2者間契約だったら、あくまで双方で話し合うこと(決裂すれば裁判)なので、左翼やフェミが口出しするのはおかしいよね?
まあもしかしたら、「自民・山田太郎みたいな国会議員が出しゃばってくるのがおかしい」ということかもしれない。
じゃあ立憲民主党や共産党の議員さんは、国連や外国政府が理不尽なことを言ってきて、日本人・日本企業を困らせているときに、なにひとつ助けに動いてくれないってことでいいの?
あとたしか、コンビニのエロ本を排除するとき、千葉市長が旗振り役になっていた。
左翼・フェミは、そっちに賛同していたよね? あれこそコンビニと卸売業者の2者間契約だと思うけど、自分たちの要求が通るならば政治家が介入してもセーフなのかww
わざわざ服着こんでおしゃれしてたじゃん。なんか問題?
30分や1時間などの決まった時間に収まるよう、TV番組は間延びしてたり、時間稼ぎするのに使われているから。
Youtubeみたいに「時間枠」にとらわれないコンテンツに慣れると、決まった時間に入れるのにイロイロ調整する番組にはイライラしてくる。
そう、それ。その反応。
広告を載せたいのはヤンマガなり広告代理店なりであって視聴者の俺らじゃないんだわ。
載せる側の日経が承諾したんならそこで話は終わりじゃん。
それ回答する意味あるの?
擁護してるオタクは、ほんとにこの漫画の広告を新聞に載せたいのか?
物語は満員電車のシーンから始まる。「お兄さん」と呼ばれるサラリーマンは、そこで胸が“たわわ”な女子高生“アイちゃん”と密着してしまう。サラリーマンは動揺するが、アイちゃんは嫌がるそぶりをまったく見せない。それどころか、サラリーマンが落としてしまった名刺入れを拾う際に、胸を股間に押し付けてくるのである。
こっそり隠れて読むものだろうこれは
フェミ一人ひとり言ってることがバラバラで今後の意見として反映しようがない。
対応できません。
フェミさん、本当のところは、上のような理由なんて後付なんでしょ?
丸山真男『日本の思想』を読んでいるのだが、海外比較としての日本人の思考様式や精神性の解釈が非常にしっくりと腑に落ちる。
この本の書かれた年代は古いが、現在のSNS政治トピックスにおける論戦の様相などにも適用できる程度には、日本人というものの精神性の核をとらえているように思える。
例えばこれ
(2)推論的解釈を拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈の多義性に我慢ならず自己の直観的解釈を絶対化する結果となる)、
(3)手応えの確な感覚的日常経験にだけ明晰な世界をみとめる考え方、
(4)論敵のポーズあるいは言行不一致の摘発によって相手の理論の信憑性を引下げる批判様式、
(5)歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」゠牽強付会として反撥する思考、
1-5まで、スタンスの左右を問わず現代のtwitterやはてなブックマークでもよくみるような批判様式だと思いません?
これらの思考様式の背景にある要因もいくつか挙げられているが、私が面白いと思ったのはキリスト教圏との対比。
キリスト教圏では唯神論に対する反発(対立軸)として市民社会や思想が発展した背景から、思想それ自体を神格化して同じ轍を踏まないために、思想の形式的不備を市民が監視する構造が浸透している。
一方で日本においてはそういった背景がないため、「思想」それ自体を道具の一つのようにプラグマティックに取り扱う傾向がある。矛盾する思想でも状況に応じて使い分ければよい。思想の中身はさておき、その思想を適用すると何が便利なの?という発想である。思想それ自体の形式(建前の正当性)を重視するキリスト教圏との大きな違いがここにある。
なお中国は儒教の影響が支配的なのでまた別ということになっている。日本のこの柔軟性は神道がそういった特性であったことも背景として挙げられている。
日本人は「物分かりがよい」という表現もなかなか味わい深いと思った。
引用にあるような「感覚的な便益を重視し、抽象化・体系化や論理的整合性に価値を見ない」という評価と、「物分かりが良い」という評価は一見矛盾するようで、そうでもない。
道具として使える程度に理解することにおいては日本人は早い。なぜなら既存の価値観との整合性を気にしないから、(便利である限りにおいては)新しい考え方に対しても衝突したり反発したりせず、すぐにとり入れることができる。その際には、既存の価値観を拡大解釈する(へえ、外国人はこういう考え方をするのか、でも日本のこの考え方と一緒のものと解釈できるな)という様式が使われやすい。既存価値観と同一視するという輸入様式はまさに抽象化だと思うのだが、抽象化を自然に行うため逆説的にそれに価値を置かないという精神性が成立しているということだろうか。
一方で抽象化・一般化された思想体系を戴くことを嫌う。それは思想体系を一度決めてしまうと前述の拡大解釈による柔軟性が損なわれるからだろう。
日本人の精神性は「そういう考え方もあるよね〜」を地で行っており、その意味で非常に包摂力が高い。包摂力の高さを維持するために、統一基準を作ることを嫌う。イデオロギー嫌いがイデオロギーである、とも言えるか。とはいえ新たなイデオロギーから影響を受けないわけではなく、拡大解釈や意図的な誤訳によって、既存の価値観と同居させる形でイデオロギーを解体して取り込むのである。
個人主義やリベラリズムやフェミニズムなどが、日本になじまなさそうで、でもやっぱりなじみそうな(それらにまつわる論戦において、各論ごとに各人のスタンスが右派なのか左派なのかも判然としない)のは、それらの思想の各論での実利については認めており、慣習としては取り込んでよいと思いながらも、原理原則として戴くつもりはない、というイデオロギーが影響しているようにも思える。