はてなキーワード: 筋道とは
正解の理屈とか、有効な批判とか、定石の筋道が概ね、一部のバカ以外の一般には広まってきた感じがするな。
人工知能学会の時には「こういう表現は社会を悪くする」という主張に反論するのが大変だったが、いまはそこらの一般戦士がすぐさま「いやそんなわけないだろ」って反論で封殺するし。
宇崎ちゃんのときは、宇崎ちゃんがエロくない、とかいう擁護が結構あったが、いまはそういうのあるとすぐさま「いやたわわはエロいでしょ。エロいけどオッケー」という話になるし。
ラノベ表紙の時には、ゾーニングしろって要求が簡単に燃え上がったが、いまはそういう要求に対して即座に「いやゾーニングはできているのでは? お前が来たのでは?」という、過去の議論での結論がレスとしてつく。
たわわの件、なんやかんやいって「これは男性や女性や社会がどうとかではない。広告の問題」という着地点に素早くたどり着きそう。
クソみたいな議論を永遠にしてるような気がしたが、よくよく考えてみたら、やっぱり進歩はあるんだなあ。
まあ、進歩についてこないバカを燃やすのがムーブメントの中心になってるから、それはそれでクソみたいな現状という気もするけど。
皿田きのこです。
って皿田きのこって誰よ?ってサジェストされるままに入力していく次第の手前
つーか!
すごくいい焼き肉屋さんだと思うんだな。
でさー
よくネットで見聞きする
シェフの気まぐれサラダとか俵万智のサラダとかお店で見たことないんだけど?
実際あんのかしら?
これずっと毎月ペンネじゃね?って
ぜんぜん気まぐれじゃないんだけど?って思うけど
あんまり色々考えるのが面倒だからって毎日変える要素をしなくてもいい同じって意味での気まぐれなのかしら?
俵万智さんのことはよく存じ上げないんだけど
一財産築いた人で
容器に入ったカップのサラダを宅配自転車便で頼めるようになったら、
商魂たくましすぎかよ!って思っちゃうわ。
よくインスタントジョンソンさんたちじゃない方の
インスタントラーメンとかお店の味を再現性を限りなく増した再現カップラーメンってあるじゃない。
ああいう具合に、
もう言わずもがなよね。
俵万智サラダって商魂たくましいコンビニサラダあったらあったでそれは筋道が立つのでは?って思うわ。
やっぱりついつい可愛いサラダがあったらサラダしてしまうのよ。
でさー
あれ私困ってることあるんだけど、
いかに私がサラダに付いていたドレッシング無駄にしてきたかって特筆したいぐらいで、
納豆のはあれ私辛子好きなので、
あとあの出汁のタレあるじゃない。
あれもさー
少なすぎるからもうちょっと量欲しいときの手っ取り早い解決方法を妹から伝授されてこれは!って本当に目から鱗だったんだけど
あの納豆についている出汁のタレ風な即席のそういうのができるのよ!
これマジ、
マジで試して欲しいと頃よ。
キリン!って麒麟の川島さんみたいに引っかからなくなったのが不幸中の幸いだわ。
だから、
サラダの最初から付いて中に入ってるドレッシングは無しがデフォルトにしてほしいことを声をフォルテッシモにして言いたいんだけど、
やっぱり人って2種類に分かれるじゃない。
たぶんローランドさんがローランドさんかローランドさんじゃないかって言うぐらいなレヴェルで
サラダにはもちろんドレッシングかけて食べたい人が多いと思うので、
私の意見はきっと少数は意見のマイノリティーのアイデンティティーかも知れないわ。
それよりも歯応えが欲しいときがあるので
クルトン別売りの方が追いクルトンきっとくる!って具合で追いクルトンしたいから、
どちらかと言うとそっちの方が大歓迎だわ!
納豆の出汁のタレは自分で醤油とみりんで調合できるってことよ!
