はてなキーワード: 三島由紀夫とは
あれって「芸人としての面白さ」を尊敬しているのか「教祖としての素晴らしさ」を尊敬しているのか
前者だとしたら三島由紀夫は果たして私達を笑わせていたのか、それとも笑われていたのか
どっちの意味で好きなのか気になる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
おまえら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。いいか。それがだ、今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらねば、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。(中略)
おれは4年待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を。……4年待ったんだ、……最後の30分に……待っているんだよ。諸君は武士だろう。武士ならば自分を否定する憲法をどうして守るんだ。どうして自分を否定する憲法のために、自分らを否定する憲法にぺこぺこするんだ。これがある限り、諸君たちは永久に救われんのだぞ。
人間は遥かに容易に国家とかに守って貰いたがるし、自分は大きな国家の一員だという事をアイデンティティにしたがるよな
ネット見てればわかるわけで、芥なんとかの言う個人とか芸術って、60年代からの高度経済成長に伴う豊かな社会の中で、
恵まれたお坊ちゃん達が見ていた自由に生きれる幻想に過ぎなかったわけで、三島由紀夫の方が遥かに現実的な人間理解だった
芥もいわゆるサブカル芸術界隈の人間だけど、平田オリザがコロナで騒いでたみたいに、
ああいう人種こそヤバくなったら誰よりも国家に経済的な支援を求めて、国家に人権とか弾圧しても良いから愚民どもをコントロールしろって騒ぐよな
50年後の答え合わせとしてみると、学生運動とかに被れてた左翼系の言論人が言う、自由で国家から自律した個人っていうのがいかにしょーもない幻想だったかよくわかるよね
一方東大全共闘のリーダー格である芥正彦は日本人という枠組みを越えて究極の個人として存在すると唱えた
その討論の後、三島は自衛隊の本部で自決した。自衛官相手に弁論をやったがあまり受け入れて貰えなかったからだ。
一方の芥正彦は学生運動が終わっても芸術という世界で自分の想像する世界を創り世に生み出していた。70代になった現在でも思想は変わっていない
この2人のやりとりを見るに、三島由紀夫が思うほど日本という国は三島由紀夫を幸せにしたり意のままになることは無かったんじゃないか
つまり現実の国家程度ではユートピアを作り出すことは出来ないのでありそこに三島由紀夫は無理に理想を求めたのかと思う
現在のネットでもリベラルとネトウヨの対立や抗争は激化しているが俺は正直言ってネトウヨが求める日本国は果たしてネトウヨを幸せにするのかと思う
日本という現実にある国家に限らず、オタク達におけるアニメなどもそうだ。アニメは果たしてオタクたちのユートピアとして君臨しているのかどうか
俺はそういった希望も無ければ信仰する人間も宗教も今の所いない。自分の望む世界を実現する人間が遠目から見ても居ないからだ
https://anond.hatelabo.jp/20211113201646
横田だけど、ちょっとググったらそれっぽいストーリーが立てられたので共有しておく。
三行でストーリーをまとめると
・「屍山血河」という言葉を考案したのは大日本帝国陸軍の文官で、陸軍教授の地位にいた樋口石城なる人物である。
・「屍山血河」は、旅順戦を記録したロシア軍人М. И. Костенкоの日誌 "Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"を邦訳する際、邦題として発案された。
・この邦訳を読んだ人々が邦題を熟語として認識。そのうち、司馬遼太郎が小説内で多用したことで日本中に広がった。
「屍山血河」の由来はなにか。まず、中国語で言うところの「成語」にそれらしい言葉はない。
かといって「屍山」とか日常言語で使う単語という感じではないし、自然発生した四字熟語でもないだろう。
普通に考えたら、中国語以外の言語にある熟語を、明治以降の文化人とかが邦訳するときに成語っぽく整えた、とかが一番ありそうなパターンだ。
しかし、「屍山血河」という単語は辞書に載っているが、用例として記されているのは司馬遼太郎の小説ばかりだ。後は三島由紀夫だが、司馬遼太郎の用例が古い。
辞書を作ったときにそれより古い用例が見つからなかった可能性が高い。
