼ぶのは正確には違うような気がするが、でも他に該当する形容詞が見つからない。

まぁ一番言いたい事はだな、俺は黒沢っちほどおいしい思いしてないぞ、ちくしょー!!

あれ?これが本当に俺が言いたかった事なのか?まぁいいか。

2015-03-25

anond:20150324232028

電波少年の企画で今から15年前に電波少年的15少女漂流記があって森三中黒沢いとうあさこが駆け出しアイドル時代だった時に参加してたんだけど、人間関係がドロドロになって半数脱落したんだっけか。

残ったメンバーのうち5人が現在芸能界に残ってる所が凄いけども。

2014-09-22

最も凶悪コンピューターウィルス

xvideoを再生すると、

Facebooktwitter上で「I'm watching xVideo now!!」と勝手投稿される。

投稿後、15分で自動削除されるため、自分はその存在にすぐに気づかないかもしれない。

本当に親切心を持ち、ウイルスの可能性を予感してくれた友人からの知らせがあるまで、

xvideoを再生するたびに投稿される。そう、何日も何カ月でも。

次第に目を合わせてくれなくなる同僚、

次第にLINEレスがなくなる女の子友達

xvideoを見ている時に限って意味不明なスタンプを送ってくる男友達。。。

気がつけば黒沢さんというあだ名がついていた。

こんな恐ろしいウィルスを作ってはダメ、絶対。

2014-06-19

常陸太田市議会 議員質問回数

 22年9月22年12月233月236月239月2312月243月246月249月2412月25年3月25年6月25年9月25年12月26年3月26年6月
井坂 孝行    1
藤田 謙二 15
赤堀二郎  14
木村 郁郎            4
深谷16
鈴木 二郎    12
平山 晶邦16
益子 慎哉       9
菊池 伸也    12
深谷 秀峰      10
高星 勝幸                0
成井 小太郎                0
茅根 猛       1
片野 宗隆                0
福地 正文                0
山口 恒男                0
川又 照雄                0
後藤        0
黒沢 義久               1
沢畠 亮                0
高木                0
宇野 隆子16

2014-06-09

http://anond.hatelabo.jp/20140608151630

元増田の例を、桐谷美玲脳内再生するのと、森三中黒沢脳内再生するのではえらい違いがあると思う。

要は性格の明るい「美人」なり「かわいい子」なりがいるとそれだけで職場は和むものだなと思う。

2014-05-30

おもしろ番組ほど終わってしま

俺のセンスおかしいのだろうか?

史上最低だったというドラマ、「夫の彼女」それなりにおもしろかった。

ストーリーはめちゃくちゃだけど、コメディだと思うと楽しかったし、川口春奈かわいかったし、チャーミングなドラマだった。

けっこう気に入っていたのに、打ち切りって残念だった。

というか、打ち切られるほどなものでは断じてなかった。

法円坂ホラー研究会」も大好きだった。

オカルトとの距離のとりかた、茶化し方が抜群に良くて、ホラーバラエティっていうのが最高によかった。

スピードワゴンおもしろかったし、バーチ・アータリ先生もいい味を出していた。

オールマイティとか、ムー編集長面白かった。

フジガールズは、別にどっちでもいいけど、黒沢美鈴と、宇宙人なんですって言ってるフジガールズじゃない子が気になった。


そしていま、「極悪がんぼ」も視聴率悪いらしい。

景気良くて痛快で、超面白いのに、なんでなんだろう。

関東の人には広島弁が嫌なんだろうか?

原作ファンには、主人公が女ってのが微妙なんだろうか?

