はてなキーワード: 八正道とは
と思いがちなんだけど、実際には
「色んなモノに参加する敷居が下がるだけ」
なので、アレな人でも本や動画作れるようになったり、本来生き残れない人が生き残れるようになるので、表面的にはレベルが下がるのよ…
陰謀論を唱えるというのは極端にしても、
「メンタルの問題は、古典に答えが書いてあることもたくさんあるのに、古典で軸を作れていない人が、断片的に自己啓発本や心理学の研究を読む」
「せいぜい200年しか歴史のない心理学で、メンタルの問題をわかった気分になる」
みたいなことが多くて…うん
私が本書くときにあたって心理学も色々調べたけど…それこそ人気の本から、DaiGoさんまで
みたいな断片的な情報が多すぎて、体系立てられているものや、汎用性をもって使えそうなものはむしろ哲学や仏教の方に多くてけっこう困った。
「ロジカルなら正しい」
もけっこう危険だけど、『実験・データによると』はもっと危険やからなぁ…。
切り口次第でどうとでもなるし、再現や検証に手間がかかるからその場限りで人を言い負かすのには、ロジカル以上に使えることがある。
疑いだせばキリがない話だけどね…
ロジカルに考えても
みたいなのがしっくり来る説明がないというか、どうとでも言えちゃうものは私は取り入れないようにしてるけどね
その辺、仏教・禅は「悟りってなんやねん」と聞いた人にちゃんと答えてる人がおるから、なんでもありではない
は十住心論、正法眼蔵、般若心経あたりを読むと書いてあるんで、そこは整合性取れてる。
これを「仏教の修行しないとできません」と言っちゃうのは仏教側にも驕りがあるとは思うけどやりたいことは伝わる
・自分たちの考えのことを「真理」と言って、宗教ではないと主張する人も散見される
・真理から見て正しい間違ってるという「八正道」は一歩間違えると洗脳の道具になる
仏教が哲学として面白い一方で、ヤバい人もたくさん作っちゃってる部分はこの「驕り」なのです。
驕りの部分を取り入れないで、哲学の面白さを取り入れると役に立つのだが…驕りが入ってこないように適切な距離感を取る必要がある。
ここが仏教を取り入れる注意点かなぁ…
仏の教えは合理的。基本的な理屈の前提となっているのは、この世界には「因果関係」があって、あらゆる物事は因果関係の連鎖で成り立っていますってことだけ。
・絶え間ない因果関係の連なりがあるから「諸行無常」。諸行無常ってのは、あらゆる物事は変化し続けているってこと。
・諸行無常な世界を普通の人間が経験すると、「一切皆苦」と感じる。あらゆる物事が変化し続けているってことは、やがては人の望まない状態になり得るし、たいていはそうなるから。人生には「四苦八苦」がつきもの。
・普通の人間は、永遠不変の私がいることを素朴に信じていて、その『私』に強く執着している。しかし実際は、「諸法無我」。つまり、永遠不変の私は存在しないということ。なぜなら、私はこの世界の一部であって、世界の一部であるからには因果関係の連鎖によって一時的に立ち現れている物事でしかないから。身体も五感も思考も欲求も一時的に立ち現れているものに過ぎない。私という存在もまた、諸行無常であり、ゆえに諸法無我。
・普通の人間が諸行無常な世界に在って一切皆苦と感じるのは、『私』に強く執着しているから。世界も私も変化し続けているものだから、『私』の思い通りになるとは限らない。それなのに、思い通りにならないとそのたびに苦しい。
・一切皆苦と感じる原因が『私』に対する強い執着であるなら、その執着を薄め、消し去ればいい。この世界は諸行無常であり諸法無我であることを、知識としてではなく、感得することができたなら、『私』への強いこだわりは霧散し、世界を一切皆苦とは感じなくなるし、副産物として利己性も消える。これが悟りの境地。
・この世界が諸行無常であり諸法無我であることを感得するには、感得するトレーニングを繰り返して感得する認知能力を高める必要がある。自転車に乗れるようになりたいなら自転車に乗るしかないのと同じ。このトレーニングが仏教の修行の中核。昨今では「ヴィパッサナー瞑想」とか「マインドフルネス」とか呼ばれている。ヴィパッサナー瞑想で得られる認知能力を「智慧」あるいは単に「慧」と呼ぶ。
・『私』に対する強い執着を薄める方法はヴィパッサナー瞑想以外にもう一つのアプローチがある。「慈悲」つまり、利他的な心を育てる瞑想や利他的な実践を繰り返すこと。
・ヴィパッサナー瞑想だけしていれば悟れるかというと、そうでもない。「戒」:瞑想に集中するための環境や習慣を整え、「定」:ヴィパッサナー瞑想に必要な集中力を高めるための瞑想も行う。これらをヴィパッサナー瞑想と合わせて「戒定慧」と呼ぶ。仏教の実践は基本的にこの三つ。もう少し詳しくは「八正道」と言う。
というのが、私の理解。もっと詳しく知りたければ「」でくくった単語を検索して一つずつ調べるか、書籍なら仏教思想のゼロポイントをおすすめ。
思想史的な観点をちょっとだけ補足。仏教は教祖である釈迦の没後、スリランカやミャンマーあたりに伝わったものが初期のノウハウを比較的色濃く伝えている。これは上座部仏教、南伝仏教、小乗仏教とか呼ばれてる。一方、中央アジア等を経由して中国に至るうちにかなりの変貌を遂げたのが、北伝仏教、大乗仏教とか呼ばれてる。日本の仏教は中国経由で伝わったもので、基本的に大乗仏教。輪廻転生は仏教のオリジナルのアイデアではなくて、インドやネパールあたりにもっと昔から根付いていたアイデア(輪廻転生だの神や悪魔だのの有無は、今生きているあなたが苦から逃れるために重要なことではないですよ、肝心なのは八正道の実践、ってのが仏教のスタンス)。天国地獄のアイデアはおそらく中央アジアあたりで仏教に混淆した。先祖の供養が大事みたいなアイデアはたぶん中国で混ざった。
瞑想というかマインドフルネスに抵抗があって、本を買って読んだりしてみてるわりに、全然実践できていない。
効き目がないと思っているわけではなくて、「まあこういう仕組みだから、こういう世の中でやると、こういう調整が効くんだろうな」と自分なりに納得もしてる。
じゃあ何がひっかかってんのかというと、自分がちゃんとした仏教徒じゃないからだ。
マインドフルネスは、宗教的要素を取り除いたとは言われるけど、きっぱりはっきり「八正道の中の正念」という概念とイコールなことがあきらかだし、そもそもその宗教的要素を取り除いたっていうことに対しても「……いや、そんな勝手に取り除いていいものなのか?」っていう気持ちになってしまう。残りの八正道ノータッチでいいんだ?? ほんとに??