今日はすごくなんだか
うふふ。
追伸。
間違えてカヒミカリィのリミックスアルバムを間違えて交換しちゃいそうになったし、
またさらに間違えてカヒミカリィとスーパーフライを間違えちゃダメよ。
新しく新商品の信じられる喜びも~って歌い出したくなっちゃうタイムゴーズバイのELTサンドって
違う違う!BLTサンドが美味しそうだったんだけど、
それをよそに
これいいわー。
ちょっとビターな感じのグレープフルーツのフレーバーがいいのよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
本気で物事に打ち込んでみて初めて気づいたわ。俺はお前らに絶対に勝てない。
お前らが1年で出来ること、俺は5年毎日続けても出来ないんだよ。
よく才能ある偉人が、「才能はおまけ、努力し続けることが最も大事」みたいなことぬかすけど。
んなわかりきったこと、よくかっこつけて言えたもんだよな。
うぬぼれるなよ。努力するのなんて当たり前だろ。
問題なのは、お前らが無意識に選んでる努力の筋道が、凡才の選ぶそれよりもいかに正確で、効率的で、そして理解が群を抜いて早いってことだろうが。
まあ、お前が1年でできること、俺はあと2年ぐらい使えばできそうだから、まだあがいて続けてやる。達成してやる。
覚えとけよ。
確かに筋道論で言えば、名誉毀損に当たるかどうかはまだ議論の対象であって、その口を塞ぐ方向に圧力をかけるのは違うよね。
あくまで「これは名誉毀損には当たらない。なぜならば〜」もくしくは「名誉毀損に当たると断言するなら、その論拠をきちんと示せ」という主張で対抗すべきではある。
誹謗中傷と批判をごちゃまぜにして、「中立ぶって女叩きに加担するな」とする粗雑な議論が批判されてるんだと思いますよ。
そもそも「加担」て何よ?
不織布マスクを非難するという点では主張は一貫しているが、根拠も無いし論点が取っ散らかっている。
マイクロプラスチックによる人体への健康リスクを文章前半では主張しているのに、『自然へ還る植物由来の生分解性プラスチック素材の高品質な不織布マスクを市場へ供給するよう求めよう!』という結論になるのはおかしい。生分解性プラスチックとそうでないプラスチックで健康リスクに差があるというエビデンスがある訳でもないし、死後は火葬により高温で焼却するから生分解性か否かは問題にならないからだ。不織布マスクを非難する文章を盛り込みたいあまりに、マスクのポイ捨てに関する文章を終盤に入れてしまったから、結論への筋道が通らなくなったことが容易に推測できる。
他にも、『一部の喘息持ちにはこの上なく危険な代物であるが』や『低品質な不織布マスクはじん肺、病床へふせっているとき肺炎のリスクを高めるであろうことは想像に難しくない』などの無根拠な誹謗が目立つので、文章全体の品質は著しく低いと言わざるを得ないだろう。
https://mala.hateblo.jp/entry/2011/12/14/121139
個人的に銘文だと思っているmala氏の「はてな使ったら負けかなと思っている2011」が書かれてからおよそ10年が経った。
たしか当時はネットが危険な場所から健全な場所へとイメージが変わりつつある頃だったと記憶している。
はてなも湿っぽいイメージのはてなダイアリー(個人の感想です)から明るい陽キャのはてなブログへと転換を図り、その5年後には上場を果たす。
石の下でグネグネしていたネット諸氏は、少しづつ陽の光が当たり始めた場所に居心地の悪さを感じ始めていたのではないだろうか。
自身も石の下の一匹であった僕もまた居心地の悪さを感じた一人であり、mala氏の文章の文末に吐き捨てるかのように書かれた『大多数の人にとってインターネットは安全なものであり続けている。すべての人々が、ネットを通じたトラブルや揉め事に巻き込まれますように。』に喰らってしまった。
mala氏の呪詛が通じたのかは分からないが、多くの人にとってインターネットがより安全な場所になりつつある今、所謂「ネットを通じたトラブルや揉め事に巻き込まれた」人もまた少なくない。
毎日ネットで誰かが誰かに噛み付いており、モニターから飛び出して直に人間を殴りに行く者までいる。
ツイッターではしょっちゅう訴訟が起こされたり、訴訟をするぞと脅したり、訴訟を失敗して笑われたりしている。(10年前の皆さんはこんなにも訴訟が身近になると思っただろうか?)