俺は原作読んでないから知らんけども。

まあ、とにかくおもしろいのさ。


なんで、気に入るやつほど終わってしまう、というか、数字とれないんだろうねえ。

俺のセンスおかしいのかな。

2014-02-12

ブス専のススメ

ブスと付き合う事が多い。

どれくらいのブスかと言うと、森三中黒沢くらいのブスだ。

ブスはメリットが沢山ある。

世の中のブスが完全に淘汰されないのは、

多分これらのメリットのおかげだろう。

以下に述べる。


■ブスは美人に比べ気を使わなくていい

■ブスだと浮気確率が減る

■ブスは夜の行為献身

■ブスと付き合うと、周りからいい奴だと思われる

■ブスは努力家も多い

■ブスがミスるお笑いとして成り立つ

巨乳なブスは意外に多い


いかがだろうか。

ブスも様々なので一概に言えない所もあるのだが、

美人に比べたら上記当てはまる所が多いのではなかろうか。

ブスでもイイという男性が増えれば、少子化の歯止めがかかり、

日本未来も明るくなって行く気がしなくもないような。

2012-04-14

報道されなかった事実 ウォール街を占拠せよ運動

ニューヨーク黒沢潤】反格差社会デモウォール街を占拠せよ」が始まって半年に当たる17日、ニューヨーク市マンハッタンデモ行進した約200人が警官隊と衝突、一部の参加者逮捕され、警官に負傷者も出た。

デモ参加者は、ウォール街近くのズコッティ公園から行進を開始。ウォール街にある米建国の父、ワシントン像の前でもデモを行った。

昨年9月に始まった反格差デモ世界中に飛び火したが、その後、勢いを失い、主催団体も資金難から「存続の危機」(デモ参加者)に立たされている。

(産経新聞)

 

ウォール街を占拠せよ運動」の実態をゆがめる形で報道を続けるメディア存在する。彼ら一部のウォール街派の一部メディアは、ウォール街を占拠せよ運動が、暴力的で、多数派から支持されない少数派で、未来が無いという架空イメージを広めるためのレッテル貼りに夢中だ。この記事を報じた産経新聞も、そうしたメディアひとつだろう。

 

ウォール街を占拠せよ運動参加者の大多数は、非暴力に徹しているし、参加者の多くは警官隊に殴られても暴力で抵抗しないという事実は、一部メディア報道はない。

暴力に遭遇しそうな時に非暴力的な方法で事態をコントロールするための訓練や教育も、ウォール街を占拠せよ運動実施している活動のひとつになっている。運動で繰り返される演説ゃ議論の多くが、非暴力こそが共感を集めるというものだが、そうした議論が行われている事実も、一部メディア報道しない。

 

ウォール街金融セクターで働く人たちの仕事の仕方も、少しずつだが変化して来ている。たとえば、貧困層に配慮した労働条件、極端に高い役員報酬の見直し、そうした「金融界の格差自己是正」の報告会があったり、格差自己修正を実行した金融関係者への表彰や拍手なども贈られている。だがそうした運動の成果は一部メディア報道されない。

逮捕された参加者を救おうと、大勢の弁護士無償で救援活動をして、釈放を勝ち取っているが、そうした運動の勝利は、メディアは決して報道しない。

 

しか運動財政は厳しい。にもかかわらず大勢の人が長期間参加し続けている。

なぜそれができるのか? お金で「動員」しているのではないからだ。

さまざまな人が物を持ち寄って、あるいはサービス提供して、運動を支えている。本当に必要なのはモノやサービスであって、カネではない。だから運動参加者の多くは、モノを調達する。

ウォール街の1%はお金運動を「動員」するが、ウォール街を占拠せよ運動は、ウォール街的な運動方法を重視しない。必要なモノをお金契約を介在させることなく流通させている。

そんなことができるはずがないと思っていたウォール街派の富裕層は、いま、心からの恐怖を感じている。カネが全てだと考えている彼らにとっては、金を介在させることなく物資や人が動くことなど、ありえない事態だからだ。

