はてなキーワード: 卓球部とは
日本のネット界隈の嫌中国報道は痛ましく思っている。思っていた。
椅子が爆発するだとか、米がプラだとか、ビルが倒壊するだとか、そんなことはどうでもいい。
僕がこの国に住んでみて感じた事はそんなことじゃない。
なぜ、そんぜそことが起こるのか、本質はなんなのか、僕の見た中国。
それを書く。
この国は今、まさにバブルだ。
高度経済成長に乗っかって、金が乱れ飛び、バブル時代の象徴のようにデコラティブな超高層ビルが並び、地下鉄は縦横無尽に市内を走る。
カルチャーを伴うようなものでもなければ、買えないものなんてほとんどない。
国が先進国の仲間入りを果たさんがために、成長にじゃぶじゃぶ金を使っている。
だが、人は違う。
これが全く経済の成長に追いついてない。
列に並ぶ、降りる人に道を譲る、前の人を押さない、脚を投げ出さない、弱者に席を譲る
こんなことも、本気でわからない。
高層ビルで働くホワイトカラーは、そのエレベーターの開くボタンを後から来る人の為に押しておくことを知らない。
どこの街角にもファミマやセブン、ローソンがあるが、列に並ぶ、たったそれすらもわからない。
「なぜ?私いそいでるのよ?譲ってよ。当然でしょ?」
家の寝室のドアの立て付けが悪いと業者を呼べば、布団や家具にカバーをかける事も無くいきなり大理石に電ノコを入れ始める。
終わった後にはうずたかく積もった砂埃の山に頭を抱える。
レストランで注文をする。
運んで来ればまだましだ。3回に1回は必ず何か忘れる。
おもしろい話がある。
中国でオーダーしたものが出てこない時、「早くもってこい」といっても出てこない。
「もういらない」と言えばいい。5分で出てくる。
いちいちイライラさせる。
もっと世界を知れば、そんなこと気にならないのかもしれない。
清潔(に見える)な新しい地下鉄に並ぶ時、誰が後ろから突き飛ばされることを予想できる?
舗装されて交通量の多い交差点をわたる時、誰が信号無視の車両を予想できる?
誰がドアマンのいるレストランでコックが厨房でシャンプーしてると想像できる?
何もかも不釣り合いだ。
分不相応だ。
そう思ってる。
基本的に、他者を思いやる、想像する、ということができない。
そう感じる。
さて、釣りタイトルだが、今朝、例によって地下鉄に乗っていた。
上海の2号線は朝、ひどい混雑だ。乗車率で言えば東京の山手線以上、田園都市線以下といったところか。
いつもは上のような理由でイライラするのが嫌で、タクシーで出社している。
自宅から会社まで日本円で250円くらいだから、その方が精神衛生にいい。
だが、今朝は早く目が覚めた。
背中を押され、体をぶつけられ、眉をしかめながら電車に揺られていたわけだが、そのひどさといったら日本人には絶対理解できないだろう。
他人なんかどうでもいいんだ。自分の乗る場所を確保できればいい。そんな人間の集まりだ。
脚をふもうが、肩が女性のほほを擦ろうが、鞄が誰かの胸を圧迫してようが関係ない。
やっと車内のアナウンスが降車駅を告げた。
こっちの人間は、自分が降りるときは、列車がつく前にドアの前に移動しないと気が済まない。
日本人なら、どんなに混んでいても、並んで降りれば降りられないなんてことは無いと知っているのだけれど、そんなことは皆知らない。
これはマジだぞ?
もう少しも動くスペースがないのに、無理矢理肩をこじ入れてドアの前に行こうとする。
僕はその時目の前に数人の人がいたので、お行儀よく並んでいたのだが、後ろにいた中国人の目にはそれが「降りない」と映ったようだ。
僕を突き飛ばしながら肩をぶつけてきた。
すると、そいつ、「やんのかおい」と言わんばかりの顔で睨んできた。
笑える。
キレた。
振り返るや胸ぐら掴んで思いっきり殴ってやった。
嘘だ。そんなにうまくいかない。ただのサラリーマンだ。中学は卓球部で高校は美術部だ。
胸ぐらつかんで列車に押しもどしてやったら、後ろから誰かに後頭部を殴られた。
一瞬、中国人が日本人に対して集中攻撃を始めたのかと思ったが違った。
仲間だ。仲間がいた。向こうは2人だった。
後頭部をうしろからガンガン殴ってくる。それ自体は全然痛くない。拳なんかより頭蓋骨の方が固い。
知らない、そんなことはどうでもいい、それよりこいつ、この今胸ぐらつかんでるこいつ、こいつは許せん。
そこで殴ろうとしてとうとう止められた。
駅員に。
羽交い締めにされながら「てめーこっちこいこの野郎!」そんなことを喚いていた気がする。
内心ホッとしてたか?そこまでひ弱じゃない。
どんなにボコボコにされてもごめんなさいと言わせてやる電車に乗るマナーを教えてやる!
