はてなキーワード: 市井とは
三角関数絶対必要マンの理系だけど、古典というか古文というのは言わば「言語史」だから、絶対必要だよ。
国語数学理科社会がなぜ必要かと言うと、それは単に「生活を豊かにしているから」とか「お金を稼ぐためのキャリアとして必要だから」というだけじゃなく、「私たちが生活しているこの社会が、一体どんな土台の元に成り立っているのか」の一端を知るということだからね。
狂人が「明日は槍が降る」と言うことと、天気予報士が「明日は雨が降る」と言うのは、明日の天気を自力で計算できない市井の民にとって、論理的には同等なんだよね。それでもなぜ私たちは狂人よりも天気予報士の言うことを信じられるかと言うと、それは地の教養が身についているから。「科学的に、槍が降るよりも雨が降る方が、概ねあり得そう」と判断できるには、それなりの教養が必要。かつて杞の国の人々が天が落ちるのではないかと憂いた「杞憂」のような集団ヒステリーは、現代社会では比較的起こりにくい。(たまに起こるけどね。)それを抑えているのが民の教養。
失礼クリエイターによる「マナー」の捏造を人々が批判できるのも同じ話。教養がなければ、言われたことを言われた通りに信じるしかない。
「言語は生き物である」という考え方も最近はかなり浸透して、誤用警察も随分大人しくなってきたよね。自然言語の変容という現象を理解する上で、「言語史」あるいは「古文」の知識は間違いなく必要になる。
嗚呼、神よ。私をお許し下さい。
◇◇
訃報が、多くの人々を悲しませた。分け隔てなく接していた彼女が慕われていたのも当然の事と言える。葬儀はしめやかに行われた。
屋根上で一度天へ旅立ったばかりの彼女は自分がまだ幽霊として存在している事に気付いていた。自分が既にこの世に存在しない事を漠然と理解した。神はまだ安息を下さらないようだ。手を伸ばしてみても、骨も筋もない透けた体は空を掴むばかり。
ぱた、と雲の合間から雫が滴り落ちる。魂が抜けた身体は、近日中に埋葬されるだろう。空からそれを見るのは何とも複雑な気がした。
◇◇
一つだけ灯の点った部屋がある。部屋を覗くと、少年が机に突っ伏して眠っていた。
「う…あれ」
◇◇
改めて試して見ても霊魂は、誰かに取り付いたり憑依する事は出来ないようだった。誰も彼もすり抜けてしまって、自分に気付く様子も見えない。そうなると益々失った肉体が惜しかった。どうにかして取り戻す術はないのだろうか。
生者と亡者の間には茫漠とした距離が広がっている。このまま離れてしまったら、いずれ私の事を過去の物として忘れるのだろうか。ぽつり、とコーヒーの中に落とされた一滴のミルクのように不安が広がっていく。人々の心が別の物で埋まっていくのはどこか苦しいように思えてならない。こんなにも深い思いに何故もっと早い段階で気付かなかったのだろう。
市井の民の時間は進んでいるように見えて止まっていたのだ。過去に縛られて歩みだす事が出来ない。在り来りな筈の終焉は人々には重過ぎた。
誰でも良いから人々の心に立ち込めた霧を晴らして欲しい。どうにか手を打ちたくても自分の身体は何の痕跡も残す事が出来なかった。思いが募る毎に心が痛み、これ以上見てみぬ振りは出来ないと確信が強くなっていく。
天にまします偉大なる神よ、聖なるマリアよ。どうか民を救う力を、恩寵を賜り下さい。もし奇跡という物が存在するならば、この行き場の無い苦しみを哀れみ給え。月に向かって跪き何度も祈りを繰り返した。
真摯な嘆願を神は受け入れた。天啓が下る。次の朔の日、魂に体がもたらされるだろう。
消え入りそうな下弦の月が中空に浮いている。新月はもう間近だった。人知れず神に深い感謝を捧げた。
風も無いのにカーテンがふわりと浮き、細やかな月光が人影を形作る。
懐かしい心地で掌を開閉する。確かに先日まで自分がコントロールしていた体だ。
私は出来る事なら、国の発展を傍で見届けたかった。変わりゆく世界を、未来を歩みたかった。
古きは去り、新しい者が世を作っていく。慣例を理解していない訳では無い。美しい魂を持つ者達が未来の礎となるだろう。
唇がゆるやかに弧を描く。今度こそ今生の別れが近づいていた。青い双眸が眇められる。その体は花弁が散るかの如く霧散していた。
