はてなキーワード: 暗喩とは
■なんでイス?
車いすのメタファーと思われる。 足が欠けて3本しかないのは、欠損の暗喩かもしれない。
物語序盤で綴じ師の青年が腕を負傷するシーンがあったが、構想段階では足を負傷して車いすに乗るという案もあったのかもしれない。
PS.
自身はロッキングチェアに座り推理だけを行い、捜査は助手に任せるタイプの探偵を、安楽椅子探偵などと呼ばれることがあるが、
究極の安楽椅子探偵と例えられる、ジェフリー・ディーバーのリンカーン・ライムシリーズがある。
脊椎損傷により寝たきりのベテラン刑事が、無線で新人の女性刑事に指示を出し、鑑識捜査を行っていくストーリーだ。
...そういえば病床に伏せる老綴じ師も出てきましたね。
全校イベントで観客もたくさん居る中でグランドを走るんだけど順位はなくてマラソンみたいなものだった。ちなみに現実でマラソンはしたことがない。
それで走る前はクラスが団結してガンバルゾーな雰囲気。個人走でなにを団結するのか謎。
そして走りだしたら実況が解説するんだけど、実況がすごくプライベートな部分を喋りだした。
何々が好きだとかあの科目が得意で最近の趣味は~とか赤裸々に暴露しつつ応援しましょう!とか言ってくんの。
別にそれはリアルな俺の情報じゃなくて夢の俺の架空の設定だったけど、公然で大人数の前でそんなこと喋られると羞恥心と走ってる意気切れでもうクラクラして。クラスメイトも増田頑張れって応援してるし。やめたかったけど律儀に走り続けていた。
ってところで目が覚めた。
部落という言葉は文字通りに部落という意味なんだわ。
関西での意味がどうのとか知らんし、お前らの悪行が想起されるからといって何故お前ら悪人に配慮してやらないといけないのか。
部落差別されてる人たちが悲しむ?いやお前らがしなければ良い話だろ。
えっアナタたちが言う「部落」の文化は大事だけどコチラの部落文化は大事じゃないから保護しませんって?
流石は差別主義者、空気吸うように差別するのな。
部落は部落、地域の単位、コチラにとって見ればそれ以上でもそれ以下でもない。
お前ら悪人が自ら暗喩的意味を作ったのにも関わらず都合が悪くなったから配慮せよとは自分勝手にも程が有るだろ。
マジでお前ら傲慢だよな。
自分たちが差別する地域へは常に配慮を求めるわけだよ。
お前らの言う「部落」であれ「地方」であれ常に配慮をさせて差別をする。
昔見たときは「自分の仕事に意味があると思い込もうとする」ということが、狂人の仕草に見えたが、今となってはそれも良くわかる。分かるようになってしまった。
話の中では、銀行で2000年問題に取り組んだサラリーマンたちは、自殺・精神病・自暴自棄?に追い込まれていて碌なことになっていない。彼らは「意味のない仕事に追い詰められ、捨てられた」象徴に過ぎない。
社会の枠組みからはみ出て自由に生きる濱マイクと、社会の歯車としてすり潰される人間との残酷な対比か。それだけにマイクの奔放さが輝いて見える。
そうすると、オープニングとエンディングに突然出てくる「迷い牛」は、社会に飼い慣らされたサラリーマンの暗喩ということになるか。すっかり牛側になったからこそ、理解できてしまう。
目をまん丸くしては猫の暗喩かね?
まず単発なのに文章が上手すぎる
時間の流れを感じる構成によって夫が今でも女として見てくれるのかという焦りがドン・キホーテのある駅に着いてしまうという部分で夜の生活は加齢によっていつまでも出来ない、時間はあっという間に過ぎることを上手く暗喩していて印象付けするようになってる
電車に乗ってることでスピード感があり、残りの駅の数をカウントダウンしているところも焦る心を加速させていく。今ドン・キホーテがある駅で降りれば女の性が間に合うかも知れないという演出だ
こういう印象を強めるテクニックがこの短い文章の中に結構散りばめられていて、その当時から腕のある増田だったのではないかと
懐かしさを感じさせ久々に良いもの読んだと言いたい
我が家はリビングと、家族それぞれの部屋に分かれている。リビングの掃除は私が1番一生懸命行っており、というかほぼ私だけが掃除をしている。個別の部屋はそれぞれ使っている人間に任されているので、状態にばらつきがある。私はミニマリスト寄りで、比較的きれい好きでもあるので、自分の部屋とリビングは物が少なく、置いておくものについてもこだわりが強い。家族の誰かがリビングに忘れ物をしたり、書類やその他諸々を置いていくと、それを個別の部屋まで持っていったり、不要なものなら捨てたりする。リビングのエントロピーは常に増大する傾向があるので、それに抗う。これが何とか機能しているので、リビングと私の部屋は美しい状態を保てていると思う。
個別の部屋は、基本的にはお任せで口出ししないのだが、たまに部屋に入った時に、あまりにもな状況になっていることがあるので、許可を得て掃除機をかけたり、モップで拭いたり、どう見てもゴミなダンボールを片付けたり、脱いである服をクローゼットに掛けたりする。人の部屋であり、物だけど、我慢ができない気分になることがある。そして、これをやると大抵、家族は不機嫌になる。こちらとしては結果として部屋がきれいになるからいいではないか、と思ってしまうのだが、「他人に強制された」という感情が気分を害すのだろう。そうして「リビングを自分の好きにしているんだから、部屋ぐらいは好きにさせろ」というようなことを言われる。これは私にとってはショックである。
私はリビングを管理したいのではなく、自分が1番きれい好きであるので、義務感から役割を買って出ていたつもりなのだ。家族の目からは、それがリビングの独占、支配に写っているのか。私が放っておいたら、誰が掃除をするというのか。物で溢れかえってしまうのでは…。「私が一番、ガンダムをうまく使えるんだ」そんな気分で不貞腐れる。
そうして、これは公共の場における表現の自由問題の暗喩のようだとも思う。「自分が一番、公共の美しさを維持できるんだ」「それに寄与するために努力している」と思う人が、リビングをきれいに掃除する感覚で、公共の掲示物に違和感を持ち苦言を呈する。個別の部屋にあるべきものを、さっと掴み取り、あるべき場所に戻す。
リビングは私の部屋ではない。家族の誰かの場所でもない。みんなで管理しなければいけない。管理への寄与度は人により違う。だからリビングへの意識も異なる。答えはない。