2011-09-08

チラ裏

気持ちを落ち着かせるため鬱憤ばらしの書き逃げです

バイト先でパワハラ受けている。

相手は同じバイトだけど二回りほど上。以下そいつをNとする。

7月末あたりからNの自分に対する態度が変わってきた。

以前は笑顔で愛想のいいNが自分とは会話中も視線を合わせず

低いトーンでめんどくさそうに話すようになってきた。

ここ最近機嫌が悪いな、と変に感じてわいたのだが、ある日突然机を叩き大声で恫喝される。

何が起こったのか一瞬理解できなかった。

原因は不明、思い当たる失敗もない。

そう言えば、と一つ思い出す事があった。

7月末頃、突然辞めた人がいた。仮にSとする。

そのSがNは怖い、Nに怒られる、と怯えるように自分に訴えていたのを思い出す。

その頃はまだNも愛想がよかったし、実際Sは仕事が出来ないので

いつも同じ職場ものから注意を受けていたから、軽く受け流していた。

しばらくしてSは鬱病休職した。

お金がないから、と一月後復帰するが、あきらかに体調がわるそうだった。

そして相変わらずNが怖い、と言い続けていた。

復帰後ひと月経たずにSは職場電話をかけてきて、今日で辞めます、と言った。

それっきり。

Sは本当に怯えていたのだ今になって知る。

S以外のものがNの愛想のよさにだまされていたのだった。

Nは次に自分を標的にしたのだと思った。

以来Nの事を思うと動悸が速くなり手足が異様な興奮で震えてくる。

今度は自分が鬱になりそうで、辞めてしまおうかと何度も考えたが、理由も解らず

悪意をぶつけられて逃げ去るのはあまりにも悔しい。

鬱々とする日が何日かあってある時その悔しさと恐怖が反転した。

やられたらやり返す!

しょせんはバイト、クビになったところでどうということはないと腹を決める。

Nは元警官、年の割にがっしりした体つき。

一方、自分典型的オタク身長はあるがひょろっとしていかにも頼りない。

そこで身長を活かし先手で上から首を殴りつけてやろうと計画。

その後は成り行きだ。

黒沢」を読み自分を奮い立たせ頭の中で何度もその場面をシミュレートする。

が、そのうち冷静になってくると社会的に制裁を加えたいと思うようなり、

パワハラについてぐぐってみた。

ICレコーダーパワハラ現場を録音し裁判での証拠に、というのを見てさっそく

アマゾンICレコーダーを購入。

今朝届いたブツを見て一人ニヤリ。

やはり武器があると心強い。

何か異様なテンションを落ち着かせようと書き込んでみた。

決戦は土曜日。まっとれよN!

やたらと肉が食いたくなったのでこれから買いに行ってきます

2011-05-13

ボッチ道

私が半生を賭けて追及したボッチ道について書いてみようと思う。

ボッチ道とは、人生というゲームを協力プレーを極力廃止ソロプレーで挑む縛りである

昨今のおひとり様とか、老人の孤独死など、ボッチ道に対してある種の偏見があるが、これは価値観の違いである。

おひとり様なのは生命を維持するための経済コストを下げるのに有効だし、老人の孤独死というのはまさにボッチ道に殉じた見事な最後である

実は、ボッチ道の最高難易度は老齢期でなく、幼年から始まる学生時代である

学生時代にボッチ道を極めるには様々な苦難を味わう必要がある。

休み時間ときは皆の楽しみを邪魔しないように寝たふりをする。

 また、このとき、心無い人の非難を耳に入れないようにウォークマン(今ならIpod)などが有効である

・昼食の時間は、一人で食べてる姿を見せて回りに気をつかわせないように、屋上や倉庫などの目につかないところに潜む。

・レクエーションの際は完全に気配を消して、時間がすぎるのをまつ。

・二人一組になる命令が来た場合は、他のみんなが一人にならないように、そっせんして自分があまるようにする。

このような行動は、多くのボッチ道を極めようとした人間の心を次々と折っていった。

この試練をくぐりぬけたものは同窓会という義務を免除されるので、興味のある方は挑戦してみよう。

さて、社会人学生よりつらいとかいう話をよくきくかと思うが、ボッチ道においては社会人はヌルゲーである

学生時代には一件も登録されなかった携帯の連絡先に仕事関係の連絡先をいれることができるなど、かなりの優遇処置がとられている。


さて、昨今はインターネットの発達により、ボッチ道にも新たな可能性が出てきた。

インターネットにより、見知らぬ人間や遠方の人間となれ合うことができるようになった。

だが勘違いはよくない。

現実社会でボッチだったものが、インターネットでボッチじゃなくなるのか?

