はてなキーワード: アニメおたくとは
アニメは小学生の時からにわかなりに好きで、狭く深く楽しんでいました。
好きになった作品を何回も何回も繰り返し見て、劇場作品は気に入れば映画館に通い詰める程度には好きでした。
でも二次創作が受け付けず、二次創作のカップリングも無理、pixivも見たくない、コスプレなんて言語道断で吐き気がするくらい嫌いです。なのでアニメおたくにはもともと向いてなかったんだと思います。
昔から一歩引いてこれはアニメで絵だなーという意識で見ていました。
その意識はギャグアニメとか、振り切ったおバカアニメを見るときにはすごくいい方向に作用して、アニメってこんなもんでいいんだよ!という意識に繋がりました。
まあ最近はアニメ自体受け付けられる範囲がかなり狭くなってきたんですけどね。
作り物の絵が動いているアニメという意識で見れば暇つぶしにちょうどいいのですが、最近はアニメ特有のキンキンとした声のみならず、普通に喋っているそこまでアニメ声ではない声までも受け付けなくなりました。
もともと好きな声優さんは多いだけに自分の変化にショックを受けています。
声が無理となると、だいたい半分は無理なのですからアニメに対するモチベーションは下がりっぱなしです。
それでも昔ハマったアニメを作業用にアマゾンプライムで垂れ流そうとすると、不必要なお色気シーンやリアリティのない描写、いかにもセリフ!というような大げさなセリフ回し、ただ絵が動いて声優が演技しているだけの画面…全てが子供っぽく見えてしまうようになりました。
今はもうアニメオタクとアニメオタクではない人なんてグラデーションになっているだけで、兼任オタクやら何やら…いろんな層が重なってパックリと分かれているようなものではないと感じます。
そんな中で繰り広げられるアニメ漫画実写化に伴うキャスト叩き、芸能人が声優に起用されただけで発狂するオタクたち…
今時アニメしか見ないで生きている筋金入りのアニメオタクって実在するんだとびっくりすると同時に生身の人間を平然と叩ける品性に何回もドン引きしています。
人様が精魂込めて作った作品を消費して、作画にケチをつけるだけでは飽き足らず…。
事実は小説より奇なりという言葉をアニメオタクは知らないのでしょうか?
アニメを見るよりも実際に起きた事件や事故や物語の本を一冊読む方が私は楽しく感じます。
アニメの中のアイドルの直筆はどこのおじさんおばさんお姉さんお兄さんが書いたものなんでしょうか。
服を着替えない汗をかかない髪が伸びないアニメキャラになぜそこまで熱中できるのかわかりません。
私は動く絵になんでそんなに熱中していたのかもう忘れてしまいました。
アドリブやほんの少しの表情の変化に魅せられるのが好きです。
SNSでも「やっと買えた」だの「売り切れてた」だのいう投稿をちらほら見かけたりして、さらにそれらに対して「あ〜る懐かしい」とか「自分も買いに行かなくちゃ」なんていうコメントが視界に入ってしまったりもする。
31年(あるいは連載時を振り返れば35年程度)前、俺は今でいうアニメおたくでもちろんマンガにもはまっていた。特に主戦場はサンデーだったので、「あ〜る」も最近ネット人気の高い島本和彦の「炎の転校生」も、それはそれは楽しんでいた。大好きだった。
けれど、周囲の同級生はそんな俺を白眼視していた。間違いなくアニメ好き、マンガ好きはそれだけで軽蔑の対象だった。俺自身、あんまりおたく然とした格好が好きではなかったので見た目にはそれなりに気を使っていたし、部活(運動部)も楽しんでいたので対人コミュニケーションにはさほど支障をきたしてはいなかった。けれど間違いなく、「アニメ好き」という一点は、周囲の人にとって俺を評価する上でのネガティブなポイントだったし、それだけで俺を軽蔑している輩だっていた。「あ〜る」の話なんかできる相手は決まった数人しかおらず、あとの大半の連中はアニメやマンガの話から遠ざかろうとしてばかりだった。
それが今ではまるで全員が昔から「あ〜る」好き、島本和彦好きだったかのように「懐かしい」「やっぱり最高だ」の連呼だ。
嘘をつけ、お前らは当時、俺を蔑んでたじゃないか。テレビの話はしても、DCブランドの話はしても、マンガの話、少なくとも能動的に自ら読まなければ出会うことのないマンガの話なんかしなかったはずだ。
