はてなキーワード: 以心伝心とは
全部の服を脱ぎ終えた二人はベッドの上で対座する。まだ何ら行為をしていないのにもかかわらず、夏の暑い室内のせいで二人の肌にはすでに汗がにじんでいる。扇風機もクーラーもあえて付けない。今から始まる舞台は涼しさなど少しも必要としないのである。
正座して見つめ合う二人は「よろしくお願いいたします」と日本人らしい丁寧な敬礼で始めの合図をする。男が股間へ手を伸ばそうとすると、女もそうしようとするが、男はじらすと見えて再びその手を引っ込める。女も引っ込める。熱い試合が見込まれるからこそ立ち合いの呼吸はなかなか合わない。
観念した女がついに自ら口火を切った。男もにわかに右手を激しく上下させる。声は男の方が先だった。それにつられた女も負けじと甲高い美声を部屋中に轟かす。男の「おっ、おっ、おっ」という一定のリズムを保った野太い喘ぎと、女の「あー、んっ、っあ、あーー」という不定形の悲鳴とは、双方の良さを引き立てながら、独特の協奏曲を奏でる。浅黒い男の逞しい筋肉と、純白の女の麗しい乳房。互いの目は互いの身体へと注がれ、興奮の波は上昇の一途をたどる。目の前の体には指一本触れていないのに、まるで相手と同化したような気がするのは、性交では決して得られぬ自慰の奇跡と呼んで差し支えなかろう。
小さくうなずく男に女も同じようにして応える。もはや二人は以心伝心の関係だった。「あっ」と短い声が重なったかと思うと、窓から差し込む夕日の向こうから、カラスの群れの鳴き声が、まるで試合終了の笛が鳴るように、二人の心に響き渡った。「ありがとうございました」。裸の男女は、はずかしそうに微笑みながらあたたかい握手を交わした。
女だけど答えてみる。
女は男より記念日を重視する傾向にある。なんで?
確かにそういう傾向はあるような気がする。もちろん人によるけど(私はすぐ忘れるしまったく重視しない)
思うに、これは日付や付き合った期間そのものを重視しているというより、そういう具体的な数字によって
「自分たち二人の関係性は今どんな感じか」をはっきり感じようとする心理じゃないかな?
「二人で祝う○回目の誕生日」とか「付き合ってちょうど一年」みたいに「数字」が必要なんだよ。
記憶だけじゃなく写真を残したいとか、形に残る記念品が欲しいとか、そういうのと似た感じかと。
それなのに何故か女は受け身である。なんで?
友人同士の誕生日サプライズなんかもそうだけど、「期待してなかったのに実は準備してくれてた」という
誕生日だから祝ってね!記念日は覚えててね!と自分から言うのはみっともない。
できれば以心伝心的に「言わずとも通じる」みたいな関係がいい、という理想を求めているのかなと。
恋愛や異性に夢見がちな若い子や、恋愛経験が少ない人にありがちなパターン。お姫様願望も少し入ってる。
これが自覚なしに行き過ぎると「言わないと何もしてくれない!」みたいな逆恨みになる。
誕生日や付き合った記念日の女→男サプライズは結構あるんじゃない?
彼氏の誕生日にプレゼント何がいいかなー的な相談とかよくあるよ。
一ヶ月だけでもいいから!
俺と!付き合って!ください!
おっぱいもみたいんです!
ひざまくらとかしてみたいんです。
あと、おっぱいに顔をうずめてみたいんです!!
派手さとかないけど!バブリーな遊びできないけど!
お金をじゃぶじゃぶ使った形では、あんまり、喜ばせてあげられないかもしれないけど!
でも!肩抱いて一緒にいてあげるくらいはできるから!!
おっぱいもませてください!!!じゃなくて、付き合ってください!
甘やかされたり、でも、たまに、それじゃいけないと思ってがんばってみたり、でも、力及ばず挫けてみたりしたいんです!!!
一緒に、手をつないで、最寄り駅から家に帰ってみたり!!
一緒に、こたつに入ってみたり!
一緒に、同じ料理食べてみたり!
一緒に、お風呂に入ってみたり!
あと、会社行く時に、ぎゅってしてみたりしたいんです!!
あれしようよ、とか、あれとって、とか、あれ買ってきたよ、とか、あれ面白かったね!とか以心伝心とかしてみたいんです!!!
ほらあとは、休日、よーし、家事変わってやっか!ってやってみたり!一緒にゴロゴロしてみたり!
とにかく、喜ばせたくって、無茶したりしてみたいんです!!
