はてなキーワード: ビバリーヒルズとは
名前だけは聞いたことがあるチバリーヒルズ、正式にはワンハンドレッドヒルズと言うらしいが、どんなところなのだろう。Google Earthで見てみる。
そこの一部エリアにプール付きの大きめの家が並ぶ団地が見える。
1軒あたりの面積は400坪から500坪、それ以上の広さの土地もある。狭い家でも松濤の三木谷邸くらいは広いらしい。
たしかに広いが本家ビバリーヒルズと比べたらどんなものなのだろう。
ビバリーヒルズはサンタモニカブールバールという大通りの南と北、さらに北の山の中と家の広さで見ると大きく3つの地域に別れているようだ。
サンタモニカブールバールの北側の家々はだいたい400坪から500坪、チバリーヒルズと似たようなサイズ感の家々らしい。
それがチバリーヒルズが数十、もしかしたら100個入るくらいの面積に広がっている。
さらに北の山の中は700坪とか1000坪とかいう孫正義邸くらいの豪邸が並んでいる。
サンタモニカブールバールの南側は普通の家が並んでいるように見える。しかし小さいといえど1軒200坪はある。
【追記】
「映画シリーズ」は元増田の偏見により「3作以上続いている作品」とさせていただいております。また「代表的」は主観がかなり入りますがその映画と言えばこの俳優だよね、この俳優と言えばこの映画だよね、と一般的に想起されるものを主軸としております。
一昔前まではシルベスター・スタローンの「ロッキー」「ランボー」くらいしかなかった。
最近、キアヌ・リーヴスが「マトリックス」「ジョン・ウィック」でここに加わった。
トム・クルーズは代表シリーズは「MI」で最近「トップガン・マーヴェリック」が出たが、
ジャックリーチャーシリーズも2作までだし、ダークユニバースは解散した。
ダニエル・クレイグは「007」は代表シリーズに入れていいだろうと思うが、
「ナイブズ・アウト」シリーズはまだ2作だが今後続いていけば候補に入るか。
ロバート・ダウニーJrは「アイアンマン」と「シャーロック・ホームズ」だが後者が2作まで。
ヴィン・ディーゼルは「ワイルドスピード」シリーズは押しも押されもしない代表作だが
ジェイソン・ステイサムは「トランスポーター」は確定として「エクスペンダブルズ」を入れれば当確。
でもエクスペはどっちかっていうとスタローンの映画だと思うんだよな。
シュワちゃんは「ターミネーター」で次点がなく、ブルース・ウィリスも「ダイハード」の次点がない。
なんかアクション俳優ばっかりだけど演技派の俳優ってあんま長くシリーズ化する作品の主役にならんイメージ。
この俳優は2つ以上、並び立つくらいの代表シリーズがあるって俳優いる?
ハリソン・フォードは「インディ・ジョーンズ」と「スターウォーズ」(とジャック・ライアンシリーズ)で当確。
ウィル・ビンタ・スミスも「メンインブラック」と「バッドボーイズ」で当確。
イアン・マッケランは「ハリーポッター」のイメージはあるかなぁ……ちょっと脇役すぎない?
ジャッキー・チェンは「ポリスストーリー」と「ラッシュアワー」かなぁ。
〇〇拳、プロジェクト〇は実際はシリーズものではないような気はする。
エディ・マーフィーは「ビバリーヒルズコップ」はいいんだけど、
「48時間」も「ナッティプロフェッサー」も「ドクタードリトル」も2作目までしか出てない。
48時間で思い出したけど
メル・ギブソンは「マッドマックス」「リーサルウェポン」で当確か?
