はてなキーワード: ルソーとは
うん。「右翼が」というわけではなくて、「ロマン主義的な思想というか心情が」という事だと思う。だからそういう風に書いた。
ただ、日本で「右翼」というと何故かロマンチックな心情に酔ってるみたいな人たちを指す場合が多いので、どうしても話がそちらに寄りがちだとは思う。(個人的にはガチガチの現実主義者だって右側にはいるのだから右翼という言葉にあまり限定的なニュアンスを込めてしまうのもどうかと思うんだけど、その辺は最近は「右派」という言葉に担わせるのが流行りなのかも知れない。)
なお、左翼がロマン主義的なのは昔からのことだと思うよ。特に最初は理想を夢見ることから始まった啓蒙主義の流れにあるわけだから。(「夢想家」ルソーだの「空想家」サンシモンだの、、)
anond:20211104134014 に予想外に反応をいただいたので返しておきます。
「Aという主張をしている人は、Bという主張もする」は、Bと主張をしている文書への指摘じゃなければ、「書かれていないことを読み取っている」だよ。
この記述を読むと、筆者氏は「はてブコメントには、文書への指摘か、コメント者が文書から読み取ったことだけが書かれている」という前提をお持ちのように見えますね。ですが、少なくとも私はそのような使い方をしておりません。私にとっては、はてブコメントは、記事を読んで思ったことや連想したことを好きにメモしておく欄です。間違っても、元記事の読解テストの解答欄ではありません。元記事にないことをコメントしているというご指摘であれば全くその通りですが、読み取った結果書いたものかと問われればそれは明確に違います。そして、元記事にないことをコメントしているという点については、「私は、はてブコメントに、元記事が直接言及していないことを自分の思考の結果として書くことがよくあります」というだけです。Twitterに例えるなら、リプライというよりは引用RTとしての使い方をしている、というと分かりやすいでしょうか。
それはそれとして、追記部分以外の元記事の論旨には基本的に賛成なのですよ、文章を最初に読む際に持つべきマインドセットとしては。その点はお間違いなきよう。
正直済まんかった。ここで「書いていないことを読み取る」ないし「書かれていることを読み取れない」事案が発生したら面白いかも知れない、と仄かに思ったことそれ自体は否定しきれないので、その点について「性格が悪い」とするご指摘は甘受します。
一応言い訳させてもらうと、断定調は当然として「しばしば」すら避けて「時がある」としたことで、全称命題と解釈されたくないという意図は強く明示できただろう、という認識でおりました。特にわかりにくく書いた意図はありません。
一応固定されてるのは党派性よりは価値観でありたいと思っていて、価値観としては、自由・平等・博愛・公正辺りを大事にしているつもりです。
経済学理論だとクルーグマンは読んでいるが資本論はきちんと読んでおらず、容共ではあるものの共産主義というより改良主義的立ち位置なので、これを左翼と呼んでしまうとガチな人とか本職の人に怒られそうです。特にフランス大革命関連人物の最推しがラファイエットだったりするあたり。
ロックよりルソーの方が好きだったりとかで保守というよりリベラルなのは間違いないし、再分配は今より強めるべきとも思っているので、左派に類するのは間違いないと思うのですけれども。
みっともないが自説を貼っておく。これを指摘しては争いになり、どこに行っても相手にされない。
代議制民主主義の投票は、実効的側面があるアンケートの一種だ。そのアンケート結果によって、例えば人気投票だったらそのキャラや人のグッズが出たり、何かの選択肢が変わったりする、そういうアンケートの一種だと考えることができる。
人々は、いや私は、そういうアンケートに答える時には、自分の中で戯れだと考えている。ある程度以上のサンプル数があれば、一票が結果に影響を与えることは無くなり、つまりアンケートとして確かなものになるので、自分の一票が結果に影響を与えると考えると、不合理になってしまうからだ。
1票が持つ実効的な意味だけに着目すると、1票差で結果が決まる確率の最大値は、投票総数が「N×2 + 1」の時、参加者のそれぞれが候補者A・Bに2分の1の確率で投票する時に確率が最大になるとして、「1 / √(N×π)」という結果になるらしい。計算過程としては、最初の半分が一方に、それ以降がもう一方に投票する場合が「2のN乗分の1」で、しかし半々になるのはそれ一通りで無く何通りもあるので、スターリングの公式だとかでそうなるらしい。