ただ作品に罪はないし、今、それを楽しんでいる人も嘘をついているわけじゃないんだろうと思う。どこかで記憶が都合良くゆがんでいるのかもしれない。けれど、やはり昔のマンガを自分の思い出のように語る同世代人を見かけるたび、当時、俺を陰で嗤っていた連中に対する怒りのようなもやもやは消えてくれない。今、「おもしろい」とか言ってる連中は別に殴らなくてもいい。だから31年前にさかのぼって、過去のそいつらをぶん殴りたい
ジャンプのエッチ漫画がZ指定かそれ以上って、流石に言いすぎじゃないですかね・・言いたいことはなんとなくわかるけど。
ファミコンが出るずっと前から戦闘やエッチな漫画を載せてきたジャンプに、CEROの、それもA相当という基準を当てはめるのも正直ナンセンスすぎる発言ではないかなあ。
それに、漫画やアニメおたくの口が悪いのも確かですが、彼らが勝手に基準を決めてるわけじゃないですよ。CEROの基準がおかしいからって、ゲームおたくに文句を言わないでしょ。
成人向けっていうのは行政や出版社の倫理委員の判断も絡むんです、海賊出版じゃないんだから。
有害図書の話もあったけど、事後にそういう審査もあるんだから、本当に成人向けの内容なら、ジャンプのエッチ漫画は全部有害指定されてないとおかしいことになりますよね?
ジャンプがZ以上レベルというのが事実なら、おたくの感覚とかいう前にそれこそ行政の感覚の話になりませんか。
もちろん行政の意見に絶対従えってことじゃないですが、もう少し、ゲーム以外のものとも比較した上で考えた方がいいんじゃないでしょうか。
(フェアに話をすると、山口県で指定された電影少女などもありますが、これは有害コミック騒動当時なので基準がかなり違うかと。To LOVEるダークネスは青年誌寄りのSQ掲載で、ジャンプ本誌ではないことにも注意)
娘がすっかりアニメおたくになってしまった関係で一緒にアニメを見る機会が増えたんだが。
なぜに最近のアニメはこうも屁理屈をこねた駄文長文セリフの羅列垂れ流し系が多いのか??
自分たちで作った設定世界観を都合よく解釈させるためだけのセリフの羅列、垂れ流し。
お粗末な作画、キャラ設定脚本。声優が歌ってBL臭がすればそれでオッケーみたいな風潮。
粗悪品の乱発。それでも一山当てればデカイから、乾いた雑巾を絞るように周辺の人間含めリソースを消費し疲弊させていくだけの大量生産。
特に海外で一定の評価を得るようになってから、一攫千金を夢見ての乱発がより一層ひどくなってきたような気がする。
と言われた。
そうですよね。
反論できなかったわ・・・
アニメおたくなんて、キャラを使い捨てて生きてるようなもんですよねえ。
「消費癖のある人ほど温度差が激しい傾向にあるのでは?」
「ですよねwwwwwwwwwww」
って言うしかないよ
そんなんでまちづくりにアニヲタが長期的に関わろうなんて、そんなバカいませんよねー。
まちが好きなんじゃなくてアニメやキャラクターが好きなのであってそこに行ってるだけなのにね。
そして豊郷も・・・
そういう意味では、ミスコンやロコドルをやり続けたほうが、まちづくりには効果的なのかね。
「そんなのイヤよ 強く抱いてね」って抱けないよwwww二次元wwwwどうやっても責任取れないwwww
みんみんみらくるみっくるんるん
http://anond.hatelabo.jp/20090707100038 の続き
弐拾六話では全ての人とあっさり和解でき、すんなり受け入れられた。 しかし世の中そんなに甘くないというか、実はそれこそが自己中心的世界 と言える。もっとリアルに描いてみよう、というのが26話ではないかと。 何故なら「本質的に解り合うことのできない他者が存在する」というこ と、他者を認識するとはそもそもそうしたことである筈だったから。庵野 氏の構図で言う幻想世界の内部において、シンジはどうしてもそのことを 容認できず、他者を理解できないまま、自分を理解するよう他者に縋り続 けた。補完計画が完成し、群体から単体に還元され、全てを包含しレイに 抱擁された時点で、彼はやっとそのことに気付いた。 ラストでアスカを殺そうとしたのは、アスカが正に他者であることを、 彼が遂に知ってしまったから。でも結局殺せないし、前のようにエヴァの 胎内に逃げることもできない。そこは既に第弐拾六話の月面と同様に、後 戻りの聞かない場所、補完が導いた現実世界。・・・ なんと、エヴァと融合し全てのヒトを包含した神が、人一人殺せず、孤 独に耐えかねて泣いているんです。 私はここに最高のユーモアとカタルシスを感じました。こんなに見事な ラストは、これまで観たことも読んだことも恐らく無かったです。(^-^)