少年は身を起こし茫然と部屋の入口辺りを眺めた。そしていつもと変わらぬ静寂な寝室で自らに起きた事を把握しようと努める。今懐かしいあの人に会って、もう一度触れた。それは夢の中での出来事だと思われる程頼りない実感だった。
コメントをしないと思ってましたが、下記賛成票があまりにも侮辱的かつ不適当ですし、私に対するいじめとしか思えません。いじめ以前に魔女裁判以外の何者でもなく、極めて遺憾です。 Fomalhautさんや快速フリージアさんらの意見が近いです。反省しないのではなく、毒島氏への言及等不適切な応対については認めて謝っています。 そもそも、毒島みるく氏が先述のブロック依頼で反対票かつ私を悪いと決め付けてるのもおかしいし(それで色々言ってしまったのは反省点ですが)、人の会話を無視してTwitterで名指しこそないものの私を馬鹿にした名誉毀損ツイート(https://twitter.com/busujima_milk/status/1571037393830150144)をするのは論外です。毒島氏は今すぐ私に謝罪するのがマナーですし、それができないなら人を批判する資格なんかありません。 市井氏も私の過去の削除依頼で依頼場所のテンプレを無断で撤去する不敵札な対応をしたにも関わらず、謝罪等をされていないのも気になります。 全部とは言いませんが、毒島氏の私へのひどい言い方は個人攻撃としか思えません。先日は不適切な流れでしたが、下記や上記ツイートを見ても私の指摘は至極正しいものと確信します。 私がペナルティになるなら、毒島氏や私を不必要にブロックしようっとしている方々も一定期間ブロックされるべきかと思います。私だけがブロックになるのは納得できません。 そもそもブロックは「懲罰やペナルティ」ではなく「予防」です、下記意見は予防どころか私を一方的に糾弾しアカウントを潰そうとも見えるし、あきらかないじめです。 しかも、編集でも面識のない人がいきなり無期限表いうのも私を理解しておらず無礼としか思えませんし思いたくもありません。 下記の賛成票でも短期や拙論は理解できますが無期限票については理由を問わず一切反対しますし無期限になる理由など一切存在しないことを明言します。 意見を理解してますしきちんとコメントしたのにそれを否定するのはおかいしいです。 中身を精査する余裕まではありませんし、精神的な影響で全てをうまく飲み込めず容認できてないことは理解をして欲しいと思います。 私は精神的にきつい先天性の病気とうで辛く、コミュニケーションの問題もありますが、それを割り引いたとしても下記も重い意見はショックどころか遺憾の意でしかありません。 むしろ私を傷つけるよう意見でしかなく、見るに耐えません。長期票や無期限で私にひどい意見を言う人は私が精神的に傷ついていることを理解して頂きたいと思います。 インターネットだからなんでも言っていいと思うのは大きな誤りです、毒島氏らは私を傷つけてるという自覚を持って欲しいし私への無礼で屈辱的な発言は全部取り消した上で謝ってほしいです。 管理者様におかれましては、無期限や長期票に流されず、反対票や中立票が一定数いることも理解した上での寛大な判断を強く願います。
いまだにカルト防止法が制定されない。
法律的にすぐ作るのが難しいとしても、制定の動きくらいあっていいだろうに、自民党にはいまだそんな動きが無い。
最低でも公安の監視対象に戻さなければならないのに、そうした動きもまったくない。
これはどういうことなのか。
つまり、政府自民党は、国民の声を聴く耳を失ったと看做すこともできる訳だ。
それとも党自体が深入りし過ぎていて爆弾だらけで、もう解除すら出来ないのかも知れない。
理由は分からないが、どのみちこの有様では、自分たちの身内がカルト被害に遭っても、政府は公的には助けてくれないことになる。
日本政府はこれから先、カルト被害者が増えることを未然に防ぐ努力を放棄した、と看做す他ない。
カルトは未来永劫ずっと、国民を好き放題に洗脳して全財産を毟り取りに来ることが決定した。
今後も被害者が続出するのは違いないが、公安すら動かないのでは、それを政府が半ば公認したと見做してよい。
すると何が起こるか。
第二第三の山上徹也が現れるのが必然どころか、時間の問題だろう。
カルトは事実上、完全に野放し状態なのだから、理論上、山上徹也は量産されることになる。
で、それをどうやって防ぐ?
