🧘<さあ〜息を吐いて〜
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🧘♀️🧘🧘♀️🧘🧘♀️🧘🧘♂️<男1人で死にそう
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ここらへんの言ってることとして
「TPOを考慮した上で憲法ではない新しい基準が必要なのではないかという話だ」って主張してるんだけども
…いや言いたいことはわかるよ?
「それだと正しい判断が常にされるとは限らない」って言いたいんでしょ?
だったらそんときゃ騒ぎゃいいのよ
そうすれば掲載主も一旦見直して掲載するに値するか改めて判断するじゃん
この一連の流れで十分にTPOに沿った広告が掲載される世になると思うんだけど
掲載主判断以外の基準を設けないからこそ現状こうして議論ができてると思うんだよね
なんか「新基準を作るべき!」って言ってる人たちは自分達に有利な基準が絶対できるって勘違いしてるよ
仮に表現の自由戦士に有利な基準になっちゃったらそれ振りかざされて議論にならないと思うぞ
でもそれってTPOに則していないと思わない?
広告だってその場所や時間によってどういうのが適しているのか変わってくるし
アニメ絵に対する国民感情だって刻一刻と変化してきているのに今の価値基準で何かしらの基準を作ろうとすることはかなり危険だと思うんだよね
まぁそういう点から「現状のままでいい」が俺の答えかなぁ
確か岸八、又八って呼ばれている人物?
とある属性を揶揄したり馬鹿にしたり抑圧するようなこと言ったら
その属性の人は怒るに決まってる
当たり前だろ
そしてその属性の規模が大きかったら、当然殺害予告だってくるよ
世の中舐めんなよ?
大きい属性の中にそんなんが紛れ込んでないわけない
何度これを繰り返してるんだ
なるべくしてなってるんだよ
そうならない道なんてないんだよ
それをわかってて喧嘩売ってんだろ?
じゃあ最後まで戦えや
どアホが
重くて暑く視界も悪く生命の危険もある軍の訓練に匹敵しそうなハードさ
10倍疲れるなら10倍くらい年俸が高く10倍ほどj1より人気が出てしかるべきである
J1リーガーでさえも走り続けることは難しいだろう
と思う。
FF10とDQ1,2,3はRPGをあんまやらない俺でもクリアしたし。
SEKIROはアクションゲームが得意でない俺でもクリアしたし。
こういう名作を知る術が意外とないので困る。
19歳から地元を離れて県外の大学に通っている。大学院に進学したため、一人暮らしは6年目を迎えた。
6年目にして、初めてホームシックになった。
小学生から不登校を繰り返して、高校も中退し、親との関係が安定してきたのはだいたい7〜8年前。
小学生の時からかなり自律神経がしっちゃかめっちゃかで、最近はプレッシャーを感じると何もできなくなってしまう。
11月にあった学外発表で無事に力尽きてしまい(発表前は60時間起きてた)、毎日18時間寝る生活になった。その後、修論に全く向き合えなくなり、バイトにも行けず、ゲームもできず、ただひたすらYouTubeと小説でやり過ごす日々。流石に指導教官から実家に連絡が行き、母親に帰ってこいと言われ実家に帰った。
私(長女)の経験を生かし、不登校に関するNPO法人を立ち上げたり、放送大学に通い心理学を学んだりと、母親が学び続けたおかげで関係が改善したと思っている。
そんな母のことは嫌いでない。好きだし、尊敬もする。
それでもこの歳になるまではとにかく家を出たくて、一人暮らしも楽しく満喫していた。
小学2年生から不登校だった。幼少期は引っ越し続きで、父は九州の田舎の亭主関白、母は全く周囲に頼れる大人がいない状況だった。その上、父は単身赴任(本社勤務とのことで家を買ったが、その後転勤が決まったらしい)。私と、弟たちを母1人で育てていくのは今思えば本当に大変なことだったと思う。
それでも、小学生の私にとっては、母が子育て等に不安を感じ続けている生活で不安を感じないわけがなく、学校で周囲と衝突し、家では激しい反抗期、とにかく攻撃によるストレス発散が多かった。
よく父に怒られて家の外に出されていたが、その時は泣きながらどうしたら死ねるだろうと、塀(といっても1m)から飛び降りるか迷っていた。飛びおりなかったが、人生で初めての自殺未遂は今でも鮮明に覚えている。
ご飯を食べなくていい、と父に子供部屋に閉じ込められたこともあった。内開きのドアの前に重たい家具を置かれて、ドアノブを紐で繋いで開かないようにされ、水も飲めないトイレも行けない状況で一晩を過ごしたこともある。
大喧嘩した時、私がダイニングテーブルをひっくり返して破壊したこともある。15万くらいするかっこいいデスクトップpcも壊したことがある。
流石にいいところも書いておく。
ピアノを小学1年生から始め、2年生の時には100万の中古のグランドピアノを買ってもらった(欲しいとは言ってないけど)。水泳やそろばんなど、習い事をたくさんさせてくれた。クリスマスや誕生日には欲しかったゲームをくれた。高校では50万の管楽器を買ってくれた。行きたいと言えば海外研修にも行かしてくれた。母は料理が上手(だと思っている)で、3食手作りしてくれたし、時にはお菓子も作ってくれた。裁縫もうまい。父も農家出身で未成年喫煙するような不良だったが、国立大学に行き20代で1000万プレイヤーだ。
やりたいことをやらせてくれる家庭だったと思う。
今は母も穏やかになり、自分のやりたいことを見つけて人生を楽しんでいる。父も亭主関白はなりをひそめ、週末は単身赴任先から帰ってきていろいろ料理をする。私が帰省するとリクエストを聞いてくれる。私がお金の心配をしなくてもいいのは絶対に父のおかげだ。
とにかく小学2年生から5年生までは攻撃的な子どもだったし、両親だった。家庭内の情緒が最悪であった。(1番の被害者は弟たちだと思っている)
私は部屋に閉じこもり、昼夜逆転生活を送り、どうしたら死ねるかを考え、なぜ生きているのか悩み、母が書いてくれた私の0ヶ月から1歳半までの育児日記を読んで母の愛を確認していた。こうして振り返るとかなり寂しい子どもだと思う。
中学生になってからは、かなり落ち着いたと思う。母が支援に繋がれたことが大きい。
そんな家庭で、形や中身は変わりながら高校まで過ごしていた。
大学はとにかく県外に出たかった。高校中退で学歴コンプレックスがあったし、弟たちがいるので国立しか視野になかった。将来の夢があり、養成の名門と呼ばれる大学を目指した。
5年半、ずっとホームシックになることはなかった。
一人暮らしは本当に楽しい。自分のペースで生活できること、家にいる限りだれも私のことを知りようがないことがよかった。今でもそう思う。
それでも、ホームシックになった。
実家から帰る日、予定があったのでどうしてもその日に帰らなければならなかった。帰ろうと朝起きて、起きた瞬間涙が止まらなかった。8時半くらいに起きたと思う。18時まで泣き続けた。結局予定はキャンセルした。
18時に、今帰らないとずっと帰れない、と覚悟を決めて帰る準備をした。泣きながら準備をした。
それを見ていた母に、抱きしめてもらった。頭を撫でられながら、がんばってるね、えらいねと褒めてもらった。頑張りすぎなくていい、いつでも応援してると慰めてもらった。
1、2分だったと思う。
そのあと、やっぱり泣きながら車を運転して帰った。
母が持たせてくれた沢山のご飯を食べながら生きている。ジップロックに書かれた母の文字を見ては泣いている。
修士論文にはまだ向き合えていない。
就職が決まっている。
なにもできない日々を過ごしている。