宮村優子さんのラジオ発言とか最近目にするようになった彼女の雑誌のコメント を見ると、宮村さんは今回の劇場版をお気に召さなかったのかなとも思います。 自分でも「なかなかのモノが出来た、俺の選択って凄いぜ。フフン」と庵野監督 が思ってたのに、いざ、脚本を渡したら宮村嬢からの冷たい反応。それにショッ クを受けてああいったラストにしたのかな(^^;? 無責任な憶測ですけど
あのラストシーンは,シンジが選んだこの世界が決して「気持ちのいい世 界」ではないことを辛辣に描いていました。しかし同時に,そこには絶望だけ でなく,わずかな希望もあることをも示していたと思います。 希望はアスカの手,シンジの涙。 そして,『会いたい』という気持ち。
ラストシーンは絶望的。シンジはほんの少しだけ変わった。もうひとり、ほ んの少しだけ変わったひとがいるみたい。でも、その「ほんの少し」への一歩 のなんて遠いこと。2人は、まだ変わっていないみたいに見える。だけど、絶 望は希望の裏返し。これからどうするか、それは、私たちに委ねられたのかも しれない。
ひとつだけ考えられるのは、シンジが物理世界に戻ろうと決意したのをアスカ も知っていて、そんなシンジとだったら一緒にいても良いかな、って思ったの かも知れない。 でも、砂浜で再び自分の首を絞めてる彼を観て「ああ…やっぱり何も変わって ないんだな…」と思っちゃったとか。
寂しいことを言ってしまえば、アスカにとって、自分のために泣いてくれた人 を身近で感じたのは初めての体験だったのかもしれません。初めてで慣れてない から、「気持ち悪い」のかも。
庵野監督は最後までアスカの扱いに困ってしまったようですね。その苦悩がラス トシーンにも出てしまったのでしょうか。「おまえがいるから滅茶苦茶になっち ゃったんだ~!」ってね。でもその存在を消せない(笑)。
嫌悪も一つのコミュニケーション。心の壁は現実そのもの。 そして、今までと同じ、自我と、人を代表とする非我との戦いがつづく。 何度もそれを確認しながら、幸せにも不幸にもなれるラストだったと思います。
ラストシーンのアスカ。第1話のレイと同じ場所に包帯を巻き、首を絞められな がらもシンジの頬をなでる。 これって、つまりアスカの中の“母性”を表してるのかな、と思いました。綾波 レイは「母」のメタファーそのものと言っていいでしょう。そして、シンジの側に 横たわっているアスカがレイと同じ姿であることは、彼女もやはりシンジを優しく 包み込む“母性”を内に秘めていることを意味しているように思えます。その後の、 シンジの頬に触れる行為も。 しかし、彼女の最後の言葉は「気持ち悪い」。シンジを拒絶する言葉です。これ は“14歳の女の子”として、「私はあんたの母親になる気なんて、今のところ、 さらさら無いわよ」と言ってるんじゃないでしょうか。「あんたが何を求めてるの か分かんないけど、受け止めてあげる気なんてないわよ。余裕もないしね」と。ま あ、あのシンジ-自分を傷つけるかもしれない他人を殺すこともできないで、ただ しゃくりあげている-を受け止めることなど、14歳の少女に過ぎない、もちろん 自身それなりに問題を抱えているアスカに、できるわけないでしょう。たとえ“母 性”を持っているにしても。むしろ、一方的に求める方が酷です。(さらに、相変 わらず求めるだけっていうのも、また問題だ)。 しかし、将来的には彼らがどう成長し、変化するかは分かりません。そういう意 味では、もう多くの方が感想に書いてますが、「これから」を感じさせてくれるラ ストシーンではありました。もう語られることのない物語の続きの中で、彼らは彼 らなりに成長していくのでしょう。
「不快感(=気持ち悪い)」というのは、赤ん坊が最初に感じる感覚だということを聞いた 記憶があります(←記憶あやふや)。そうでなくとも、「気持ちがよくない」という感 覚は、まぁ、「夢」だとか「望んだ世界」ではなく、「現実」を示唆しているのかな、 とも深読みしましたが・・・深読みしすぎかな?
