はてなキーワード: 凡才とは
本気で物事に打ち込んでみて初めて気づいたわ。俺はお前らに絶対に勝てない。
お前らが1年で出来ること、俺は5年毎日続けても出来ないんだよ。
よく才能ある偉人が、「才能はおまけ、努力し続けることが最も大事」みたいなことぬかすけど。
んなわかりきったこと、よくかっこつけて言えたもんだよな。
うぬぼれるなよ。努力するのなんて当たり前だろ。
問題なのは、お前らが無意識に選んでる努力の筋道が、凡才の選ぶそれよりもいかに正確で、効率的で、そして理解が群を抜いて早いってことだろうが。
まあ、お前が1年でできること、俺はあと2年ぐらい使えばできそうだから、まだあがいて続けてやる。達成してやる。
覚えとけよ。
最近ものすごく優秀な修士就活生が増えている→機械翻訳『DeepL』を巧みに使って論文を書いていた「すごい時代が来たな」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1758185
英語力という研究内容とは全く別の要素がボトルネックになって長年多くの修士が適切な評価をされておらず、さらには英語ができるだけの凡才が過大評価され続けてたっていう残念な話なのでは?
トップブコメ見て驚いた。評価対象として考慮されるような論文雑誌に、英語ができるだけの凡才が投稿して受理される訳ないだろ。
審査する側は英語関係ない専門的な部分できちんと評価してんだぞ。だから1st author論文持ってる修士って時点で十分凄い。過大評価もクソもない。
この人の他のブコメはチェックしてないが、いつもこんな見当違いな事言ってて見過ごされてるんだったらはてなブックマークってアレな場所では。他所のコミュニティなら突っ込まれてるだろ。
復習は1回だけといわれても俺らは凡才なので、なんどもやるで、
「天才になれなかった全ての人達へ」というキャッチコピーはとても秀逸だった。
天才であるエレンに対して凡才だった主人公光一が並び立つとまではいかないがエレンが街中で光一の名前を見かけるという感じの少年マンガだ。
では「凡才にすらなれなかった人達へ」というキャッチコピーでひたむきに努力するも誰の目にも止まらず夢破れるというか設定で誰か描いてくれないかな?
あれは天才でなければ正しく理解できない、もしくは著者と同じ思考をしている人間でなければ正しく理解できないのだと思う。
しかし、凡才であっても、あの文章を参考にして天才的思考に近づけるのではないかと考えるのが人情である。
私は、初めてあの文章を読んで以来、何度も読み返し、また著者の当時のブログを読み進めて天才の思考に近づこうと試みている。
しかし、あの文章を読んで変化があったことは、文章を書くときの制約を取っ払ったということだ。
プログラミングと同様、文章を論理的に正確に書こうとすることは、文章量を制約することになる。
書けなくなるのだ。
正しく書こうとすると、書けなくなる。
例えば、この文章を書いているが、これは公開することを念頭に置いて書いている、すると途端に文章が走らなくなる。
失敗を恐れるからだ。
しかし、この文章は公開しないと決めると途端に文章は走り出す。
実際のところ、この文章は走らなくなっている。公開することが念頭にあるからだ。
正しく書こうとしてはいけない。
文章を日頃から書いている人には当たり前のことなのかもしれない。
まずはとりあえず書く。書けないと感じるときほど書く。
しかし、思うのだが、文章を書くときに、しかし、を何度も繰り返し使ってはいけないという文章作法があるが、それはおかしいと思う。
しかし、などという接続詞はある程度、込み入った文章を書こうとすれば、何度も登場させたくなるものである。
しかし、しかしは何度も連投してはいけなくて、しかしを何度も使いたいのであれば、言い換えをして他の接続詞に置き換えて、うまくやらなければいけない。
しかし、それでは本来、文章の内容において頭脳を使うべきであるところを、文章自体を構成することに使用するという本末転倒な現象が起こる。
本来、文章作法などというものはある程度の、読みやすさを担保すればよいだけの話であって、論理が破綻していなければ、厳密にこれはいけない、やってはいけないと制限するべきではないのだ。
そのような制限があるから活動が制約されて、成果も収縮してしまうのだ。
なぜかといえば、制限しないとミスやエラーを起こして、失敗して大事故を起こすからだ。
しかし、同時に私達は大抵のことを制限しなくとも、正しく実行できる。
しかし、アクセルとブレーキを踏み間違えると大変なことが起こるから、私達は運転に集中しなければならない。
大切なのは集中するということだ。
正しくは制限することではないのだ。
アクセルとブレーキを踏み間違えないためには集中することなのだ。
話が脱線した。
ミスを起こさないために、失敗をしたくないために、過剰に制限する。
社会的迷惑行為でなく、自分の範囲で収まることであれば、どんどんとやるべきなのだ。
これは文章を書きたいと思っているのだけれど、書けない人に読んでもらいたい。
別に間違っていても、あとから読んで恥ずかしくなっても、しかし、を何回使っても、別になんだっていいんだ。
こういった考えを公表すれば批判があるかもしれないし、あるいはなんの反応もなくて苦悶するかもしれない。
でも、それでいいのだ。
我々社会は間違いを許容できない。
これは正しい面も多々ある。
しかし、間違いを許容しないことは、制限をすることだし、そのことで何も生み出されない無を生み出していることは留意する必要がある。
ブレインストーミングでは間違いを気にしない、などといいつつ、絶対的に制約があって、正しくブレインストーミングを集団で行うのは至難である。
そのような状況は脱却するべきだ。
間違っている、間違っている、間違っている。
そうだね、間違っているね、だから、どうした?
『風が強く吹いている』『ツルネ』付近を狙った作風で、両作の面白さには到底追いつけずに終了。
訴えたいメッセージは楽しんでるやつは強い、という検索したら出てきそうなもので、苦虫を噛み締めながら努力するライバルとの対比、自分の苦境に対しても明るい主人公をみて、それを応援する天才型バレエダンサーという比較も用意している。しかし主人公を囲んでいるそれらは天才型ばかりで、1話から主人公はどちらかといえばムラっ気のある努力型として描かれる。
しかし主人公にはどこか注目される華のような一種天才的な雰囲気があり。言い換えればこれは天才型メンタルを持つ凡才の話なのだということ。だから周辺の人物がいびつな努力型、メンタルの弱いナチュラル天才型という極端な構成になっている。これが競い合う話ではなく同じチームメイトだった場合、お互いの足りない部分を補強する話になっていたような気がしなくもない。
何れにせよ、「努力だけで天才に追いつけるなんて傲慢だろ」というセリフをすんなり受け入れさせる力を持った『風が強く吹いている』などにあるような強いメッセージ性は打ち出せず。よく読めば上のような構成ですね、という形で終わってしまった点が残念。わざと年代を古く設定した効果は余り出てない気がする。