アイドルのライブ中にあるMCとかなんちゃらコーナーってホンマに必要ないから消えて欲しい。基本的に面白くない。
それが休憩時間とでも言うなら裏で休憩してくれていた方がマシ。
僕は歌が聴きたいし、喋りいらんねん。
最初からゆすり目的で痴漢をでっちあげるやつは痴漢の既成事実を誘導してからそれをもとにゆするんで。
正確には完全に冤罪ではなくて、仕掛けられて痴漢行為をしたので結果的に冤罪扱いされただけ。
そもそも電車内にキモメンがいたら女はできるだけ関わりを持ちたくないと思うんで、わざわざそいつを訴えようとか思わない。
ていうか普通にキモメンなてめえのそばにJKとかが体寄せてきたら怪しむだろ?「触っていいんだ」とか都合のいい解釈するからホイホイゆすりに引っ掛かんだよバーカ。
勝手に女尊男卑妄想を持ってるやつにはわからないだろうけど、実際に「痴漢があった」って訴えても自己責任とか気のせいとか、そのくらいわかってあげなよで女の責任になることが圧倒的に多いので女は滅多なことでは自分から本当にあった痴漢被害は訴えない。
キモメンにいたずらして逆恨みされたら執念深く付きまとわれてめんどくさいことになることくらい女なら誰でも知ってるよ。
仮に頭のぶっ飛んだミサンドリ女が近寄っただけで痴漢扱いするとかあったとしても、かなりあれこれ不愉快な質問されるし冤罪はありえない。
情報セキュリティハンドブック,税金の無駄遣いとか言われてるので逆張りしますけど
意外といいこと書いてありますよ?
三鷹バス痴漢冤罪事件とかあったじゃん。女と共謀して冤罪でっちあげたやつもあったし。
https://web.archive.org/web/20170621114002/http://www.asahi.com/articles/ASK6P5K0XK6PPTIL015.html
ほんとにこれ。検索サイト、アフィ広告屋、アフィカスの3つ巴でクソ。不安を煽ったりテレビをコピペしするだけの簡単なお仕事。ほっといたらネットがゴミの山になるぞ。どうにかしろよgoogleさんよお。
空振りというか、屁だけ出る
空振りじゃない場合も、屁とうんこがサンドイッチ状態になっているような感じですっきりしない
図解するなら
━━━━━━━━━━━━┛
便便 便 便 便便 便→外界
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こんなイメージ
擁護なのか批判なのか、褒めてるのか貶してるのか、単語の雰囲気でしか判断できない人には(やまもといちろうの文章を読解するのは)難しい
どちらも売春行為に変わりはない
ソープですらオマンコへの挿入を確約したサービスを提供する事はできない
あそこは入浴介助という建前で運営されている
ヘルスとてそうだ
本番行為はないという建前だが我々客は常に本番行為を求めている
だのにだ
なぜその本番行為をして下さる風俗嬢が叩かれなければならない?
法の正義で殴るなら
これに罹る人自体は、めずらしくない(私だってそうだ)。だが今後、きっと爆発的に増えていく。デジタルネイティブの若者に関しては特に著しく勢力を増やしていくだろう。
情報技術が発展し、情報リテラシーが高まり、他人の多種多様な生き様や頭の中をヴァーチャルに追体験できるようになっていくほど、そうなる。
あるいは、縮小し閉塞感に満ちていく社会において「○○のような人材」が求められれば求められるほど、他人の望む人間になることを是とする人は減り、真逆にあたるこの症候群が増える。
現代は多くの人が情報の海に晒されているが、基本的にはみな、好きで晒されている。
情報から距離を置けない理由には社会的欲求(横並び意識)も関係しているだろうが、根源的な部分で、人間の知識欲ははかりしれない。
ともかく数年もそういう情報収集に没頭するうちに、人はすべての情報を客観的に見るようになる。
言い方をかえると、すべてが他人事になっていく。自分の思想や行動様式と一致する主張ですら、他人事であり、移入することができなくなる。
感動しないわけではない。心酔しないわけでもない。でも、その素晴らしいものは(ゴミみたいなものもだが)、すべて、自分とは別の世界のことだ。無意識に距離を置くようになる。
自分の世界には、何もない。ゼロではないが、大したものはない。そのことに虚しさや悔しさなどを感じる時期も通り過ぎてしまった。きりがないのだ。自分は空っぽでいい。そうなっていく。
はてブなんていうメタツールを使っている人ならその感覚がよく分かるはずだ。
「自分の主観的意見」ですら客観視しだして、「これはくだらない、取るに足らないものだ」と思うようになり、いずれ黙るようになっていく。
自分が言わなくても、自分が思いつく程度のことは静観していれば誰かが必ず言う。それどころかもっと洗練された素養を感じる意見が次々と出る。
たまに黙るようにはならない人もいるが、そういう人は、自己の空虚さを完全に意識から消しているので、傲慢で上から目線な発言をするようになる。覚えがあるだろう。
自己を主体とすることを肯定することは、一人の人間としての人生に埋没してしまうことだ。
それは極めて当たり前のことだが、しかしそうではない、メタな視野の万能感を、我々はもう知ってしまっている。
他人、企業、社会、そういった観察対象の生き様、行く末を見るのは刺激的だけれど、自分がそれに加わろうとは思わない。
できることなら人間をやめて、電脳化して、この先数千年くらいの人類を観察していたい。
それはある意味で、死へのあこがれかもしれない。
そうでないのなら、これは静かなる反抗だ。
あまりにもできの悪い現実に対する?いや、違うだろう。情報を手にしてしまったことに対する、が妥当だろうか。
もう少し踏み込むなら、世の中にあふれる要素に対して、人生があまりにも短すぎることを知らされてしまったこと、
そして「実体験」の価値が相対的に見て瑣末なレベルにまで薄れてしまったこと、その2点に対するハンガーストライキだ。
だから何もせず、社会にも加わらず、ひたすら情報を摂取して、内なる膨張を続けながら生きる。
「労働者」になりたくない。
「親」になりたくない。
「男(女)」になりたくない。
「○○ファン/シンパ(=何かに従属するもの)」になりたくない。
ひとつひとつを見れば、中二病か高二病かといったものをこじらせたんだな、と一笑に付されて終わるかもしれない。
けれどもこうした「○○になりたくない」という思いはインターネットの海で練り上げられて竜となり、
それらが寄り集まった集合体として、漠然とした怪物の姿となる。
その影はどこにでもあり、その姿は気づけば心のどこかに転写されている。
その怪物こそが、何者にもなりたくない症候群の主たる発生源だと思う。
中年になっても、老年になっても、一言で表せるような身分を勝ち取る行動を頑なに起こさず、さまよい続ける境界者であり続ける。
そんな境界者とて、なにか巡り合わせた特定の状況に依存して生きているわけだが、決してその状況を肯定したり、堅持しようとするわけではない。
吹けば飛ぶような場所にいて、弱者であることにこだわり、風が吹くならば死んでも仕方ないと覚悟しつつも、防御行動を取らない人達だ。
そういう人の割合がふえてくると、これまで人類の築いてきたコミュニティの在り方は根底から崩れる。
それが悪いと言うわけではない。いち罹患者として言わせてもらうと、自然の成り行きなのかもしれないし、興味深いと思っている。