はてなキーワード: 神父とは
自分は手術しないと幼児のうちに死亡する病気を持って生まれてきたが、幼児の時に手術して生き残った。
幸い、頭は良かったので、中高はキリスト教カトリックの進学校に通えた。カトリックは性転換手術を非難する。
持って生まれた体を人間の都合で書き換えること自体が、神の意志に対する反逆だ、と教えるのだ。
では自分が手術して生き残ったのは正しいのか?神はもともと自分が幼児のうちに死亡するように計画なさったのに、人間の都合で自分が生きるように書き換えた。それは罪ではないのか?性転換手術とどう違うのだ?
手術しなければ死ぬ病気で生まれたことがばれたら、キリスト教徒は豹変して自分の死を願うようになるのでは?
中高の時、神父たちは自分の疑問にうまく答えてくれなかった。結局、宗教というのは健康な一般人を相手にしていて、自分みたいな例外ケースに対してうまく説明できようができまいがかまわないのだろう。数の暴力というやつだ。
きちんとした教会、または牧師先生がいらっしゃるのがウリの挙式場を下見して、そこを魅力に感じたらしい人が口コミに「神父先生が〜」とか書いてるとあーあ、ってなってしまう。だからといって何もない、本当にちょっともやっとするだけ。
もし「神父先生」が正しいなら「讃美歌」じゃなくて「聖歌」だし、カトリックはプロテスタントほど気軽に挙式はできないはずだから、多分「神父先生」が間違っている。
私は洗礼を受けてない、単にミッション系スクールにそれなりの年数通ってただけ、という信者の方からしたら余計に面倒な立場の人間だと思う。
典型的日本教に毛が生えただけの人間が何言ってるんだろうという感じではあるけど、でもお坊さんのことを「宮司さん」という人はいないでしょ。まあお坊さんと宮司さんは宗教が違うか...。
書いてる私の略歴 中学で坐禅にはまって禅寺に通いはじめる。スピ系話が好き。ワクチンはP・P・Mで接種。年齢 中高年。
私が小学生の時、PTAのボス的存在に連れられて1946年に設立された教団に通い始める。
以下、母の証言による。
信者は皆の前で反省しなければならない。家のなかのあれこれを全部話させられる。貯金の額も申告させられる。
毎日布教に行く。母に同行した支部の班長は近所の不幸をあれこれ聞きだし、それを使って信者を獲得(○○で悩んでいた人が入信して良くなったみたいな)し、毎月信者獲得数トップで誉められていた。
布教の時に配る教団の冊子は信者が買う。沢山買って沢山配れば誉められる。返品不可。
ごく短期間で母ギブアップ。辞めるときにかなり揉めたらしいがなんとか脱退。
その後私が禅寺に通い始める。
退職後知人に誘われて入信。
一日中道場に詰めて連絡が取りにくくなるも、当初は留守番電話の設置だけ薦めて我が家は静観。
その後我が家に来て自分は清浄、我々は不浄な態度を露骨に見せ、他人の不幸を今まで以上に嬉しそうに話し始めたので、信者の自惚れに餌をやるタイプの碌でもない教団なのか、元々性格に難のある親戚だけがそうなって教団はまともなのか判らず我が家は対応に苦慮。
ご奉仕に身につけるエプロンは他で使うと穢れるとか、お守り袋作成の中に電話に出ると穢れるのとか、禁忌があまりにも厳しすぎ、自分達は守られているので医者に行かなくても大丈夫、薬は毒等々と言い出す。
うぬぼれはどこの宗教でも社会常識でも悪い事なのだが、それを抑えている気配が無く、禁忌によってそれを煽っているように見える。私の入門した禅寺の御老師様はこういうことにかなり厳しかったので絶句する。これはかなりまずいかもと退団の説得に乗り出す。しかし時既に遅く不浄な我が家の言葉は届かず、「守られている」と大見得切っているので事故や病気になったときに我が家に助けを求められず、却って事態が悪化すること数えきれず。
薬は毒だとか恐怖を煽りつつ、私たちだけは救われるんですよと優越感をくすぐる、宗教というより殆どマルチ商法という気がしたので「苦情の坩堝」や「悪徳商法マニアック」の体験談を読みあさり、なんとか脱退の糸口を掴もうとするも結局力及ばず。
晩年、教団墓地管理費を長年二重取りしていたことが判ったが(お金は返ってこない)、それでも結局親戚は死ぬまで信者だった。
親戚の死後、親戚が身につけていたお守りの事で親戚を誘った女性とも初めて会ったのだが、教団墓地の話ははぐらかすのに、突然の葬式仕切りで大忙しの私を道場へ何度も何度も誘った。控えめで気が弱そうで善良そうな女性がである。長年道場だけが重要で世の中の事は些事と教え込まれているとこうなるのだろうか。「世の中に間借りして修行させてもらってることを忘れるな」って御老師様は言ってたから、あんまり世の中を軽く扱うのもまずいのではと思う。