いや、そんなわけはない。ボッチを極めしものは、いつでもボッチなのである

いまはなき、サルサ日記ブログに挑戦したことがある。

自分アクセス以外で、カウンターがまわったことなどない。

まさにパーフェクト閑古鳥である

また、ウルティマオンラインなるオンラインゲームもやったこともある。

ボッチ道を慢心する私としては、仮想現実世界でも、部屋に引きこもり、調理場でパンを淡々と焼き続けた。

もちろん、仮想現実を頼もしい仲間とともに冒険など、一回もしていない。

実は一度したが、見事に別のプレーヤーにカモられた。




ふぅ。

なんか、昔を思いだしたら、ディスプレーの調子が悪くなってきた。なんか画面がかすむ。

私は魔法が使える程度にボッチ道を極めたが、今後は最強伝説黒沢の初期黒沢のように、軟骨ごはんを食べる日々を送ろうと思う。

そして、2011年全国ボッチ道選手権では、入賞を目指して頑張りたいと思う。

なお、今年の選手権では巴マミさんという十年に一度の才能を秘めた選手エントリーしているため、かなりの激戦になると思われる。

2010-11-28

http://anond.hatelabo.jp/20101128010851

言ったらなんだけど

あれは精神病患者物語だぞ。

黒沢の狂った突飛な行動は要するに

あそこまでしないと苦しくて生きていけないぐらいに

脳の何かの分泌物が不足するようになってしまったってことなんだ。

普通の人はあんなことしないで満足して生きてる。


自分人生に納得やコントロールしてる感を得るのは大事なことだが

黒沢達はそれを極度に得るのが下手な病気ゆえに

非常に下手糞な・狂った手段に打って出てしまってるわけ。

アレを見てその物悲しさに笑ったり涙したりするのはいいけど

あれに影響されるのはヤバいからやめとけ。

それは大学受験に落ちまくってる浪人生勉強法を見習うようなもんだ。


彼等はダメだからああなり、ああだからダメなんだ。

苦しくなさそうな人の真似をしろ。

2010-09-25

テレビを見てると、

「この方、多分私と本質的に結構似てる気がする~!」と思う男性が出てくる。

例えば今パッと浮かぶ人だと

TBS安住アナとか、岡村隆史さんとか、藤井隆さんとか・・・。

普通の人以上にフザけたことを言ったりすることに長けてる一方で、ものすごく真面目で卑屈な部分があって根暗でって言う。

(今書いてて思ったけど、お笑い芸人さんに多いかなー・・・と思った。)

この人似てる~と思うのだけど、そう思う対象の人って大抵男性なんだよね。 不思議

女の人でもこういう人っているだろうし、自分が知らないだけかもしれないけど、

テレビ見てて「この人似てるかも~」と感じる女性って、なかなかいない。

これって性差かなんかの一種なのかな。 個人的に。

強いて上げるとしたら、森三中黒沢さんかなー・・・と思ったり。

でも、あそこまで変わってないなーとも思ったり・・。

とにかく、自分性格が小さいころから変人だったのは自覚をしていたし、

周りからの扱いでも確信しながらそれなりに過ごしてきたのだけど。

まぁー周りと馴染めなかったし、とにかく周りからの理解もないし。 振り幅が面倒くさい性格って言うか。 

こんな性格が嫌だなぁと思っているのだけど、説明もしにくいから、

なんとかく「○○に似てる」って形容できるような人って欲しいのだけど、

いつも上記のような男性しか思い出せなく、私一応女だから、

ちょっとこんなところで男性名前をあげたりしたら引かれるかしらとか

一応気にしたりもして、ちょっとそういう形容できる女性芸能人がいてくれたらなぁと思ったりするのです。



まぁ、どうでもいいか。

2010-08-15

CASSHERN~なぜキャシャーンは人を激怒させるのか?

 なぜキャシャーンは人を激怒させるのか?