シンジとアスカは、それこそお互い誰でもよかったんだと思います。憎む相手も 愛する相手も。でも、自分を互いに真正面からぶつけ合った過去が、二人には出来 てしまった。互いに、相手に対する憎しみも、相手が欲しいという気持ちも、相手 を拒絶する言葉も告げてしまうほど、互いの気持ちを相手にぶつけた。そして、そ の憎しみも欲求も、おそらく今後の彼ら自身の心を強く拘束していくでしょう。 ラストシーンで、くびを絞め、瞳を動かし、頬をなぜ、涙を流し、気持ち悪いと つぶやいた二人は、それこそ、愛よりも深い、憎しみもかなわない、たとえ離れて も、ひととき忘れても、もう互いの心の一部そのものにまで結びついたように見え ました。 One more final: I need you. もう一つの終局もすべてのおしまいではありません。英語のタイトルは『私はあ なたが必要である』でした。 そして、皆に等しく、同じ戦いが、始まり、続きます。 でも生きてさえいれば、幸せになるチャンスはどこにだってあります。だって生 きてるんですから。 愛よりも深く。 夏の映画は誰も他人を受けいれられなかった二人が、とにかくも深く結びついて、 そこから再び、同じ戦いが始まる、終局であっても、何も解決していない、ラスト でした。
シンジの内面に問いかける声も、もはや静かなレイの後ろ姿ではなく、アスカの 赤裸々な罵倒へと変化しました。「お願いですから、もう電話してこないで下さ い。」「よりを戻すつもりは更々ないの。」「その、やっぱり、友達以上に思え ないの。」「ハッキリ云って迷惑なの。」「これ以上付きまとわないで下さい。」 これらのセリフは作品の展開からは伺うことができない以上、庵野監督自身の人 生から引用してきたものと解釈されます(もちろん脚色を加えているでしょうけ れど)。つまり、劇場版におけるアスカは、これまで庵野監督を傷つけてきた 「5人の女性」のような「他者」を象徴する役割を与えられるようになったのだ というのが僕の理解です。 そうすれば、ラストでシンジがアスカの首を絞めかけたり、アスカがその後で 「気持ち悪い」と言ったりする寒々しい展開も、すんなりと納得できるのです。 現実の他者は、お互い決して期待通りの反応をしてくれない存在ですから。
オタクの依存を打破するために作ったアニメが、逆にオタクの依存の代表になっ てしまった苦い皮肉。昨日某アニメショップで見かけた会話。 「これ買えば」(とシンジ君が表紙のアニメディアとニュータイプを指さす少女) 「えーいゃぁー」(と汚いものでも見るかのように嫌悪する少女B) 彼女らの心の中にはカヲル君しかいないらしい。作品全体のテーマを見ようとせ ず、自分のお気に入りのパーツを使って幻想のエヴァを作り上げて固執する。虚 構からも逃げ続けている。自分以外のエヴァはいらないのだ。そして、そのこと を指摘されると過剰に反応し激怒する。「ぱふ」の一部読者はひどいものだ。無 論、綾波やアスカの一部ファンにも言える。 そういう意味で、庵野さんが「気持ち悪い」と言わざるを得なかったのは良く分 かる。だから実写を入れてこれでもかこれでもかというぐらいに観客に語りかけ た。でもそれは届かない。最も病んでいる人間、庵野さんが最も一言言いたい人 間は嫌悪する現実をファンタジーに変えて消し去ってしまうのだ。
シンジくんの首締めはちょっと??な気もしましたが アスカのシンジの頬を撫でて「気持ち悪い」は、 頬を撫でるシーン拒否、否定の感情からではなかったと思ったので 集合体としての生命の海から浮上して「こ」の世界の「ここ」にいる 「こ」の自分を認識し他の存在シンジを認識し 「気持ち悪い」ことも沢山あるけど「ここ」に自分と他人が存在 することを知覚し認識して噛みしめていると感じました。 いやぁすっかりアスカが主役でしたね。 ここまでアスカの映画になってくれるとは 嬉しい誤算でしたってのはアスカ者の偏見でしょうが。 とでも思わなきゃやってらんないよなぁ。
かくして、シンちゃんはアスカちゃんのドレイとなり、 一生、幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。 <終劇>
自分は性的嫌悪感からくる言葉だと思ってるんですけどネ。 DEATHの新作カットの「ミサトやバカシンジの使ったお 湯なんて~」の頃には、もうシンジ君が自分の事を性的対象 して見てる事に気づいていたのでは?このぐらいのお年頃の と女性ってそういうのたまらなく嫌だと思うのですがどうで しょう?