また信者に口寄せさせて、その人が話したことを真に受けて皆で実行していたようなのだが、そんな心許ないものに左右されてどうするのだろう。世間に対しては一々疑いや不信を抱くのに自分達の行いに対してはあまりにも信用しすぎなのもまずいと思う。「自分を疑え」「脚下照顧」と先達も諭しているのに。
通帳など紛失しているので判らないままだが、親戚が教団に納めた金額は8桁を超えていたようである。教団の維持にお金が必要なのはわかるけど、それも程度問題だと思う。
職場と家以外、人間には案外居場所がない。親戚にとって道場は第二の我が家だっただろうし、母も家とパート先以外の居場所が欲しくてあの教団に行ったと思う。でも信者獲得数やお布施の額で確保する居場所は良くないと思う。
余談だが、コロナが流行した年にこの教団の他県支部でクラスターが発生したらしい。薬は毒、我々は神様に守られている、発熱は好転症状と言い続けていたら、三密対策もとるにとれなかったろうとは思う。
タイトル通り。ある日知人ともう一人が冊子をもって布教に来たので、私は中学の時に禅寺に入門して受戒していること、今も信者である事を告げてお引き取りを願ったところ、「先祖供養はお寺任せではなく、自分でやらないと。ここなら自分でできるんです」と連れの年配女性。「自分でやってますが」と私。
しかし相手は怯まず他のやり方では駄目と言わんばかりに押してくる。
それなのに冊子には教団名が書かれてない。祈祷文をネットでくぐって漸く判明した。自信あるならちゃんと名乗れよ。
知人も過去の自分の不幸を開陳するのだが、母の体験もあるので私は一切自分の状況を口にせず「現状に大満足(大嘘)」で押し通す。キリスト教の告解は神父様だけにだし、仏教は仏に懺悔する。到らぬ身の人間相手に懺悔しても悪い結果にしかならないと御老師様も言っていたしね。
大宗教でも自派が一番優れているといってるけれど、それは大昔の、印刷術も電話もなく、人の移動がほぼ徒歩だった時代にアクセス出来る範囲にある宗教では一番と言ったわけで、色々な宗教信者が一緒に暮らす現在それをいうのは利より害の方が大きい。私の禅の師である御老師様は他宗教をくさす言葉は一言半句仰らなかった。
確かに小学校の友達が教会で入信したときに「私は救われるがあんたたちは煉獄」と言い放ったし、私が禅寺で入信したときクリスチャンの友人が牧師執筆の本を貸してくれ、そこには孝行を尽くした妹よりなにもせず親の死後仏壇を買った長男が誉められる仏教は間違っていると書かれていた。
事実に基づかない批判(貧女の一灯をしらんのか)を展開する行為の方が、私にはドン引きだった。さすがにこういうのは今は少なくなっていると思う。
常識を疑う、破るのは仏教にもあるが、それは修行が進んだあと、無意識下の刷り込みを打破するためのもので、一般信者が社会常識を踏みにじっていいということではない。
普遍的な道徳に照らしてアウトなものは宗教でもアウトだと思う。
この二人組は本当に何度も来た。コロナになってやっと音沙汰がなくなって悪いがほっとしている。
20代後半のある日、家で読経中に宗教の勧誘が来た。中断させられてイラっとした私は数珠袈裟のままドアを開けた。そこに立っていた男性は、私の数珠袈裟をみて「これはお邪魔をしました」と深く一礼した。近所のキリスト教会の牧師である事を名乗って、若い女で異教徒の私にもう一度お辞儀をして、信者を引き連れて帰っていった。信仰する者に出会ったことが嬉しいという顔をしていた。「美味これ淡味」本当に価値のあるものは奇をてらわない普通の姿をしているのだという御老師様の言葉が浮かんだ。私も深く一礼した。
2000年代に大学内でゴスペルコンサートをやっていて、それを聞きそびれた...的なことをスタッフらしい人に話したら、ゴスペルコンサートを聞きたかったら休みの日に来てと言われ、ついていった教会が統一教会系のやつだったんだろうなと今では思う。
ミサ中にイエス様を信じたらすべてがうまくいったみたいなことを弾き語りしているおっさんがいたりして、ショーとしてはなかなか面白かったけれど、信仰心は抱かなかったな。
ミサが終わってから、交流会があり、同年代の信徒による熱烈な勧誘もあって、聖書を信じて生きていたらうまくいったみたいな話をずっとされたのは覚えている。
ちなみに、ワイはカトリック系の学校に通っていたのでキリスト教にそんなに抵抗はなかった。
