ふんわりしてて分からん
毒マシュマロのせいで筆折ったとかいうのは批判行為なの?名誉毀損行為なの?
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・正直つまんなかったです。買って損しました
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・死ねクソブス女
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これは誹謗中傷とかよね
Uber eats があるぞ。しかしワイの地元はUber の店増えねぇなって・・・
あと地元のオリジナル配達サービス。クレカ対応したが作りが雑くて怖くてクレカ使えないのが難点
今のセブンになんのお得があるんかなーって感じ
もうね、用語が多すぎ。
いつの間にかLGBTQになったかと思えば、LGBTQIAにバージョンアップしている。
増えすぎなんだよ・・・SOGIだのMTFだのFTMだのお前ら俺に理解させる気あるの?
レズビアンやゲイならまだ聞き馴染みがあるが、パンセクシャルとバイセクシャルとXジェンダーの違いになるともう良くわからない。
こんなの当事者かよほどセクシャルマイノリティに関心がある奴しか理解できないだろう。
これが日本ローカルの話になるとホモ、オネェ、オカマ、オナベと更に扱う単語が増える。もう勘弁してくれ。
セクシャルマイノリティを抱える人たちに言いたいが、これらの言葉そのものにアイデンティティを感じたり、それを求めてはいないか?
でも、本質は違うだろう。
本来、男が女を好きである事と、男が男を好きである事は同列に語られるべきだし、同様に許容されるべき事なのだ。
LGBTはマイノリティではなく、普通の事であると社会に受け止められる事こそがセクシャルマイノリティを抱える人たちが本当に求めるものではないだろうか。
だが現状は違う。
「LGBT」などマイノリティを表す言葉が生み出され続ける昨今、近年それがエスカレートしている事でセクシャルマイノリティがマイノリティ街道を一直線に邁進している様にしか思えない。
このままではあなた達マイノリティは社会からマイノリティのまま認知され続けることになる。
あなた達はこれからもマイノリティであることを自認し、受け入れ、マイノリティのまま生きて死ぬことを社会からは求められ続けるだろう。
あなた達は「普通の人」である筈なのに、マイノリティを意識し過ぎるあまりに「普通の人」である事を自ら手放している。
私はそれを許容したくない。
そこで提案したい。
自らの性別、性自認、性嗜好を表明することで、他者に自身のセクシャリティを理解してもらおうという取り組みだ。
性別が男ならMaleの頭文字を取ってM、性自認も男ならM、性嗜好が女ならFemaleの頭文字を取ってF、両性が対象ならBothの頭文字を取ってBで表す。
私の場合は
性別は男(M)、性自認は男(M)、性嗜好は女(F)なので、「MMF」とこんな具合だ。
仮に
性別が女(F)、性自認は男(M)、性嗜好が両性(B)だという人がいれば、「FMB」という事になる。
まぁこれは一つの提案ではあるが、この様な表現方法の方が平等であり、相手のセクシャリティを正確に把握する事が出来るのは明らかだ。
そろそろセクシャルマイノリティを表す言葉を生み出し続けるのは止めにしないか?
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性嗜好を表明する必要は無いという人もいるので、それなら当該部分にはEmpty(空)の頭文字Eを入れれば良い。
例えば性別は男(M)、性自認は両性(B)、性嗜好を非公表(E)とするなら、「MBE」となる。
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だが、現状セクシャリティを表す統一的なフォーマットが存在しない様に感じた。
昨今のマイノリティを表す言葉の爆増と乱立する定義がマジョリティに受け入れられるとは到底思い難い。
「LGBT」という言葉を生み出してしまったがばかりに、現状「普通の人」と「それ以外の人」という歪んだ構造が出来上がってしまっている。
かえってきた
イスラム教って偶像崇拝禁止じゃん?風刺だから崇拝じゃないにせよ、偶像化するのはご法度なことに変わりはない。
LGBTみたいな究極の「お気持ち」に寄り添うこの時代に、なぜ宗教をおちょくることだけは許されるんだろ。だってLGBTQの風刺画とか書いたら大大バッシングされるし、コーンロウという黒人発祥の髪型を異人種がやることですら許されないのに、異教徒の心の拠り所をおちょくるのはOKなのは不思議。
とても不可解な気持ち
金払ってやってるのにもかかわらず身体のサービスを要求しないでやっている善人の俺と増田が思ってるからこその工場行ってみたらへのムカつきなんだろうな。
最初に工場NGと理由付きで説明をしたとしても、他人の仕事に向かう体力の把握なんてかなり難しいよ。みゆさんは職業的に鬱に詳しい人なのか?
どういう意図で使ってんだろう?っていうか、そもそもそんなメジャーな言葉ではないよね?
読み方も「ほんぽう」なのか「ほんほう」なのかもよくわからなかったし(今調べた)。
それで「ほんぽう」で変換すると真っ先に「奔放」って出てきて、そこから「性に奔放」って言葉が脳内に現れ、
「ああ、俺の人生は性の奔放さとは無縁の人生だったなぁ」と陰鬱な青春時代を思い返してダークな気分になってしまった。
「奔放」は自由気まま。
「性に奔放」とはようするに「自由気ままにセックスを楽しんでいる」という事なのだろうけど、そんな事ができる人生でありたかったと思うと同時に、
セックスを自由気ままに楽しむには、それはそれで才能がなければならないのではないか?とも思った。
セックスを楽しむ才能とはなんだろうか?
例えば自分の身体に自信を持てない人は、セックスを楽しむ事はできない気がする。
チンコが小さくて「ああ、俺とセックスしても気持ちよくないだろうな・・・」と思ったりするだろうし、
おっぱいに自信がない人は「この人は私の胸を揉んでてもイマイチ満足できてないのでは・・・挟んだりもできないし」とか悩むのではないか。
いくらセックスが出来る相手がたくさんいたとしても、このように自分に自信のない人は「奔放に」セックスを楽しめないと思う。
そうなると、セックスを自由気ままに楽しむ為に必要なセンスとは、自分自身に対する絶対的な自信という事になるのではないだろうか?
自分のチンコがどうとか、おっぱいで挟めるかとかに悩む事もない、絶対的な自信。
「自分とのセックスはパートナーを悦ばせる事ができる」と何の迷いもなく言い切る事ができる精神。
しかし、もうひとつまったく別のセンスの存在も考えねばならない。
それは傲慢さだ。
セックスパートナーの感情などまったく度外視し、自分の快楽のみを追求する傲慢さ。
自分自身への自信と似ている気もするが、パートナーへの思いやりを捨て去っているという点で、決定的に違う物だろう。
しかし「性に奔放」という言葉のニュアンスを考えると、傲慢さの方がより必要なセンスな気がしてくる。
自分のチンポがデカいとか、おっぱいで何かを挟むとか、最初言い出したのは誰なのかしら?
パートナーの事など考えない、そもそもパートナーという概念が存在しているかどうかすら怪しい、
ひたすら自分自身の快楽のみが価値観の全てで駆け抜けていくという傲慢さこそ、性に奔放に必要なセンスなのだと思う。
傲慢さをひとつのセンス、つまり才能と考えれば、このような傲慢さもひとつの才能と言えるだろう。