はてなキーワード: ママととは
未就学児が2人いて、まあどこの家庭もそうなのかもしれないけど、「休み」が本当にない。
平日は仕事から帰ってお迎え、夕食、お風呂、寝かしつけとやることが満載だし、朝も時間との戦いでバタバタ。
で、休日は子どもの「公園行きたい」「児童館行きたい」たまに「動物園行きたい」とかに付き合って、自分の時間はほとんどない。歯医者の予約しとかなきゃ〜とか、この書類そろそろ締め切りだから片付けなきゃ〜とか、頭の片隅にはあるんだけど、それを処理するだけの余裕すらなくて、気がつくと日曜の夜になってる。
夫は家事や保育園の送り迎えはするけど、子どもたちは基本的に私にべったりなので、私が子どもたちの相手で手いっぱいなとき夫は優雅にスマホ見てたりもして、なんだかな〜〜と思う。私が体調悪い時は夫が子どもたちを連れ出したりしてくれるけど、子どもは基本的に「ママと一緒がいい」「みんなで行きたい」とか言うのでそれも無碍にできない。家にいても子どもが四六時中話しかけてくるので全然休まらないし。
結果、平日も休日も「休み」が全然なくて、24時間365日ブラック労働してる気持ちなんだよな。お風呂も子ども2人とも私と一緒に入りたがるし、寝るときも子どもたちが私の隣を奪い合ってる隙間で寝てる。
たまにでいいから一日1人でダラダラして、片付けしたり漫画読んだり昼寝したりしたい。まあ望んで産んだ子なので無いものねだりなのかもしれないけど。親向いてなかったのかな。
娘はピンクだと言うんだけど、王様はちょっと残念な人だから茶色だよと教えてあげた
そしたら怒っちゃって・・・
「それじゃママと同じ色じゃん!! ヤダ!!」
「私そんなに強く吸ってない!」
「吸った!すごかった!可愛かった!!」
「うん!すっごく可愛かった!一生懸命だった!」
「ほんとに?」
「うん」
「ママ、大好き」
「ママも大好きよ!」
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(後書き)
たまたま家族で京都を歩いていたらからふね屋があり、そこで思いつきました。
ごめんね。
どうしたらいいんだろう。
ちなみに童貞です。
現実の人間とセックスしたことはないし、なんなら滅多に現実の人間でオナニーしません。
性欲が芽生え始めた頃に同学年ぐらいのキャラクターでオナニーをして、それが癖として残ったまま自分の年齢とは無関係にずっと小中学生ぐらいの年齢、もしくはそれぐらいの体格のキャラクターでだけオナニーしてきたせいで大人の体に興奮する回路を育てることが出来ずに40代になってしまいました。
30代ぐらいからは精神年齢まで子供のキャラクターをオカズにするのは気が引けるようになってきたので、体だけ子供っぽくて年齢だけ大人のキャラクター(フリーレンみたいな)でばかりオナニーしてきました。
そこから10年が過ぎ、最近は「体格がロリのキャラでシコること自体がなんだか気まずいな」という気持ちが現れてきました。
大人の体には興奮できず、子供の体には対しては後ろめたさがあります。
性欲だけが残っているので後ろめたさに耐えながらフリーレンみたいなキャラクターでシコシコし続けています。
歪な人生です。
そもそも皆はどうやっているんでしょうか。
老人になっても性欲はあるわけですから、老人同士でセックスしているんでしょうか。
自分のように童貞・処女のまま人生を過ごしながらも性欲が残っている人間は、どういうものでオナニーするんでしょうか。
謎めいています。
誰にも相談できません。
そもそものスタートが「小学生の頃に漫画の女の子で精通して、それからずっと漫画の女の子でオナニーしてきた。学生時代はまだ良かったけど、だんだんと自分の年齢とオカズの年齢が乖離してきた。それを埋めるために体だけが子供で心は大人のファンタジーな漫画のキャラクターでオナニーするようになってきた。俺はこのあとどうなってしまうんだろう」なわけですから、そうそうリアルで相談できる相手はいません。
そもそも精子が腐ってきて万一今から結婚して妊活とかしても障害者が生まれる確率がドンドン高まっているような状態で性欲が枯れていかないことに違和感があります。
人類の存続を考えたら別に自分のような中年の性欲なんてもうとっくになくなっててもいいはずなのに。
初老(40代)のくせに性欲があるという人間の小僧そのものが気持ち悪い。
桃太郎のジジババって、当時の感覚で考えると50歳ぐらいだと思うんですが、この夫婦も不思議な桃を食べるまでしばらくセックスしてなかったらしいんですよね。
じゃあもうとっくに枯れてていいじゃないですか。
まあこれで自分が同じぐらいの年齢のキャラクター、たとえばプリキュアのママとかでシコシコするんだったらまだ気持ちの整理はつくんでしょうかね。
分からない。
私は人生で2度、一人称を直した。 1度目は保育園のころ。「自分の名前+ちゃ..個人的にはいい年して親のことをママとか言ってる大人のほうが付き合い方を見直すほど恥ずかしいことだと思う。一人称はまあほどほどにどうでもいい。2024/01/04 01:16
こうだと思いますわ
たとえば、
具体的には・・・
精神も肉体も壊される
努力でどうにもならない
どう転んでも歪む
まともなコミュニケーションが取れない
発達に大きく影響
どうしてもいざという時の頼り先が1人になってしまうのでスタートラインが後退する
親に余裕がなくなったり、恋人ができたりすると唯一の頼り先まで失い不良化しやすい
この場合他の親戚が頼れるかどうかでだいぶ変わる
親の常識を子は学ぶ
このような状況で本人の努力と言われても無理
なんで前日からコツコツとパーティーメニューを準備していたのに、みんなでテーブルについて一緒にパーティーできないわけ!?
