あらためてよく見ると進路譲らないおじさんばかりだな。
全部見ても獲物を探して進路を変えてぶつかりにいくホーミングぶつかりおじさんはいなかった。
渋谷のやつは体当たりしてる感じだけど、撮影時点より前がわからないし歩いていないから、なんか別ジャンルのキチガイに見える。
単にこの絵はダメだと言うだけなら、そいつは何にでもケチをつける2ch脳なのかもしれない。この文章は下手で読み辛いと言うだけでも、読んでる側がアホなだけなのか区別がつかない。言及の対象が本当に程度の低いものなのかもしれない。程度って何だよって話だけど。
その辺も含めて、理由を並べない事には妥当性をもっともらしく明かせない。
専門家だから、プロだから、という権威で片付ける人も沢山いるけど。
なんで飛ぶかは知らない。でも現に飛んでる。それは多分理屈がある程度以上正しいことを何よりも示す。
じゃあ絵の出来が良いとかメシが美味いとかは何を見たらええねんっていう。
自然法則を明かすことと価値判断の妥当性の違い。妥当性なんてあるのかって話だけど。
こういう基準があって、それを満たせば程度を良いとする。基準がなければ始まらない。でもそもそもその基準自体が自明ではない。
まあ自分がどう思うかどうかが大事なんだろうとは思うけど。帰納的に「まあこういうのが良しとされるんだろうな」という感覚もあるけど、それだと基準の軸が多すぎていまいち明白にならない。
そんなもん無いとは思いつつ、真・善・美なるものの存在に期待しちゃう。それを求めて見極める能力の存在にも。じゃなきゃ年末の某格付け番組みたいなものも存在しないだろうし。
結局さ。
日本人の女性自体がシッターを嫌ってんじゃん。自分の子供を外人に預けたくないって。Twitterでごろごろいる。
そしたら管理職になるんならもう専業主夫に子供育ててもらうしかないんよ。
でもそんなのやりたくないって言うでしょ。そんなゴミ旦那と結婚したくないって。
だからどう頑張っても無理なんだっつうの。
稼がないという選択肢が存在しない男どもが命投げ捨てながら管理職になるしかないの。
私はこの約十年間、市町村議会選挙・知事選挙・衆参院選挙を問わず、あらゆる選挙の投票先を、ランダムに決めている。
文字通りサイコロを使って(候補者が七人以上の場合はちょっと複雑になるけど)、とにかく自分の意志であるとかを介在させないようにやっている。
(一方で最高裁判事国民審査は全部バツを付けているがちょっとこれは別の話にしたい)
なぜこのようなことをしているのかの発端は、前の自民民主の政権交代劇の際に、「無党派層」というものの存在というか意義?について、考える機会があったからだ。
私は大学のゼミで、戦前の男子普選の時代に「無党派層」というものは勢力としてあまり認知されなかった、と学んだ。
(↑かなりはしょっているが、つまりそれらが育つ前に社会が硬直化し戦争に突入してしまったのと、地域社会や院外団活動の関係で○○党の支持をやめたら××党の支持者になるしかないみたいな短絡さがあったらしい。これも本題じゃない)
選挙権を行使する機会を得たばかりの私にとって、「無党派って一体、どういう立場なのだろう?」と常々考えていた。無党派って、本当に「党派」じゃないのか?みたいな。
報道、職場や労組、近所付き合い、フットサルやジムのサークル……もろもろの影響を受ける中で「無党派」というのはただ「選挙に行く気がないか、投票所の門をくぐった瞬間何かの党派に空気で入った人」を指す言葉でしかない。
党名を隠して政策だけでアンケートを取ると、共産党が一位になったという結果がどこかであったらしいが、しかしその結果を知ると、「共産党?うーんやっぱり自民党」みたいな行動を取る人がいるわけである。
あるいは単に「負ける候補者に入れたくないから都知事選では石原に入れるし、2009年の選挙では民主党に入れる」みたいな人もいる。
筋金入りの、自党が優位であろうが劣勢であろうが投票し続ける支持者をのぞいて、選挙に本当に「意志」を見出せるのか?その様な選挙が何十年と続いて日本は良くなっているのか?