逆に、カトリック系の学校に通っていたからこそ、神父とその教会の牧師の振る舞いのあまりの違いに違和感しか覚えなかったんだよな。
信者たちが固い椅子に座っている中、牧師はショーをふかふかのいかにも高そうな牧師専用ソファーから見物してたんだな。
俺が通っていた学校の神父はミサ中にちょっとそれぞれでお祈りをするみたいな時間は安っぽそうなパイプ椅子みたいなのに座ってたから、牧師が高そうな椅子に座っている光景にものすごい違和感を覚えた。
カトリック系の経験がある自分からすると、ものみの塔の人のほうがまともな感じがする。
まあ、カトリック系で学んだ知識をもとにいろいろと勧誘の人と話をしていたら、興味がある人だと思われて聖書のお勉強に誘われたので固辞したんだけど。
現実問題として、宗教というコミュニティも維持にはカネがかかるというのがまず事実で、
普通?のキリスト教の教会だったら、回ってきた袋に誰がいくら寄付したかは分からない
自分はカネがないので100円ぐらい入れて、昼飯はちゃっかりごちそうになったりしたこともあるw
ただ、カルトは現世利益が重視されることが多いので、寄付に比例した分だけ現世利益があるよ、みたいな教義があるのかもしれない
オウムとかもそうだったし…
普通?のキリスト教の教会だったら、まず本部から運営資金がちょっとは来るはず
普通?の教会なら現世利益は重視されないので、寄付をすればするほど良いわけではない
あと、教会の牧師、神父は兼業で平日は働いてる方が普通というか、金欠な方が普通なはず
宗教だけで回ってる、羽振りが良すぎる、というのはちょっと変だと思ったほうがいいかも
もちろん貧乏ほどマトモというわけでもないけど
難し🌾
家計簿創始者で自由学園作った羽仁もと子は古い主婦には影響力あり、婦人之友にもキリスト教的かつ左翼的な文章も多かった。教会に属しないので、聖書を読んで祈る。羽仁五郎はマルクス主義。
政治思想は教皇フランシスコが出したもののトップダウンなので、ミサで神父が公式見解以上に政治思想暴走して語ると怒られる。高齢化がひどい。カトリックはシスターがいるがこちらも高齢化がひどい。役員や聖歌隊の人員確保に忙しい庶民が多く政治活動どころでない
が大きくて、プロテスタント系の矯風会はネットでは存在感あってもリアルで関わることはほとんどなかったな
無知なもので自分の中のフェミニズムのイメージが、シャネルのミニスカートで止まっている。
今よりもっと封建的でまさに女性が「産む機械」「家政婦」だった時代だ。女性は男性を誘惑してはならない、男性に劣情を抱かせること自体が女性の罪である、とロングスカートを強制されていた時代に、解放の象徴たるミニスカートはどれほど輝いて見えたのだろうか。小学生の時に「ものの始まり館」(小学館)を読んだ時に思った。
歴史を紐解いていって、特に3大宗教の女性蔑視思想にクソがよ、と思うことは多いが、それによって生まれた文化は憎んではいない。後宮や遊廓は、悲哀を抱えているからこそ美しい。人魚は神父を誘惑する女性の魔性をモチーフとしていると以前読んだが、そんなクソみたいな思想だったからこそ蠱惑的で美しい「人魚」という存在が生まれたのだと思うとより輝いて見える。ミニスカートも同様だ。
全然関係ないけど、あんな経緯で生まれたミニスカートが「性的搾取!」とか言われてるのめっちゃおもろい。私が可愛いと思ってるし1番自分に似合ってるからミニスカートを履くんだわ。性的搾取って自分の性を売り物にしてないと出ないワードだと思うね。
リアルでは人権がない身長なんだけど、vampyrというゲームは主人公が身長190ぐらいで大抵のキャラを見下ろせるの気持ちいい
アクションゲームに見せかけて会話ゲーなのでよく一対一でキャラと話すのだが、医師も神父もごろつきもみんな主人公に見下ろされる
きもてぃーけどリアルで190の人もこうなのかな
見下ろすのが日常だとなにも思わないのかな
俺が人権ないからこじれてるだけで175とかで人権あるけど人を見下ろすほどではないって人も別にこのゲームやってきもてぃーとはならないのかな
黒人、肌の色こそ同じでも差別されてる移民、地元民だが代々貧困層、障害者、など弱者キャラの事情について掘り下げられる一方で主人公は白人で190で金持ちの家に生まれた教養ある医者で、本人は悩んでるけど吸血鬼化して種族としても人間を超えるものに
人間を食いまくって傲岸不遜に生きるか、弱者に献身的に寄り添うかを選べるんだが、そういう作風を考えると「見下ろせて優越感抱ける」は制作側が織り込み済みなんかな