嫁自慢とかしてみたいんです!それで、てめー、しねとか同僚に言われたりしてみたいいんです!!!
してみたいんです!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
ここに書いてもどうにもならないのはわかっているけれども、さっきから、指が止まらないんです。
いいか!とにかく!とにかく、俺が言いたいことっていうのはな!
おっぱいじゃなくって、おっぱいに顔を埋めたいじゃなくって、だめだ、おっぱいが俺の思考の邪魔をする。
おっぱいも大切だけれども、それはそれでよくて、えーっと、付き合って、キャッキャウフフのおっぱいじゃなくって、キャッキャウフフの仲良し生活をしてみたいんです!!!
一緒の漫画とか読んで、面白かったねとか言ってみたいんです。あ、これはもういったかもしれない。
もうだめだ、このへんでとうこうする
この人の考えはとても日本的な相互監視の村社会ルールで、これは現状に即した良い考え方だと思う。だけど個人がちゃんと主張して、相手も聞く耳を持つ方が、本当は風通しは良いかな。理想の世界だけど。例えば老人は「若者が席を譲らない」と怒る前に、一言「席を譲ってもらえませんか」と自分から言えば、言われた方も気軽に「いいですよ」と応じれば、それだけで簡単に話が済むのに。電車の中の会話も通話も全部同じで。どうしても日本人は、相手に言われる前に察しなければならないと思ってしまうし、相手に異を唱えられただけで気を悪くする人が多い。世の中の人間がすべて同じ世界観を今日有すべき、以心伝心であるべきと思ってしまうのが、日本人の美徳でありかつ呪いなんだと思う。そもそも元のブログの小鳥メモメモの人は、言葉は足りなかったのかもしれないけど、こういう相互監視のルールから解放されたいよ、と言っていただけでは。
そもそも女性手帳で思うんだが、啓蒙したら出生率が上がると思ってるんだろうか?
なぁ、マジで。
ぶっちゃけ、あんまり小難しく考えない層のほうが産んでるじゃん。
あ、そういう層を対象にした政策じゃないって?
いや、でもさぁ、高学歴だろうと外資エリートだろうと、子供の作り方はいっしょでしょ。
セックスして、中で出す。
「子供一人3000万、二人で6000万、老後の生活資金に2000万、しめて8000万を現役時代40年で捻出するためには、生活費の他に余剰資金200万捻出しないと!」
とか考えるながら、チンコ勃つの?濡れるの?特殊性癖の人とかじゃなくて?
「大学でてすぐ妊娠、退職ってもったいないって言われるけど、どうせキャリアに穴を開けないとならないなら、30代で開けるより今のほうが実はお得なの!」
「8000万とか聞くとビックリするかもしれないけど、扶養控除とか確定拠出年金控除とかがあるから、実質負担はそれほどじゃないわ!」
とか言われて、以下ry
賭けてもいいけど、萎えるじゃん。
それですげー興奮できる人がいるんなら、
って思う人がそんなにいるんなら、俺は新しいAVレーベルを設立するわ。
こんなふうに女優に叫ばせるよ。
「中に出してぇ!いっぱい出してぇ!…あたりまえだけど、人口増加とGDPの増加は有意に相関するから、子供を作ることは自分と自分の子供たちの収入アップにもつながるの!だから中にだしてぇ!」
…一番いいところで萎えるでしょ。
いやね、低学歴高学歴、金持ち貧乏関係なく、結婚だの出産だのってのは勢いだと思うわけ。
腹の中に他人だぜ?
生まれてみればわかると思うけど、以心伝心ってわけじゃなくて、喧嘩もする。
臓器移植したって拒絶しあう。
エイリアンに卵産み付けられるのと、同じっちゃ同じだ。
いや、さすがにそれは違うか。
産んでも死なないし。
だからね、紙だの手帳だのに書かれた計画表だとか、損得勘定だとかで産む気になるかっていうと、なるわけないに決まってるわけ。
真面目に考えれば考えるほど、独身が一番得って結論になっちまうよ。
頭がいい女は特に。
言われるまでもなく、頭でっかちに考えすぎてグルグル同じところ回ってるんだと思うよ。
35越えると極端に妊娠しにくくなる、とか、40で産むと子供が二十の時に60歳、とか言われたところで
「それって、なんだかんだで女の喜びは母ってことっすかね?」
って反発するっしょ。
山田詠美でも読ませて行きずりのセックスしたい気分にさせるか、失楽園とかマディソン郡の橋でも観せて不倫させろよ。
中で出さなきゃ、子供はできねーの。
以上!
