増田とかはテブの人って、とりあえずルール違反に厳しい印象があるよね
それで問題が発生していたり運営が厳しく取り締まったり、そもそもそういうことをできないようプログラムしていれば話が早いんだが
この何年もポケゴーで複垢のバン報告はあまり聞かないし、それ以上に複垢もRMTも位置偽装もし放題なんだよね
一部の潔癖症の人以外は複垢程度に何の違和感も持っていないだろう
あらゆるイベントでは2端末3端末持っていることは当たり前の光景だし、運営も黙認しているようなら、それは「守るに値しないルール」といっていいよな
原理原則を持ち出す人はいるけど、ではなぜそういうルールができてそのルールを守ることで何が起きるのかを理解していないなら、何の意味もないよな
親類の子どもの節句があったので、自分の子を連れて出席した。席に着いて食事をしている我が子を見て親類が「〇〇君も立派になったねえ。前はあんなに走り回っていたのに。」と言った。確かに数年前はそうだった。席に着いて大人しく食事をするような子どもではなかった。今回は自分より小さな親戚の子どもと遊んであげたりしていた。多少なりとも成長が見られた。出費は痛いが、このような機会はたまにあると良いと思った。お祝いに限らず、親類が集まる機会というのは自分たちのためというよりも子どもの経験を増やすことで子どものためになっているのかもしれない。親戚にしても、「あんな子だったのが成長してまともになっている」姿を見るのは希望が湧いて来るのかもしれない。
連休が終わる。
といっても連休らしいことは殆どしなかったのだが、唯一にして最高の体験として、立川の居酒屋「玉河」行った。
着いたのは16時くらいだったのに、もうしっかり混んでいる。ひとり客のおっさんもたくさんいる。ひとりのおっさんであるおれもおっさんの並ぶカウンター席に通される。文庫本を読むおっさんと、すてきな老人カップルに挟まれてメニューをにらむ。絞られた日本酒のセレクトが素晴らしい。
いい気分になって、序盤から日本酒とカツ煮と麻婆茄子を頼んでしまう。めちゃくちゃだ。
しかしこのカツ煮がすごかった。何これすごいうまい。忘れらんない。
麻婆茄子は意外と普通。その塩梅もおれにはちょうどよい具合だった。明日も行きたい。
一気にお気に入りトップテンに上り詰めた玉河だったが、同じくトップテン入りしている所沢の「百味」とよく似ている気がした。
郊外ターミナル駅の駅近で、長らく生活者を支えてきた、そこそこ大箱の店。だから客も店員も世代交代に成功していて活気がある。
おそらく地元の酒屋とのつながりも深いから、飲ませる酒にこだわりがある。一方で食堂としての機能もあって定食も出す。だから座席のバリエーションが広い。
そのあたりは江古田にあった「お志ど里」なんかも似ている。ただ江古田は学生街で、労働者はあまりいない。だから酒場の担い手まで受け継がれることはなかったんかなと思う。
一方で最近注目しているのは、大久保や上野といったアジア系の労働者が多い街に芽生えた「ネオ酒場」とも呼ぶべき個人店だ。
アジア系の店員が日本的なザ・大衆酒場を受け継いだスタイルで、とにかく安くて旨い。そのうえ中華やタイ料理といった彼らの得意料理をアクセントとして加えている。
客層もバラエティに富んでいて、当初はその得体の知れなさを敬遠する向きがあったが、サービスの質自体が圧倒的に高いから、今後はどんどん主流になっていくだろう。
私が見たレシピはお米を昆布とすこしの調味料で炊いてから塩茹でしたそら豆を加える手順だったのでそうしたら、とってもハマって2回作った。
(2回でハマったとは言えないかもだけど人生で使ったことがないものをワンシーズンで2回作るのは私の中ではハマるに値する)
人生ではじめて恋人とふたりで暮らして一年が経ったけど、やっぱり人がいると新しいレパートリーが増えるスピードもひとりより早いなーと思う。
実家にいた頃、なんでだか忘れたが社会人になってしばらくしてからは私が家族分のお弁当をつくってたんだけど、多分あれのおかげでちっさいフライパンでつくれるおかずのレパートリーが格段に増えたし、味付けの基礎も学んだ。
料理は嫌いじゃないので実家出てから一人で住んでた賃貸でも必ず二口コンロのキッチンを選んできたけど、やっぱり一人だと作り置きできるし、作り置きできるものをつくりがちなのでレパートリーがふえるサイクルがどうしてものんびりになる。
たまに実家に帰ったときも家族が仕事の日などは私がつくってるけど、作りやすいものや味付けに間違いないものをつくるので新しいものをつくる!って感じでもない。
でも、誰かと住んでるとやっぱりサイクルははやくなる。たまにしかつくらない人にだと「おいしいものをつくってあげたい」と思うけど、いつもつくってる人にだと「あたらしいものを」という気持ちが生まれるからだ。
この一年で、チヂミ作ったり…えーと、あとなんか忘れたけど、他にも色々、ちゃんとレシピみてつくる頻度が増えたのもあって、一人暮らしの頃より名前のある料理を作る回数が格段に増えた。
で、冒頭のそら豆である。
ひとりだと食べきれない10本とかの量も(食べきれないと思ってただけでいざ茹でてみたら全然ひとりでも食べきられる量だったのだけど)ふたりなら…と手が伸びるのも新しい献立にチャレンジできてる理由だと思う。
次はなにがふえるかな。なにをつくろうかな。
某小説投稿サイトの某コンテストのレギュレーションであらすじをオチまで全部書かないといけないんだけど、chatGPT使って要約したって書いてある作品があってモヤった。
AIを使うのはいいよ。正直、文章で使われると見分け付かないし、日本語入力で漢字の候補出てくるのだって昔の原稿用紙に手書きだった時代からすれば十分チートだし、スマホなんかは単語も候補で出てくるからね。文章書くのに便利になるのは構わない。今だって小説を賞に出す前に下読みしてもらってる人もいるし。
でも表立って書くなよってこと。こっそりやってくれ。
クラスでわちゃわちゃ話す場面があると、面白いこと言わないと混ざれない空気があったからだ
すべらない話まではいかなくても、ダウンタウンDXレベルの面白さが必要だったのだ
仕切り役のクラスメイトが浜田的な立ち位置でフォローしてくれるかは、そいつと仲かがいいかにかかっていた
ツッコミ要らずのボケ。もしくは、ツッコミをついついしたくなるようなボケ
ツッコミ役にはなれない。ツッコミはカースト上位しかできないからだ
下位グループが上位に突っ込めるだろうか?いや無理だ。ツッコミは上の者が下の者にするのが定石だからだ
お笑い番組を録画して何度も見た
お笑い本を買った
とっくの昔に高校を卒業し、笑いを取らないとカースト上位に入れない、なんて世界は終わっていた
それなのに気付かなかった
習慣が染み付いてしまっていた
戦争は終わったのに、銃の訓練をしているようだった
もう大喜利はやめよう
「大喜利で闘う」とか「面白いやつになる」とか、そんな考え方はやめよう
そう誓った