L知ってるか、カルフォルニアという州を。北にはシリコンバレーがあって南にはハリウッドがあるんだ。
シリコンバレーではポリコレが大人気だ。気軽に正義アピールができるので浅はかな人間に大ウケしている。Masterブランチが差別だと叫びながら良い学区に我先にと住みたがる。米国の公立校は学区で金を出し学区で教育内容も決めるので悪い学区に住んだらそれだけで将来に悪影響が及ぶ。Blacklistが差別だと声高に叫びながらgated communityに住みセグリゲーションの恩恵を受ける。サンフランシスコはドラッグ中毒のホームレスにまみれ薬局の棚には鍵がかけられている。950ドルまでは万引きしても捕まえられないので白昼堂々と万引きが行われている。
ハリウッドでもポリコレは留まるところを知らない。有色人種の声優は有色人種がやるべきなど意味不明な正義を撒き散らしながらも本質的な問題解決には一切興味がない。シリコンバレーの浅はかな経営者と同じく浅はかなパフォーマンスにすぎない。ビバリーヒルズから一歩出るとそこには大量のテントが張られている。そのコントラストは非常に美しい。ハリウッドがあるロサンゼルスは温暖な気候であることもありホームレスの数は全米でトップだ。
ポリコレは害悪だ。ポリコレに精を出す者も同罪だ。Masterブランチが差別だから変えろだのBlacklist/Whitelistが差別だから変えろだのMaster bedroomを言い換えろだのそんなことに時間とエネルギーを割いている人々は全員舌を噛んで死ぬべきなのだ。
増田の言ってることは「異性からの性加害を受けること」も「モテの一種」ということなので、その定義に従うなら言ってることは正しい。
女はどんなブスでも大抵一度は痴漢や強姦未遂にあったことがあるが、男はどんなイケメンでも痴漢にすらあわない。
(これが正しいとすると、男性の性被害者の存在はレアケース過ぎるので、社会問題として考慮するに値しないのだが、今の話には関係ないので置いておく)
男の肉体と女の肉体は資産価値が違う。これもそれなりに正しい。なにせ子供を生むという生命体最大の機能は女の肉体しか有していない。
しかし、女がその資産価値の教育を受けていないというのは間違いで、その教育は「男を信じるな」という防犯意識として教育を受けている。
つまり、増田のいう「モテ」は、女側からは「犯罪」と捉えられている。
しかし、増田は「犯罪行為もモテの一種』と定義しているので、この場での言葉の定義としては問題ない。
さて、それでは女が自分の持てる富に自覚的になれば、女は弱者男性の苦悩を理解できるのか。
答えは否だ。
なぜなら、「加害されることすらモテ」とした場合、男女それぞれが持つ資産価値は、ビバリーヒルズとスラム街どころの格差ではない。
石油王はアリの生活において何が豊かなのか想像もつかないし、アリは石油王の生活など想像もつかない。
石油王がぽろっと角砂糖を落としたとする。資産価値の百億分の一にも満たない角砂糖だし、そのまま放置だ。それをアリが見つける。
その角砂糖は、アリにとっては一生を左右するレベルの財産価値がある。
アリは「角砂糖のような莫大な財産を自分に差し出したということは、石油王は俺に、財産ほぼすべてを差し出すつもりがあるのだろう」と勘違いする。
アリは価値観が貧しすぎるので、角砂糖の価値と超高級クルーザーの価値の区別がつかないからだ。
一億円も500億円も「とんでもない資産」という意味で同等である。
だから、「角砂糖くらいくれてもいいだろう、角砂糖をくれたならクルーザーもくれてもいいだろう」という要求を簡単にいう。
石油王からすれば、無意識に落とした角砂糖ひとつを根拠に「お前の一番大きな資産をよこせ」と言われるわけだ。理不尽にも程がある。
それは通らない。無茶苦茶過ぎる。
その思想で、「弱者男性の苦しみを理解してほしい」というのは無理。