無理だった。
その後引き離されても挑発してくる。
上等だおい。
ジェットリーよろしく胸をはって薄ら笑いを浮かべて、手のひらを上に向けてクイクイっとしてやる。
こいよ。マジでぶっとばしてやる。
まぁ、そんなこんなで、僕は眼鏡を失った。
「秦八郎」という眼鏡職人の作ったお気に入りの眼鏡だった。レンズも含めたら4万円はするだろう。
この国で落とし物が見つかる事は無い。
先ほど吉祥寺の眼鏡屋に問い合わせたら秦八郎氏はもうその眼鏡を作ってはいないそうだ。
早起きは3文の得?
4万円の損失だ。
これから中国に旅行に行ったり、赴任したりする人がもしかしたらいるかもしれないので言っておく。
あいつらに他人は見えていない。
嫌中国多いに結構。思う存分やってくれ。おれも嫌いだ。
飯もうまいと思おうとしたし、うまい飯を探した。あるわけがない。
いい人も沢山いる。ホントに親切だ。
だが、そんな人ですら、「列に並ぶ」ことができない。ドアを支えておくことが出来ない。
これが文化の壁だ。
最後になったが、地震の被災者とその二次被害者に心からお悔やみを申し上げる。
救援物資を待つ長蛇の列をニュースで見ると、涙がでそうになる。
勝てない、辛い、と思ったら即逃げてしまうようになってしまったのは、
遡れば中1の部活からだったような気がする。
俺が中学生の頃は、バリバリのスラムダンク世代ともいえる時期で、
当時の俺はその例にもれず、その地区でそこそこ強豪といわれてたバスケ部の門をたたいた。
運動は得意でない、でも何とかなると思った。
何ともならなかった。絶望の毎日だった。
そもそもボールを持った時頭が真っ白になり、何もできない。
そのうちなめられて俺にボールがきたら何人も群がられなにもできず被スティール。
そもそもちょっと早いパスになるととれなくなる。指が痛い。
そのうちなめられてボールがこない。くるのはそもそも捕らせる気のない、おふざけの剛速球。
このあたりでレギュラー候補の同級生には軽蔑され、それ以外にはストレスのはけ口にされる生活に。
だんだん嫌になって、同じく何にも出来ない子と部活をさぼるようになった。
そんな生活を半年続け2年に進学する時、俺は両親の転勤の都合で別の中学へ引っ越すことになった。
2年生、今度こそはと入ったハンドボール部。
サボることなく、卒業まで続けることができた。
いや、なんどもサボろうとしたけど仲良くなったキャプテンがそれを許さなかった。
でも、何もできなかったことに変わりはない。
顧問にセンスがないと一言いわれてへこみ、それをバネに努力することもせず、結局スタメンに選ばれるどころか
候補に挙がることすら1度もなかった。
高校はそんな努力をすること自体が苦痛で、でも部活に入るのが決まりだからって卓球部で幽霊部員。
残るものと言えば、同じ時間をなんとなく過ごしてきた部員とのなんとなくの繋がり。
大学でもサークルで学祭の店のリーダーをやるも、計画性の無さと人間関係のトラブルを全て他人におしつけ、さぼり、
連絡に来る携帯のバイブに怯え何がしたかったのかわからないまま終わってしまった。
もう少し、自分に暴力的な、暴走してでもいいからなにかエンジンみたいなものがあれば。
たとえば初めてバスケットボールを顔面に近距離で剛速球で投げられた時、
ただ泣くだけでなく全力でボール投げ返すことができていれば。
なにか変わったのだろうか。
おめーにだけは負けたくない、そう心から思って何かにとりくめる人間は強いと思う。
そりゃ動機は負の感情かもしれない、何かトラブルを起こすかもしれない。
けどそういった人間の爆発力には何か、とても憧れてやまないものが入ってる気がする。
なんでこんな事を書いたかっていうと、社会人1年目の今、同期と差が開いてきた気がして、
しかもそれが俺自身がさぼっている、+客にびびっちゃってるのが原因で、
その原因がわかっていながらもう嫌になっちゃって、また今日もサボるという悪循環を
繰り返してしまったから。
自分なりに何とかしようと、本を読んだり戦略練ったりはするものの、実行に起こせない。
アウトプットできないなら本とか読んでも全く無意味じゃないと、
