釈迦はいくつかの物事を無記としました。無記とは議論するべきでない、考えてもしょうがない物事を指します。
生命と身体は同一か
生命と身体は別個か
修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか
ではなぜ、釈迦はこれらを「考えても仕方のないこと」としたのでしょうか。これについて私見を述べたいと思います。
まず第一に、釈迦は決して「信仰」を求めませんでした。信仰ではなく、「実践」を求めました。
何を実践するのかというと、八正道というものです。また、悪いことをやめ、良いことをすることです。
釈迦は、なぜそれらをしなければいけないのかを、体系だった哲学によって、論理的に説明しました。
厳密に数学的な論理的ではないですが、哲学として筋の通ったものでしたし、個々人が実践によって結果を体感することができました。
ここに、輪廻転生や宇宙の構造について無記とした理由があると私は考えます。
その理由とは、輪廻転生や宇宙の構造は釈迦が悟りを開いてから超人的な力で知ったものであって、
悟りを開いていない一般の人々には「体感」することが不可能であることです。よって、実践によって「一般の人が」体感することができないもの、これは釈迦の言うことを信仰する以外にないのです。
輪廻転生については、釈迦が超人的な力で知ったものであって、論理的に導き出せるものでもなく、科学的な観察によっても前世を知ることはできません。
いまでこそ超ひも理論などの宇宙の構造について多少は知ることができていますが、完璧に知ることは未だできていませんし、完璧な宇宙の構造を一般人が身をもって知る、体感するということは不可能でしょう。一部の天才物理学者は数学や実験を通して理解できるかもしれませんが、それ以外の人達はやはり間接的にしか知ることはできません。
体感できない、観察できないのだとしたら、釈迦の言うことを盲目的に信じるしかありません。しかし、釈迦は「盲目的に信じる」という態度を否定していました。
だから、どうあがいても一般の悟りを開いていない人たちには知りようがない、体感しようがないことは「無記」としたのだと思います。
そこら辺は多分、仏教の主流概念である因果と無我を説く際に邪魔になるんで語らなかったんだと思う 仏教はバラモン教と対峙するために自我を否定して純粋に因果関係だけで世界を説...