もうその子とメールしたり話したりしてるってことは「運命的に恋に落ちる」はもう期待できないな。
だったら、どっちかがきっかけつくらないと、新しい関係ははじまらんよ。
つきあってからもそうだよ。どっちかがデート行こうとか言わないと、デートもできんよ。
ただときどきは、どちらともなく手をつなげたり寄り添えたり、以心伝心みたいな幸せがあるんだけどな。
で、告白失敗したら二度と話せなくなるっていうのは、そういう決まりなんじゃなくてお前さんがそうしたいってだけだよ。
日頃の接しかた、告白のしかた、失敗したときの態度による。そりゃ一時期は気まずくなるかもしれないけど、
よっぽどそれまでひどいことしてなきゃ、自分から逃げなきゃちょっとずつ良くなってくもんだよ。
さらにいうと、べつに何回だって同じ人に告白したっていいんだぜ?
ま、相手を見下してるのって態度に出るし伝わるとおもうし、そんな増田との仲を、仮に告白→失敗の後で、向こうさんが修復したくなってくれるのかは知らん。
ブスっていう奴もいるけど、俺にとっちゃそんなの関係ねえ。どうしても好きなんだ! ってところはねえの? それとも、おまえの欲望をかなえてくれそうだからつきあいたいの?
いや、動機は何であれ否定しないよ。エロスは人を動かすパワーの元なんだし。
ただ、おまえにとっての「おつきあい」と、彼女にとってのそれが、重なってるといいな。
経緯を振り返っておく。発言の要旨は以下の通り。新聞記事(日経ネット)を引用する。
《亀井静香郵政・金融担当相は5日、都内で講演し「殺人事件の半分以上が親子兄弟夫婦の殺し。こんな国は日本だけだ。人間を人間扱いしないで利益を上げるための道具としてしか扱わなくなったからで、大企業が責任を感じなきゃ駄目だ」と述べた。》
殺人事件のデータを持ってきて、それに対して大企業に責任を感じろというのは、誰が見ても「言いがかり」だ。でなくても、「それとこれとは別」と言われても仕方のない話だ。
しかしそれ以前に、毎朝朝礼で社歌を歌うみたいな「家族的」な企業には到底適応できないと私は三十年前からそう思っていた。
懐古主義の左派の言うように、「家族的経営」に一定のあたたかみがあったことは、おそらく事実だったのだと思う。 が、その一方で、昔の日本の「家」をイメージした経営理念には、「家族みたいに自他が未分化」で「家族のようにだらしなくもたれ合って」いるネガティブな側面があった。
社内には、「お父さんの命令には黙って従うべきだ」式の抑圧がセットアップされ、「子供が理屈を言うものではない」的な圧政が渦巻いていた。そういう、他人を他人として扱わない(つまり、年齢の若い社員を「子供」扱いする)風潮があったからこそ、家族的経営は頓挫したのだ。
実際、会社が社員の「面倒を見る」というフィクション(実情はこれもすこぶるあやしいものだった)の裏で社員には「献身」と「服従」が期待されていた。無論、会議は「理屈を言うな」ぐらいな原則で動いており、下っ端が意見を言うことは、「生意気」ということで排除されていた。以心伝心。江戸時代の宮仕えもかくやの息の詰まる同調圧力。
さらに厄介なことに、家族経営の企業は、身内には優しくても、外部の人間に対しては、無関心かつ冷淡であり、時には冷酷でさえあった。身内大事の原則は、経営者の社会的責任に対する無感覚を招き、法令遵守の原則をさえ無視させていた。そして、「会社のために正しいことは全社員にとって正しいことだ」とする歪んだ倫理観は、職場を企業犯罪の温床にしてさえいた。ロッキード事件などの汚職事件をはじめとする、反社会的な企業活動の裏には、「黙ってついて行く」物言わぬ子分たちの存在があった。そういう側面もあったのである。
とにかく経団連は、雇用の確保と労働条件について責任を持ってくれれば良い。それ以上の責任は無い。
ギャルA: 最近レベル・ドゥ・リッチ買ったんだけどwwwww
ギャルA: 値段高くて小遣いピンチwwwマック行くのも不如意(フニョイ)なんだけどwwww
ギャルB: ぱねぇwwwww尊父(ソンプ)にたかればいーじゃんwwww
ギャルA: 昨日つけて夜のシフトに出仕したらミナもつけててマジ煩累(ハンルイ)www
ギャルB: マジ煩累(ハンルイ)wwwwミナって人の持ってるものパクるよねwwww
ギャルA: 告る男みんな側室(ソクシツ)持ちだしwwwwどんだけ魔性だよwwww
ギャルB: こないだカラオケ行った時も不肖(フシュウ(の殿御(トノゴ)に色目使ってwwwてめぇは蝉と伽(トギ)しとけよwwww
ギャルA: でもカオリ超歌うまくて一驚(イッキョウ)に喫したんだけどwwwwあゆ歌ってる時に感動で声涙ともにくだったwww
こないだのデートで初めてキスしたんだけど(嘘!こないだじゃなくて昨日)、
なななななああ、何で唇を合わせるだけでこんなにドキドキしちゃうんですか?