わかっててもできない。
染みついた負け癖逃げ癖不利になったら放棄する癖が
どうしてもどうしてもどうしてもどうしてもとれない。
一回ドロップアウトしてしまったらもう戻れないのかな。
家に帰ってきた今は、こんなにやる気なのに、
寝て目が覚めたらまたいつもの日常になってしまいそうなのが怖い。
無口なので小学校では1年間くらいイジメをうけていた。成績は良いほうだった。というかずっと1番だった。小5のときにネットに出会った。最初はテレビゲームの攻略サイトとかチャットルームをよく見ていた。はじめはチャットを荒らしまくっていた。まぁ普段無口な小学生がネット弁慶になるって言うのは今でもあるだろ。遊戯王とかパワプロのホームページを作って遊んだ。中身はないようなものだったが。
今思えば中学時代が最も充実していたかもしれない。卓球部に入った。仲の良い友達もいたし後輩とも親しくなれた。しかし練習はちょくちょくサボっていたので中学最後の団体戦には1年生に枠を奪われて出られなかった。塾に通い始めたおかげで、学校での成績は良好だった。ホームページ作りに飽きて(人が集まらない)、ブログをやり始めた。が、書くネタも別になかったので何度も削除しては新しいブログを作った。塾と部活以外は本当にだらだらネットしている中学生だった。親にパソコンをねだったが却下される。
学区内で2番目の高校に入った。進学校を自称しているが、大半の生徒は偏差値55から60をさまよっているレベルだ。東大京大に受かる人間などまずいない。仲の良い友人たちは別の学校に行った。非コミュの俺はあまりクラスになじめなかった。
高校最大のミスは数ヶ月で部活(運動部)の幽霊部員になったことだ。中学の卓球部でだらだらしてた俺にとっては練習がおそろしくきつかった。廊下で先輩と顔を合わせるのがつらかった。
塾に行かず独学を決意したのが2つ目の大きな間違いだった。入学直後の進路希望には一橋大学社会学部と早稲田大学社会科学部を書いた。当時は「働きマン」を読んでいて雑誌の編集者になるつもりだったのだ。しかし数学と理科は早々に理解できなくなったので私立大学を目指すことにした。
梅田望夫の本を読んでプログラマーになろうと決意した。志望を慶応SFCと早稲田人科に変えた。再度、親にパソコンをねだったが却下される。
2年生のクラスではついにまったくのハブになった。学校祭とか体育祭が本当につらかった。昼休みはトイレにこもって2chしてた。家に帰ってネットしたり漫画読んだりする日々。俺が短期間部員だった部活の人たちはすげえリア充になっていた。
塾という外部強制から解き放たれた俺は授業2年の冬まで全く勉強しなかった。得意科目の偏差値もやばいことになり、そろそろ勉強し始めた。プログラミングも文字を表示させるレベルで挫折して、志望はいつの間にか早稲田になっていた。将来のビジョンなど頭から消えていた。英語と現代文ばかりやっていた。楽だったから。おかげで模試の判定はいつもEかDだった。だからといって焦ることもなかった。勉強する習慣が身に付いていなくて、30分くらいでネットや漫画に走ってしまう。中学のときもほとんど塾で勉強していたからかな。大学に行きたい理由も特になかったんだと思う。大学に入ってからやりたいことをやろうと考えていた。俳優とか政治家とか記者とか証券マンとかなりたかったかも。どれも3日くらいで忘れたが。
3年生になってもダラダラで、歴史科目の勉強も苦しくて苦しくてやっていられなかったので成績は悪いまま。それでも英語だけは偏差値70だったのでまぁなんとかなるだろと思っていた。夏休みは全く勉強せず。図書館に行くふりしてネカフェでまったりしてることも。家では部屋にこもっていたので、親は俺がそれなりに勉強していると思っていただろう。冬休みは冬期講習を受けたが、予習も復習もしなかったから金をドブに捨てたようなものだけど。歴史科目は半分くらいしか進んでなかった。親には偏差値50くらいの中堅私立大も受けとけと言われた。
明治に落ちて。
