私が半生を賭けて追及したボッチ道について書いてみようと思う。
ボッチ道とは、人生というゲームを協力プレーを極力廃止ソロプレーで挑む縛りである。
昨今のおひとり様とか、老人の孤独死など、ボッチ道に対してある種の偏見があるが、これは価値観の違いである。
おひとり様なのは生命を維持するための経済的コストを下げるのに有効だし、老人の孤独死というのはまさにボッチ道に殉じた見事な最後である。
実は、ボッチ道の最高難易度は老齢期でなく、幼年から始まる学生時代である。
学生時代にボッチ道を極めるには様々な苦難を味わう必要がある。
・休み時間のときは皆の楽しみを邪魔しないように寝たふりをする。
また、このとき、心無い人の非難を耳に入れないようにウォークマン(今ならIpod)などが有効である。
・昼食の時間は、一人で食べてる姿を見せて回りに気をつかわせないように、屋上や倉庫などの目につかないところに潜む。
・レクエーションの際は完全に気配を消して、時間がすぎるのをまつ。
・二人一組になる命令が来た場合は、他のみんなが一人にならないように、そっせんして自分があまるようにする。
このような行動は、多くのボッチ道を極めようとした人間の心を次々と折っていった。
この試練をくぐりぬけたものは同窓会という義務を免除されるので、興味のある方は挑戦してみよう。
さて、社会人は学生よりつらいとかいう話をよくきくかと思うが、ボッチ道においては社会人はヌルゲーである。
学生時代には一件も登録されなかった携帯の連絡先に仕事関係の連絡先をいれることができるなど、かなりの優遇処置がとられている。
さて、昨今はインターネットの発達により、ボッチ道にも新たな可能性が出てきた。
インターネットにより、見知らぬ人間や遠方の人間となれ合うことができるようになった。
だが勘違いはよくない。
現実社会でボッチだったものが、インターネットでボッチじゃなくなるのか?
いや、そんなわけはない。ボッチを極めしものは、いつでもボッチなのである。
また、ウルティマオンラインなるオンラインゲームもやったこともある。
ボッチ道を慢心する私としては、仮想現実の世界でも、部屋に引きこもり、調理場でパンを淡々と焼き続けた。
もちろん、仮想現実を頼もしい仲間とともに冒険など、一回もしていない。
ふぅ。
なんか、昔を思いだしたら、ディスプレーの調子が悪くなってきた。なんか画面がかすむ。
私は魔法が使える程度にボッチ道を極めたが、今後は最強伝説黒沢の初期黒沢のように、軟骨ごはんを食べる日々を送ろうと思う。
そして、2011年全国ボッチ道選手権では、入賞を目指して頑張りたいと思う。
なお、今年の選手権では巴マミさんという十年に一度の才能を秘めた選手がエントリーしているため、かなりの激戦になると思われる。
「ボッチ道」などと、今更な名前を掲げて、「道を極めてアピールしたい」と思っているとしたら、 それは、君の心の中の「リア充」が疼いているんだろうよ。 ボッチというのは、...