シンジはアスカを殺そうとするが思い止まる。アスカに優しい言葉を期待する "ファン=シンジ"だが"虚構=アスカ"は"気持ち悪い"と突き放す。 そういうことか?ヒゲメガネよ。
それと映画でアスカがシンジを否定したのは (自分の勝手な解釈ですが・・) 「シンジがアスカの事を、好きで求めているのではないのを、 アスカは気付いていた。なので、コーヒーメーカーに激突させ、 最後に’気持ち悪い’とまで言った」 好きで求めていない、というのは、恋愛感情のみ、でなく、 シンジは弱い自分を何とか持ちこたえさせる拠り所に「強く 見えるアスカ」にすがっていたふうに見えたからです。 アスカにしてみればそんなおかんのような役、あまり嬉しく ない気が・・・。
また、最後の台詞「気持チワルイ・・・」ですが、ラストシーンでのアスカ の様子を見てみると、腕と頭部と目に包帯およびガーゼが当てられており、 これは第壱話においてストレッチャーに乗せられてシンジ君の前に初登場 した綾波レイそっくりの状態で、加えてあの目線から察するに、アスカの 中には、彼女自身の魂や人格に加えて、レイの魂が入り込んでいるのだと 私は感じました。 いわば、アスカとしてはトラウマを刺激するモノとして忌み嫌っていた レイの魂が自分の内面において(シンジへの想い故に)融合しつつある ことについて現在のところ「ケンカカレー」(歳バレ?)の状態にある、 ということで「気持チワルイ・・・」という言葉に繋がったのだと私は考えた のですが、みなさんはどう思いますか。
あのラストシーンは実はハッピーエンドである。 あの砂浜のシーンは補完直後のシーンではない。 実はその前にシンジがアスカを見つけ、傷の手当をし、ミサトの墓を作ると いう一連のシーンがあったのである。 しかしアスカは何も話さない、何も反応しない病室アスカの状態に戻ってし まっていた。(偽りの復活) そんなアスカを不憫におもったシンジは思い余った挙げ句、彼女の首に手を のばす。 しかしその時、今まで何も反応しなかったアスカの腕が動き、シンジの頬を 撫ぜる。 嬉しさのあまり、涙を落とすシンジ。 更にアスカは言う。 「(あんたバカー、何泣いているのよ)気持ち悪い(わねえ)」 そうあのシーンは「クララが歩いた」パターンの感動的なラストシーンなの である。 しかし観客の期待を裏切る事ばかりを要求された監督は素直に感動的なシー ンを作る事ができずにあのような解りにくい形にしてしまったのである。 だが安心したまえ、ビデオ・LD収録時には完全版として失われたカット・ 台詞が収録され、誰の目にもハッピーエンドである事が解るに違いない。 (笑)
シンジ・監督、アスカ・観客に置き換えると、あのラストシーンは また違った見方が出来ますね。 現実から遊離してしまっている観客を不憫に思った監督の真心。 アスカが無反応だったら悲惨ですね。 それより、もし「気持ちいい」と言われたらどーする(笑)
シンジ・観客、 アスカ・監督ではどうでしょうか? シンジ「わーん。こんなEVAはいらないよぉ~。 謎もあまり解明されてないし~ そこで気絶してないで、もう一回EVA作り直してよ~」 アスカ「(まだやれっての?)気持ち悪い....」
1:呼吸困難になった為の気持ち悪い えー、シンちゃんに首をギュッとね!(爆)された惣流ちゃんですけど意識 の無い状態で首を思いっきり絞められては血のめぐりも悪くなり気分が悪く なったという、低血圧で良く立ち眩みしてる女の子の意見がありました(苦笑) 2:あのセリフはみやむーちゃんのアドリブ説 庵野監督に捧げるアドリブ説(黒い説ですわねぇ(苦笑))という人若干名 3:怪我のために気分が悪い説 右手の謎の治療跡で判ると思いますが怪我してる場合気分が悪くなるもんです (経験者談) 4:2日目説 ・・・・・・(^^;)・・・・・・ 5:観劇してる人へのメッセージ説 ・・・・・・