 単に、紀里谷和明監督への嫉妬か、妬み・嫉み・恨みなのか。

 しかし、例えば僕などは日記をみてもらえれば判るようにキリキリ監督尋常ではないレベルの妬み・嫉み・恨みを抱いているが、それとこれとは別で、「CASSHERN」という映画じたいは素晴らしく面白い!と手放しで絶賛してるし、一発目でいきなりこんな凄い映画を作れてしまう紀里谷監督リアルに天才なのでこれからも凄い映画を作り続けてほしいです!と応援してしまうのである。

 つまり嫉妬の要素というのは、この際、さほど重要ではない。

  CASSHERNは、人間感情の、何かこうクリティカルな部分を直撃する映画なのだ。それゆえに、そのクリティカル・ヒットを受容できる人はハマるし、受容できない人は切れるのだろう。(受容はできるけど、もうこの手の話は飽きた、という人もいるだろう。しかしそのような人は、呆れ果てることはあっても、切れたりはしない)

 CASSHERNクリティカルさというのは、そう、ブライセリフに集約されている。

「つまり、憎しみとは、人間也!」

 さらに、キャシャーンキャシャーンで、「人間が生きていることじたいが、人を傷つけることになる」という意味モノローグを語っている。

人間の性は、悪だ(人間性悪説

人間は、生きていることそれじたいが罪悪だ(原罪論)

 これはキリスト教的な「罪」の論理であり、無神論が主流の日本では受け入れられる余地の少ないテーマといえる。性善説ベースとなっている日本でいきなり「お前の存在じたいが罪だ」といわれれば、切れる人が多いのも当然だろう。しかもこれ、漫画映画である。「敦煌」とか「砂の器」じゃないのである。アニメだよ、キャシャーンだよ。なんで漫画映画で、そんな説教されんといかんねん!という人もたくさんいるはずだ。

 しかも、紀里谷は、これらの作品のテーマを、役者にセリフとして語らせてしまうのである。これがまた、この類のテーマを受容したくない人にとっては、許しがたい行為なのである。セリフで語りさえしなければ、スルーできたはずだからだ。人間は、自分の見たいものしか認識しない。従って、通常、映画を観ていても自我を脅かすようなテーマが提出されても、その部分を認識せずにフィルターをかけて消してしまうことができる。しかし、「言葉」で投げつけられてしまうと、そうはいかない。紀里谷は確信犯的にこの映画を観た全ての人間

「憎しみとは、人間也!」

 というテーマを強制的に植えつけることによって、この映画テーマを曲解される可能性をふさいでいるわけだ。

 このテーマを容認できない人にとっては、監督独善、ということになるのだろう。

 

 さて、この映画は、キリスト教的な救世主の受難を描いている。

 伊勢谷友介が演じる東鉄也は、一度死ぬが、LCLのようでもあり命のワインのようでもある赤いプールに肉体を沈められることにより、再び復活する。この赤いプールの中で行われる復活劇は、あたかもパプテスマのヨハネによる洗礼儀式のようでもある。この復活により、鉄也は自らを救世主キャシャーンと名乗ることになる。もちろん、上月博士三橋達也演じる老医師、鉄也の母みどりの幻影などが、復活した鉄也に「君の復活には、何か意味があるはずだ」「この街を守れるのか」「人々の争いを止めるのです」と、鉄也を救世主の道へと導こうとアシストするわけである。

 しかし、鉄也は救世主キャシャーンとなっても、奇跡を起こすことはできず、人々はみな挫折して死ぬ。そして鉄也自身も傷つき、血まみれとなっていく。鋼鉄の扉の隙間からバラシンに刀で心臓あたりを抉られるシーンは、あたかも十字架にかけられたイエスのごとくだ。

 しかもキャシャーン抽象的に人類の業を贖罪するという存在ではない。鉄也自身が生前、殺人という罪悪を犯しているのだ。「反戦映画」ともうけとられがちなこ映画は、実は、戦争だけに反対している映画ではない。「人間存在そのものが罪だ」というテーマをもっとも端的に表現できる場こそが戦争という極限状態なので、戦場における戦闘の結果としての殺人という光景が何度も繰り返されるのだ。