M-1グランプリ観たいパパとみんなで食卓テーブル囲んで食事したいママと、そんなのどうでもいいから早く食べたい子どもと、泣きぐずりする赤ちゃんと!!!
コタツでテレビ観ながらM-1観るなんてできないのよ!!!赤ちゃんが私の丹精込めてつくったパーリーメニューをドンガラガッシャーンするんだから!!!
テレビを消しなさい!今すぐ消しなさい!
サンタっている設定といない設定のどっちがいいんだろうなってこの時期のクリスマスエピソード見てると思う
各家庭では自由でいいと思ってるんだけど、保育園とか幼稚園は確かにクリスマス会?みたいなのやるだろうし、そこには当然中の人がいるタイプのサンタ来たりするじゃん。
そういうときにいない設定でやってる家の子が「えー、サンタなんていないよ。ママとパパなだけ」みたいなことを言ってしまうのはしょうがないんだけど、じゃそういう共同幻想っていつまで守られるべきなんだとか、そもそもホントはいないものをママとパパが嘘ついてたんだってショックだった、みたいな話を見かけると初めからいない設定のほうが良いのか?とも思う…
でも、子どもの時サンタさんってほんとにいるのかも!みたいに思う気持ちも、大事にしてあげたい気もするしなー……。いる設定の家/いない設定の家が混在してるの、保育士さんとか幼稚園の先生ってめっちゃ大変そうだな〜と思う 他人事ですまんけど
幼馴染にキレてる場合じゃない、ちゃんと大好きな母親に怒ってやれ
ほんとうに幼馴染のことを想うならきちんと彼女の家庭で子育てができるように促すべきだと言ってやれ
もちろん子どものために近隣のサポートがあるに越したことはない。だけどそれは実際のママとパパが十全に責務を果たす努力をしてることが前提の話だ
俺は全然優しくない独身なのでこの幼馴染がどうなろうと知ったこっちゃない
万が一増田両親がコロナにかかり重病化したりして(マザコンなのに辛いこと想像させてごめん)子供の面倒見るどころじゃなくなっていきなり旦那も実家も頼れない状況に立たされた幼馴染が誰にどう縋るのか見物だな、くらいにしか思えないので、増田の母親に言え。幼馴染をぬるま湯につからせるなと
ブコメ稼ぎを否定はしないが、ブコメ欲しさに政権叩きとか嘘松とかし出したら私は人間としてどうかと…
だが、それすらも最近はこのサイトでダメなことでは無いと気がついたのだ
「名前を隠して楽しく日記」というのがどうにもおかしくなる。そもそも楽しく日記ならアメブロやnoteに書いている、名前をわざわざ隠したりしない。じゃあ運営の想定する「楽しく日記」とは何だったのだろう
「今日は夫と買い物 想い者持ってくれてありがと」
とか
とか
を想定していたのだろうか?