「きもちわるい」。 他人の体温が気持ち悪いことって、ないですか? でも、その嫌悪感を、人は「愛情」で中和させる。 けれどそれは「無理をしている」のかもしれない。 本当は、人なんて、生まれてこない方が良かったのかもしれない。 だけれど、生きている。 それでも、生きている。 生きていなければならない。 決して理解できない「他人」の隣で、それでも「一人ではなく」生きている。
エヴァみたいな「黙示録もの」のラストって、和解・融合、善悪何れかによ る統一、純粋な荒廃、・・・みたいな一元的な世界の出現で終わるのが相場じゃ ないですか。これは魅力的だけど、弱点があります。つまり、解り難いんです。 具体的にどんな世界になるのかが想像できない。私達の周りにあるのは、一 元的把握が通用しない、それこそ「他者」が存在する世界です。争いの無い平 和な世界、とあっさり書くことはできるけれども、そこがどんなところなのか、 人或いは人々が何を考えて生きるのか、よく考えると理解できない。 放映版の受け入れ難さって、ラストのそういう典型的ユートピアが、観る側 の想像力を麻痺させたせいがあると思うんですよね。 映画版は、そうした典型から脱したところが凄いと思います。シンジとゼー レの意思に従って、一元的な新世界を一度は成就しておきながら、シンジの成 長というモチーフを重ねて「その先」を開いてしまった。この点に限れば、黙 示録を越えちゃってますよね。そうして出来上がった「他者の居る新世界」に は、シンジがその成長の代償として手に入れた、純粋で人間的な憎悪や悩みや 悲しみがあり、観る側として非常に素直に感応できる。これがユーモアやカタ ルシスでなくて何であろうかと。そしてまたそうした世界を、アスカの最後の 台詞一つで完成したところがまた見事なんですよね。
インパクトのある、出来るだけ短い、どうとでもとれる演出、ということで ああなったんではないでしょうか。鏡のように、見たいものが見える、見た くないものが見える、うがった人にはうがった見方が見えるラストシーンだ と感じてます。
最後にアスカが包帯をしている意味は、 「アスカ自身が女になった」 「シンジにとってアスカが女になった」 という二つの意味を同時に持っていると思います。 「気持ちわる」という言葉には、リアリティを持たす効果と、 触れあいによって「産むことが可能な存在となった」=妊娠のイメージを出す効果、 それに、存在が個に分かれていることの実感(喜びも悲しみも)が 表現されていたように捉えられました。
最後のシーンについてはアダムとイブというよりアジア系の神話 洪水で生き残った 兄妹の話(日本のイザナギ、イザナミの話でもこういう始まりのものもあります) の方を連想しました。 アスカの気持ち悪いのセリフですが考えによっては色々とれるセリフですね。 私はシンジと一線を引くセリフと取りました。 (ここから他人としてスタートとして2人の関係はどうなるかという・・・) この最後はFANが自分たちで考える宿題だと思えました
最後のアスカも女っぷりがよかった!きっと、あれがアスカのやさしさじゃないの かな?と思った。急にわかったようなアスカになったら余計かなしいもん。 とっても、ハッピーエンドだったと思います。映画みたあと結構すがすがしかった。
気持ち悪い,はよかった。絶望とそれでも幻想を構築しなくてはならないという 意志が感じられ・・・るか? 絶望だけか? 慰めてもらいたいのか?
