近年、同調圧力に屈しない事が正しいこととして扱われる傾向があるように思います。
飲み会への参加を断るだとか、学校での同調を迫る雰囲気に辟易して学校へ行くことをやめるなど様々な場面で同調圧力への抵抗が現れています。
話を進めるに先立ちまず前提として言っておきたいのは、わたし個人としては同調圧力が悪しきものだと考えているという事です。
同調圧力に抵抗する事には大抵、抵抗した者を排除する作用が伴います。そして日本においては集団からの排除を受けると、実社会生活が満足いくような形で立ち行かなくなる可能性が高いと言えるでしょう。
そのような意味で圧力に抵抗するということは、個人の意思決定の自由を実質的に奪ってしまうと言えるといえます。
そして人間は皆、自由な内心に従った意思決定をし、その意思決定に基づく行動は社会的法規範および他人の人権を侵害しない限りにおいて、許されてしかるべきだというのが私自身の根本的な思想なので、上記のように同調圧力自体は悪しきものと考えています。
話を戻しましょう。
では同調圧力に抵抗する事は正しいのでしょうか。
もちろん、同調圧力により強い精神的苦痛を受けて死を選ぼうとする人は同調圧力から逃げる事を選ぶべきでそれが正しい手段でしょう。
宗教的な議論はあるにせよ、死んでしまえばそこで何もかも終わりになってしまうのですから、命を終わらせる前にまず同調圧力から逃げてみるべきだからです。
しかし、そのような段階に至る前において同調圧力に屈しない事が正しいと言えるでしょうか?
最近は「飲み会なんて行く必要はない」「学校なんて行きたくなければ行く必要はない」と言った発言がよくされており、このような発言には肯定的な意見がよく寄せられています。
結論から言うと私はこのような考えは「現状では」間違っていると思います。
何度も述べているように、同調圧力は悪しきものです。しかし、実社会に目を向けて見ると、飲み会に参加する人の方が職場での居心地が良くなる傾向があるでしょうし、学校にしっかり行っていた人の方が将来的な選択肢が広がる(すなわち自らが望む進路に進む事ができる可能性が高くなり、その中で報酬としての金銭を得る事ができる)傾向があると言え、同調圧力に抵抗しないほうが良好な生活環境を維持しやすいでしょう。
私たちは社会の中で生きる存在ですから、このような社会傾向から目を背けることはできません。生活にはお金が必要であり、お金を稼ぐには働く必要があります。そして異論はあるにせよ、一般的には良好な生活環境には良好な人間関係を築く必要があると言えるでしょう。
社会的に大多数の人にとっては良好な生活環境を維持する事が重要でそのための選択が「正しい」選択と言うべきでしょう。(自分の信念を貫く事が重要であるという人もいますが、そこまで強い人はなかなかいないものです。)
「現状において」この両者を実現するためには基本的に同調圧力に従うほかないのです。
なぜなら「みんないやいやながらも同調圧力に従っているから」です。
これには他人が辛いからといって自分までその辛さを受忍する必要はないというという批判があるでしょう。しかしこれは綺麗事にすぎません。このような発言は基本的に他人と同じ辛さを受忍させられる側から出るものと言えるでしょうが、人間は聖人でもない限り自分が辛い時に辛くない他人を恨めしく思ってしまうものです。
すなわち、「現状では」同調圧力に抵抗しない事が自身の生活の質を上げるという意味において正しいのです。付け加えるなら、同調圧力に抵抗しつつ良好な生活環境を維持したいと「他力本願的に」望むことはむしろ自分勝手で無責任が過ぎると言うべきではないでしょうか。
では同調圧力に抵抗する事が正しい事だと言えるためにはどうすれば良いのでしょうか。
そんな事できないよ、という声があるかもしれませんそしてその通りかもしれません。
しかし、同調圧力に抵抗し、かつ良好な生活環境を手にしたいのならば、少なくとも社会傾向を変えるなんらかのアクションを起こすべきです。わたし自身はどのようなアクションを起こすべきかについての明確な答えを持ち合わせていませんし、もしかしたら同調圧力に抵抗する事自体がその答えなのかもしれません。それ故、ここまでのわたしの主張もまた無責任なものかもしれません。
しかし、現在の、同調圧力には従わなくても差し支えないだろうという風潮が社会的に広く認容される可能性もありますが、これ以上広がらない可能性もあります。とすれば、仮に後者のようになってしまった場合、結局同調圧力に抵抗した人は良好な生活環境を維持する事ができなくなってしまうことになる可能性が高いでしょう。このように考えるならば「現状において」同調圧力は屈しない事が正しいとは言えないのではないでしょうか?