まあ日本死ねが実は議員の日記で議員に監視されてる事が発覚した時点で「楽しく日記」なんてものは出来やしないだろう
それでも私はしょうもないブコメも稼げない日記を投稿し続けたいと思う
「あ、そこにあるのは……おっ、ぱいじゃないか」
猫飼いの人には是非読んで欲しい。特に、猫とのお別れを経験した人や、ペットロスになった人には響く内容になってるので。
まずはDavidという曲がどんなものなのか、先入観を持たずに聴いて欲しい。
この曲は1986年「やっぱり猫が好き」という深夜のドラマ(?)のオープニング曲だった。
やっぱり猫が好き(やぱ猫)は、恩田三姉妹(長女かや乃:もたいまさこ、次女レイ子:室井滋、三女きみ恵:小林聡美)が繰り広げる、ドラマのようなアドリブトークのような、時にはドタバタを含む深夜番組。
日本を代表するコメディエンヌが3人だけで毎週様々に起こる日常の小さな事件(主にレイ子が事件を持ってくる)をゆるゆると乗りこなす、そんな「日常系」の深夜ドラマ。事件と言っても些細なことで、寝苦しい夜に一緒に寝ようとか、すき焼き食べてたらハエが出たから外に追い出してたら、ベランダのロックがかかって閉め出されたとか、ドタバタとユルユルが融合した、本当に面白い番組だった。三谷幸喜脚本も多々あり、三谷幸喜の出世作とも言われている。この番組きっかけで小林聡美と結婚した、という伝説の深夜番組なのである。
まぁ、それはおいといて。猫が好き、というタイトルのわりに「サチコ」という猫が、たまーに出てくるだけのドラマなんだけど、このタイトルとDavidの結びつきが、試聴してた頃はなんとも思わなかったんだが、最近になって、この歌詞の意味がスーッと理解でき、このDavidの歌詞を深く理解するに至り、この曲を思い出すだけで泣いてしまう状態になってしまった(ノ∀`)
これは、解釈としての一部であり、本当のところはどういう意味で矢野顕子が歌詞を書いたのかはわからない。
でも、この曲は「やっぱり猫が好き」な人でない限り書けない曲だと思ってる。
矢野顕子いわく「Davidって誰?」と聞かれるけど、誰でもない。と答えている。ダビデだ、という説もある。
しかし、この「誰でもない」はこの歌詞を読み解くひとつのヒントとなる。
果てしなく広がる街から ひとり離れて
ここへ置いていって
静かな微笑みを 遠い日々の歌を
どんなにか つらかった日々を
あなたは 見つめた
よく笑い よく泣くあなたの 話を聞かせて
こんなに近い 同じ思いで
ここで待っているよ
聴こえるでしょメロディ みんなで待ってるよ
私のともだち Oh David
歌詞を書いただけで、もう涙が止まらなくなってるんだけど、頑張ってひとつずつ解説したい。
この曲は、亡くなった猫が飼い主を思って歌ってる歌なんだ、と。
つまり、Davidは飼い主であり、私は天国にいる猫だ、と解釈すると、この曲の意味がわかってくる。
果てしなく広がる街、というのは、猫の視点からすれば、ただの街ではなく、そこは果てのない大きな大きな街に見える。
ひとり離れて、というのは、亡くなって離れていった。
あなたの手紙、というのは、たぶん火葬する時にDavidは手紙を書いて、その猫とともに天国に持たせたものなんだろう、と。
だから、読み返すうちに思い出が蘇ってきた、と。
こんなに遠い ということに対して「時間も場所も」というのは、やはり猫の時は止まっているけど、Davidの時間は進む。だから時間も、という表現になる。
ここへ置いていって欲しいのは、静かな微笑みや楽しげに歌ってた日々。つまり、Davidにはペットロスを乗り越えて、日々を進んでいって欲しい、という猫からの願い。
どんなにか辛かった日々を というのは、多分闘病していた猫の辛い日々や、ペットロスになったDavidの日常を空の上から見つめていたんだと思う。
そして、泣いて笑って、そんな日々を思い出して「ここで待っているよ」って、天国で再会することを待ち望んでいる。
みんな、というのは、きっとこの猫より前に飼っていた猫たちのことだろう。会いたいという気持ちは、飼い主だけでなく私たちも同じだよ、と。
最後に「わたしのともだち」というのは、飼い主のことを友達のように思っていた、ということなのかな、と。
パパやママという感覚ではなく、猫としては飼い主を友達のように思ってた、っていう。
この解釈でDavidを聴くと、涙が止まらなくなる呪いがかかるでしょうw
「やっぱり猫が好き」というタイトルだけ聞いて曲を書いた矢野顕子さんが「失ってもまだ猫の心と私の心は繋がっている。寂しいけれど、やっぱり猫が好き」という気持ちでこの曲を書き上げたのではないかな、という推測が成り立った。実際はコメディ番組だから、ここまでの深い考察をするまでは、まったくそんなこと、思いもよらなかった。
自分も先代の猫たちに会いたくて、今でも泣いてしまうけど、この曲の意味をこう解釈することで、亡くなった猫への思いを整理つけてペットロスから抜け出せるような気がしている。