立派に完結していたと私は感じましたし、救いもあったと思います。 ラストのセリフは、生々しい接触も含めてアスカがシンジを受け入れ始める、 という言葉ではないのか、と思うのですが。 少なくとも、突き放されて終わったとは感じませんでした。
私、あのシーンは本編に絡まないと思ってます。 庵野のファンに対する愚痴だと思ってます。 ファンによって傷つき首を絞められた「エヴァ」から、 おおよそ倒錯しているファンの一番多いアスカの声で、 ファンに対して文句を言ったんだと思います。
創世記によればエデンの園では人も含めてすべての生き物は裸で(つまり自分自身 をすべて晒して)いても恥ずかしいとは考えなかった。ところがアダムとエヴァが 禁断の知恵の木の実を食べた途端に裸でいることに気づいて恥ずかしくなり、身体 を覆って隠した。このことが神の怒りに触れ、2人はエデンを追放された。 ・・・ラストシーンの2人はやはり楽園を追われたアダムとエヴァなのですね。 自分の殻(ATフィールド?)を壊すことができなかった(あるいは自分の殻に閉じ こもって出ることができなかった)シンジとアスカだけは結局補完されることなく、 荒廃した世界に取り残された・・。それでもアスカはシンジを拒絶するかもしれな い・・と。
この映画を、人間の内面の描写をメインとして考えると、まさしく、私の好きな ジャンルに入るんですよね。いっかい、救っておいて、最後にもう一回、落とし ちゃうっていう。(笑)でも、最後は、あれでよかったと思います。だって、簡 単にシンジが、他人を認め、世界も、そんなシンジを喜んで、迎え入れるで終わ ってたら(テレビの終わり方かな?これは。)、面白さ半減だと思います。そこ で、アスカに気持ち悪いといわれて、自分の選んだ世界の厳しさというものを示 して、終わった方が、なんか、心に重ーくのこるじゃないですか!(だから、 ONE MORE FINAL なんだとおもいます。)
補完中にシンジはアスカと、ものすごい勢いで傷つけあいます。 彼は最後には彼女の首に、手をかけるのです。 そこまで他人というのは自分にとって厄介なものなんです。 理解不能ですからね。 それでも、シンジは「融合」ではなく「他者との並存」を選びました。 「共生」だとか「相互理解」とか美辞麗句に彩られた根拠なんて、 これっぽっちも示されないのに。 根拠があるのだとしたら、寂しさゆえの「I need you」くらいなものです。 単体になってしまったら永遠に孤独ですからね。 (この辺、あまり自信無いな。二回目を見たほうがいいかな?) 目の覚めた彼は、隣で寝ているアスカの首を、再び絞めにかかります。 そりゃ、あたりまえです。 自らの選択とはいえ、自分を苦しめる元凶が、 現実に厳然と、そこにいるわけですから。 ほっとくと、こっちが殺されるかもしれませんし。 「他人がいる」─────本当に深刻です。この問題は。 なぜか生きていたアスカが、そんなシンジの頬に手をやって、 彼に「他者のいいところ」をちょっち認識させます。 苦しみとともに、ヨロコビもまた確実にあるのです。 シンジの手から、力が抜けて、その後のアスカの一言で 「終わらない夏の物語」の幕が引けます。
アスカの「キモチワルイ」発言は、相当ショックだったのですが、 彼女らしい発言だなとも思います。少なくとも、病院のベッドで 息だけしてる状態で生きている彼女より、ずっといいです。 「詩編 The End of Evangelion」では、アスカの言葉は、 「あんたなんかに殺されてやるもんですか」が入っていますが・・。 現実は、そうそう、都合のいいようにはならないんだという事に 通じている気もします。
私が思ったのは、アスカはショックで植物人間状態がある程度つづいており、 (目がサカナだった)シンジはいっそ楽にしてあげようとしたと見えたのです が。包帯をきれいに巻いてあるところを見るとシンジが悩むに十分な時間はあ ったのでしょう。(だからエントリープラグから気が付いたらあの場面、てい う訳ではない。)そしたらもう動かないはずのアスカの手が動いたので、嬉し くて涙が出た。ついでに「気持ち悪い」という正常なアスカがはくセリフが出 て、アスカが完全復活したという、無条件ハッピーエンドだと迷いもなく思っ たのですが。