この問題はわたし自身の「同調圧力は悪しきものだ」という考えと、「しかし同調圧力に従う事が現状正しいのだ」という相反する考えが衝突する場面でもあります。
後者は現在の社会的風潮とは異なるものかもしれませんが、同調圧力に反対する者として、「同調圧力に従わないことが正しいのだ」という「同調圧力的風潮」に抵抗する事が、現在の社会的傾向を変えるための私なりの答えです。
上京してまで手伝うかどうかはわからないが、中国人は親の面倒もめちゃめちゃ見る。とにかく家族間で助け合う代わりに束縛も激しい。
そんなことより聞いてくれ。うんこもれた。
整理してくれてありがとう。それだそれ。
それまではそんなに強く意識したことはなかったけど、フランスの友人と話していたら、いかに日本の教育が遅れているか実感させられた。
友人は拙い日本語ながら一生懸命伝えてくれた。「日本の英語の勉強は英語じゃなくて、英語のテスト勉強だよね。フランスの英語教育も遅れてるけど、日本よりマシ」
日本の英語がテスト勉強なのは、大学受験がそういう制度で、学歴で社会の地位が決まっちゃうからなんだよと言うと、「その社会構造自体が終わってるね」と返された。笑うしかなかった。
少し前ツイッターでアメリカ育ちで日本に帰って大学に入学した人が、政治の話とか全然できなくて泣きながら向こうの大学に再入学した、みたいな話がバズってたけど、これは切実な話題だと思う。私も大学生になってようやくそういう社会的な話題ができる場所(サークル)を見つけたけど、そもそもそういう話題をする場所を設けてること自体に疑問を感じた。
政治とか社会問題とかって、もっとカジュアルに議論してもいいと思うんだけど。特に身近な人に対してはそう思う。何もネットで全世界に向けて発信するわけじゃない。情報媒体で得られることは、フィクションやコンテンツじゃなくて私たちの生きる世界で、私たちの生きる時代で起こっているのに。内輪で話し合うことでもっと関心が持てるようになるのに。
どうしたもんかなあ。
ツイッターを見ていると、兼業のブロガー達が、副業頑張るとかアフィ頑張るとか言っている。
しかも、お互いに褒めあって、傷をなめ合っているのが心地よいそうだ。
どう考えても、本業と関連のあるものを伸ばして稼いだほうがいいだろうに、何故新規の分野で
低レベルの知識を身について、新参のブロガーに対したことのないノウハウを売りつけているのだろうか。
ひとがすなるセックスといふものを、自分もしてみむとてするなり。
ずっとコンプレックスで、引け目で、なにか変わるのか、己に自信が生まれるのか、世界が変わって見えるのか、などいろいろ考えてたけど、
何もまったく変わんねぇーーーー!!
相変わらず自信の無い優柔不断な俺だわ。
でもさ、俺が童貞のままで 「まあセックスで変わるものなんて何も無いよ」って言っても強がりになるじゃん。
「なにも変わらない」ということを実感を持って言える、それだけは収穫だったわ。
中身の感想としては、女の子の背中とかって案外ザラザラしてんね。
なんか淡々としてて、あー人体と人体だなって感じだった。肉と肉だなって。唾液ってくせぇなって。
老後まで生きるメリットってある?
そりゃ、結婚して家庭をもって子供がいる場合は、子供の成長を見届けたいってのはわかるよ。
でも自分のようなキモくて金のないおっさんって老後まで生きるメリットってほんとになるのかなって思った。
「もう死にたいな」って思う時がめちゃくちゃある。
でも、実際には死なない。なぜなら両親と兄弟が存命だから。自殺をしたら多分自分が済んでるワンルームは事故物件になり血縁の人に迷惑が掛かる。だったら自殺なんかできない。
なのでいま生きている意味はほとんど血縁に迷惑をかけたくないという一心。
将来に向けて貯蓄をって言うじゃん。
でも、将来ってなに?結婚に向けて?結婚できるかもわかんないのに?
老後に向けて?老後にもらえる年金なんて少ないのに、今、心と身体を削って働いた金を、明るいかどうかもわからない老後のために貯めるぐらいならせめて今の自分に使って楽したいよ。
もし、安楽死や尊厳死っていう制度があるなら多分俺は利用している。いや、わからないが。死ぬ恐怖を「親がいるから、兄がいるから」でごまかしているだけに過ぎないのかもしれない。