しあわせーな気分になれるんです!彼氏の唇と自分の唇を合わせるだけで!なんてリーズナブル!!
テンパって「ここここここ、興奮するね」って言ったら彼氏も「うん」ってずばり以心伝心。何回もしちゃった!
ちなみに彼氏も始めてのはずだから今も私みたいに舞い上がってるはず。
いやー、いいね!!キス!!!! ちょ、ちょっと待って!!
でも、恋愛のステップで言ったら、ABCのまだAですよ!!!(Bって何?Cは最後のアレでしょ)
この先いったい何が待ち受けているのか!ワクワクが止まりません!!
ボコられるのは仕方がないとして。
誰にも読まれないのはなんか手応えがないなあ、と思い、自称ネトウヨである俺のブログの記事を転載してみる。
メンヘルの寝言だと思って聞き流して下さい(と言っても、皆さん、容赦はされないと思いますが)。
~
戦後はともかく、戦前~戦争中の日本の戦車はとにかくしょぼかった(好きな人はごめんね)。
エンジンはディーゼルエンジン(ただし、技術的にはすさまじい)。装甲は紙のよう。
で、運転が無茶苦茶難しかった。戦車の運転手として、名人芸を問われた。
アメリカはどうか?
当然、ガソリンエンジン(しかもオートマ)。楽々前進。運転簡単。
司馬遼太郎は戦車乗りの一人として、米国の戦車と自国のそれを比べたとき、大変無念な思いをした訳ですよ。技術って普遍的なもので、優れた技術はそれを扱っている人間にはすぐに分かる。
で、この差はなんなんだろう?という話になる訳だけれども。
司馬遼太郎曰く、"文化"と"文明"の違い。今でこそ、日本のサービスは優れているけれども、戦前の日本は、"名人の文化"だった。「できないのは、お前がグズだからだ」という文化。タクシーの運ちゃんが「私は助手時代から一度も道を間違えたことがないのですよ」と威張れる文化(戦前の道路は、道は整備されていないし、道路標識もほとんど無かったので凄いことらしい)。
戦争中、すでにアメリカは、ベルトコンベアを採用したT型フォードの生産とかから始まる、機械の大量生産・大量消費の社会に入っていた。で、品質のバラツキをなくすため、品質管理をアホでもグズでも出来るように普遍的なマニュアル化、"文明化"した。日本の場合、品質は個々の情熱と自負心と技量に依存した"文化"だった。
日本は戦後、(サービスにおいて)、名人主義、"人はみな有能"という考えを捨てた。で、品質管理(QC)が、日本産業の基本的性格の一つになった。つまり、アメリカの"文明"を吸収して、日本"文化"にしてしまった。その結果、日本の航空会社のスチュワーデス(あえてこの語を使う)は(優しい)母親となって客を扱う、とは司馬遼太郎の弁。
まあ、大体、アメリカは移民の国であるから、モザイクのようにバラバラにまとまって住んでいる"文化"の違う住人達をまとめるには、普遍的な価値観の"文明"が必要だった面もあるかも知れない。
だから、アメリカは、"文明"的には優れているが、"文化"的には未熟、と言える。
だから、四つ足で一生懸命スタコラ歩く哀れなデザインのマシンを蹴り上げることが出来るのだ。Yes, We can !
参考映像→http://www.youtube.com/watch?v=W1czBcnX1Ww
まあ、俺辺りが簡単に説明できれば、誰も苦労はしないよなあwとは思いつつ、適当に私見を書こう。
結論から先に書くと、「禅的構造への落とし込み」だと思う。
じゃあ、"禅"とは何かというと、Wikipediaによれば、「ただひたすらに(坐禅を)実践せよ」とか「以心伝心」とか「言葉でなく体験」みたいな説明が出てくる。要するに、「空気読め」ということだと思う。多分、それが、日本人を日本人たらしめている。
「禅的構造への落とし込み」の例。
例えば、日本庭園の枯山水庭。とか言うと俺にもよく分からなくなるので、例えば、漫画とか。
昔の劇画でもアメコミでもバンドデシネでもいいのだが、基本的に良く描き込んである。でも、劇画は廃れ、現在の日本では、あまり描き込まれていない、もっとシンプルな記号化された漫画が主流だ。
これが何を意味するか?