良く分からない。その分からなさを理解するために、試しにやり始めたのがきっかけなのだ。
やり方は前述の通り、本当にランダムである。私の場合は選挙公報に番号振ってサイコロを使い決めるだけだ。
具体的な党名は出さないが、泡沫というか「無党派層」が入れなさそうな党に「入れることになった」(ランダムなのでこういう表現ができる)こともあれば、勝ち馬の議員に入れることになったこともある。
私の選挙区は、勢力があまり拮抗しておらず、ある党や議員が優位を保っている。この勢力を基準に考えると、数万票単位の優位さに、私の「ランダムな一票」が加勢するのか・抵抗するのかみたいな問題になってしまっている。
つまりランダム投票行動は選挙区によっても意義がかなり変わってくる。
日本ではなくアメリカになるが、今度の大統領選挙でも、カマラとトランプの双方の選挙パフォーマンスを見るたびに支持候補を変える人々や、「隠れトランプ」(おそらく「隠れハリス」も)支持者など、
選挙活動にほぼランダムと言っていい影響を与える人が・・・言ってしまえば、「選挙に行く日の朝、最後にテレビかネットで見た顔の候補者の方に入れる」人が何百万人といるのだ。
私は個人的に、皆さんには、制度的に意味のない白票であるとか、「支持政党なし」のような党名ハックではなく(ランダムな投票先であれば仕方ないが)、
自分の意思を介さない、何か人為的ではない要素や乱数による「ランダム投票活動」をお勧めしたい。この活動が何万票という力を持った時に、はじめて「選挙」の意義や「無党派層」の価値というものがわかってくると思えるからだ。
そして議員が、「自分の存在が乱数の上の存在でしかない」ことを意識すれば、よりマシな政治活動を行うようになるのではないかとも思っている。そう考えながら、私は今度の投票にも臨んでいく。
周りが恋愛を楽しんでいるのを見て、幸せそうな姿をただ傍観するだけの自分。
歳を重ねるごとに「自分は一生このままなのかも」と考えることが増えていきました。
しかし、その告白は純粋な愛情からではなく、私を「都合のいい存在」としてしか見ていないように感じていました。
ただ、彼らが抱える孤独を埋めるために私を使っているだけ。
そんな風に感じていた私は、人間扱いされない日々に心がすり減る日々でした。
人間としての私を見てくれる人、人として接してくれる相手からの告白を経験したことは一度もありません。
「この世界には私を本当に大切に思ってくれる人なんていないんだろう」と、心の底で思ってしまうことが増えていきました。
夜、一人で泣くことも少なくありませんでした。
「誰にも愛されずに、一人ぼっちで死んでいくのかな」という不安に苛まれる日々が続きました。
そんなある日、街を歩いていると「1回10円 ハグ屋」という看板が目に飛び込んできました。
最初は何だこれ?と驚きましたが、なぜかその看板の前で足を止めました。
ふと思い返すと、私はどれだけの間、誰かに触れられることがなかっただろうか。自分がどれほどの孤独を感じているか、そのとき初めて気づきました。
10円を手渡すと、男性は静かに立ち上がり、何も言わずに私を抱きしめてくれました。
その瞬間、私の心の奥底に押し込めていた孤独がふわっと溶け出し、少しだけ温かさが広がっていくのを感じました。
短い時間でしたが、そのぬくもりは私にとって大きな救いでした。
それでも、この瞬間は私に少しだけ「誰かに受け入れられた」という実感を与えてくれました。
ずっと自分は人間扱いされていない、愛されることなんて諦めていた私が、少しだけ前向きに生きてみようかなと思えたのです。
でも、この10円のハグが私に思い出させてくれたことがあります。
私は人間なんだ、誰かに必要とされたいという当たり前の感情を持っていいんだ、そう思わせてくれました。
だって大抵の人は空欄で提出するだろ?
そしたら本当は消されなきゃいけない人まで生き残っちゃうじゃん?
だからバランスを取るために誰かが全部「☓」に入れるべきなんだよ。
俺だって本当は消されるべき人だけを選んで「☓」を入れるべきだとは思ってる。
でも俺頭悪いからよ~~~~誰が本当の悪なのかとか分からね~~~んだよな~~~~
でもよ~~~~俺が全部「☓」にすればよ~~~~頭のいい人たちが本当に悪い人を見つけたときによ~~~~それが通りやすいだろ~~~~
俺馬鹿だけどよ~~~~~世の中の役に立ちたいからよ~~~~~何もしないままの馬鹿と頑張る馬鹿ならよ~~~~頑張る馬鹿の方がマシだと思うからよ~~~~~
賢人の真似とて賢くなろうとする行為そのものが賢さの始まりだっていうからよ~~~~~俺もいつか賢くなるためによ~~~~~賢くなるために努力したいんだよな~~~~~
そしてよ~~~~~賢い人が頑張ったらそれがちゃんと報われる社会のために頑張りたいからよ~~~~~何もしないで足を引っ張るだけの馬鹿を一人でも足止めしたくてよ~~~~~
だからよ~~~~~~全部「☓」なんだよ~~~~~~~~馬鹿だよな~~~~~~でもよ~~~~~~全部「空白」よりはまだ賢いと信じてるからよ~~~~~~~~
確認したうえでその格好してるんだよ。