2008-03-22

どこか遠い世界で起きた自分には関係のない事

 日本社会運動が今ひとつ盛り上がらない理由について考えてみる。日本の風潮のせい、ネットで話題になる偏向報道、またひどく深刻な社会問題がないということ、学生運動の失敗などなど理由はいくらでもあるだろう。それらが複合的に絡み合って今の現状がある。

 ところで日本人の風潮とは一体何だろう。色々な問題が出たときにとやかく日本人の風潮というものが問題視されるが、その実体は一体何なんだろう。最近読んだものには”表面的な付き合いしかしない若者”というものがあった。自己のメリットの範囲内でしか人間人間の付き合いをしないという若者コミュニケーションがそこでは問題視されていた。表面的な付き合いというのは日本の一種独特のコミュニケーションスタイルだと思う(それをコミュニケーションと認めるならば)。集団社会という点、自分の趣向をないがしろにできるという点、雰囲気を過剰に読むという点(KYというふざけた言葉があるくらいに)などが表面的な付き合いというものを可能にしている要因である。特に日本には以心伝心という言葉が古くからあるように言わずとも分かれという意識が非常に強い。これは日本人全体のコンセンサスにもなり得る程だ。

 あるいは古い時代なら何と言わないままでも分かり合えてたのかもしれない。しかし、現代の人間にはそんなことは伝わらない。むしろ言っても何も伝わらない時代なのだ。人間という生き物は確かなプロセスと結果を学習しなければ、何も得る事は出来ないのは自明の理である。子供精神や脳のシステムが発達していく段階に、親はしつけの名の下に何がどうしていけないかを教えなければならない。現実問題として親はしつけを放棄するようになっているし、大人が子供を恐れているという問題もある。挙げ句の果てにはアダルトチルドレン問題なんていうものさえあるのだ。少し脱線したが、私が言いたいのは想像力のない人間が増えているということである。人間包丁で刺したら死ぬということさえ理解していないように見える人間だっている。現代は人に対する想像力が決定的に欠けている人間が多くなっている。想像力のない人間に、”ダメ、絶対”という言葉だけで一体何が伝わるというのだろうか。しかし表面性を重んじる社会はこれを賞賛するのだ。全くもって素晴らしい国だ。説明する労力をみんながみんな省こうとするのだから。

 こうした表面性にも増して社会運動が盛り上がらない重要な要因はもう一つある。それは言うまでもなく日本的集団社会システムである。グループ組織の中で一人違った発言や主張をしただけですぐに組織からしめだされる。マイノリティを排除しようとする素晴らしい民主主義システムである。

 こうした事柄などから社会システムなんていうものはいくら頑張っても個人の力では何一つ変えられないと日本人が思うのは至極当然のことだ。そういう意識は勿論私にもあるし、日本全体のコンセンサスのようになっているかもしれない。社会運動学生運動などは時代が違うのだ。社会システムに歯向かうなんて馬鹿のすることだ、と多くの人は考えている。それでも立派な革命家思想家なら徹底抗戦するだろう。詩人小説家も同じかもしれない。とにかく少しでもいいから社会をいい方向にもっていきたい。それが理想であろうと幻想であろうと妄想の戯れ言であろうと彼らは頑張っている。それが例え最悪な結果を招いても方向性が著しく間違っていたとしても彼らを私たちが嘲笑うことなど出来ないだろう。私たちは何にもしていないのだから。

 民衆の結束力が弱くなった時代だと言う。人々は互いに無関心になって、国民意識とか郷土意識とかがなくなっているともいう。しかし、世界の裏側で子供餓死しようと、チベットで暴動が起きようと、そうした事が私たちの実生活に影響を及ぼさないのも事実だ。所詮対岸の火事なのだ。そんなことは私や君の生活には関係ないから、例えそれが心を痛ませるものだとしても、私達は自分達がどうやって明日の生計を立てていくかを考えた方が良いのだ。ではもし自分の住んでいる街に原子力発電所ができたら、ゴミの埋め立て場ができたらどうするだろうか。どうもしない。その街を出て行けばいいだろうと人は言うだろうし、反対運動に身を費やすよりは補助金でももらってさっさと新天地を求めた方が懸命だ。現代とはそんなもんなのである。