自己実現のために、信仰してない宗教の教義のごく一部分だけをお気軽に使うの、自分のオシャレのためにまったくコーランも知らないのにヒジュラかぶっちゃうみたいなアウト感をね……。感じてしまうんだよな~。
基本的に自分が考えすぎなのはわかってるんだけど、うっかり他人の重要な箇所に土足で入ってるんじゃないかって不安がどうしても残ってしまう。
写経体験みたいなものだと捉えたらどうかと言われたけど、マインドフルネスは継続して行う習慣なとこがどーもな……。
俺の人生の目的は悟りを開いて生きる執着を捨てることにあるんだ。
スッタニパータ、一角の犀の章を読んでもらうと分かると思うんだけど
「自分の息子を欲しいと思うことさえあってはならぬ」ってある。
異性と一緒になるのって突き詰めると子孫を残すためだよね?
もちろん五戒を守り八正道を実践していくにあたって女性の存在は認めるし、できる限り敬意を払うよ
仕事で協力が必要なら率先してこなすし、公共の場で援助が必要な場合ならそうする。
でもそこまでだよ。それ以上を望むのなら他の男性をあたってほしい。
子供を作る以外にも付き合ったり、結婚したりする目的はあると考える人がいるかもしれない。
でもそれこそ一角の犀のようにだよ。
一人離れて修行し歩くがよいなんだ。
釈迦はいくつかの物事を無記としました。無記とは議論するべきでない、考えてもしょうがない物事を指します。
生命と身体は同一か
生命と身体は別個か
修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか
ではなぜ、釈迦はこれらを「考えても仕方のないこと」としたのでしょうか。これについて私見を述べたいと思います。
まず第一に、釈迦は決して「信仰」を求めませんでした。信仰ではなく、「実践」を求めました。
何を実践するのかというと、八正道というものです。また、悪いことをやめ、良いことをすることです。
釈迦は、なぜそれらをしなければいけないのかを、体系だった哲学によって、論理的に説明しました。
厳密に数学的な論理的ではないですが、哲学として筋の通ったものでしたし、個々人が実践によって結果を体感することができました。
ここに、輪廻転生や宇宙の構造について無記とした理由があると私は考えます。
その理由とは、輪廻転生や宇宙の構造は釈迦が悟りを開いてから超人的な力で知ったものであって、
悟りを開いていない一般の人々には「体感」することが不可能であることです。よって、実践によって「一般の人が」体感することができないもの、これは釈迦の言うことを信仰する以外にないのです。
輪廻転生については、釈迦が超人的な力で知ったものであって、論理的に導き出せるものでもなく、科学的な観察によっても前世を知ることはできません。
いまでこそ超ひも理論などの宇宙の構造について多少は知ることができていますが、完璧に知ることは未だできていませんし、完璧な宇宙の構造を一般人が身をもって知る、体感するということは不可能でしょう。一部の天才物理学者は数学や実験を通して理解できるかもしれませんが、それ以外の人達はやはり間接的にしか知ることはできません。
体感できない、観察できないのだとしたら、釈迦の言うことを盲目的に信じるしかありません。しかし、釈迦は「盲目的に信じる」という態度を否定していました。
だから、どうあがいても一般の悟りを開いていない人たちには知りようがない、体感しようがないことは「無記」としたのだと思います。
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20121210/1355153569
を読んで色々調べたらこんなのあった。
http://ameblo.jp/joyufumihiro/entry-11001677436.html
また、途中で話が脱線し、濱野氏が最近「はまり気味」のAKB48について言及されたので、私が、自分の持論として、AKB48とは、その数字と言い、グループの構成の仕方と言い、仏陀とその教えに「深い縁」があり、その人気の裏側には、仏の守護があるのでは!という話しをさせていただきました(笑)。
仏陀は、日本仏教では4月8日生まれ、その中核の教えは、四諦八正道。有名な無我の教えの本質は、「私」とか、「彼」といった、(そして「AKB48」といった、)名前によって一つの存在のように見えているものが、それを構成する様々な要素が無常に移り変わっており、実体がないというもので、メンバーが総選挙で変わるAKBとよくシンクロした教えなのです(笑)。