はてなキーワード: 「あいつら」とは
年寄りにありそうな保守的な意見(「けしからん!」とか言うタイプ)と
インターネットに居そうな法を犯したり迷惑をかけない分には自由だろっていう若者的意見が混在してて
自分が賢いと思ってるからか罵り合うことはせずなぜか共存してる
あと、自分が後者だと思ってるくせにたまに前者みたいな保守的なPTAや姑みたいな事言い出す人とか(たぶん良いこと言おうとしてる)
どっちが良いという訳では無いが、大体サービスにおいてはどっちかに偏るので、両者が半々で指示されてる記事を見るとおもろいというか
ちなみに5chは後者よりも更に露悪的な「法を犯そうが面白ければOK」みたいな人とか、全部が皮肉であってスタンスはない人とか、揚げ足を取ることしか考えてない人とか色んな人居るが
はてな界隈ではとりあえずルールははみ出したら袋叩きにするという村的な空気があるのであまりはみ出したことを言う人は居ない気がする、論破すれば良いだけの人を見下してるというか
まあはてな村とはよく言ったもんだ
色んな人が居るという意味でね
サービスの住人ってもっと色がつくから村というより「あいつら」なんだよね
はてなは「あそこの人たち」が近い
生きづらい人たちが正しさに依存するんだろうね。
絶対に正しいことに従っていれば、間違っているのは、悪いのは、みんな「あいつら」だから自分は悪くない。生きづらくても、自分は正しいということを軸にすれば生きていられる。
そう思っていた時期があった。だから絶対に正しいことを探した。
私の頃はまだネットがなかったから宇宙物理の本を読んだりとかして、そういう方向で絶対に正しいものを探した。
でも、いつからかな。自分を許せるようになった。正しくない自分でも生きてていいって思えるようになった。
それから、生きづらさはなりを潜めて普通に息ができる生活が送れるようになった。
だけど、それは私が絶対に正しいことを探していた時にネットがなかったからそういう道を見つけられただけで、今はネット上に「絶対に正しい顔をしているもの」がたくさん溢れてるから、もし生まれるのがあと20年遅かったら、その絶対に正しい顔をしているものに依存してしまって、自分は正しいから生きていていいっていう間違った自己承認から逃げられない人生を送ったと思う。
私は正しくなくても生きていていい。もちろん正しくない他の人だって生きていていい。
だけど、自己肯定感が欠落してて自分が生きるのに理由が必要でその理由に自分は正しい価値観を持っているから、なんてのを選んでしまったら、当然自分が間違えることを認められないし、「間違えてる」他人は許せないし、それで攻撃的になるんだよね。
リベラルでも暇アノンでも、他人に対して攻撃的な人ってのは悲しい循環論法を持ってて、自分は正しい、だから自分と考えが違うあいつは間違ってる、間違ってるあいつを叩きのめす自分は正しい、みたいな感じで他人への攻撃が終わらない。
そこから降りる道はただ一つ、自分は間違えることもあるし、間違えても別にいい、ってことを認めるだけなんだけど、でも親でも恋人でもいいから他の人から「無条件の承認」を受けたことのない人はどうしても生きるのに理由が必要になっちゃって、それに正しさを選んじゃうことは修羅の道なんだけど、人って性善説で出来てるから正しく生きようとかって容易に思ってしまう。
私は正しくなくても生きてていい。あなただって正しくなくとも生きてていい。
正しさを盾にして身を守っている人に、この言葉が届けばいいなって思う。
最近だと理系学部に女性が少ない問題に関してもそうだし、りゅうちぇるの件だってそうだ。
それらの問題を語る奴らはみんな口を揃えて言う。
「自分以外の何か」が悪いと。
本当にそうなのか?
非モテユーモアみたいな風潮が女性を理系学部で過ごしにくくさせてると言うなら
特に沢山の男性差別エントリ・ブックマークで生まれているはてなでさぁ!
りゅうちぇるの件…あの人が生きるのに辛さを感じるネット世論に
トランスジェンダー含む多様な性のあり方に対して無理解なコメントがはてなでどれだけ生まれてきた?
(言っておくが増田で問題提起してる人達の事も言ってるんだよ。自分は本当に悪くない側なのかい?)
そういう事情がある事なんて無視して皆平気で「自分ではないあいつら」は問題だって言えるんだ
何でそこで「私達が」問題なのかもしれないと言えないんだ
「そんな事言ってるお前はどうなんだ?」って言うやつもいるだろう
最近は自分ははてなブックマークのコメントはあんまり書かないようになったしスターもしていない
要約:悪いのは「あいつら」のせい!私達は悪くない!
それを外野の視点から「あの人ら主張は全然噛みあってないけど、オタクのお色気を社会から排除するために連帯してるんだな」って認識してしまう事って、そんなにおかしい?