入試本番。早大入試の前日に秋葉原で漫画を買ってマック食べながら読んでるレベル。それでも10パーセントくらいの確率でもしかしたら受かるかもしれないと思っていた。試験が終わった後は浪人を頼み込もうと思っていた。母親は浪人も考えていてくれたようだが、父親は定年退職も近くてこれから給料が下がる、妹もいるということで浪人はダメだと言った。国立一本でがんばっていれば、浪人という選択肢も出ていたかもしれないことを後悔した。
早稲田。落ちた。
中堅私立しか受からなかった。
そして高校卒業。
友達もできず、恋愛に夢中になることもなかった。
上に書いてあること全部こなしてるやつだってたくさんいるというのに。
小学生の頃から何かひとつの技術にはまって、今頃は全国有数の実力者になっているやつだっているだろう。
俺みたいな奴も少なからずいるだろうから、そういうやつは一度自分を見つめ直してほしいとは言わない。どんどん堕落しろ。他人の不幸は蜜の味。
受験勉強にすらがんばれなかったという後悔は今もある。学歴コンプレックスこじらせてるな。やっぱりネットとかが好きなのでそういうものに少しでも関われる仕事をしたい。
なんだかんだあって4月からとある都内の文系学部に進むことになった。
やりたいことにどんどんチャレンジしていこう。
役に立つスキル磨いていこう。
なかのいい友達を作ろう。
熱い恋をしよう。
大学デビュー乙って思うかもしれんが、それはなにか違うんだよ。
ただ春のやわらかな風が俺の背中を押しているのを感じているんだ。
俺は変わってやる。変わらなくちゃいけない。
成績は良いほうだった。というかずっと1番だった。
小5のときにネットに出会った。最初はテレビゲームの攻略サイトとかチャットルームをよく見ていた。はじめはチャットを荒らしまくっていた。まぁ普段無口な小学生がネット弁慶になるって言うのは今でもあるだろ。
遊戯王とかパワプロのホームページを作って遊んだ。中身はないようなものだったが。
今思えば中学時代が最も充実していたかもしれない。
卓球部に入った。仲の良い友達もいたし後輩とも親しくなれた。しかし練習はちょくちょくサボっていたので中学最後の団体戦には1年生に枠を奪われて出られなかった。
塾に通い始めたおかげで、学校での成績は良好だった。
ホームページ作りに飽きて(人が集まらない)、ブログをやり始めた。が、書くネタも別になかったので何度も削除しては新しいブログを作った。
塾と部活以外は本当にだらだらネットしている中学生だった。親にパソコンをねだったが却下される。
学区内で2番目の高校に入った。
進学校を自称しているが、大半の生徒は偏差値55から60をさまよっているレベルだ。東大京大に受かる人間などまずいない。
仲の良い友人たちは別の学校に行った。非コミュの俺はあまりクラスになじめなかった。
高校最大のミスは数ヶ月で部活(運動部)の幽霊部員になったことだ。廊下で先輩と顔を合わせるのがつらかった。
塾に行かず独学を決意したのが2つ目の大きな間違いだった。入学直後の進路希望には一橋大学社会学部と早稲田大学社会科学部を書いた。当時は「働きマン」を読んでいて雑誌の編集者になるつもりだったのだ。しかし数学と理科は早々に理解できなくなったので私立大学を目指すことにした。
梅田望夫の本を読んでプログラマーになろうと決意した。志望を慶応SFCと早稲田人科に変えた。再度、親にパソコンをねだったが却下される。
俺が短期間部員だった部活の人たちはすげえリア充になっていた。
塾という外部強制から解き放たれた俺は授業2年の冬まで全く勉強しなかった。
得意科目の偏差値もやばいことになり、そろそろ勉強し始めた。プログラミングも文字を表示させるレベルで挫折して、志望はいつの間にか早稲田になっていた。将来のビジョンなど頭から消えていた。
英語と現代文ばかりやっていた。楽だったから。おかげで模試の判定はいつもEかDだった。だからといって焦ることもなかった。
勉強する習慣が身に付いていなくて、30分くらいでネットや漫画に走ってしまう。中学のときもほとんど塾で勉強していたからかな。
大学に行きたい理由も特になかったんだと思う。大学に入ってからやりたいことをやろうと考えていた。俳優とか政治家とか記者とか証券マンとかなりたかったかも。どれも3日くらいで忘れたが。
