ニコニコ神社っていうユーザが画面の向こう側から参拝者にコメントをするという形式の神社
発想それ自体はどうという程でもないのだけれど
もしかして有史以来初めて人間が本当の神社を作った瞬間なのかもとふと思った
そういうチラ裏
異議は認める
2011823追記
もし仮にそうやって集合的無意識を神様として見立てるならばの話。
祀られる側に集まってる人間が“異常に優しい”
それほど可愛くもない女の子でもブスなんて文字は滅多に踊らない
不細工な男で多少うざくてもわりと大らかに受け入れている
本来ならばネットに顔を晒すような人間を馬鹿にするメンタリティーの人々とは思えないくらいにだ
荒霊や和魂的な神道信仰において祀られると魔王が強力な神になる理屈に
そのまま今回のネットの中の集合的無意識が当てはまるかもと思った
言わば、気に触ることをしただけ、もしくは触れただけで祟り殺される荒御霊は
無秩序な状態では鬼女やらなんやらになり、
一度ああやって祀られると来たものを祝福する和魂状態へなったりして
わりと興味深いかもしれない。
神様ってそう考えるとそんな感じなのかもね
現実だろ
小学校中学校なんかのちゃっちぃつながりなんかより実利に富む大学以降の交友関係が大事であるように、
勉強もせず遊んでばかりいる低能クラスタは頭が使えないガテン系で群れる
元増田は前者を志向していたが、懐疑心もなく無思考無批判に人の話を受け入れて馬鹿になって後者になった
実際前者は疑いの目を隠そうともしない。
いいかい、君。
疑わしきは罰していいんだよ。
推定有罪じゃないと社会は綺麗にならない。
冤罪?いいんじゃないか、性犯罪者予備軍は行為に及ぶ前に駆除すべきだ。
すっげw 2chで見たことあるキチガイニートどもに 誰かに見立ててなんか言われてるwww これが噂のはてなニートの最底辺か。 こうやってニートは自滅していくんだねw
http://anond.hatelabo.jp/20110709123151
http://anond.hatelabo.jp/20110716093416
組織的なセルフブクマは、現実の序列を越えて、注目される存在になろうとする手段。
はてぶで、組織的なセルフブックマークを繰り返すとはてぶスパムになるし、インターネット全体で組織的なリンクの受け渡しをするのも微妙だよね。
はてぶを作ったときの想定としては、インターネットは一人でするもの、友達の影響を受けるかもしれないけど、同じ感性で共感できたから面白いので、ブクマとだれかの感性をフィルターしたものとして、1ブクマだった。
仲良しグループ、有名になりたい会社などで、共感フィルターを通さずに継続的に一定数以上のブクマがされる状況って、はてぶの機能としての限界だったのかもしれない。
ソーシャルな流れで、自分と感性のあったブックマーカーをさがすといいと言われている。その人ブックマークを参考にすれば、共感できていないものはフィルターをすり抜けない。特定の人のブックマークを差し引く機能とかグルーピングランキング機能とかをはてなさんなら実装しそうな気もする。
統計的な路線から人を媒介とした路線に移ろうとしているのだろうけど、もともと、人為的なサクラ行為を越えた、おもしろいものやムーブメントを探すための統計的技術だったはずだった。
けれども、そんなにおもしろいものは日常の中にはなかったのかもしれない。
10年以上前のインターネットだったら、たとえば、「ニセ首相官邸」なんていうわかりやすいニセものパロディサイトがあったとしても、検索上位に存在できたけど、今となっては、Googleのフィルタリングで、そもそもにせものは検索結果の最下位に甘んじるしかないのだろう。
当時は、Googleで、表示されなくてもYahooもあったし、Altavistaだの、東芝のFleshEye、NTTのGoo、千里眼とかいろいろと検索サイトを選択する余地があったので、まだよかったのかもしれない。検索サイトごとにルールや規約がちがっていて、別の序列が表示されたからだ。
現実社会とは別の序列が存在したころは、インターネットはフロンティアだった。現実社会とインターネットの序列が同じになったとき、わざわざインターネットでヒマをつぶそうと思うひとはなくなるのではないだろうか。
某国産携帯向けSNSで、会社の社長に会ったら、すっごいゴージャスなアバターでベンツに乗って女の子たちにちやほやされてたとしたら、それでも平社員の増田クンは、某国産携帯向けSNSに遊びにいくのか。
インターネット上で正体がわからないけどおもしろいものが存在できないようになってくると、組織的なセルフブックマークをしている個人も組織も現実の序列の中に戻っていくしかなくるのかもしれない。そんな人や会社が現実にもどってみると、普通の地域情報紙だったり、しがないライターだったりするのかもしれない。組織的なセルフブクマは過渡的なもので、世界中の情報がすべてインデックスされてしまっときには、意味をなさないものになっているのかもしれない。
Electronic tongue - Wikipedia, the free encyclopedia
Amazon.co.jp: 美味しさを測る―舌を超えた驚異の味センサ (ブルーバックス): 都甲 潔, 山藤 馨: 本
Amazon.co.jp: 味覚を科学する (角川選書): 都甲 潔: 本
Amazon.co.jp: 旨いメシには理由(わけ)がある―味覚に関する科学的検証 (角川oneテーマ21): 都甲 潔, 小島 武: 本
Amazon.co.jp: プリンに醤油でウニになる 味覚センサーが解明した仰天の食の謎 (サイエンス・アイ新書 33): 都甲 潔: 本
こういっている連中は、本気で子供たちに未来があると考えているのだろうか?