増田の言ってることは「異性からの性加害を受けること」も「モテの一種」ということなので、その定義に従うなら言ってることは正しい。
女はどんなブスでも大抵一度は痴漢や強姦未遂にあったことがあるが、男はどんなイケメンでも痴漢にすらあわない。
(これが正しいとすると、男性の性被害者の存在はレアケース過ぎるので、社会問題として考慮するに値しないのだが、今の話には関係ないので置いておく)
男の肉体と女の肉体は資産価値が違う。これもそれなりに正しい。なにせ子供を生むという生命体最大の機能は女の肉体しか有していない。
しかし、女がその資産価値の教育を受けていないというのは間違いで、その教育は「男を信じるな」という防犯意識として教育を受けている。
つまり、増田のいう「モテ」は、女側からは「犯罪」と捉えられている。
しかし、増田は「犯罪行為もモテの一種』と定義しているので、この場での言葉の定義としては問題ない。
さて、それでは女が自分の持てる富に自覚的になれば、女は弱者男性の苦悩を理解できるのか。
答えは否だ。
なぜなら、「加害されることすらモテ」とした場合、男女それぞれが持つ資産価値は、ビバリーヒルズとスラム街どころの格差ではない。
石油王はアリの生活において何が豊かなのか想像もつかないし、アリは石油王の生活など想像もつかない。
石油王がぽろっと角砂糖を落としたとする。資産価値の百億分の一にも満たない角砂糖だし、そのまま放置だ。それをアリが見つける。
その角砂糖は、アリにとっては一生を左右するレベルの財産価値がある。
アリは「角砂糖のような莫大な財産を自分に差し出したということは、石油王は俺に、財産ほぼすべてを差し出すつもりがあるのだろう」と勘違いする。
アリは価値観が貧しすぎるので、角砂糖の価値と超高級クルーザーの価値の区別がつかないからだ。
一億円も500億円も「とんでもない資産」という意味で同等である。
だから、「角砂糖くらいくれてもいいだろう、角砂糖をくれたならクルーザーもくれてもいいだろう」という要求を簡単にいう。
石油王からすれば、無意識に落とした角砂糖ひとつを根拠に「お前の一番大きな資産をよこせ」と言われるわけだ。理不尽にも程がある。
それは通らない。無茶苦茶過ぎる。
その思想で、「弱者男性の苦しみを理解してほしい」というのは無理。
悲しいかって?悲しい。だが俺の悲しさはお前とは違って、コンテンツの作り手である編集やライターが一向に報われていないところにある。
ちょっとした思いつきによる面白さを追求する、というカテゴリーは今も昔もあって、それ自体は今後も消えてはいかないと思う。だが、その面白さをマネタイズするのに成功してるのは、完全に後発のYouTubeやTikTokとかの連中で、デイリーポータルの編集やライターはクリエイティブに対する報酬を全くと言って良いほど受けてなさそうなのが悲しい。
少し前には、猫の動画をアップしてるやつが、YouTubeの公式から銀の盾をもらって新築の一軒家を購入していた。一方で、デイリーポータルやオモコロやらロケットニュースのライターは相変わらずビンボ臭くて、まあそれも良いところなのだが、潤ってる感じが全くない。デイリーポータルの林さんとか、YouTube業界の金持ち連中の100倍ぐらい稼いでビバリーヒルズに豪邸建てていてもいいとおもうんだが、時折記事に出てくる自宅のマンション一階ベランダとか相変わらずビンボ臭くてそれがまたいい。江ノ島くんとかジャガーとかキャデラックに乗ってるぐらいのスターになっていておかしくないところが、いまだにママチャリに乗っててもそれがいいんだが、やっばり俺は悲しい。
最近よくあるフェミ映画の評論見ていて、なんかおかしいと思いつつ見ているうちに気づいた。
例えばワンダーウーマンとか、マッドマックスとか、キャプテンマーベル、最近だとターミネーターとか。
その評論がことごとく、作品が面白いか、とか、キャラクターが魅力的か、ストーリーが魅力的か、っていう