3年生になってもダラダラで、歴史科目の勉強も苦しくて苦しくてやっていられなかったので成績は悪いまま。それでも英語だけは偏差値70だったのでまぁなんとかなるだろと思っていた。
家では部屋にこもっていたので、親は俺がそれなりに勉強していると思っていただろう。
冬休みは冬期講習を受けたが、予習も復習もしなかったから金をドブに捨てたようなものだけど。
歴史科目は半分くらいしか進んでなかった。
明治には落ちてた。
入試本番。早大入試の前日に秋葉原で漫画を買ってマック食べながら読んでるレベル。それでも10パーセントくらいの確率でもしかしたら受かるかもしれないと思っていた。
母親は浪人も考えていてくれたようだが、父親は定年退職も近くてこれから給料が下がる、妹もいるということで浪人はダメだと言った。
国立一本でがんばっていれば、浪人という選択肢も出ていたかもしれないことを後悔した。
早稲田。落ちた。
中堅私立しか受からなかった。
そして高校卒業。
友達もできず、恋愛に夢中になることもなかった。
上に書いてあること全部こなしてるやつだってたくさんいるというのに。
小学生の頃から何かひとつの技術にはまって、今頃は全国有数の実力者になっているやつだっているだろう。
俺みたいな奴も少なからずいるだろうから、そういうやつは一度自分を見つめ直してほしいとは言わない。どんどん堕落しろ。他人の不幸は蜜の味。
受験勉強にすらがんばれなかったという後悔は今もある。
なんだかんだあってネットとかが好きなのでそういうものに少しでも関われる仕事をしたい。
なんだかんだあって4月からとある都内の文系学部に進むことになった。
やりたいことにどんどんチャレンジしていこう。
役に立つスキル磨いていこう。
なかのいい友達を作ろう。
熱い恋をしよう。
大学デビュー乙って思うかもしれんが、それはなにか違うんだよ。
ただ春のやわらかな風が俺の背中を押しているのを感じているんだ。
俺は変わってやる。変わらなくちゃいけない。
勝てない、辛い、と思ったら即逃げてしまうようになってしまったのは、
遡れば中1の部活からだったような気がする。
俺が中学生の頃は、バリバリのスラムダンク世代ともいえる時期で、
当時の俺はその例にもれず、その地区でそこそこ強豪といわれてたバスケ部の門をたたいた。
運動は得意でない、でも何とかなると思った。
何ともならなかった。絶望の毎日だった。
そもそもボールを持った時頭が真っ白になり、何もできない。
そのうちなめられて俺にボールがきたら何人も群がられなにもできず被スティール。
そもそもちょっと早いパスになるととれなくなる。指が痛い。
そのうちなめられてボールがこない。くるのはそもそも捕らせる気のない、おふざけの剛速球。
このあたりでレギュラー候補の同級生には軽蔑され、それ以外にはストレスのはけ口にされる生活に。
だんだん嫌になって、同じく何にも出来ない子と部活をさぼるようになった。
そんな生活を半年続け2年に進学する時、俺は両親の転勤の都合で別の中学へ引っ越すことになった。
2年生、今度こそはと入ったハンドボール部。
サボることなく、卒業まで続けることができた。
いや、なんどもサボろうとしたけど仲良くなったキャプテンがそれを許さなかった。
でも、何もできなかったことに変わりはない。
顧問にセンスがないと一言いわれてへこみ、それをバネに努力することもせず、結局スタメンに選ばれるどころか
候補に挙がることすら1度もなかった。
高校はそんな努力をすること自体が苦痛で、でも部活に入るのが決まりだからって卓球部で幽霊部員。
残るものと言えば、同じ時間をなんとなく過ごしてきた部員とのなんとなくの繋がり。
大学でもサークルで学祭の店のリーダーをやるも、計画性の無さと人間関係のトラブルを全て他人におしつけ、さぼり、
連絡に来る携帯のバイブに怯え何がしたかったのかわからないまま終わってしまった。
もう少し、自分に暴力的な、暴走してでもいいからなにかエンジンみたいなものがあれば。