あの最後のアスカ首しめられシ-ンですが、そのあと のアスカのセリフが最後の最後に観客を現実に引き戻すオチ みたいにかんじました。首しめ、まえふり?みたいな(笑)
TVシリーズを見る限り、アスカはシンジに対して14歳の少女らしい「嫌いだ けど好き」という心理を抱いているようです(まぁ25話で助けられなかったこと がしばらくもめる原因にはなるでしょうが)。それゆえに、シンジの腑抜けさに我 慢がならないのでしょうか。ただ、その心理とは別にエヴァのパイロットとしての ライバル意識も強烈ですから、非常に言動もわかりづらくなるのでしょう。 シンジの方は、ミサトさんもレイもアスカもいいという宙ぶらりん状態ですが、 考えてみれば男ならたいていは心理的二股、三股は当たり前です。しかし、この中 で本当に可能性があるのはアスカだけなのですから(ミサトは年上過ぎ、レイは・ ・・実の所は母、ユイですから)、将来的になんとか努力するでしょう。そのため に現世に戻ったのですから。 で、最初のコミュニケーションが首締めと「気持ちわるい」。一種ダークな感じ もしますが、「他人とのコミュニケーションが最初からうまくいってたまるか」と いうことであれば、先がどうなるかは・・・
しかし、あのラストは必然とはいえ悲しい物がありましたね。 アダムにとってイブとは所詮他人であり、殺意を抱く対象であ り、自分を傷つける存在なわけですから。
しかし、やはり最後はきついです。安易な現実礼賛はもっと嫌ですけれども あそこにはやはり意地の悪さは感ぜずにはいられません。 少数派なのかもしれませんが、肯定否定はともかく「私の趣味としては嫌だ」 というのだけは間違いないです。こんな人もいるということで、一応、存在 を認めていただけるとありがたいです。
やはり、あれは監督からのメッセージと取るべきではないかと。 月に斜線が入っているように、もうこの「エヴァ」は終ったんだ、 もう人の作品に自分の考えに目くじら立てて攻めるのはやめてくれ、 見る側と自分は「他人」なんだ、そこまで立ち入らないでくれ、攻めないでくれ、 こっちにしたら「気持ち悪い」んだ、 エヴァ=庵野の首を絞めるのはもうやめてくれ・・・ そういう事だと私は感じました。いつまでも他人に依存されると気持ち悪いって 事だと・・・そういう意味の、監督の「エヴァは終ったんだ!」という宣言 ではないだろうか。
私はあのラストシーンは 「自分に棘があることも、相手が針を持つことも、 全てを承知した上で敢えて一歩前に進む事が出来るようになった シンジ君」に成長した、と言う風に考えています。 「気持ち悪う。」の台詞に関しては、あそこから人類の新しい 時代が始まる的な雰囲気(オーケストラが聞こえてきそうな、 とでも申しましょうか。)の中で、劇の中の世界ではこれは 現実なんだ、と言う目的で入れたのではないでしょうか。 (日常性を出したと言った方がいいかもしれません。) まあ、いわゆるハリウッド的な大円団では無いよ。ってとこですか。 私はいい出来だったと思ってます。
アスカは「気持ち悪い」よりもその前に差し出した手の方が重要だと思います。 敗北の象徴である同じ右手だというのがヒントでしょう。
シンジが心象世界とラストシーンでアスカを求めて首を締める シーンはレイプのメタファーじゃないかという意見がありました。 確かにそう解釈するとあのラストも非常に理解しやすくなるんで すよね。
そしてラストの台詞ですが、私はシンジだけでなく、世界の全て(自分も) に対して感じたメッセージだと感じました。生きていくには気持ち悪い世 界だけど、やっぱり死ぬのは嫌だ、と。そもそもアスカがシンジを好きだ とは思ってなかったのでショックではありませんでしたが、手も触れず、 目も動かさなくてあの台詞だったら、やっぱつらかったかな(^^;)。ともかく、 我が儘を貫き通した監督に拍手!
やっぱシンジがアスカの首を絞めたのは、ATフィールドの象徴で しょうな。人は生まれながらにして、他人を拒絶すると
「娘」って見た瞬間、「この人はアニメおたくか」と思います。