まず、描き込むだけの時間がない、という面はある。つまり、「資源が少ない」のだ、我々は。島国は。で、例え結果的でも、描き込まれていないということは、紙に染みついたインクの量は少ないということである。ということは、それだけ、"何を紙に染みついた少ないインクにするか"考えなければならない。その結果、"何を書くか、どの線を選ぶかなどを作家が(生き残るために)魂を込めて選択しなければならない"(もちろん、適当に描いている人もいるかも知れないが、読者を脱力させるための線や展開などの構造を(無意識のうちに?)選んでいると思う)
で、アニメも描き込みの量が少ないわけだが、ストパンの監督は、エヴァンゲリオンの庵野秀明に「お前の描くパンツには魂がこもっている」と褒められたわけだ。
ゲームもそう。わびでもさびでも萌えでも良いのだが、日本の強みは現実の換骨奪胎と記号化であり、「逆に要素を少なくすることで、対象者に想像力を使わせる」のだ。禅的構造への落とし込みとは、「対象者に想像力を使わせるための魂のこもった取捨選択」だ。小さくまとめ上げる。美を追究する。そのために職人は技を磨き、我々は空気を読む。
で。
ハッカーの話になる。
「ソフトウェアは工業製品ではない」、Rubyのまつもと氏が講演 " @IT
http://www.atmarkit.co.jp/news/200904/10/matz.html
つまり、まつもと氏は、名人主義だ。
だが、そこが彼らの、我々の、日本人の限界性でもある。日本の技術者のかなりが未だに、紙のような装甲と、ディーゼルエンジンを装備し、精神を病むほどの"根性"で、自分を、現実を、だましだまし、日々を戦っている。
とは言え、泣き言や呪詛を並べても仕方がないのだろうが。
どうだろうか。歴史で繰り返される技術者の奢りであるかも知れないという疑念は?
正直、アメリカなら、やりかねないのではないか?
そのうち、ソフトウェア設計を合理化/普遍化/文明化/マニュアル化し、アホでも作れるようにしてしまうのではないか?
大抵のソフトウェアが適当に注文するだけで、9割方、自動生成されてしまうとか。しかも何回もやり直し可能。
俺はそれを恐れる(そして、楽しむ)。
現に、アメリカ発のインターネットというテクノロジーで、編集者は青息吐息ではないか。
多分、思いも寄らない方向から、必殺の一撃が来る、と考えた方が自然ではないか?
そいつは、非人道的に、無慈悲に、機械的に我々を殺しに来るのだ。我々は合理的結論で殺される。OK. 原爆はアメリカにとって合理性があったのであろう。殺される方はたまった物ではないが。それが村上春樹が恐れているものではないか。しかし、"技術革新は誰にも止められない"。
果たして、アホに生きる権利があることを許さない、名人主義のその狭量さが、限界性を作っているとしたら。そして、よりハッキリ言えば、技術バカ(ギーク)がやり手の営業マン(スーツ)に負けるように、好きでやっているアマチュアがプロフェッショナルの作った構造的罠に負けるように、負けるのが宿命づけられているとしたら(日本vs欧米のスポーツもか)。
もっとも、人間はどこかしらの部分で優越感を感じていないと生きていけない生き物であるから、腕のある人間はアホに優越感を感じて、差別して、見下して、生きているのだろう。底辺の人間が、例えば、外国人に優越感を感じて、差別して、見下して、生きているように(繰り返すが、それを自覚し、どう振る舞うかが重要なのであって、その感覚を無くせなどとは言っている訳ではない(というか、存在論の部分に関わってくるので無くせない)。どうプラスに活かすか。"かわいげがある"というのは、見下しているが、プラスの評価だ。だから、日本が"カワイイ"文化で世界に浸透してしまうというのは、結果的に正しい。日本人は連中に"文化"を教えねばならない(←ネトウヨの勝手な思い込み))。
それに、穀物を育てながら、畑を保守しながら、計画に戦略にロジスティクスにストラテジーに取り込まれて生きるのではなく、その時々において、メシの種(獲物)を見つけて狩りをする戦術や技術やタクティクスやアートや道(タオ)を追求するというのも一つの生き方であろう。男だね。侍だね。無形の型。戦略などないので強い者だけが生き残る。生き残ったから強い。まさに逆転の発想。なんということでしょう。匠の遊び心が光ります。お前ならどこへ行ってもやっていけるさ。じかい、ほくとのけんつ~!奥義、万物流転!誰だ、日本人は農耕民族だから、みたいなことを言ったやつは。責任者出てこい(とは単純には言えないのだろうけど。経済は生き物で、強弱の違いこそあれ、両面の才能は必要だろうから)。
・・・・・・少し落ち着きました。
さて、では、はてなは、どんな立場を取るのか。