「プロパガンダとして優秀か」でしか評価されていない事に気づいた。
評論家の根底には、「フェミニストのプロパガンダ」としてのストーリーが存在している。
まず主人公は「男性・男性社会と呼ばれるもの」に抑圧されてればならず、そしてそれを絶対に肯定してはいけない。
そして主人公は自分の中にある力に目覚め、それを社会の為に行使し、決して内に籠ってはいけない。そして主人公は「男性らしく」あらねばならず、
そして最終的にすべての抑圧から解放されなければならない……。というストーリー。
ワンダーウーマンは、抑圧から解放されてないのでダメ、マッドマックスは解放されてるのでOK、キャプテンマーベルはOK、ターミネーターは……みたいな。
女性の多様性を売りにしてる割には、今までの映画にありがちな抑圧を肯定したり、力を捨てたり、男性性、暴力性を捨てたりってものが無くて
逆に女性は「貧乳で力が強くて役割が無い自由な人間じゃないといけない」みたいな存在を強制されているように感じる。
というより、「現実の大人が与えた、考えた自由の中で育っている箱入り娘」にしか感じられない。
その点今じゃ男性だけになった映画は、いろんな選択肢や価値観が存在している。ジョーカーの映画だって、「価値観なんて自分で決めろ」って言うメッセージが込められているだろ。
ビバリーヒルズみたいな作品の方がまだ女性の自由な生き方を支援していたと思うんだけど(親の世代には嫌われるような価値観だけど)
フェミ映画の気持ち悪さって「女性誰もが受け入れられる価値観」な所なんだよな。
「おばさんが嫉妬せずに見る事が出来る容姿で、ちょっと反抗するけど最終的に自分の事を受け入れてくれる不幸に片足漬かった可愛い娘」
が大体主人公。それっておかしいだろ、自分の若さと才能を十分に生かしたら、自分の親やおばさんの世代に嫌われるのが普通のなのにそれはない。
結局フェミ映画って形を変えた毒親みたいなところがある。「私は貴方の事を思ってこの価値観を与えてあげてるのだから、あなたは反抗するな」みたいな。
ちゃうやろ、反抗してなんぼだろって思う。
俺は男だからさ、そういう映画避けて生きればいいだけなんだけど
最近はスパイダーマンも、ママたちに助けてもらったり、トムホの着替えシーンがあったりして
こういう需要もあるんだ、いろんな生き方できるしええなぁ、って楽な気持ちになったし、
女の着替えシーンないのは寂しいけどそんなんエロ動画見れば十分だなって思うし
2000年代くらいの映画で女性の感じてた解放感を今男が与えてもらってる感じがして
悪くないなとは思うけど。
まぁそんな自由も、「女性を規制してるから」生まれてる自由なわけで、これから男の人権向上なんて言葉が飛び出した日には
男の生き方も狭まってくるんだと思うけど
日本人が顔を黒く塗るのはアフリカ系人種差別か?という論争が巻き起こっている。
1人だけ映画「ビバリーヒルズコップ」のエディマーフィーのコスプレをさせられるというシーンだった。
この番組ではダウンタウンの浜ちゃんが1人だけ番組の趣旨から少しだけ外れた仮装を行うことが恒例となっている。
つまり「番組のテーマをしっかり理解していない」という体のボケであり、
番組が仕掛けたくだらないギャグに浜ちゃんが巻き込まれる不条理さも相まって独特な可笑しさを楽しむ風景なのだ。
この番組は無論アフリカ系人種(以下「アフリカ人」)を卑下する意図はなく
単にエディマーフィーのコスプレをさせただけのつもりだったが
「ミンストレルショー」のトラウマが根深い欧米人から非難があがり問題となっている。
僕が言及したいのはなぜアフリカ人のコスプレ、テレビ番組的に言えば物真似をするときに、日本人は黒塗りをしてしまうのか、
そして「ミンストレルショー」の存在を知ってもなおここまで非難されることに日本人は納得できないのかということだ。
日本人は物真似を形態模写という職人芸として捉えているのに対し、