有権者の数が40万1人の場合は、「1/√(200000×3.14)」で「0.00126188616」。792回やって1回という確率らしい、「√(200000×3.14)」で出せるみたいだけど。
これを多いと考えるか少ないと考えるかは、その人によるかもしれない。皆が完全にどちらでも良いと考えている時に、千年以上に一度の確率で1票差で右か左の候補者に勝たせるために、投票に行く。しかしおそらく、多くの人間はそのように考えて投票に行っているわけでは無いだろう。
1票が持つアンケートとしての意味だけに着目すると、事態はもっと悪くなり、一票差で勝ったり負けたりした所で、偶然だと考えなければ非合理になってしまう。つまり何が起こっても意味が無いことが最初から約束されてしまう。
しかし読者はこう考えるのではないだろうか、つまりしかし確かに投票結果が政治に影響を与えており、私は少なくともその一億分の一だけは結果に影響を与えているのだ、と。
一票には意味があるのか、それとも一票には意味が無いのか。私の考えでは、これは視点のスケールの問題で、視点のスケールを変えれば意味があるとも言えるし、無いとも言える。
自分一人のスケールで考えると、たとえ全体の目的のことを考えたとしても、投票には意味が無い。統計的に誤差なのだから、意味が無いと考えるべきだ。
しかし全体のスケールで考えると、その中のパーツやサンプルとして、投票には意味があると言える。確かに因果関係の中に存在しているのだから、意味がある。
代議制民主主義は、全体の目的では無く、その全体の視点によって成立している。あるいは、そもそもその全体の視点がルソーの一般意思なのかもしれない。
弱者を救うのが政治だよ、という定義を勝手に使っているけど、必ずしもそうではないぞ。
お前は、一般意思と多数決は別だぞ、というルソー流の考えを採用したうえで、
弱者を救うことは全体の利益だ、というロールズ流の正義を導入している。
でもそれは、まずルソーの民主主義を採用したうえでもやはり一般意思と多数決は多くの場合一致すると考えられるし
あとロールズは正義について述べたのであって、政治的正解について述べたわけじゃない。必ずしも望ましいとは限らない。社会全体を救うためなら弱者を見捨てることだって政治はするし、するべきだって考えもあるわ。例えば国家が戦争をすべきときっていうのは、やはりあるしね。
よく山へつれていく父親だった。理由を聞いたらルソーの教育論を読んで自然が大切だと思ったと語っていた。
母に山よりも図書館へ行きたいと言った。図書館にもよく連れていかれるようなった。私の地元はいろいろと活発な地域だ。財政もそれほど悪くない。
観光にも力を入れている一方で教育にも力を入れている。立派な図書館がある。清潔で比較的新しい建築物で3階にはレストランもある。
同じ日に生まれた同年齢のいとこがいる。私の母親たちは私たちのことを競わせた。ベネッセの通信教育を早めに導入した理由だろう。
どちらの子供がより優秀かと張り合っている空気があった。これが私が勉強ができた本当の秘密だろうか。
強欲な宝石商と鉄鉱を扱う絵心のある職人、それが私の母方の祖父母である。母方の祖父母は芸術に関した仕事を行っていたため、収入が安定せずに母親は若い頃に苦労をしたらしい。
大学には行かず、バイトをしながら自分で弁当を作り、高校を出たあとですぐに就職し、職場結婚する。その後、バブルは崩壊。キャリアもなかったので非正規で働かざるを得なくなる。
結婚した相手が問題だ。酒を飲むとよく口が回る女好きの地主の子供。常識を身に着けた今、聞くだけでダメな人間だと分かる。
農家から身売り同然に嫁に来た祖母は閉鎖された世界で暇を持て余し、このダメな息子が可愛くて仕方がない様子。猫可愛がりしていた。
父親のほうでも老婆を労わるマザコン具合をみればその愛情が決して一方的なものではないと分かる。
彼彼女の人間に対する親愛の情の深さを考えれば私にもその血が流れていることを感じる。
幾分、奇特な経験が不運にも繰り返されたおかげで私のその遺伝的情愛が生身の人間に向くことはほぼないが、その分、博愛として万人に降り注ぐ。
薄い、薄い情念として、まるで自分にも相手にも無に感じられるような薄くなった博愛だけが私には残った。
父は胃がんになった。将来にとっておいた学費を医療費にまわしてもいいかときかれた。
