はてなキーワード: 自己肯定感とは
そんなにしてかまってもらいたいだなんて、可愛そうなやつだな
ネガティブな罵倒でもなんでもいいからと、自己承認欲求をまきちらしておいて、自己肯定に他者も他者の承認も必要ないなんて主張するのは滑稽すぎるだろ
水掛け論にしてまで誰かに反応してもらおうという浅はかさこそが、自己肯定にも自己肯定感にも他者が必要であり、他者からの自己の承認なくして人間は生きていけないと言うことを表してるよ。
他の増田とかと相手を同一認定したり同一視するのって病気だからやめな
過去の増田でのやり取りとか、お前がどんなやり取りしたかとか何見たかなんかしらんし
まず「自己肯定感」とはなんたるかを定義せずにおのおの勝手気ままにあーだこーだ言い捨てるだけのいつもの風景なんなの?!って感じですわね。みんなが想定してるソレ、本当に自己肯定感なんですかね?全然違うかもしれませんよ?いや実際違うんでしょう。
なんだかフワフワぽわーんとしながら突き進んだ先に一体何があるんだろうか?いやまあ恐らくそういうので右往左往してる子羊を食い物にしようとしてる禄でもない輩に骨の髄までしゃぶられてポイなんですわポイ。
自己肯定感が強い=有能では無い
自己肯定感は魔法の力ではないので本人の経験・能力に即した結果しか得られない。バフも掛からない
根拠なき確信が自己肯定であって根拠があったら自己肯定ではない
自己肯定感ってワードに謎の引っ掛かりがあるなら ”思い込み力” って言葉に置き換えると良いと思う
思い込みで何かをしようという不誠実さが許せない・増田の美意識に触るというなら、
無理に自分自身を肯定しようではなく、『絶対に自己肯定しない。常に自分自身に厳しい目を向け続ける』と決めてみたらどうだろうか?
仮に自分で掘った穴を自分で埋める仕事をさせられていたとして、穴を掘って埋めているという行為自体に肯定感を持たせられれば、後々「あいつ無能でさせることなかったから穴掘って埋めさせてただけなんだよな」なんて言われても「俺は穴を掘って埋めた」という肯定感は残るやろ。
行為の肯定感に他者からの評価だとか会社に対する貢献だとか自分以外の要素を持ち込むから簡単に揺らぐんや。
ワイは毎日料理をしとる。上手くはないが楽しい。食ってくれる人もおらんし、料理してることを褒めてくれる奴もおらんけど楽しい。自分で作ったもんを食ったら幸福感がある。それだけで十分や。
どんな環境に置かれたって自分自身に自信満々、なんて少年漫画のような奴はいない
ネット上での誹謗中傷が話題になった時、「何とも思ってなかった自分の特徴を他人に指摘され続けるとコンプレックスになるの分かる」的なリツイートが何度か回ってきた
めっちゃ自己肯定感高そうなSNSの人気者ですらこの有様なんだよ
人間の自信なんてちょっとした環境の変化で簡単にへし折れるものだ
それでも自分を守ろうとしたら、統合失調症のように自分の妄想の世界に閉じ籠もるしかなくなる訳で
自己肯定感がどうとか考えたこともない、って奴は、今までの人生でたまたま自己が危機にさらされる状況に遭遇しなかっただけだと思う
だが一度でも自己肯定感について考えてしまうような危機に陥れば、二度と以前の自分には戻れないんだよ
自己鍛錬をしたり認知を再構成したりするのも結構だが、それだけでは駄目だ
環境を変えたり誰かと励まし合ったりという外部からの働きかけも必要だ
自己肯定感が低いと感じた時、誰かや何か"だけの"せいにしたって始まらないが、自分"だけの"問題にするのも絶対違うと思うんだよ
行動で無理やり自己肯定感を上げることはできない。
あとは経緯をつらつら書いてあるだけだから、暇な人だけ読んでくれ。
「小さい目標を立てて達成すれば自己肯定感が上がる」と、どこかで書いてあった。
目標と言われているのは本当に小さなこと。買い物に行くとか、簡単な運動をするとか。
とにかく自分に自信が持てなかった俺は、一縷の望みをかけて実行してみたんだ。
でもダメだった。
普段やっているようなことや、やらなければ生活できないようなことを目標にしたところで「そりゃできるだろ」の一言で片付いてしまう。
そこで普段やらないことを目標に設定してみたが、これはそもそも持続できなかった。
理由は簡単だ。「こんなことして何になるんだろう」という気持ちが勝ったからだ。
ヤケになって、1日1回だけ腕立て伏せするっていうふざけた目標を設定したこともあった。バカバカしくてやってられなかった。
その後に残ったのは、「腕立て伏せ1回すらできない自分」ただそれだけ。
漠然としていた「俺はできない子」という認識が、事実となって具現化して刺突してきたわけだ。
立ち直れるはずもない。
この程度もできない人間は、俺くらいだとは思う。
でもこの経験をもって、自己肯定感はがむしゃらに動くことで上がるものじゃないってことが言えると思う。
まずはマインド。自分のことを否定する自分を黙らせる必要があるんだと感じた。
(その方法が分かれば苦労はしてないが)
誰かの参考になれば幸いだ。
そうだね。環境に対する適性を正しく自己評価する能力と自己肯定感をごっちゃに議論してるケースはよく見る。
「自分の能力が環境(職場など)にマッチしていないことを理解できてる人=自己肯定感が低い」という誤った前提。
んで、それを逆に展開して「能力が低いのに同じ環境に居座ってる人=自己肯定感が無駄に高い」みたいな間違った結論を出してたりする。
自己肯定感(自分の評価) に回しても問題ないと違う?ダメだとしたらなんでん?