たとえば初めてバスケットボールを顔面に近距離で剛速球で投げられた時、
ただ泣くだけでなく全力でボール投げ返すことができていれば。
なにか変わったのだろうか。
おめーにだけは負けたくない、そう心から思って何かにとりくめる人間は強いと思う。
そりゃ動機は負の感情かもしれない、何かトラブルを起こすかもしれない。
けどそういった人間の爆発力には何か、とても憧れてやまないものが入ってる気がする。
なんでこんな事を書いたかっていうと、社会人1年目の今、同期と差が開いてきた気がして、
しかもそれが俺自身がさぼっている、+客にびびっちゃってるのが原因で、
その原因がわかっていながらもう嫌になっちゃって、また今日もサボるという悪循環を
繰り返してしまったから。
自分なりに何とかしようと、本を読んだり戦略練ったりはするものの、実行に起こせない。
アウトプットできないなら本とか読んでも全く無意味じゃないと、
わかっててもできない。
染みついた負け癖逃げ癖不利になったら放棄する癖が
どうしてもどうしてもどうしてもどうしてもとれない。
一回ドロップアウトしてしまったらもう戻れないのかな。
家に帰ってきた今は、こんなにやる気なのに、
寝て目が覚めたらまたいつもの日常になってしまいそうなのが怖い。
ttp://2nnlove.dtiblog.com/blog-entry-679.html
876 :Trader@Live! :sage :2009/11/22(日) 05:38:41 (p)ID:jFRIPjIg(2)
110 名前:名無しさん@十周年 投稿日:2009/11/22(日) 03:35:26 ID:nACa9HXZO
↓
腐った民主党議員に天誅を加えようと民主党本部の入るビルに侵入を企てる。
(普通は顔面蒼白で全身からただならぬ気配を発しているはず。)
↓
何故か1階の警備員にまったく怪しまれることなく6階の民主党本部へww
↓
何故か受け付け付近の警備員と一切揉み合うことなく、
すんなりと侵入した部屋が偶然鳩山の執務室ww
↓
↓
↓
警察官が駆けつけた時には、何故かもみ合った跡もなく
素直に警備員に取り押さえられた哲一がww
141 名前:名無しさん@十周年 投稿日:2009/11/22(日) 03:49:17 ID:8iThHXv7O
前スレ968って↓これか?
968:2009/11/22(日) 02:43:06 ID:nACa9HXZO (2)
↓
↓
↓
gxc.google.com
勝てない、辛い、と思ったら即逃げてしまうようになってしまったのは、
遡れば中1の部活からだったような気がする。
俺が中学生の頃は、バリバリのスラムダンク世代ともいえる時期で、
当時の俺はその例にもれず、その地区でそこそこ強豪といわれてたバスケ部の門をたたいた。
運動は得意でない、でも何とかなると思った。
何ともならなかった。絶望の毎日だった。
そもそもボールを持った時頭が真っ白になり、何もできない。
そのうちなめられて俺にボールがきたら何人も群がられなにもできず被スティール。
そもそもちょっと早いパスになるととれなくなる。指が痛い。
そのうちなめられてボールがこない。くるのはそもそも捕らせる気のない、おふざけの剛速球。
このあたりでレギュラー候補の同級生には軽蔑され、それ以外にはストレスのはけ口にされる生活に。
だんだん嫌になって、同じく何にも出来ない子と部活をさぼるようになった。
そんな生活を半年続け2年に進学する時、俺は両親の転勤の都合で別の中学へ引っ越すことになった。
2年生、今度こそはと入ったハンドボール部。
サボることなく、卒業まで続けることができた。
いや、なんどもサボろうとしたけど仲良くなったキャプテンがそれを許さなかった。
でも、何もできなかったことに変わりはない。
顧問にセンスがないと一言いわれてへこみ、それをバネに努力することもせず、結局スタメンに選ばれるどころか
候補に挙がることすら1度もなかった。
高校はそんな努力をすること自体が苦痛で、でも部活に入るのが決まりだからって卓球部で幽霊部員。
残るものと言えば、同じ時間をなんとなく過ごしてきた部員とのなんとなくの繋がり。
