2015-01-17

なぜ釈迦輪廻転生宇宙構造について無記としたのか

釈迦はいくつかの物事を無記としました。無記とは議論するべきでない、考えてもしょうがない物事を指します。

wikipediaによれば以下が無記の物事です。

世界永遠であるのか

世界永遠でないのか

世界は有限であるのか

世界無限であるのか

生命と身体は同一か

生命と身体は別個か

修行完成者(如来)は死後存在するのか

修行完成者(如来)は死後存在しないのか

修行完成者(如来)は死後存在しながらしか存在しないのか

修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか

ではなぜ、釈迦はこれらを「考えても仕方のないこと」としたのでしょうか。これについて私見を述べたいと思います

まず第一に、釈迦は決して「信仰」を求めませんでした。信仰ではなく、「実践」を求めました。

何を実践するのかというと、八正道というものです。また、悪いことをやめ、良いことをすることです。

釈迦は、なぜそれらをしなければいけないのかを、体系だった哲学によって、論理的に説明しました。

厳密に数学的な論理的ではないですが、哲学として筋の通ったものでしたし、個々人が実践によって結果を体感することができました。

ここに、輪廻転生宇宙構造について無記とした理由があると私は考えます

その理由とは、輪廻転生宇宙構造釈迦悟りを開いてから超人的な力で知ったものであって、

悟りを開いていない一般の人々には「体感」することが不可能であることです。よって、実践によって「一般の人が」体感することができないもの、これは釈迦の言うことを信仰する以外にないのです。

輪廻転生については、釈迦超人的な力で知ったものであって、論理的に導き出せるものでもなく、科学的な観察によっても前世を知ることはできません。

いまでこそ超ひも理論などの宇宙構造について多少は知ることができていますが、完璧に知ることは未だできていませんし、完璧宇宙構造一般人が身をもって知る、体感するということは不可能でしょう。一部の天才物理学者数学実験を通して理解できるかもしれませんが、それ以外の人達はやはり間接的にしか知ることはできません。

体感できない、観察できないのだとしたら、釈迦の言うことを盲目的に信じるしかありません。しかし、釈迦は「盲目的に信じる」という態度を否定していました。

信仰よりも実践を重んじたのです。

から、どうあがいても一般の悟りを開いていない人たちには知りようがない、体感しようがないことは「無記」としたのだと思います

これは釈迦の、「たとえ私の言葉であっても盲目的に信じる必要はない」という態度の表れだと思うのです。

そしてこれはほかの宗教には見られない素晴らしい態度だと思います

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