はてなキーワード: 弾圧とは
うっせーな、クズ。お前のように「口だけで手を動かさない連中」がこの世で一番キライなんだよ。一見正論に見せかけて、言語弾圧の道具に使うやつがさ。
Matz はモルモン教徒で、俺はモルモン教が大嫌いだ。ヘドが出る。理由は俺ばっかりに勧誘をかけてくるからだ。でも、俺は Ruby は最高にクールな言語だと思うよ。理由は、俺にとって Ruby は一番アウトプットしやすいからだよ。
Ruby がクソだったら Matz に興味なんかでるかよ。Ruby があるから Matz なんだろうが。元増田の頭が悪いところは、議論すべき内容の順序が違うからだぞ。
お前さ、周りから浮いてるだろ?きっと、そういう推論の方法が馬鹿なんだよ。人間をやめろとはいわないからさ、人間になろうね。じゃないと、人の革をかぶった化け物でしかないからな。約束だからな!
元増田です。
あなたが望もうと望まなかろうと、マジョリティが支配力を行使してマイノリティを弾圧するのが現実だ
ブコメより
hisa_ino 今まで我が物顔で好き勝手ふるまってきた人間がその「自由」をちょっとでもへらされると「抑圧ダー!」って逆切れするいつものやつ。
B2igwzEE フェミニズムは運動だし一部当事者にとっては闘争ですらあるので、「何甘っちょろいこと言ってんだ笑」ってなもんだろう。欺瞞というより戦略上の方便というべきか。無意識に弾圧してた側の混乱・反発も当然ではある
cha9 「マジョリティは存在するだけで抑圧だと否定されることの寄る辺なさがわかるか?」は?弾圧され慣れてないマジョリティ様はこれだから。増田が感じてるそれはマイノリティがマジョリティからずっと受けてたものやで
俺は元増田ではないが、まさにこういうところだよな
求めるところは普遍的な自由、平等ではなく、オレが他人を抑圧できる社会
「私達のことを認めてください。そうししたら、あなたを殺してあげます」
大阪城公園には豊臣秀吉像があるが、これでは皆のための公園であると口では言っていても実際には特定の人を排除しているのと同じだ。
なぜならば豊臣秀吉は25歳の時に14歳の少女と恋愛結婚するという小児性愛者であり、普遍的な人権に反する行為を堂々と行った上に
『この公園はいかなる国民・人種・民族に対しても開かれています』と口では言っていたとしても、
公園にヒトラーの銅像が飾られていたら「我々はナチズムを肯定しています。だからユダヤ人はここに来るな」という無言の主張になるし、
ネイサン・ベッドフォード・フォレスト(KKK創設者)の銅像が飾られていたら「我々は黒人差別を肯定します。だから黒人はここに来るな」という無言の主張になり、
ウルバヌス2世の銅像が飾られていたら「我々は十字軍を肯定します。だからムスリムはここに来るな」という無言の主張になり、
コロンブス像が飾られていたら「我々はネイティブ・アメリカン弾圧を肯定します。だからネイティブ・アメリカンはここに来るな」という無言の主張になる。
同様に、公園に豊臣秀吉像があるのは「フェミニストと朝鮮人はここに来るな」と同じなのであり、ヘイトスピーチをしているのと同じだ。ただちに撤去しなければならない。
フェミはポリコレは社会学者は漫画やアニメを自分の価値観で叩きまくってる!許されない!嫌なら見るな!→それけもフレ2の時にオタクは散々やってたじゃん。ファンまで袋叩きにして。
漫画やアニメに対して「ほら、こうした方がいいだろ」と押し付けるとか何様のつもりだ!→けもフレ2の時に散々やってたじゃん。イエイヌ救済とか。
不快だからとポリコレを持ち出して漫画やアニメを叩くな!→ビースト生き埋めや髪の毛引っ張る展開を叩くのはポリコレではないと。
けもフレ2は自分もクソアニメだと思うが、表現の自由とか言ってるオタクの本性を暴いてくれて制作陣にはありがとうと言いたい。
誰かを傷つけるんじゃ?じゃなく、悪いやつらに正義の民が弾圧されるー!みたいなあくまでも被害者視点なのが認知の歪みの極みという感じで大変趣深い。
そのようなことは書かれていない。
「マンガを読む子供を叱って勉強させる母親と変わりが無い発言なのだ」
書かれていないことを読み取って認知の歪みの極みなどと評するのは… あまり趣深くはない。
認知機能に問題があるように思える。ただのマウンティングしたいだけの支配欲の虜だとしても、明後日の方向をみてドヤっているのは痛々しい。
最近、「表現規制」のせいで、物語に集中できなくなってしまった。
読んでる途中で、ささいな表現の端々に「この表現、規制嗜好者に弾圧されるんじゃ?」と考え出して、物語の世界から度々覚めてしまうようになってしまったのだ。
そうやって、物語から得られる快適な陶酔感が失われたことに、個人的には不快感を禁じ得ないが、でも、それは逆に考えると、「物語」という名の宗教に耽溺してしまって、
物語の人工的に創られた世界観から帰ってこられず、その世界観のまま発言や行動する人々を救うための素晴らしいアプローチなんだと思う。
つまり、「表現規制という愛は物語患者を救う」とでも言えるだろう。その点では、「表現規制」は合理的な理由よりも、社会的圧力の大きさの方が「患者」には有効に働く。
そういえば、物語の代表的な形態として、妄想的な出来事や企てを具体的に描き切った後、結末でその失敗を描いて、読者を物語から社会に差し戻す
「行きて帰りし物語」というのがあるが、現在は、豊富な物語を人々に消費させ利益を挙げたいという商業的な意味合いから、流行らなくなってしまった。
現在の物語は、物語という名の宗教から信者が逃げ出さないよう、物語の追及が何らかの失敗に繋がる「行きて帰りし物語」、分かりやすく言えば、
後味が悪く、物語の存在に嫌気の差すようなバッドエンドを描いていない。あまりにも不快で、もうこれで社会に戻ろうと思える「最後の物語」を、商業的な理由で描けていない。
だから社会は、流行らなくなった「行きて帰りし物語」の替わりに、「表現規制」を送り込んできたのだ。
個々の物語に停滞している人々を、社会という大きな場に引き出すために。それが権力側の要求なのか、社会運動側の要求なのは知らないが。
だから、「表現規制」の中身など、それが本当に社会のためになるかなど、とりあえず社会にとってどうでもいい。社会にとっての人手を、物語から奪って来れればそれでいいのだ。
つまり、まとめると、「表現規制」が本当に実現したいのは、人種差別や性表現など個別具体的な事項の改善ではない。
「物語から目を覚まして、社会のために○○しろ!」、端的に言えばそれだけのこと。分かりやすく言えば、マンガを読む子供を叱って勉強させる母親と変わりが無い発言なのだ。
その理由として、「表現規制」の多くは社会学者から発言される。「表現規制」は、その妄想めいた物語を捨てて、社会にある現実をもっと考えろという要請なのだ。
メタなフィールドから表現にヒビを入れることで、その衝撃で物語に覚めた人々を社会に引き戻す、そういう意味の「行きて帰りし物語」を実現したいと思っているのだ。
だから、件の社会学者の発言のように、「表現規制」に関する反対発言の不適切さに対しても、社会は寛容である。
それがある程度不適切であったとしても、その発言で、社会のことを考え、働く人間が増える可能性の方を良しとするからだ。
社会は、物語に呆けてるんじゃねぇよ、そんなの捨てて我ら社会のために働けよとでも思っているわけだから、発言が少々不適切でも目を瞑るのだ。