欧米人は物真似を風刺の手段だと認識しており、そのギャップが今回の問題の噛み合わないところなのではないだろうか。
白山雅一や江戸屋猫八等に代表されるような寄席演芸で培われた職人芸の延長線上にある。
なので似ていればいるほど賞賛され、
鍛錬の成果や手間暇が垣間見えれば
それは「対象への憧れからくる興味の現れ」として敬意の証とされる。
何かに対する批判を風刺で表現しているという感覚が根底にあるように見える。
その文脈の中で物真似とは対象を揶揄する行いであり、対象を貶しているのである。
今回の騒動に当てはめれば
エディマーフィーに好意的感情があるからこそ物真似のモチーフに選び
しかもわざわざ凝った黒塗りの扮装までしていると日本人は捉える。
しかし見下げる感覚があるから表層を真似るのだという前提が欧米のステージショーには存在するため
欧米人は180度違う意図があるように感じてしまったのではないだろうか。
もはやこれは文化的断裂でありどちらかが折れれば済むことではないと僕は思う。
この騒動で指で目を釣り上げる行為を引き合いに出す人もいたがズレていると思う。
ベッキーのタイキックと、そもそも笑ってはいけないの罰ゲームがどうこうというのは趣旨がずれるので、今回はエディ・マーフィーの件のみについて。
生放送で見てた時は正直笑った。アメリカンポリスという設定でエディ・マーフィーというボケは、ビバリーヒルズコップを知っている世代にとっては見事なツボだった。
そしてその後の報道を見て改めて考えた。果たして浜ちゃんが顔を黒くせず、かつらやひげ、服装だけで登場してたら同じくらい面白かっただろうか。そこに面白さの違いがあるとしたら「顔を黒く塗っている」ことが面白さなのであって、各種報道を踏まえて考えるなら黒塗りで黒人を演出するということはよくないことだったのだろう。
もう少し考えを巡らせた時に、今回の報道で「これは差別だ」と発言して取り上げられている人が1人なのがちょっと気になった。数が少ないから気にするなと言うわけではないし、話題になったということはそれだけの人がこの意見を支持したんだとは思うが、とはいえ一部の声が世の中のすべての声、みたいに拡大解釈されてないだろうか。
以前に海外モデルが着物を着たときに文化の盗用だ、と海外では炎上したけど、当の日本人は全然気にしてないどころかむしろ好印象、みたいな雰囲気だったと記憶している。ミンストレルショーは問題だとして、黒塗りした時点で差別だ、と切り捨てていいのだろうか。むしろこういう事件が起きたからこそ、お互いの文化の違いをすり合わせていくいい機会にならないものだろうか。
そして最後に、こうやって差別の名の下に言葉や表現を抑制していくことこそが差別につながってやしないだろうかいう危惧もある。五体不満足の乙武さんが「自分の手足がないことを笑ってくれる世の中がいい」みたいな趣旨のことを言っていたけど(うろ覚えなのでソースがあったら教えてくれ)、相手の肌の色も背の高さも体型も何もかも口に出せて、それはただ単に人それぞれ違うだけでまったく気にしないで言い合えることこそが理想論かもしれないけれど本当に差別がない世の中なんじゃないだろうか。言葉や表現をどんどん刈っていくこの流れこそが差別を助長している側面はないかなとちょっと気になっている。
会社編
・海外研修旅行にて、会社から「100万円くらいなら使ってOK」とゴールドカードを渡された
・毎年100万ずつ給料が上がっていた
就活編
・内定すると、研修という名目で海外旅行に招待された(全額会社の金で1ヶ月間ハワイという話も)
・交通費で3万円は当たり前。九州や北海道から飛行機で来た場合には10万円もらえた
・1日に2~3社まわって1週間で100万円稼いだ
デート編
・アッシーメッシーはいて当然。電話一本でつかまる男(運転手)が4人はいた。
