はてなキーワード: ボノボとは
どこまで自分を言い表しても
絶えず浮かび上がる恐怖本能
自分が判断し行動することすべてにおいて否定的な感情感覚衝動思考が
止めどなく現れ、結局こうなるんだ。
将来のやりたくないことが多すぎてもういやになっちゃって。
なんでそんなに未来を見てしまうのか今を生きることができないのか
でも今ココに向けたら向けたで未来はこれでどうにかなるのかという不安が
止めどなく溢れてきて視界と意識がジャックされて思考がタイムスリップしてあり得る
表現せども、口に出しても
止めどなくひたすらあふれ出でる源泉のようで
蓋を閉じることもかなわなければそれに意識を向けず無視するのも難しいの。
一度最悪なifを考えてしまったらもうそれが現実に起こり得るかのようで
僕の遺伝子で設計された死を防ぐための行動が自分の人生で死ぬまでにやりたいことを
阻んでしまってる。
恐怖本能の意のままにされてる。
限りなく低い。
圧倒的に進化が追い付いていない。
前頭葉を介することが出来ず
こんな人生を俺は望んじゃいない。
幾度となく度重なる自己批判が湧いてくる。
知った言葉の中で難しそうな言葉を選んで書くことによって自分はこんなに
言語知性があるんだと思い込んでやってるのか?そんな
みたいな。
思考が沢山、それこそ無限ともいえるほどに出てきてそれが真実だと捉えて
何一つ現実に、周りに周囲に、皆に世界に影響を与えることもできずに
何一つ介入できず、ただただ席に座り傍観者のように自分や周りを見ている。
一切の合理的な行動を取らずただただ気分や感情にさらされコントロールされる自分を
唯々見ることしかできないで
ここに行きたいんだけどこいつらが脅すからその目的地に着けないみたいな。
でも実際はハイジャックは実銃じゃなくて、脅しはするけど打てずに害を加えることもできない臆病者であることを知っているにもかかわらずに
それらの知識があるにも関わらずそれに対する有効な手立てを打てない自分が腹立たしくて
ちょっと進んだと思ったら下がる。
そしてその下がる要因を突き止めることが出来ずなんども考え思考し施策し実行し
すごい勢いで後退して…
それを何度も何度も繰り返して
ありとあらゆる精神的苦痛を味わいしゃぶりつくし噛み砕き飲み干しても次から次へと責め苦が
なだれ込んできて咀嚼することも困難になって息すらまともにできずただただ絶望に瀕して
嗚咽を漏らすだけの人形になってて。
分かってるのに理解してるのになぜか体が動かない。
そんな気分でさ。
例えるならさ、ロボットを操縦しててさ。
右手を動かすレバーをひっきりなしにあげさげしてるのにうんともすんとも言わないイメージ。
なによりこれだけ自分の状況を言葉に置き換えたとしても、この連休中に
自分のためになることを9割出来ていない自分が変わることは無くて
過去を悔やみ未来を嘆き今に生きず、ただ最悪のifを永遠とヘッドマウントディスプレイを被って見せられてる感覚でさ。
乗り越えたいのに無視したいのに、
それでも俺は人と絡みたい人と関わりを持ちたい良い影響を与えたい良い関係を築きたい。
良い介入をしたい、ただただ世界をよりよくしたい。
そう思ってるのに思ってるのに何もできずただただ嘆くことしかできない自分はこれ以上何ができるんだと。
わかってるよ。やる、出来なくても全力でやって死ぬってことは決めてる。
ただただ、ただただできない。やれない。行動ができない。不安すぎて、恐怖が強すぎて。
この行動をしたら誰かに批判されるのではないか否定されるのではないか
拒否されるのでは拒絶されるのではいじめられるのでは馬鹿にされるのでは
軽蔑され侮辱されるのでは、痛めつけられるのでは人権を剥奪されるような惨い行いをされるのでは
そういう不安で恐怖で何も考えられなくなる感覚が多々あってね。
最近やっとそれを感じなくなったと思ったら自分が突然制御不可能になって。
未来に起こる多大なるストレスに不安を抱いて今に生きれず今の時間を有効活用できず
有効活用できないから未来が良くならず良くならないから未来を憂い今に生きれず
この負のループを描いてるのも間近で見て何とかしなきゃって言ってるのになにもできない。
こういうたとえ話や状況を把握して言語化してるのにも関わらず、
まともな認知機能を行使するまでもなくただひたすら遺伝的に設計された進化する上で必要
な要素を組み込まれたタンパク質等で構成された肉塊が意思を持たず単調なプログラミングの元動いてる
生命体になってる気がしてさ。
それはもう虫と変わらないんじゃないかなって思ってさ。
ボノボってオス同士でもやるんじゃないの
おまえ猿に詳しいんだな ボノボの生態についてどう思う
medakamaster 究極の目指す姿がこれなのは間違いない。この姿を忘れてはいけない。 知事は今すぐ全廃しろなんて言っていない。
「全員が武器を持たないで仲良くできれば理想の社会ができるね」というようなことはよく言われるのだが、そもそもそれは理想なのだろうか?
まず「全員が仲良くできれば」というのは、その思想自体はいいことのように聞こえるが、構造的には全体主義である。「全員が仲良く」を実現するには方法は、私が考えたところだと三つ。
どちらにせよ「お前らとは仲良くしない」という、現在の社会に当たり前に偏在する多様性を何らかの形で間引くことでしか「全員が仲良く」は成立しない。これが果たして、人類が目指すべき理想的な社会なのだろうか? 一番最後の選択肢が実現すれば、まあ「武器なき世界」にソフトランディングできそうな気はするが、それはもはや人類ではないかもしれぬ。
フィクションの世界では、「全員が仲良い社会」というのは何度か実現しているが、どれもろくな結果になっていない。
例えば貴志祐介に『新世界より』という傑作があるが、あの世界では進化した人類が個々に強力な力を持ってしまったがため、お互いを攻撃できないように思想洗浄がなされている。ボノボ型の性愛文化も取り入れられ、あらゆる形で争いが起きないように制度設計がされている。おかげで仮初めの平和な社会が保たれているものの、その過程で発生する不穏な因子は排除されるわ、イレギュラーな外敵からの攻撃には極端に弱いわと、その社会のありかたは歪で脆弱だった。
アラン・ムーアの『ウォッチメン』はどうだろうか(以下結末に触れるので未読のかたは読まないように)。あの作品でもある形で世界平和が実現するのだが、それは本当によいものだっただろうか。仮面を剥ぎ取ったロールシャッハのあの表情は、何を表していたのか。
かように、全体主義に基づいた人類皆兄弟的な平和はよく理想だと言われるが、本当に理想なのかがそもそも疑問だ。それは浦沢直樹の『20世紀少年』のラストで、全員がグータララーと歌って仲良くなるような不自然な社会だと考える。イレギュラーが許されない清浄な社会よりも、利害関係がスパゲッティのように絡まり、多様なプレイヤーと価値観で溢れかえり、汚物まみれのゲロだらけのそびえ立つクソを、それでもなんとかかんとか運用していく現在の社会のほうが人間的というか、私にはよほど理想の社会に見えるのだが、どうだろうか。