それは全然おかしくないよ。でもな、主張が噛み合ってない人達があるイシューについて意見を同じくしてるときに、ただその事実をもってその全体を「嘘つき」と呼ぶのは完全におかしいんだよ。
敵認定した相手にだけ「嘘つく」の適用基準がガバガバすぎるダブルスタンダードを批判されてるのに、何が「『表現規制派』という括りが適切に思える程度には連帯してるよね?」だよ。
いいか、お前の言ってることはこういうことだよ。
①「あいつら」は『表現規制派』という括りが適切に思える程度には連帯してる
これ、端的に言ってクラスの底辺に2〜3人いるバカの言い分じゃん。お前、よくそんなんでこれまで他人の国語力を云々してきたよな。大丈夫か? メモリーのストック尽きてるのか?
言い方って大事だよ
何かに抗議するにしても、もしも温和な方法で解決できれば余計な争いが生まれない気がするのだけど
まあわかる、トーンポリシングを問題にするときの理由の一つに「温和な言い方では黙殺される」というものがある
「毎回同じ人に名指しで抗議しているわけじゃないでしょう?」ということを言いたい
そりゃ言う側は毎度毎度「あいつら」に対して「何度同じことを言わせるんだよ!」と思っているかもしれないのだが
言われた側は名指しで指摘されるのは初めてかもしれない
言う側は何度も言ってきたことでうんざりしているってのもとてもよく共感できるんだが……
名指しで言われた側が「ああそうか、確かにご指摘の通りまずかった」となる可能性はあるだろうと
言う側としては名指しで抗議される前に襟を正せと思うかもしれない
だがこうも思う、「いつまで大声を上げなければいけないんだろう」と
遠くない未来に「もう黙殺されることは少なくなったのに、あの人はいつまでたっても過激な抗議の仕方をやめないんだな」となるかもしれないと想像する
うん。両方「あいつら」になった瞬間だったわ
「セクシュアリティ研究を専門とする大学教授(異性愛者)」と「高卒の同性愛者」では、どちらがよりLGBTに詳しいか?
とか、
「英語研究を専門とする言語学者(日本語ネイティブ)」と「英語ネイティブの高校生」では、どちらがより英語に詳しいか?
とか、そういう下らない問いに一言で答えられると思ってる人が多すぎるんじゃないだろうか。
学問的な結論として認められうるエビデンスとしては全く不十分でも、当事者のナラティブとしては価値があるという話は往々にしてあるわけで。
※具体的な事例を思い浮かべた時に「俺ら」と「あいつら」の立ち位置が固定されてしまうなら、逆の立場として当てはまる事象はないか見つかるまで探してくださいね。必ずあるので。
私が小学生時代を過ごした土地は、所謂ニュータウン。街がつくられる時にそのまま居着いたブルーカラーの家と、ベッドタウンとしていついたホワイトカラーの家が、住んでいる地域でわかるような土地柄だった。
とてもではないが治安がいいとは言えない街。小学生が放火をし、中学生が喫煙し、高校生がバイクで走り抜ける街だ。某児童売春斡旋組織事件発覚の発端となった小学生もうちの地元出身だった。
私の家は紛うことなきホワイトカラー一家だ。元ボンボン・サラリーマンの父と江戸っ子の母の間で、歳をとってから出来た一人娘として、それなりに大切に育てられた。世帯収入は高くも低くもなく、他に兄弟姉妹がいれば私立に行くのは許されなかっただろうレベルだ。しかし女子校に入れたいという父親たっての希望で、私の中学受験は私が園児の時に既に決められていたことだった。
そうは言っても、その受験計画は実にのんびりしたものだった。目的はあくまで「公立中学校に行かないこと」。小学校一年生から塾に行くような子もいる中で、私の中学受験は小学校四年生から始まった。それもSAPIXや日能研といった進学塾ではなく、まったりとした中堅の塾。10人に満たない同級生たちと、地元の中堅私立を目指す予定だった。
しかし、それでも学校の教員からの敵意からは逃れられなかった。
彼らは常にブルーカラーの子供たちの味方だった。ブルーカラーの子供たちはまさにギャングエイジといった風体で、私の学年は4年生になる頃にはすっかり学級崩壊に陥っていた。
そんな状況の中で、私のような「恵まれた家庭」の子供は、彼らを「根性論で更生させる」ための必要悪にするのに適していた。ホロコーストと一緒。共通の敵をつくることで、教員たちは彼らと連携をとろうとしていた。
まずは保護者会で、担任の教師が「私は中学受験と塾が嫌いです」と言い放つところからスタート。この言葉はあっという間に子供たちにも伝わった。小学生にとって、それがどんな不良小学生だったとしても、「先生の言葉は絶対」だ。「先生が悪いと言った」子は、いじめたっていいのだ。