気がつけばネット越しにお財布からお金を盗まれていて、誰かが炎上して辞職するニュースを見ながら振り返ると、後ろでは自ら火の中に飛び込むYouTuberがいる。
ネット炎上に(無自覚も含め)加害者として加担する人を含めればほぼ「すべての人々が」巻き込まれていると言って差し支えないだろう。
いい時代になった。
しかしそんなリスキーな時代なのにも関わらず、個人の匿名性はほぼなくなりつつある。
ここで言う匿名性とは、セキュリティ的なあれこれではなく「アバターと個人を切り離す」行為のことだ。
少し前、SNSがインフラ的な役割を担うようになった頃、多くの人がネット上の影響力や人間関係などが資産的な価値を持つと考え始めた。
実際、これらはリアルな金銭的な価値や、承認欲求を満たすアイテムとして、非常に高いレートで取引でき、将来性まである事がわかってしまった。
これらの資産を現実に持ってくるには、もちろんネット上のアバターと現実の個人を紐付けなければいけない。
普段は大事にしまっていて時折箱を覗いて満足する、そんな昔の玩具に法外な買取価格が付くかもしれないのだ。
ネット上の分人と現実世界の個人が紐付けば、ネット上のいざこざは現実世界に流れ込んできてしまうのは当たり前なのだが、それに直面したのは数年後。
そんな感じで、僕たちは貴重な匿名性を自ら放棄してお金とか自尊心だとか、まあそれ以外にも色々と便利なサービスを甘受して満足して暮らしましたとさ。
そんなわけで、おわかりだろうか、はてな匿名ダイアリーは数少ない残された大地である。
僕は文学に詳しくは無いし、文学のカテゴライズにはもっと詳しくない。
しかしぼくがかんがえるさいきょうのネット文学的な想いはぼんやりとある。
一番の条件は、書いた人が現実の人に紐つかないということだ。
誰かに結びついてしまえばもうそれはネット文学でなく、その人の文章になってしまう、そんな気がする。
誰が書いたのかがあやふやな文章、知っている人が読めば一発で属性が特定できそうな個性豊かな文章にもかかわらず、著者を知っている人は絶対読むことが無いであろう場所にひっそりと書かれており、物知りなネットの知り合いからリンクで送られてきたそれを開くと、改行や句読点の位置はまるでデタラメ、熱量だけで押し切られた5万字にも及ぶ文章は文句なく面白く「しかしこの文章読みにくいなー」「段落くらい分けろや」と文句を言いながらも一気に読み切ってしまう。
締切が近い仕事で深夜にシコシコと作業をしている時に、何の予告もなく突然そんな文章と出会い頭に衝突して朝まで全然仕事にならない、そんなのが理想のネット文学との出会いである。
昔はそんな文章にぶつかる事が多々あった。
テキストサイトという名の万国博覧会、ブログブームの中で一般の日記に交じる電波日記・怪文章、エログロナンセンス絶望の世界、2ちゃんねるのコピペ、そいういった無数の砂の中から時折砂金のような文章が落ちていたりした。
多くの文章は一期一会で、心と記憶に余韻を残しつつまた砂の中に消えていった。
いやいや昔話はやめよう。
ネット文学が現実と紐ついてほしくないというのは僕だけだろうか。
もちろん、ネット上の優れた才能が現実に結びついて報酬を得られるのは喜ばしいことだ。
しかしそのサイクルが非常に早く、システム化され、なんなら最初から最後までの筋道が出来てしまっている事が多い今日では、現実と紐つかない文章にこそネット文学としての煌めきがあると僕は思う。
ネットと現実の結びつきがより強固になった今、ネットでしか読めない文章、ネットでしか評価されない(あるいは評価もされない)文章というものはこの先ますます読めなくなってくる。
・"歴史は韻を踏む"、"類似している"と表現し、共通点も具体的に述べ、その上で今後起こるであろうことを類推したまで。安易な"同一視"ではないことが分かるよう、こうして慎重に言葉を選んで筋道立てて書いたつもりだが、伝わらなくて残念だ。
・面白がっているのではなく、今の政権の言動に危機感を抱きつつも、長い目で見た時の社会の良識や自浄作用のようなものをある程度は信じているんだよ。
・とはいえ、日本ほどの高齢化社会は人類史上初の事態だ。ピラミッドどころか肩の張りだした壺のような形になった人口構成は、日本社会が危機に対応する力、危機から立ち直る力を急速に奪っていく。中国の覇権主義も日本にとって脅威となる。内憂外患は当分晴れそうもない。四半世紀単位で見れば、最悪の場合、日本では財政危機が起きたり、民主制が消滅したり、戦争や内乱で国家が分裂したり消滅したりする事態もあり得ると自分は思っている。もっとマイルドな未来が実現してほしいと願っているが、高度経済成長期のような右肩上がりではなく、最善でもどちらかといえば右肩下がりの時期が続くことはまず間違いない。
日本人が一個人として出来ることは限られていると自覚した上で、個々人は身の振り方をよく考えるべきだろう。ミクロな現象はマクロな現象に対して正面からぶつかったら勝てないのだから。政府の馬鹿げた言動には可能な限り掣肘を入れていく一方で、いざという時にどこでも暮らしていけるような備えと強かさが欲しい。
【同一視】
《名・ス他》差があると考えず、おなじと見なして取り扱うこと。
Oxford Languagesの定義
【類推】
《名・ス他》一方が他方と似る(幾つかの)点に基づいて、(既知の一方から)他方の有様を全体的に推し測ること。類比⑵。アナロジー。
「―解釈」
Oxford Languagesの定義
なんか事あるごとに旧日本軍の失敗事例持ち出すのってどうなんですかね。右も左も日本はあのころから何も変わってないみたいなことばっかり言って、政府批判して面白がってる。インパールがどうのとか言うのって聞き飽きてきたな。安易にあの時代を現在と同一視していいのかな。