大学でもサークルで学祭の店のリーダーをやるも、計画性の無さと人間関係のトラブルを全て他人におしつけ、さぼり、
連絡に来る携帯のバイブに怯え何がしたかったのかわからないまま終わってしまった。
もう少し、自分に暴力的な、暴走してでもいいからなにかエンジンみたいなものがあれば。
たとえば初めてバスケットボールを顔面に近距離で剛速球で投げられた時、
ただ泣くだけでなく全力でボール投げ返すことができていれば。
なにか変わったのだろうか。
おめーにだけは負けたくない、そう心から思って何かにとりくめる人間は強いと思う。
そりゃ動機は負の感情かもしれない、何かトラブルを起こすかもしれない。
けどそういった人間の爆発力には何か、とても憧れてやまないものが入ってる気がする。
なんでこんな事を書いたかっていうと、社会人1年目の今、同期と差が開いてきた気がして、
しかもそれが俺自身がさぼっている、+客にびびっちゃってるのが原因で、
その原因がわかっていながらもう嫌になっちゃって、また今日もサボるという悪循環を
繰り返してしまったから。
自分なりに何とかしようと、本を読んだり戦略練ったりはするものの、実行に起こせない。
アウトプットできないなら本とか読んでも全く無意味じゃないと、
わかっててもできない。
染みついた負け癖逃げ癖不利になったら放棄する癖が
どうしてもどうしてもどうしてもどうしてもとれない。
一回ドロップアウトしてしまったらもう戻れないのかな。
家に帰ってきた今は、こんなにやる気なのに、
寝て目が覚めたらまたいつもの日常になってしまいそうなのが怖い。
最初自分のブログで書こうかとも思ったのだけど、あまりにもしょーもないネタなのと住所特定される恐れがあるので初めて増田使わせてもらうことにする。
東京大学なら東大、京都大学なら京大みたいな感じで学校名を略称で呼ぶのはよくあることだと思うのだけど、その場合、うちの地元の中学が困ったことになる、というお話。
なんせ頭文字が「女」、しかも正式な読み方が「おな」なのだ。「第二中学校」を略称で表現してしまうと……あとはもう、わかるよな?
ちなみにさらにしょーもない話たとして、中学時代、自分は一中のほうだったのだが、近くに実在した「稲中卓球部」と練習試合をしたことがあったりする。一応勝ったが、強かった記憶があるなあ。
The G -戦いの記録-
・・・沖縄在住。
6月。まれにGが姿を現すようになった。
部屋を自在に動き回る奴等に対し、箒で応戦した。
しかし、それは武器と呼べる代物ではなかった。
あまりに大きすぎ、そして毛先は威力を削いだ。
7月。Gの出現頻度が上がる。ここはもう奴等の領域だ。
相変わらず、箒による成果は芳しくない。
友人から物理攻撃以外の攻撃を教えてもらう。
熱湯は有効だそうだ。食器用洗剤は必殺の化学兵器だという。
しかし、奴等は都合よくシンクの中には居なかった。
熱湯や洗剤の使用は、良い条件が必須なのだ。
7月下旬。ついに、箒が折れてしまった。
新聞は取っていない。抗うすべが無くなった。
そして悪いことは続いた。
Gの幼虫が現れたのだ。すなわち、奴等は繁殖している!
8月。総決戦の時。
相当数の糞を処理した。黒光りする卵も二つ発見した。
暫らくは収納扉を開け放ち、光を入れる。
しかし、奴等の姿は見当たらなかった。
次に、新兵器の導入を決定した。100均のハエ叩きだ。
軽くて、よくしなり、また大きさも扱いやすい。
唯一の不安は、攻撃力だ。これは実践で検証するしかない。
翌日、背後に高速移動体の気配を感じた。
新兵器を手に取り振り返ると、果たして壁にGが居た。
素早く、落下予想地点付近を確認する。良かった。大事なものは無い。
奴等は尻に風を感じる器官があり、後ろからの攻撃は避けられると言う。
大丈夫。今の位置なら、ヤツのやや前方から攻撃できる。
あとは、何撃目で仕留められるかだ。
初太刀の後は、素早く二撃目を打たなければならない。
そして、ハエ叩きの柄の長さ、目標までの距離を再度確認する。
意を決した。刹那、ハエ叩きの青い閃光が壁を撃った。
確かにクリーンヒットだ!