名人主義のSNSへ向かうか。2ちゃんねらの底辺にいるようなアホの流入を前提にして、文明化するのか(一時期、そちらに傾きかけた・・・というか、あの時のはてな社長は血迷っていたのだろうか?)。今は、どちらでもない、なんだかよく分からない、迷走している状態だ。
それとも、近松門左衛門が虚構と現実のはざまに真に我々の心をうつものがある、と言ったように、迷走状態のはてなであるからこそ、我々の心をうつものがあるのだろうか?"不満を言う楽しみ"。"馬鹿な子ほどかわいい"。"灰色の魔女(違う)"。なんかね~、"相手の優越感をコントロールする"のがサービス業だとしたら、『あたしは、はてながどうしたっていいと思うし、何も言わないわ。はてなはよくやったと思うもの』ですよ(と、また話が明後日の方向へ)。
私の彼は日本で生まれましたが8歳くらいのときにアメリカにわたって以来アメリカ在住のバナナくんです。日本語も英語も中途半端ですが私とは日本語です。だからかついつい日本人としてのマナーや常識を期待してしまいます。ちらっと聞いたのですが、そういった人たちは言葉での苦労が長いだけに、心の成長がかなり遅れるとききました。確かに彼はすごく掴み所がなく、すごく大人びた振る舞いをしたかと思うとびっくりするくらい子供みたいな思考や行動をしたりします。やけに亭主関白風な考え方をするので日本人に近いのかなと思いきや以心伝心などありえない、個人主義で義理人情が全くない。何か二人の間で問題があったときに日本語の言い回し分からなかったとか、いろんなことが言い訳に聞こえてきてしまいました。
バナナさんたち、基本的には幼稚。ここ10年くらいずっといわれていることですし、そういう調査結果も出ていますしね(幼稚である、とはいわれていなかったけど、言語以外のことにエネルギーを費やす余裕がないとされてます)。これは仕方ありません。勉強や仕事の仕方、すべてにおいてです。でも自分は苦労してきたという自負心があるから、文句はとても多いですよね。自分がイヤになることもあります。日本の漫画や本をみて育ってきているので、日本の現実が漫画やドラマの中で描かれているものだと思ってしまっている部分もあります。だからとても面食いの人が多いし、恋愛とか仕事もドラマみたいにうまくいくと思っている人が多いです。思い込みがとても激しいので、調子に乗るとうまくいくこともありますが空回りしていることのほうが多いです。日本の人たちと普通に会話できますがやっぱり空気が読めなくて浮いてしまいます。
日本で社会運動が今ひとつ盛り上がらない理由について考えてみる。日本の風潮のせい、ネットで話題になる偏向報道、またひどく深刻な社会問題がないということ、学生運動の失敗などなど理由はいくらでもあるだろう。それらが複合的に絡み合って今の現状がある。
ところで日本人の風潮とは一体何だろう。色々な問題が出たときにとやかく日本人の風潮というものが問題視されるが、その実体は一体何なんだろう。最近読んだものには”表面的な付き合いしかしない若者”というものがあった。自己のメリットの範囲内でしか人間と人間の付き合いをしないという若者のコミュニケーションがそこでは問題視されていた。表面的な付き合いというのは日本の一種独特のコミュニケーションスタイルだと思う(それをコミュニケーションと認めるならば)。集団社会という点、自分の趣向をないがしろにできるという点、雰囲気を過剰に読むという点(KYというふざけた言葉があるくらいに)などが表面的な付き合いというものを可能にしている要因である。特に日本には以心伝心という言葉が古くからあるように言わずとも分かれという意識が非常に強い。これは日本人全体のコンセンサスにもなり得る程だ。
あるいは古い時代なら何と言わないままでも分かり合えてたのかもしれない。しかし、現代の人間にはそんなことは伝わらない。むしろ言っても何も伝わらない時代なのだ。人間という生き物は確かなプロセスと結果を学習しなければ、何も得る事は出来ないのは自明の理である。子供の精神や脳のシステムが発達していく段階に、親はしつけの名の下に何がどうしていけないかを教えなければならない。現実問題として親はしつけを放棄するようになっているし、大人が子供を恐れているという問題もある。挙げ句の果てにはアダルトチルドレン問題なんていうものさえあるのだ。少し脱線したが、私が言いたいのは想像力のない人間が増えているということである。人間を包丁で刺したら死ぬということさえ理解していないように見える人間だっている。現代は人に対する想像力が決定的に欠けている人間が多くなっている。想像力のない人間に、”ダメ、絶対”という言葉だけで一体何が伝わるというのだろうか。しかし表面性を重んじる社会はこれを賞賛するのだ。全くもって素晴らしい国だ。説明する労力をみんながみんな省こうとするのだから。