せいぜい警備を厳重にする他ないが、相手は24時間のうち、ほんの一瞬の隙をつけばいいのに、ずっと防ぐなんて警察でも無茶だ。
むろん、本来なら、カルト集団の幹部たちを狙うべきなのは、実行犯たちも分かってる。
しかし、自分たちがろくでもない存在だと分かっている悪党ほど、表には出て来ないし、黒幕は別の国にある施設の奥深くだ。
だが政治家は違う。
逃げ回って大衆の前に姿を現さなければ、次期はなくなるに決まってる。
よしんば未遂に終わっても、実行犯がカルト被害者だった場合、政治家本人が無事だったことが、むしろマイナスになる可能性が出て来る。
『身をもってカルトへの害を防いだ政治家』『カルトとずぶずぶ』等と見做されるのではないか。
そんなレッテルを貼られたが最後、次回の選挙で票の行く末は決まったも同然だ。
そもそも現状、この状態で、いまだカルトが無傷でいることの方が信じられんのである。
市井からの声を聞く耳を失った政治家の行く末なんて、歴史を調べれば、だいたい皆おんなじだ。
自民党はどうするつもりなのかね?
行くとこまで行くつもりなのかね?
自分は左翼が支持する政党には絶対に投票しないというぐらいには右翼だけど、自民党が統一教会と繋がりがあるのなら普通に排除してほしいよ。「そんな右翼はいない」って左翼は言うけど、ホントかよ。統一教会なんて嫌だろ、あんな奴ら。
自民党は今すぐ統一教会なんてクソ集団とは縁を切れよ。左翼は自民党が統一教会と手を切ったら、すぐにでも与党から転げ落ちると思ってるかもしれんけど、そんなわけねーだろ。それだけで立憲や共産が与党になるわけねーだろ。自民党はもっと自分らが市井から支持されてるって信じてくれよ。
だいたいさー、自民党から手を切られた統一教会は「わかりました。じゃあ今日から立憲と手を組みます」とかなるのかよ? ならねーだろ。あいつらはあいつらで対抗手段なんてねーんだよ。せいぜい「今日から統一教会の信者は、皆さん自由意志で好きな政党に投票してください」とか言うぐらいだろ。そんなもん屁のツッパリにもならんわ。そんなの切り捨てても痛くも痒くもないし、むしろ余計な足枷が減ってせいせいするぐらいだろ。だったらそんなの切り捨てても何の問題もねーだろ。
今の右翼の考えってさー、みんなこんなもんなんじゃないの? アクロバティック擁護なんて自分は見たことないし、そんなのを見たとか言う左翼は、特別やばい奴見つけてきてそれが右翼の一般的であるかのように喧伝しようとするデマゴーグ野郎だろ。右翼がそんな奴ばかりかと思ってたら大間違いだよ。
それとも何? 統一教会とのつながりを知って尚、自民党を支持したら統一教会を擁護することになんの? いや、俺は政策で支持する政党を選んでるんだけど。自民党が統一教会との関係を続けたとしても、左翼が支持する政党には絶対投票しないっての。
自分は左翼が支持する政党には絶対に投票しないというぐらいには右翼だけど、自民党が統一教会と繋がりがあるのなら普通に排除してほしいよ。「そんな右翼はいない」って左翼は言うけど、ホントかよ。統一教会なんて嫌だろ、あんな奴ら。
自民党は今すぐ統一教会なんてクソ集団とは縁を切れよ。左翼は自民党が統一教会と手を切ったら、すぐにでも与党から転げ落ちると思ってるかもしれんけど、そんなわけねーだろ。それだけで立憲や共産が与党になるわけねーだろ。自民党はもっと自分らが市井から支持されてるって信じてくれよ。
だいたいさー、自民党から手を切られた統一教会は「わかりました。じゃあ今日から立憲と手を組みます」とかなるのかよ? ならねーだろ。あいつらはあいつらで対抗手段なんてねーんだよ。せいぜい「今日から統一教会の信者は、皆さん自由意志で好きな政党に投票してください」とか言うぐらいだろ。そんなもん屁のツッパリにもならんわ。そんなの切り捨てても痛くも痒くもないし、むしろ余計な足枷が減ってせいせいするぐらいだろ。だったらそんなの切り捨てても何の問題もねーだろ。
今の右翼の考えってさー、みんなこんなもんなんじゃないの? アクロバティック擁護なんて自分は見たことないし、そんなのを見たとか言う左翼は、特別やばい奴見つけてきてそれが右翼の一般的であるかのように喧伝しようとするデマゴーグ野郎だろ。右翼がそんな奴ばかりかと思ってたら大間違いだよ。