「子供たちに負担を」といってる時点で現実の問題から逃げています。
言い換えると、「子供たち」というキーワードを用いて、「放射能が怖い」とかを主張するだけで
現実に起きている問題は、かねてからの円高に加えて、電力不足。
節電すればいいと考えるのは個人レベルであって、企業レベルになると売上に直結するため、そうはいきません。
海外に行けばもっと安く作れるのに、わざわざ日本に留まる理由はないでしょう。
日本の電力は世界で一番安定供給が出来ていることで有名でしたが、今回の地震と度重なる原発停止で崩れてしまいました。
ピーク電力を避けて生産すればいいという発想はあまりに身勝手です。
例えば、半導体生産などは、常時安定した電力でないと品質にダイレクトに響きます。
停電している間にクリーンルームにゴミが入ってきたりとか、生産を止めている間に下がった熱を加熱しなければならないとか、
運転停止中に真空度が下がるとか。
で、大抵の人は大抵こう言います:
・工夫で乗り切る
無駄がないかとか考えることは、たしかに大事なことですが、ここで語るべきことではありません。
「子供たちに残す未来」とは、「みんなが苦しいから自分も苦しくていい」という未来だったんですか?
「苦しさはみんなで分かち合えばいい」というのは、復興するときだけで十分です。
本来は、「楽しさをみんなで分かち合う」です。それ以外はただの我慢大会でしかありません。
いずれにせよ、こういった精神論で物事が解決すると考えるほど世の中甘くありません。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」を実際にやったら火傷をします。
気合で、飛んでくるミサイルを防ぐことはできません。(かつての日本軍)
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20110716/1310803436
結としては、ツールの報道が少なすぎてイラつくのはわかるけど、報道枠の問題と感情移入して応援することとそれを他人にも押し付けることとは区別したほうがいいと思いました、て感じで。
で検索をかけたら、ヤフー知恵袋の質問がトップに出たので見てみた。
きっと「健康」とか「家族」とかそういう回答が多いんだろうなと思ったら、案の定そうだった。
でもその中に、
誠実な人柄と、人間関係。
笑いとユーモア。
という回答があった。
お金より大切なものは?という質問に対してこの答えを書いた投稿者はきっと純粋にいい人なんだろうな。
とてもいい回答だと思った。
2ヶ月近く前のはなし。
薬局に行ったんだけど、そのレジの行列の作り方が、複数のレジに対して1列に並んで、開いたところへ進んでいくスタイルだったのね。
おばあちゃんがやって来たんだけど、並び方を示した看板に気付かず、直接レジの後ろに並んじゃった。
男の子も特に気にする様子もなく、私も別に急いでるわけじゃないからいいやって思ってた。
おばあちゃんの番が来たところで、店員さんが「列の後ろにお並びください」と。。
おばあちゃんはすごく恐縮そうに男の子に「割り込んでしまってごめんなさいね」って謝ってた。
男の子は「いいですよー」ってレジを譲ったんだけど、おばあちゃんは「いいのよー先に並んでたんだから申し訳ないわ」って。
そして、彼の後ろに並んでた私にも同じように頭を下げた。
おばあちゃんは結構な年だったし、持ってる品数も少なかったし、もう祖母のいない自分はとにかくおばあちゃんに優しくしてあげたくて、
「急いでないのでお先にどうぞ」と言ったんだけど、おばあちゃんは「いいのよいいのよ」って。。
譲りあってるうちに2つのレジが空き、男の子はレジへ、私とおばあちゃんが残り一つのレジを譲り合う形に。
そしたらおばあちゃんは「いいのよいいのよ、私なんて何もないんだから。さぁさぁ…」とか言って、私の手を握ってレジに誘導してくれた。
「私なんて何もないんだから」って言葉がすごく寂しかったのと、(おうちで邪見にされてたらどうしようって思った)
10年ぶりぐらいにご老人の手に触れて、なんか涙が出そうだった。
祖母にもっと優しくしてあげればよかったとか、このおばあちゃんもみんなから大切にされますようにとか、いろんな思いがこみ上げてしまって。。
結局私が先に会計を済ませお店を出たけど、1日中思い出すたびに涙が出そうでやばかった。
文章にすると全然たいしたことない感じになっちゃうけど、なんか自分にとってはすごく印象的な出来事。
祖母にできなかったぶん、街にいるお年寄りに優しくしてあげたいなあ。。
おばあちゃんが手を握ってくれたことで、祖母からもらった愛が一気によみがえってきた気がする。
おばあちゃんありがとう。
潰れろ