普通、辞書の用例はその用法で一番古いものを採用する。だれか他の文学者が創作したならそっちが採用されないのは奇妙である。
もちろん、司馬遼太郎が独自に考案したと考えるのは早計だろう。
司馬遼太郎が勝手に創作したとされていた史観や、事実関係が怪しい記述も、近年ちゃんと調べてみると「元ネタ」があるものばかりだったらしい。
もちろん、だからといって、それらが歴史的事実だというわけではなく、「元ネタ」を書いた人が勝手に創作したり、誤認識していたということらしいのだが。
ともかく、司馬遼太郎は無から発想したり、自分で説明なしに訳語を創作するような人間ではないと思う。
用例として採用しづらい対象で、司馬遼太郎が興味を持つ題材の日本語の資料で「屍山血河」を使ったものがあるはず。
この条件に合致しそうなのが "屍山血河" コステンコ 著,樋口石城 譯 [1]である。
ちょっと調べてみると、これは旅順戦を記録したロシア軍人М. И. Костенкоの日誌 "Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"[2]の邦訳だ。
М. И. Костенкоは旅順攻防戦に少将として参加した後、戦後は軍事法廷の議長とかをやった、とwikipediaに書いてあった。
旅順戦の日誌は貴重な資料であり、ロシアで広く読まれた。これが邦訳され、1912年に出版された。
しかしそれにしては邦題がおかしい。おかげでググっても原著がすぐ出てこなくてちょっとイライラした。
"Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"を機械翻訳すると、"旅順要塞の包囲と降伏:私の印象"となる。
実際、この本は1973年に田崎与喜衛に再訳されており、そのときの邦題は"旅順攻防回想録 "となっている[3]。
泥沼の旅順戦で主に大量の兵士、とくに日本兵が死んだ様子を描写して「屍山血河」と言っているのだろうが、戦闘記録の題名にするには文学的にすぎるだろう。
М. И. Костенкоが序文とかサブタイトル的な位置にこの単語を使っているのではなく、樋口石城が勝手につけた邦題である可能性が高い。
ロシア語でも Горы трупов (死の山)とか реки крови(血の川)という表現は戦争を表現する際、よく使うようだ。
熟語とまでは行かないが、並列して使われる例もググればそれなりに出てくる。
原著に直接この組み合わせが出てくるかはちゃんと調べていないので不明だが、本文検索してみたら、Горы труповは単体で積み重なった日本人の死体の表現として使われていた。
もしこの記録が文学作品だったらこの題をつけるのは適当かもしれない。
これ以降は完全に当て推量である。
陸軍教授、樋口石城がどういう人物なのかはググっても出てこないが、樋口季一郎の親戚とかだろう。しらんけど。
まあ、軍教授なのだし名家出身の学者で、ロシア語を含む文系の教養があって、仕事はロシア関連の軍事資料の邦訳を大量にやらされていたのだろう。
だから文学作品とかを書く暇もないので、やらされた邦訳の仕事で、多少のオリジナリティを発揮してみたくなったのではないだろうか。
そこで少し文学風に気取って成語っぽい「屍山血河」という語を創り、戦闘記録の邦題としてつけたのだ。
それを司馬遼太郎が資料として閲覧。そういう成語が既にあると認識、戦争小説で多用。
小説を読んだ人間もそういう語があると理解し、大量の死者が出る戦争を語る際に一般的な単語へと一気に昇格してしまった。
そしていざ辞書に載せようとすると、用例として明記できる古い例が司馬遼太郎以前にないことに気づく。
樋口石城の訳書も発見はされたのだろうが、題なので用例としては不適であり、スルーされた。
結局、遡れるのは司馬遼太郎の小説しかなかったのではないだろうか。
無論、上記は全てネット上で手に入る資料の断片からの推測であり、だいぶお粗末なものだが、もし当たっていればなかなか面白いストーリーではないだろうか。
以上、「屍山血河」の由来について横田が調べてみました。
[1]https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024298307-00
ヒラコー好きだけど、たぶん始祖じゃないと思う。KOEIのゲームとか彼は好きだし、そこなんじゃないのかい?
調べてみたら、司馬遼太郎と三島由紀夫が先行しているらしいぜ。https://kotobank.jp/word/%E5%B1%8D%E5%B1%B1%E8%A1%80%E6%B2%B3-518933