こうした表面性にも増して社会運動が盛り上がらない重要な要因はもう一つある。それは言うまでもなく日本的集団社会のシステムである。グループや組織の中で一人違った発言や主張をしただけですぐに組織からしめだされる。マイノリティを排除しようとする素晴らしい民主主義システムである。
こうした事柄などから社会システムなんていうものはいくら頑張っても個人の力では何一つ変えられないと日本人が思うのは至極当然のことだ。そういう意識は勿論私にもあるし、日本全体のコンセンサスのようになっているかもしれない。社会運動、学生運動などは時代が違うのだ。社会のシステムに歯向かうなんて馬鹿のすることだ、と多くの人は考えている。それでも立派な革命家、思想家なら徹底抗戦するだろう。詩人や小説家も同じかもしれない。とにかく少しでもいいから社会をいい方向にもっていきたい。それが理想であろうと幻想であろうと妄想の戯れ言であろうと彼らは頑張っている。それが例え最悪な結果を招いても方向性が著しく間違っていたとしても彼らを私たちが嘲笑うことなど出来ないだろう。私たちは何にもしていないのだから。
民衆の結束力が弱くなった時代だと言う。人々は互いに無関心になって、国民意識とか郷土意識とかがなくなっているともいう。しかし、世界の裏側で子供が餓死しようと、チベットで暴動が起きようと、そうした事が私たちの実生活に影響を及ぼさないのも事実だ。所詮対岸の火事なのだ。そんなことは私や君の生活には関係ないから、例えそれが心を痛ませるものだとしても、私達は自分達がどうやって明日の生計を立てていくかを考えた方が良いのだ。ではもし自分の住んでいる街に原子力発電所ができたら、ゴミの埋め立て場ができたらどうするだろうか。どうもしない。その街を出て行けばいいだろうと人は言うだろうし、反対運動に身を費やすよりは補助金でももらってさっさと新天地を求めた方が懸命だ。現代とはそんなもんなのである。
では、例えばの話をしよう。
ある漁村にダムの建設計画が浮上した。漁村が位置するのは珍しい泥海がある場所で、そこで漁師達は伝統的な漁を営み生活していた。またそこにはムツゴロウなどの珍しい生態系も住んでいた。その地域は毎年ひどい水害に見舞われていた為、ダムをつくって水の流れを止めてしまう事が切実に必要だった。しかし、ダムによって水がせき止められてしまえば、そこにいる生態系は全滅し、漁師達は職を失う。
このニュースは直ちに全国に流れた。人々はそれを見て何て可哀想な出来事なんだと感じた。そして、様々な抗議運動が展開された。珍しい生態系を守らなければならないというのが特に人々の心を動かしたようだった。漁師の伝統的な漁と、珍しい生態系は絶対に守らなければならない、と彼らは声高に叫んだ。だが、ダムを建設しなかったら水害はどうなるということについて彼らは何も考えていないようだった。水害は毎年死者を出すほどのひどいものであったので、地域の住民はダムの設立を切望した。双方様々な運動をした。どちらにとってもダムは文字通り死活問題だった。
結局漁師の抗議運動もムツゴロウなどの保全をうたう環境団体の運動も結局は何の効果ももたらさなかった。何故ならダムを作る事の優位性は明確だったし、地域の住民の数に比べて漁師の数は圧倒的に少なかった。そして誰もが仕方の無いことだったんだな、とニュースを見てひとしきり胸を傷ませた後、各々の生活に戻った。
一つの季節が終わり、春が来るとほとんどの漁師は村を去ったが、ムツゴロウは元気に繁殖活動を続けていた。
数年後、漁師やムツゴロウ達が消えた場所には「ここは昔海でした。」とだけ書かれた看板が立てられた。世間の人々は漁師やムツゴロウのことはもうすっかり忘れていた。何故人はすぐに忘れてしまうのだろうか。それは全ての事件に胸を痛ませて、憤慨し、悲しいことを忘れないように、理不尽なことを忘れないようにしていたら、人は疲れきってすぐに気が狂ってしまうに違いないからだ。誰もが何もかもを忘れていく。自分に直接関係のないことは所詮自分に関係のないことなのだ。
昔、漁村があった街には今では味気ないダムと味気のない看板が立っている。その街の人々はとても幸せそうに暮らしている。
私はこの文章を書きながらチベットの人々のことを考えた。難民のことを考えた。食べ物が無くなり、今にも餓死しようとする子供達のことを考えた。平和が訪れればいいな、と本気で思った。
それでも寝て起きたら、私も全てをすっかり忘れて私の日常に埋没するかもしれない。それが良い事なのか悪い事なのか私には分からない。
ただ、それが出来てしまう今の自分を好きになれないということだけは分かっている。
ニコニコ動画(RC2)‐アイドルマスター 水瀬伊織 with 勇者王 「恋せよガオガイガー」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm424909
当然以心伝心 憧れ (よっしゃあ!)