 では、例えばの話をしよう。  

 ある漁村ダム建設計画が浮上した。漁村が位置するのは珍しい泥海がある場所で、そこで漁師達は伝統的な漁を営み生活していた。またそこにはムツゴロウなどの珍しい生態系も住んでいた。その地域は毎年ひどい水害に見舞われていた為、ダムをつくって水の流れを止めてしまう事が切実に必要だった。しかし、ダムによって水がせき止められてしまえば、そこにいる生態系は全滅し、漁師達は職を失う。

 このニュースは直ちに全国に流れた。人々はそれを見て何て可哀想な出来事なんだと感じた。そして、様々な抗議運動が展開された。珍しい生態系を守らなければならないというのが特に人々の心を動かしたようだった。漁師伝統的な漁と、珍しい生態系は絶対に守らなければならない、と彼らは声高に叫んだ。だが、ダム建設しなかったら水害はどうなるということについて彼らは何も考えていないようだった。水害は毎年死者を出すほどのひどいものであったので、地域の住民はダムの設立を切望した。双方様々な運動をした。どちらにとってもダムは文字通り死活問題だった。

 結局漁師の抗議運動もムツゴロウなどの保全をうたう環境団体の運動も結局は何の効果ももたらさなかった。何故ならダムを作る事の優位性は明確だったし、地域の住民の数に比べて漁師の数は圧倒的に少なかった。そして誰もが仕方の無いことだったんだな、とニュースを見てひとしきり胸を傷ませた後、各々の生活に戻った。

 一つの季節が終わり、春が来るとほとんどの漁師は村を去ったが、ムツゴロウは元気に繁殖活動を続けていた。

 数年後、漁師ムツゴロウ達が消えた場所には「ここは昔海でした。」とだけ書かれた看板が立てられた。世間の人々は漁師ムツゴロウのことはもうすっかり忘れていた。何故人はすぐに忘れてしまうのだろうか。それは全ての事件に胸を痛ませて、憤慨し、悲しいことを忘れないように、理不尽なことを忘れないようにしていたら、人は疲れきってすぐに気が狂ってしまうに違いないからだ。誰もが何もかもを忘れていく。自分に直接関係のないことは所詮自分に関係のないことなのだ。

 昔、漁村があった街には今では味気ないダムと味気のない看板が立っている。その街の人々はとても幸せそうに暮らしている。

 私はこの文章を書きながらチベットの人々のことを考えた。難民のことを考えた。食べ物が無くなり、今にも餓死しようとする子供達のことを考えた。平和が訪れればいいな、と本気で思った。

 それでも寝て起きたら、私も全てをすっかり忘れて私の日常に埋没するかもしれない。それが良い事なのか悪い事なのか私には分からない。

 ただ、それが出来てしまう今の自分を好きになれないということだけは分かっている。

  • まるで高校生の小論文を読んでいるような気分になったわい。プンスカ。 稀有壮大だが、要領を得ん。 おぬし、これでも読んで、ちいとは文章の書き方・ものの考え方を練習いたせ。 ...

    • >知的複眼思考法 ってさ、確か東大の文系学生がゼミでやる内容をまとめたものだったよね。 正直、こんな本がここまで(大人に)売れるとは筆者の先生も思ってなかったんじゃね?...

      • わが意を得たりかな。 知的複眼思考法は、東大の刈谷先生が書いた本だ。 日本じゃ、高校卒業までパラグラフライティングの技術は教わらない。 大学生になったら、自分で学ばなけ...

    • なんつーか、小説(ドキュメンタリ)と事実(ジャーナリズム)をゴッチャにしない方がいいんじゃね。 小説のうねうねさは、なんともいえず心地よいですよ。 意味やまとまりがあるモ...

  • 前に犬の餓死のネタ書いてた人?思考回路がそっくりだけど。

  • そうねえ。小説かエッセーだと思えば、読めないことも… もしそうなら、おれは門外漢だから、あんまり口だせないなあ。 …つまりは、ネタにマジレス、カコワルイって感じかっ! ...

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