休み時間に円周率の計算暗記表を見ていたら、担任にそれを取り上げられ、クラスメイトの前で激昂された。帰りの会で黒板の前に立たされ、「私は学校で塾の勉強をしました。本当にごめんなさい」と謝らせられた。それを皮切りに、ブルーカラーの子供たちからのいじめが始まった。
帰り道で待ち伏せされる。容姿についての罵倒や、時には両親への悪口もあった。ある時はマフラーで首を絞めあげられた。子供の力なので大事には至らなかったが、笑い声のなか、酸欠で頭がぼうっとしてきたことは覚えている。
「先生の言うことは絶対」。これは私にも有効だった。だから私は、自分は悪い小学生なのだと思い込んだ。
おうちが貧乏で、ちょっと不良みたいで、勉強は嫌いで、でも、中休みになったら一番最初に校庭に出てドッジボールを始める。そんな生徒が、「良い小学生」なのだ。クラスメイトたちが音楽室に立てこもって授業をボイコットしていた時、私は大人しく教室で待っていた。でも先生が好きなのは「仲間意識の強い」彼らなのだ。
悪い小学生なのだから、虐められて当然なのだ。そう思った私は、繰り返されるいじめを誰にも相談出来なかった。
また、これは本当は幸運と言えるのだが、殊にこの場合にのみ不運と言える、両親の誤算があった。私の成績だ。
私はどうやら「出来る子」に分類される子供だったらしい。入った中堅塾ではあっという間にトップに立ち、テストも満点以外とれなくなった。ここまで来ると両親にも欲が出てきたようで、私はバスで通える範囲に出来たS某超進学塾に通うようになった。そこでも女子ではトップの成績で、あれよあれよという間に御三家を目指すことになっていた。小学生にとっての成功体験は、その子の人格形成において重要だ。私は勉強するのが楽しかった。そもそも運動は嫌いで、中休みも図書館にいるような子供だった。かけっこしか見てくれない小学校の教員たちとは違って、塾の先生は私の「勉強の」成績を褒めてくれた。後は好循環だ。持って生まれたメンタルの弱さで、模試の前に嘔吐するようなこともあったが、私の中学受験は大方順調だった。
一方小学校生活は、ぼろぼろのメタメタだった。私の通塾先が変わったことがどこからか漏れ出て、「エリート意識を持った嫌な奴」の烙印を押された。低学年までは仲良くしていた子達も、私のことを大腸菌呼ばわりするようになった。
担任が、わかりやすく私に嫌がらせをするようになったせいだった。授業中に指されて答えても、「どうせ塾でやったんでしょうね」。覚えもないいじめ事件の首謀者にも仕立て上げられた。
だんだんと体調にも影響が出るようになっていた。学校に行く前に必ず吐いた。食道は焼けただれ、小学校5年生の冬には胃薬が手放せない体になっていた。
真面目な気質のせいで、私はそれでも学校に行くのをやめられなかった。親も流石に勘付き、担任に嘆願書を出した。しかしそれも虚しく、担任は私にその嘆願書を叩きつけ、「どうしてあたしがいじめなんて言われなきゃいけないんだよ!!」と私を怒鳴りつけた。
別の小学校に越境入学しようと思ったこともあった。別の中学受験をする同級生が、そそくさと学校を変えてしまったからだ。実際両親はその準備もしていた。しかし、自分の学校に問題があることが外部に晒されることを恐れてか、校長はそれに難色を示し、「○○ちゃんだって仲良しと離れたくないでしょ」と、結局その小学校から離れることは叶わなかった。
私の小学校時代は闇だ。小学生5年生の学芸会の劇で、悪役の親分のオーディションに受かったら、自分の母親と隣のクラスの教員が寝ていると噂されたこともある。最高学年になる頃には、私は両親と塾の教師以外の大人を信じられなくなっていた。
話は飛んで、中学受験の結果から言うと、私は第一志望には落ち、第二志望の女子校に通うことになった。そこは天国だった。私が休み時間に勉強していても、誰も怒らないし、誰も馬鹿にしなかった。正直それだけで救われたし、良き友人にも多く恵まれた。そして高校生活を経て、今私は東京大学に通っている。
もし父親に先見の明がなかったか、私が過度のストレスで受験全滅していたことを考えると、今でも寒気がする。
数年前の東大の入学式の祝辞は、ノブレス・オブリージュについての話だった。私も上野先生の意見に大方は同意する。しかし私は、もし「恵まれた人間」として支えなければいけないのが「あいつら」なのだとしたら、それは吐き気を催す話だと思う。
エリートが冷たいなんていうのは嘘だ。いや、もしかしたら真実な場合もあるかもしれない。でも、そんな言説よりずっと、「学のない連中は残酷で野卑だ」という言説が本当だと言うことを、私は知っている。