・男性がおごるのが当たり前。女性は色んな人から高級レストランをおごってもらえて、財布なしで過ごせた
・クリスマスに過ごすホテルの高級スイートは、前年の12月26日から取り合いだった
・「なんか好きなもの買わせて」と言ってくるおじさんが町にはびこっていた
・男性が海外出張に行く際にねだれば、高級化粧品をプレゼントしてもらえた
経済編
・100万円で売れない商品を200万円に値上げすると飛ぶように売れた
・日給4万円のバイトがあった
・未成年でも400万円の車のローンが通った
・5000万円のフェラーリが2億5000万円まで値上がりした
・ゴルフ会員権が数億円(今は数百万円)
・「久しぶりに会えて嬉しい」という理由だけで1万円くれる人がいた
世の中編
・急に札幌ラーメンが食べたくなったので、日帰りで北海道へ行った
・1日1~3万円のホテルディナーに、一週間に二度は行っていた
・1枚6000円のシャツのシリーズ全色(10枚程度)をまとめ買いした
・宝石の展示会は宿泊・宴会つきで、1人2000万円、3000万円は買っていた
・深夜にタクシーがなかなかつかまらず、万札を扇形にして振ってる人がいた
・LAのビバリーヒルズで買い物をしていると、あちこちで友達に遭遇した
・雑誌で見かけたデザイナーのダウンジャケットを50万円で衝動買いした
・海外に別荘を買う人が多数いた
普段ネット上でトンキンwwwなどと煽ったりもしたが、ちゃんとしたかたちで東京を見てみた。
俺は今の日本の経済についての知識が欠落しているのであくまで一個人の主観的な感想として見てほしい。
まあ、腐っても鯛というか、一言で東京スゴイ東京発展し過ぎwwwと思った。
まず熱気が違う。どこも人に溢れ、各人が明日の夢と成功を求めていきいきと生きているようだ。
海外旅行で熱いアジアの新興国へ行った帰り、日本の家路につく時に感じる落ち着いた空気、冷えた空気、少し寂しさの残る空気が、東京に限っては皆無のように思われる。
そして、資本の密度が田舎のそれとは明らかに異なる。ここだけ異常だ。
日本全体の資本の4割くらい東京に集まってんじゃないかと目まいがするほど、東京の街は執拗にギラギラとしていた。
道を3メートル歩く度に、雑貨や食べ物の個性的な素晴らしいお店が立ち並ぶ。東京は街そのものが遊園地のようだ。
街中にメーカーのロゴや店の看板がこれほど絶え間なく多く寄せ集まっているのを見たことが無かった。田舎の繁華街が、東京では1ブロックごとに配置されていた。
麻布という言葉は知っているものの、どうしてメディアによく登場するのか分からなかった。実際に夜の麻布に行ってみてそれが分かった。
少し歩くと六本木へとつながる麻布では、日本の一般的な戸建て住宅とは異なる重厚な外国風の豪邸が立ち並び、日本のビバリーヒルズ?と思った。
歩いていると大使館の玄関に次々と遭遇し、ここが首都であることを改めて実感した。
洒落た少戸数型マンションへ帰宅する人たち、1分に1回の間隔で見かける品川ナンバーの高級外車・・・
日本の上位数パーセントの成功者・支配階級が寝床とするコミュニティ、外の世界の喧騒からの影響を受けない住み心地の良い閉じたコミュニティに足を踏み入れていた。
海外のエスニックな料理が好きなのだが、普段日本ではそれが食べられないと嘆いていたものの、東京では全く心配いらない。
ここは本当に日本か?と思うほど海外で経験したスパイシーで胃袋を鷲掴みする良い香りの熱気があちらこちらから流れてきて心が躍った。外国人の数も非常に多い。国際色豊かでカオスな感じ、料理が不味いわけがない。いつか夜の居酒屋巡りをしてみたい。
同じ日本人でも、地方田舎で住むことによって形成される日本に対するアイデンティティと東京で形成される日本に対するアイデンティティは異なるということに初めて気が付いた。
田舎の落ち着いた日常の心休まる日本、東京の激動の熱い日本、どちらも素晴らしいものだ。交互に味わえたらどれほど幸せだろう。