はてなキーワード: ミスコンとは
元増田っす。意見賛同します、ルッキズムそのものの否定は出来てないのかも。
多様性とそれぞれのらありのままのルッキングを称賛しよう、が自分の気持ちなので、じゃあそれを順位づけは出来ないからミスコンいらないんではっていう。
勉強になりました!
大体専用ブログやツイッターで宣伝するしいかに異性や周囲の人間に媚びを売って票を獲得するかだからな
宣伝で見せる内面?なんてもちろん素じゃないし見る側は無責任に候補者をネットでdisりまくって傷付ける地獄みてーな世界だよ
無くなってよかったな
そもそもミスターコンとやらにケチをつけて中止に追い込んだところで、女の好みが変わるわけでもないじゃん
これはミスコンについてもそうだと思うけど、そういうイベントがあるから一定の価値観を押し付けられるのではなく、その逆だから
あくまで顔やその他の要素を重視する価値観というものが先にあって、結果としてその種のイベントが生まれているに過ぎない
だからイベントにいくら抗議したところで、元の価値観に手をつけるのが無理な以上、何かを叩いてストレスを解消する以外の大した意味なんかない
藝大のミスコン中止の件
普段あれほどルッキズムを憎んでいるはてなー達とは思えないほど逆方向に噴き上がっていて驚いた
これ、中止になったのがミスコンじゃなくてイケメンコンテストだったらどうだったの?
「メンズの評価基準は顔、身長、ボディメイク、頼り甲斐でーす!一番だと思うイケメン君を選びましょー!みんなで評価するんで、メンズの皆はアピール頑張ってねー!」ってな催しがたったひとつの大学で中止になったニュース見ても同じように噴き上がれんの?
美の基準が個々人それぞれというなら、それで自分たちでもコンテストなり広める活動をやればいいのに、考え方が違うからと言ってコンテストを止めさせるのは横暴
ミスコンを「世界中の誰もが美しいと考える人コンテスト」と捉えるから反発が来るわけで、「色んな価値観がある中の1つの基準に則るとこうなるコンテスト」なら大丈夫だし、
いろんな価値観で活躍できる領域を作ることが地球経済の進展に繋がる訳だから、来年の藝大実行委員会にはミスコンを開催してほしい
表のミスコンもさ
女性以外でもなんでもありでやってさ、チームの企画力が面白おかしく評価されてたんだけど
それに「ミスコン」ってついてることに、特に違和感なかったわけだろ?
「ミス」ってなんだろう?とか、特別に掘り下げて考えられたりはしてないわけ
「美」とは?
とか大層な事ほざいてっけどさ
美のあり方について見方を変える?
さすが欧米?
バカジャネェーノ
俺としてはわかりやすかったので読めてよかった。
個人的にはルッキズムには息苦しさを感じているが、美しい人は称賛したいという思いは強くあってミスコンには賛成。しかし増田を読んでもう少し考えてみようと思った。
ブコメ群のそれがスポーツや学力まで波及していくのではないか、ってのはやはりちょっと拡大した解釈だろう。でもそうなっていく流れの中にある話なのもまた間違いない。
ルッキズムに傷ついている人のために、オードリー・ヘップバーンの美しさを取り上げることすら許されない社会になったら嫌だなぁと思った
高校の時のミスコンに優勝した美人の私、自慢で書いてるのかぁ。
自薦・他薦どっちにしろ。
中国の故事や四字熟語でありそうだが、自分の身も犠牲にするから貴方達も新しい規則に合わせてくれ、
読んだ。
分からないではない。ありのままでいいってのもそれはそうだし、それで評価されるようになれば一番いい。
ただ、それなら『美』という概念にしがみつくのは尚更よく分からない。
知識量の多寡や競技の強弱の様に明確なモノサシはないと言うが、そうは思わない。傾向としてだが『美形』『ブサイク』の共通認識は存在すると思うし。
ミスコンになどによって美の価値観が固定化されると言うが、それは多分人々の内にある『美の価値観』が現出してるだけだろう。卵が先か鶏が先かみたいな話だが。
だから本当に美の価値観から解き放たれたいと思うなら、もっと踏み込むべきだろう。つまり「美という概念を捨てよう」って主張すべきだと思う。
大勢にとっての「美」というのは、建前をどう取り繕おうと厳然として存在していて、ミスコンが無くなろうが表現を法律で規制しようが、消し去ることは不可能だ。
「建前から始めずに何から始めるんだ」というが、臭いものに蓋をするやり方では本質的な解決には決して至らない。
統計的に「大勢の人が美しいと感じる容姿」「大勢の人が不細工と感じる容姿」は確かに存在するのだから、それを単にオープンにしようという行為を圧力で規制するのは、それこそが「統計的な美の基準であっても公表すべきではない」という価値観の押し付けであり固定化だとさえ言える。
大切なのは2つ。
「統計的な美の基準」のもとで「評価が劣る者」が、不当に差別されることのないようにしていくこと。
そして、「統計的な美の基準」とは異なる「個人にとっての美の基準」を正当に評価していくことだ。
私たちの社会は先天的な能力の優劣に応じて、得るもの失うものが異なる社会を肯定している。
それこそ知能に応じて、その後の人生が人それぞれになるのは周知の通りだ。
しかし一方で、極度に知能の劣る者(知的障害を抱えたもの)に対する不当な差別は肯定されていない。
能力が劣るものでも、ある一定水準以上の生活を行うことは基本的人権の範疇として保障されているし、例えば「運動能力に難があるから頭脳労働であっても雇用を拒否する」などといったような因果関係のない不当な扱いは一切認められないとされている。
「統計的な美の基準」において劣ると評価されたものが、優れると評価されたものと異なる人生を歩むことは肯定する。その上で、特段に外見が醜いとされる者であっても極端な不利益を被らないよう適切な保護を行っていくこと、容姿の美醜とは因果関係のない事柄についてまで容姿の劣る人間に不当な扱いを行わないようにしていくことができる社会を目指す方が、よっぽど直截的でしかも現実的だと私は思う。
また、元増田が危惧している「統計的な美の基準」が「個人にとっての美の基準」を侵食して価値観が画一的に固定化していってしまうリスクについては確かに存在すると考えられるが、これを防止するため「統計的な美の基準」の公表(表現)自体を規制しようという発想は、如何にも筋悪だ。
問題の本質は個々の人間自身が「自身の価値観がマジョリティのそれと異なっていても良い」という自信を持てず、安易にマジョリティの意見に流されてしまうことの方にこそあるのだから、マジョリティの意見を覆い隠してしまっては、自分の価値観に自身の持てない人間は、実態の不明瞭となったマジョリティの価値観と自分の価値観の食い違いを今以上に恐れるようになって、今以上に「空気を読む」ことに神経を使い、自身の価値観をマジョリティのそれと一致させようという忖度を誘引するキッカケを生むことにさえ繋がる可能性がある。
「統計的な美の基準」と「個人にとっての美の基準」が異なっていても良いのだと啓蒙すること。そのために必要なのは「統計的な美の基準」の実態を隠蔽することではなく、それを明らかにした上で個々人の価値観を尊重することの大切さを知らしめていくことにこそあるだろう。
なるほど、
いや別に
国内外のミスコンに則るとすれば、それは容姿だけの評価じゃないよね、と言っているだけ
容姿だけで評価するなら、国内外のミスコンに則る必要はないでしょう
本当に容姿だけで選んでるなら
うーん、キミは「ファッション業界で権威のある人間が容姿だけで選んだら、ファッションモデルみたいな人しか選ばれない」って当たり前の主張をしたいわけ?
そんなの当たり前じゃないか