私が当時、大学の重要性を理解していたかどうかは分からない。何しろ小学生のときの話だ。
私は特別に父親を好いてもいなかった。しかし、人間として、人の命がかかっていると聞いて私は何を躊躇うことがあるのかと思ったようだ。
実際のところ何百万という貯金はごくごく自然に医療費に回されたのだから。何の抵抗もなく。私の反抗もなく。
結局のところ私には大学に行く金はなかったのだ。だからこそ県で一番の高校へ行っても意味がなかった。
私の才能は天に愛されなかった。
食事や呼吸などエレメントの消費を否定してしまうと、生物そのものが悪ということになる。
そうなると「生態系」がそもそも悪の存在になるので、生命は全て滅ぶべきであるとなる。
生命が悪なのであれば動植物を根絶やしにすることが正義で、そのための方法としてベースとなる「環境」を破壊する必要がある。
現状の地球で「環境」を破壊し得るのは人類のみなので、人類はメシアであると言える。
実は論の展開が間違いで生態系を是とすることが本来の意図ならば、エレメントの消費は正当であることにすることになり、問題は消費の仕方となる。
動植物のおこなう消費を是と仮定する場合、人類がとるべきは死滅でなく、
・生態系の一部として「自然に帰る」(ルソーの言うものでなく、文字通り文明文化の放棄)
・完全に浪費/消耗のない完全環境を構築する
のどちらかとなる。
ちんこが好きだ。
ああいや、お前の股にぶら下がっているそれじゃない。すまないが、汚いからさっさとしまってくれ。
東京ちんこ倶楽部というTwitterアカウントがある。
僕はそのアカウントが好きで、随分前からフォローして、遠くから眺めてコンテンツとして消費させていただいている。
しかし、彼がコンテンツとして面白いのは、その裏に、人間としての苦しみ、それも、他の人間よりも苦しみ、悩み、不条理な苦さを感じ尽くした、そういう苦しみがあるからだ。
僕のような、ふらふらと生きている人間よりも、彼のコンテンツの方が面白いのは、彼のそういった経験的背景があるからに他ならない。
ただ、痛みは共有できないものだ。アーレントもそう言っているだろう。
彼の、表に現れた痛みは、イロニーとなって、まさにこのグローバル資本主義社会と日本的経営の融合物としてのブラック企業におけるスローガン「圧倒的成長」というフレーズを通して、表象=再現前化された。
しかし、それは彼の痛みではない。彼の痛みを表象=再現前化することによってコンテンツ化され、一般化されたものであって、彼の痛みそのものではない。
「圧倒的成長」
彼の生み出すコンテンツは楽しい。しかしそれは、それをコンテンツとして享受することが許される限りのことである。
彼は、その痛みの中で、しかしなお苦しみ続けている。
僕はそれを、コンテンツとして楽しんでいる、いるがしかし、苦しい。
繰り返すが、「痛み」は個人的なものであり、共有できないものだ。
「憐憫」も「共感」も、それを人々の社会、こう言って良ければ「類的存在」としての我々を、所与としてではなく、帰納的に成立せしめるところの作用ではあるけれども、
しかしながら、それが個人そのものの、内的な連関にまで届くわけではない。
ならば、僕の苦しさは、むしろ他人の不幸をコンテンツとして楽しんでいるという現実にあり、(しかし芸術というのは、ゴッホにせよ金子みすゞにせよ、やはり不幸を源泉にしている場合が多いのだが、)人の不幸を享楽する自分というものが受け入れられなくて苦しいのだろう、この偽善者め。
と、言ってしまえばそれまでかもしれないが、やはり僕は、単にそうはいえない。
僕は、案じている。
あるコンテンツとしてのイロニーという、一つの優れた作品を通じて知った、その先にいる人を、僕は案じている。
彼は、外から見て、明らかに容易ならざる状況にあると思われる。
そして、そういった状況に陥った多くの知り合いは、その、最後には、(最後にはというのは寿命でということではなくて、)究極の選択をすることが多かった。
それこそ、「ツバメのように」。
いや、しかしこうやって、僕がここに書くことすら、単に僕の享楽であり、それは彼には関係のないことだ。
いや、そうなんだけれども。
じゃあお前は何ができるんだ、金か、体か、法か、などと言われたとしても、僕は何もできない。
だから、単に案じている。
案じていることを、ここに念の為、あくまで念の為、書き記しておく。
それだけのことだ。
僕にできることは、何もない。
いずれにしても、風は吹くのだから。