蟹
嘘ついてまでではないけど
何かにハマるとグワーッと調べまくって小ネタとかまで知らないと気が済まなくて
それからじゃないと「これ好き」って言いたくなくて
なんとなく気を張って
「これ知ってる?」って言ってくれると
「あ、知ってます〜!ずっと大好きです〜!」って前から知ってましたアピールしてしまう
ずっとって何だよみたいな
自分で思うわ
いつ好きになったのかとかハッキリ言わないで濁しちゃう
その上マイブームも長く続かないので
本物の古参になることは滅多になく
予算の上限が低いのは、財務省がありもしない財政危機プロパガンダを煽り、その絵に沿って財政赤字削減をやっているのが根本的な原因なので、文句は財務省に言うべきだろう。同じ公務員である財務省が他の公務員をシバいているというのが実状なのに、シバかれている方は自分が誰に苦しめられているのか認識できていないというおかしな状況にある。
時給いくらで働く派遣社員やアルバイトにゴールデンウィークなどないのだ。
休んだら休んだだけ給料が少なくなるのだ。ゴールデンウィークは、給料が減る一週間なのだ。何がゴールデンだ。何が黄金週間だ。一銭にもならんわ。働かにゃ。
2017.4.28
探しても出てくるはずの無い答えを探し続けている。将来のことだ。絶対に失いたく無いものは何か。何も持っていないはずなのに、踏み切れず、勉学に励めば何とかなるだろうという安定的・楽天的思考の現実。それに対し非営利法人で働き、国連という最高峰に登り詰める偶像が時を経る毎に乖離していく。現実を見つめれば見つめる程、答えのない解が遠ざかっていく、答えなどないのに。自分の主義が徐々に侵食されるのが分かる。枠の中でもがけばもがくほど、その早さは増す。後戻りはできない。明日という積み重ねが恐怖になる。考えない事が唯一の解なのであろうか。踏み出すしか希望の路は無い。私は非確定的な将来を極度に恐れ、安定的思考に走る典型的な人間であるから迷う。自分は俗世に塗れた汚い人間という事が今証明された。主義が曖昧な人間にとって挑戦とは恐怖であり、安定的思考に走るという”慣れ”が人を幸せにするのであろう。永遠に自分には分からないであろう不幸という慣れを幸せに感じて生きる。人生とは妥協であろうか。真の幸福な人生とは成功者の特権であろうか。あゝ結果論哉。迷いが決断を鈍らせる。永遠のジレンマの深淵を覗き続ける。未来が絶望的だ。
先日、某フリマアプリを運営する企業の人事が「就職/転職活動に悩むみなさんへ」と言う記事を投稿し話題になっている。
twitterなどの反応をみると割と好意的な意見が多いようだが、私はとても違和感を感じたのでそれについて書いてみる。
この記事の内容を要約すると、
「豊かな人生をおくるには、他人の評価や意見に委ねるのでなく自分の意志で決断したかが大事である。よって就職/転職先は、自分の意志で決めましょう。」
と言うことになると思う。果たしてこれは正しいでしょうか。
私の意見としては、そんなに夢みたいなことを言っていては何もできないし、はっきり言って幻想にすぎないと思う。
その根拠は2つある。
まずひとつは、人生というのは自分の意志でコントロールできる部分が極めて少ないと言うことだ。
これは、歴史を勉強すればわかることで、どんなに強い意志や才能を持っても不遇な一生を送る人間は山ほどいる。逆に自分の意見を殺して決断を他者に委ね、時代に迎合することで豊かに暮らしてきた人間も山ほどいる。
決断というのは、自分の意志で決まると言うよりは環境などのしがらみで"そうせざるおえない"状況で決まることが多い。
身近なところで言えば、仕事の部署は自分の意志と言うよりも、組織の都合で決まることが多い。
また、政治の世界で考えてみると、財政問題や外交問題は現役の総理大臣の責任というよりは、歴史的に蓄積されてきた問題であることがほとんどだ。他人がこれまでしてきた決断の積み重ねの上に現在の業務があり、本意でない仕事も多いはずだ。言い方は悪いが他人の尻拭い的な仕事が大半だ。それでも葛藤しながらも日々の業務をこなしていることだろうし、それが仕事というものだ。
天災、社会情勢、歴史的なしがらみなど、自分では如何ともしがたい運命に翻弄されながら、それを受け入れた上でベストな妥協策を探ることが重要なんではないかと私は思う。
ふたつめは、自分の知りうる情報は極めて限定的であるという問題だ。
自分の収集しうる情報から論理的な最適解を導いてもそれは局所解でしかない。
これについて興味深い示唆を示しているのが、アメリカの社会学者のマーク・グラノヴェッター提唱している「弱い紐帯の強み」と言う概念だ。これは、例えば転職活動をする際、自分のことをよく知っている人より関係性が薄い人(パーティーでたまたまあった人とか)からもたらされた情報で選んだ会社の方が満足度が高いという話である。
これは、自分が帰属している環境から日常的に得られる知識はかなり偏りがあるということを意味している。
この問題を解消するためには、意図的に自分の意志に反することをする必要があると思う。
冒頭で紹介した記事の中に「人に言われて何か学ぶ」「流行りだしたから始めて見る」っていうことに否定的な意見が述べられているが、私はむしろ自分が普段選択しないものから自分の思考が発展していくと思っている。
特に変化が激しい現代社会においては、自分が最適だと思っている選択が陳腐化しやすい。
自分の思考の幅を広げながら柔軟に生活するには、受動的な決断に身を委ねることも必要なんではないかと思う。
このように、これら二つの要因から能動的に意思決定することが必ずしも有効とは限らないと思う。
確かに決断の回数が人を成長させることは一理ある。
しかし、その決断が豊かな人生につながるほどシンプルではない。
私の周りを見回してみると、自分で意思決定をしたいとロマンを追い求める人ほど社会に出てから思い悩むことが多いし離職率も高いように思う。「自分の本当にやりたいことは別にあるんじゃないか?」など答えのでない問いを繰り返す傾向がある。
逆に自分の意志が反映されない環境・状況であっても、これが現実と割り切って粛々と実務をこなすタイプの方が長続きするし周囲からの評価も上がり豊かな生活を送っていることが多い。
環境を変えるより自分自身を変えることの方が簡単だし効果的だ。
まとめると、偶然や不確定性を受け入れ、自分ではどうすることもできない残酷な運命に翻弄されながらも、それを楽しむ度量が必要なんじゃないだろうか。
そりゃ男に得なんかあるわけねえだろ、ああいうのは全部女の都合なんだから
好みの男にだけは積極的に言い寄ってほしくて、好みじゃない男の好意はシャットアウトする
その上で男のスケベ根性だけは今まで通り利用したいってこと
そして同意を取りましょうねっていうのは、要は生殺与奪権よこせってことだろ
あんなのいちいち聞いてたら気持ち悪くて恋愛なんかとても成立しねえよ
好みの男にだけルール違反を許して、あとは踏み込み次第皆殺しにしたいってこと
それ以外いったいどういう意味なんだよ
発達障害の傾向があるけど厳密には認定されないんですね。グレーゾンの人にはグレーゾーンの苦しみがあると思います。
そんなに手帳を貰うことを重く受け止めないでください。目が悪い人に眼鏡を出す眼科とそんなに変わんないよって知り合いの医師が言ってました。
手帳と眼鏡がそんなに変わらないものだって、素敵な考え方だなぁと思いました。
教えてくれてありがとうございます。