 最後に鉄也は戦場で犯した自らの罪業を認識して、懺悔する。

 が、この映画の恐ろしいというか念入りなところは、懺悔したはずの鉄也がさらにダメ押しともいうべき父殺しという罪を背負うことである。母親を寝取り、父を殺すというのは、いうまでもなくエディプス・コンプレックスなのだが、鉄也は最終的に父殺しを達成することによって、人類の原罪をことごとく背負って自殺することになる。

 では、鉄也の懺悔無駄だったのか? そう、無駄だったのだ。この映画テーマは「憎しみとは、人間也!」なのだから。従って、鉄也は、キリストの如く原罪を背負って血に塗れ、死んでいくしかないのだ。キリストと違う点は、人類の原罪を肩代わりしたのではなく、自ら原罪を犯して死んでいくという点だけだろう。もちろん鉄也は単なる殺人犯というわけではなく、「戦争」や「愛する人を殺した殺人犯への復讐」といったどうしようもない事情がある。決して、悪意で殺人を犯したわけではない。人間存在そのものが悪なのだから、生きる限り、どうにもならない、どうしようもないのだ…したがって、救世主になるべくして復活させられた鉄也の地獄巡りは、ドアーズ「The End」の如く、母を寝取り、父を殺して完結する。「地獄の黙示録」を参照するまでもなく、フロイトの絶対的な影響下にある現代のキリストは、エディプス・コンプレックスの持ち主でなければならない。フロイトによれば、エディプス・コンプレックスこそが、人類の原罪意識の大本にあるのだから。

 さらに、鉄也の父親・東博士が下層階級の出身であったことも最後に明らかになる。東博士は下層階級出身でありながら、政府側について少数民族を抑圧する側にまわり、最終的には鉄也の最大の敵となる。このあたりも、なにやらイエスキリスト物語を髣髴とさせる。

 だから、キリスト教圏では、この映画日本からやってきた現代の救世主譚として評価されるかもしれない。

 過去に、日本アニメ映画では似たようなテーマが何度も描かれている。いうまでもなく「イデオン」と「エヴァ」がそれだが、エヴァでは、主人公のシンジ救世主となるべく人類の原罪を背負う……という流れの物語だったはずが、最後にシンジ人類の原罪を背負わずに話が途切れてしまった。「エヴァ」は、「人間の性は、悪だ」という自らのテーマに向き合うことができなかったのである。キャシャーンは、エヴァと非常に似た構造映画であるが、主人公の手を父親の血に染めさせることによって、エヴァが途中で放棄したテーマを完結させた作品であるといえる。

 もう一つ、近作で似たような映画がある。それは「マトリックス」だ。この作品は3部作だが、それぞれ救世主ネオ誕生・生・そして死を描いている。ネオもまたキリストの如く、一度死んで復活する。だが、最後には人類の原罪を背負って死ぬ道を選ぶのだ。終盤、ネオは目を焼かれて失明し、エディプス王の如く盲目となる。機械触手に支えられて死んでゆくシーンは、やはり十字架にかけられたイエスを髣髴とさせる。

 ただ、マトリックスは「何も語らない」「観客に考えさせる」というスタイルを貫いたのに対して、キャシャーンは「全てをセリフで語りつくす」「観客に議論の余地を与えない」というまったく逆のスタイルで作られている。このスタイルこそが、一種の押し付けがましさ・説教臭さ・青臭さ・傲慢さと受け取られ、反発される一因になっているのだろうと思う。だが、この説教臭さ、愚直なまでの必死さこそが、かつての邦画ひとつの魅力だったのではないだろうか。邦画黄金時代には、説教映画が多数製作されていた。「新幹線大爆破」の宇津井健のウェットな説教や、「ノストラダムスの大予言」や「人間革命」で丹波哲郎が繰り出す強引極まりないオレ流説教。かつて、日本人はこれらの説教映画で感動して泣いていたはずである。みんな、かつては馬鹿だったのだ。