二撃目のため、すぐにハエ叩きをホームポジションに戻す。
が、そこに見えたものは、壁に張り付いたGであった。
足は千切れ、体は潰れている。
触覚は辛うじて動いているものの、瀕死であった。勝ったのだ。
ハエ叩きは、しかし予想以上の働きをしてくれた。
ハエの死骸の除去のため、先端が櫛のようになっているのだが、
これはGにも有効だったのだ。
以上が私の戦記である。後世のため、ここに記す。
そうPCに向かって打ち込んでいると、
ふと、首筋に乱れた気流が触れた。
振り返ると、やはりである。飛んでいる。
着地した瞬間を狙って、再び青い閃光を放つ。
ヤツは走り出したが、再びクリーンヒット。
あ、思い出した。この感覚。
素早く動く小さな球を、ラケットで打ち返す感覚。
卓球部に所属し、動体視力を磨き正確に打ち抜く技術を得たことが、生かされた。
しかしだ。どうして6匹も出てくる。シンク下の掃除がまずかったのか。
戦いは、現在も続いている。
中学2年になった時から、僕は学校に通うことを馬鹿馬鹿しく感じるようになった。I藤先生という、そこそこ若く、おなかがぽっこりしていて、割といい加減な印象を与える非常勤講師と出会ったことがきっかけだった。
前にこの日記で書いたけど、僕は中学の時卓球部に在部していて、まぁこの部が結構腐っていたってことはさておき、産休のM元先生の代わりに、I藤先生が臨時顧問としてやってきた。
I藤先生(意味のない伏字が面倒になってきた)は、もう一人の前からいる顧問、O西先生とは違って、グウタラだが生徒からは好かれていた。日曜日にふた駅先の体育館で試合があったとき、体育館内にある自動販売機での飲食を、つまりは買い食いを先生が「え?別にええよ」というように気軽に許可したとき、僕らは嬉しい反面ビビった。普通の先生なら許さないはずなのに、どうしてこの先生は買い食いを認めたのだろうと。その反面、どうして買い食いはいけないという校則があるのだろうかと疑問を持つようになった。どうして日常生活が学校によって制限されないといけないのだろうと。そしてその日から僕は小さな尾崎豊になった。
その日以来、校則に縛られることに抵抗を覚えるようになった。私の中学はアホのような校則がいくつか存在する。代表的なものは、シャーペン禁止。鉛筆の方が筆圧が高くなっていいんだとよ、肩凝るのに。それに反発していると、お気に入りのスヌーピー人形月のシャーペンを没収され、泣きそうになった。
また別に、検尿の回収をするとき、円筒形の容器のふたを外してからステンレスの検尿立てに立てるようにというきまりがあった。それを持っていく委員さんがコケたらどうするんだと聞くと、そしたら既に実際コケた奴がいたんだと。もう溜息が出そうになった。
そうしているうちに、だんだん毎日が嫌になっていった。態度が悪かったからだろうか、そこそこ真面目にやってた卓球部の白浜での試合に<なぜか>出れなくなり、やる気がどんどんなくなっていき、その後何度も遅刻を繰り返すようになった。私立で進路が早めに決まっていたことからか、<なぜか>先生から調子に乗りすぎていると窘められたりした。進路の決まっていない周りに気をつかっているつもりだっただけに、ものすごく萎えた。
今思うと、私は中学で校則を破っていてよかったと思う。もし、私が従順に校則を守っていたならば、馬鹿を見る正直者で終わっていたと思う。馬鹿をみても、抵抗しただけましだった。
もやしっ子だから体力は女子と大差ないって、そんなわけがない。
私は握力36kgかつ柔道黒帯(といっても四年しただけでブランク有)だけど、細くって身長も二三センチしか変わらなくて、中学校は卓球部で高校は帰宅部で大学は飲みサークルでした、という彼氏とふざけて揉み合った時に全く歯が立たなかった。相手は笑ってじゃれてたけど、私は結構本気だった。なのに全然相手にもなってなかった。
それなりに体力(というか腕力)に自信があっただけにショックだった。別に彼氏だから押し倒されようと構わなかったけど、あれが害意をもった人間だったら私は何の抵抗もできなかったと思う。
男と女の力の差というのは、本当に全然違う。握力なんかじゃ全然測れない(事実彼氏の握力は同じくらいかやや私が上、くらいだった)。「おれ力ないからー」などという男の人がいるが、女にとってみればそれで充分脅威であり、桁違いの力を持っていることを理解しておくべき。
本当に全然違う。
その子は地毛が結構茶色い。卓球部で、夏の試合に出れないかもしれないらしい。
これは決して先輩からの嫌味の言葉ではない。実際に黒く染めた先輩もいるという。
先 生が出場させてくれないのだ。先生は黒く染める事を強制とまではいかないが、オススメしている感じ。
Σ川‘ヮ‘)o0(軽く茶髪だと試合できないの!?
疑問を持つ俺。
俺の中学時代も学校全体でそういう風潮で慣れてたが、今思えばあれは洗脳だ。眉毛いじるなとか、2本以上の線のデザインの靴下履くなとかも言われてた。
だってそれって、その子の髪を否定してるって事じゃないか←結論