2019-02-20 (anond:20190220120144)
差別や偏見の増長になるので積極開示しないだけで、犯罪者になりやすい傾向、犯罪者になりやすい生育環境 ってのはある
例えば、発達障がい、中でもアスペやCU特性(Callous-Unemotional Traits:無感覚非感情的特徴)など
ただ強制じゃないので、親の意識が相当高くないと、大学や国立病院に足を運ぼうとはならないと思う
そもそも、親がこれだけ意識が高ければ、子が犯罪者になるとは考えにくい
なお、犯罪者にならないサイコパスは成功したサイコパスといい、
CEO や 外科医 や 弁護士 や 警察官 や シェフ などに多いそう
なおワイはサイコパスの心拍数が低いのは顕著な傾向だと無批判に思ってきたが(例えばこういうの↓)
Am I a psychopath? You asked Google – here’s the answer
If you’re not an athlete, and your heart rate is lower than average, you may be interested to discover that bradycardia, as it’s known, is more strongly correlated with psychopathy than smoking is with lung cancer.
That doesn’t mean everyone with a slow heart rate is a psychopath, but a very high percentage of psychopaths have slow heart rates.Why on earth would that be the case?
It turns out that there are a number of physiological traits strongly linked to psychopathy, including tell-tale patterns of activation in the brain and autonomic nervous system.
One theory is that psychopaths inherit a set of genes that make it harder to experience fear or excitement.
適当に
心拍数が低い=サイコパスではないが、アスリートでもないのに心拍数が低いのはサイコパスの傾向が高いよ
脳と自律神経の働き方に特徴があり、恐怖や興奮などの刺激が感じにくいのではと考えられているよ
今日、改めてググってみたら、
今までの研究のサンプル数が少ないのでやり直してみたら、
サイコパス は特別に心拍数が低い とか無かったよってあったわほえ〜 ↓
Resting heart rate and psychopathy: Findings from the Add Health Survey
引用元:https://www.biorxiv.org/content/10.1101/205005v3
Despite the prior linkages of low resting heart rate to antisocial behavior broadly defined, less work has been done examining possible associations between heart rate to psychopathic traits.
(中略)
No significant relationship between heart rate and psychopathic traits, or heart rate and a measure of cold heartedness, was found after controlling for age, sex, and race.
ただし自己高揚感/自己効力感(自分ならやれる感)が釣り合っていないときが注意が必要なのかも。
増田の言う通り自己肯定感をちゃんと持っている方が自分も周りも幸せだと思う。
自己肯定感の話題になると、必ずこういう例を出して自己肯定感が高くてもいいことないよ、みたいな結論に持ってく人が出るけど、典型的なすっぱい葡萄の話というかそっちこそどうなんだ主義的な発想だよね。同じ能力なら自己肯定感が高いほうが本人のメンタルヘルスにいいに越したことはないじゃんか。
言い方はともかく大体同意できる。ただし、一つだけ言及するなら自己肯定は高低差ではないと思う。むしろ高低差の概念で捉えてるから、高すぎる自己肯定感が社会を壊すという発想になる。自己肯定は増田の言うように、全てをそこにあるもの、已んぬる哉として認識できるかどうかにかかっている。これができれば誰かの眼前で嘘をついてもオレはオレ、嘘をつかなくてもオレはオレという発想になってゆく。つまり社会摩擦が起こっても、起こらなくてもオレはオレということ。自己が揺るぎないと余裕が生まれる。したがって窮状にあって表面上の感情の揺れが見えたとしても、根底面では静かな様相を内面に確認できる。
多分だが、自己への自信は経験(経歴=つまるところ外因)でもなく、金や物品でもない。
おそらくこういうことを智慧、と呼ぶんじゃないのかと。
諦める力とは意気消沈するのではなく、それも含めていろいろ取っ払うと何が残るかだし、
幼少の頃から両親に「あなたはやれば出来る子だから」と伸び伸び教育を受けてきたおかげで
40過ぎて非正規雇用が続く状況下においても「今の自分は本気を出してないだけで、本気を出してやれば出来る子なんだから」と自己を肯定しながら生きることが出来ている