 80年代以後、邦画から泥臭さが消えていくとともに、邦画の魅力は失われていった。特に、角川春樹逮捕ホイチョイ・プロダクション的なテレビ局誘導の企画映画のブーム化以後は、有能な監督には集客力が無く、大作はどれも質を伴わない、という状況が長らく続いていた。例えば、世界レベルで評価されている黒澤清三池崇史が、「デビルマン」を監督させてもらえないのである。宇多田ヒカルの夫であるということ以外、ほとんど映画界では実績が無く、世間にもあまり知られていなかったPV監督が従来の邦画システムとはまったく無関係なところで突然作り出した「CASSHERN」は、そういう硬直した邦画とりまく閉塞構造をいきなり破壊した作品といえるのだ。

 無論、システムの面だけではなく、愚直なまでに真剣かつ本気というそ姿勢もまた、古くて新しいスタイルではないかと思われる。むしろこちら(熱さ)のほうが重要で、80年代から長らく続いていたシラケ世代は2001年あたりを境に終息しつつあり、70年代を最後に滅んでいたはずの愚直な熱さが求められる時代が復活しているのだ。アントニオ猪木が「馬鹿になれ」というフレーズカリスマ化したのも単にジャイアント馬場がいなくなったからというだけではない(主にプロレスと関係ない人たちに猪木が評価されているのだから。むしろ保守的プロレスファンは旧来のプロレスシステム破壊する存在である猪木を嫌っている。このあたり、CASSHERNの評価とも重なってみえる)。「馬鹿になれ」という熱くて愚かで泥臭い姿勢こそが、閉塞しつつあった日本の気分にマッチしていたのではないか。

 従来なら「大人げのない幼稚な愚直さ」と嘲笑のネタにされるような熱いキャラクターカリスマ化していく作品としては、「最強伝説黒沢」というコミックもある。この漫画の主人公の黒沢は、中学生と本気で決闘するようなどうしようもない中年なのだが、その必死さ、熱さが、周囲の人間(主に、シラケきった若者世代)の心をわしづかみにしていく、というストーリーのようだ。

 すでに我々には、冷笑や嘲笑で生きていけるほどの余裕が無いのだろう。すべてから距離を置き、自我を脅かすものすべてを嘲笑して生きていくライフスタイルは、「勝ち組」「負け組」が明確化されてしまった現代日本ではもう限界なのだ。そうなれば、道は二つ。「感動など、無い」「自分には何の値打ちもない」という悲惨な現状に気づいて、馬鹿になり、泥にまみれて足掻く道。もう一つは、「自分がこうなったのは、すべて、外部に責任がある」と犯人探しの旅に出る道だ。

 僕がCASSHERNを支持するのは、紀里谷監督製作姿勢そのものが、前者の道を示しているからだ。紀里谷の才能を持ってすれば、もっとソツなく、映像美とアクションに徹した娯楽映画を作ることだって可能だったはずだ。だが、あえてこんな熱くて泥臭くて人に嫌がられる映画を作ってしまった。というより、作らざるを得なかったのだろう。その過剰ともいえる熱さが、CASSHERN賛否両論喧々諤々と騒がれる原動力となっていることは疑いない。こんな熱い邦画は、しばらく見なかった。いったい、いつ以来なのだろうか。

 そしてこの映画テーマもまた、後者の道…「犯人探しの旅に出る道」を遮断するべくして設定されている。そして紀里谷は、それでも「犯人探しの旅に出る道」への抜け道を探そうとする人間に、抜け道すら与えない。テーマをそのままセリフとして喋らせることによって。つまり紀里谷にとっては、作品の映画としての完成度よりも、テーマを訴えることのほうが重要だったわけで、紀里谷はここでも熱い。

 このCASSHERNがどうしようもなく発散させている愚直さ、熱さこそが、実は人々に求めらていたのではないか、と思われるのだ。この映画は、冷笑させることを観た人間に許さない出鱈目な熱さを持っている。いやまあ突っ込みどころはあまりにも満載なんですが…あちこち破綻しまくってるし。だが、それだけでは絶対に済まされない映画なのだ。だからこそ、嘲笑で片付けられる人間よりもマジ切れする人間のほうが圧倒的に多いわけなのだ。僕は紀里谷監督に、もっともっと熱い映画を作り倒してもらいたい。僕自身は、熱さは持っていても、作品を作る社会的能力が皆無なので……。

(04/5/1 本田

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