結構ムリめな夢も見てる (よっしゃあ!)
更新!日々最新の眺め (よっしゃあ!)
誰もがこんな広い(あの星のむこう)から
自分の(発明品)探したい(あぁ)
(フュージョン)もバッチリ決まっちゃって(YATTAAA!!)
だから止まんないよ かわいいだけの
(ガイガーーッ!)(Go!Go!)
足りない(Let's Go!)
思い切り(ファイナルフュージョン!!)
(こいつの核)を集めよう
いつも(俺の勇気)のケースはたったひとつだけ(大丈夫かぁ?)
今はこんなに小さな
(HI☆TO☆TU)のかけらだって
素敵な(光)にリンクしてる
明日は(借りをまとめて返してやる)から
2才の息子が引き戸のレールにレゴとかきれいに並べたりしてる。
階段の縁の滑り止めのくぼみにビー球を並べたりしてる。
それを妻が片付けようとするとそのままにしておけと言うんだそうだ。
「何が面白いんだか全然わかんない。」と妻は言うが、俺には何となくわかるんだよなー、そういうの。
同性だからなのか、男の子はみんなそんなもんなのか、その辺はよくわからないけど、息子を見てるといちいち共感するんだよね。「うんうん。わかるわかる。」って。
妻は息子を見ててもそういうのはないんだそうだ。
子供を持つとわかるんだけど、「子供は勝手に育つもの」ってのは、ありゃウソだ。
あれは育児に疲れすぎてる母親に言うための治療薬みたいなもんであって、間違っても育児に積極的でない旦那が妻に言うべき言葉ではないから増田のみんなは覚えておけ。
生まれてすぐ動き回れて母親のおっぱいにたどり着ける子馬や子猫や子犬とはワケが違う。
寝返りうてるようになるのにも時間が掛かるんだから。
そのくらい、いわば真っ白な状態で生まれてくる子供が、なんにも教えていないのになんか自分と似たような好みだったりするってのは、もう本当にうれしくてしょうがない。
以心伝心どころじゃないんだよ。
伝える必要もなく共感できる存在なんだよ。わかる?
で、ここでふと自分の親父のことを考えてみた。
俺と息子がこんなにも共感できるんだから、親父とも共感できてて当然じゃないかって。
俺が2歳のとき、親父も俺を見てそう思っていたんじゃないかって。
親父はもう死んでいるから確認のしようが無いけど、それを考えたらなんかちょっと切なくなった。
こんなことを考える直前まで、俺と親父との間に以心伝心を超えた共感があるなんてことはこれっぽっちも考えたことが無いから。
むしろ、親父を見て、ああはなりたくないなって思ってたりしたからから。
なもんだから、息子もやがて自分を見て、ああはなりたくないなって思ったりするんだろうかと思っちゃった。
そしてその時、俺はまさに、その親父と同じ立場になるじゃないか!
息子を見ていると、自分、そして親父が重なって見えてくるようになった。
同時に、今の両親のことも覚えておいて損は無い。
それはやがて自分が通る道であり、自分の子供が通る道なんだ。
これが血の繋がりってやつなのかなって思った。
相手への不満は、我慢するのではなく心から「相手には相手の考え方がある」と思える心境をまず作ってから、「でもこうしてくれると自分はうれしい」という要望として伝える。自発的にそうしてくれないということは自分は大事にされてないってことだ系の考えは捨てる。
伝えないと伝わらないからね。