それとも何? 統一教会とのつながりを知って尚、自民党を支持したら統一教会を擁護することになんの? いや、俺は政策で支持する政党を選んでるんだけど。自民党が統一教会との関係を続けたとしても、左翼が支持する政党には絶対投票しないっての。
わたしは1995年生まれだ。ここ最近になって政治をめぐる世の中の温度感が急変したように感じていたが、わたしの記憶にある限り、本当に他者を思いやることのできた平和な時代など実はなく、物心ついたころからすでに物事はこの方向に向かって動き出していたのではないだろうか。2000年代にはすでに国家レベルでそういう状況に突入しており、わたしたちは今あの時代に張り巡らせた伏線をひとつひとつ回収しているのだと考えるほうが、世の中がここ何年かで急速に変化したと考えるよりも自然な気がする。
教科書に書いてあることはいつだって周回遅れだから、わたしたちの世代ならまだ、教科書をまじめに読んでいた人は一昔前の価値観に触れることができていた。かろうじてそれを正しいとみなして人格形成することもできた。しかし、見ないようにしていただけで、見てはいけないと自分に言い聞かせていただけで、そこにはすでに分断はあった。わたし自身、これまで分断を見ないようにしたり、うまいこと避けたり人のことを見下したりしてのらりくらり過ごしてきたが、そうした態度は結果的にこうした時代の到来を早めることに繋がったかもしれない。でもあの時はどうしようもなかったのだ。わたしも幼かったし、大人たちも幼かった。大人らしく振る舞うとはどういうことか、誰もわかっていなかった。わたしは教科書を読めたし、読めるのに読むなというのは無理な話だった。
2010年、わたしたちはRADWIMPSを聴いていた。給食の時間、校内放送のスピーカーは「僕が総理大臣になったら~」と歌っていた。「厨二」みたいなことを言って人々は馬鹿にするけれど、気づいたらこちらが馬鹿にされる側にまわっていたという意味では、本当に間抜けだったのはこちら側なのではないだろうか。
すごく怖い話をすると、もしかして自民党に投票する人ってリベラルなつもりで入れてんじゃないかと思う。Liberal Democratic Partyだけに。LiberalでもDemocraticでもないだろふざけんなと思ってきたが、まあ東谷さんに比べたらどう考えてもliberalだしdemocraticですね。
とにかくみんな余裕がなくなっている。自分と自分の身内以外の誰かほかの人のことを考えるにはあまりにも疲れすぎているし知性も足りなすぎる。コミュニケーションは日々奪われており、わたしたちの会話はゆっくりと、しかし確かに通じにくくなっている。誰にもこの流れを止めることはできない。
若い世代はそもそも思いやりという文化を知らない。それほど若くもない世代は、たとえ本人が忘れてしまっているとしても、そういう文化が存在していたこと自体は知っているはずだが、今ではみなそういう文化のことを冷笑するか雑巾を見るような目で一瞥するだけになってしまった。それほどまでに、今、わたしたちは貧しい。明日ご飯が食べられるかどうか、という次元にいる。
投票率が上がっても下がってもろくなことは起こらないような気がするという意味で、わたしたちは今、どうしようもないところまで来ている。そんなことはあり得ないだろうけれども、仮に次の選挙で政権が交代して志位さんが総理大臣になったとしても、その傍らで東谷さんのような候補は当選し続ける。投票率が上がるというのはそういうことだ。そして、投票率が下がれば、政治家の票田は市井から宗教団体に移り(実際には宗教団体の教団内部が完全に「市井」でないとは言い難いが、ここでは便宜的に二者を区別することとしたい。つまり、宗教勢力と政治家とのかかわりが密接なものとなるということだ)、今回のように銃撃に倒れる政治家は後を絶たないだろう。どっちにしても地獄だし、どっちかを選べと言われても困るのが実情である。選挙に行っても詰み、行かなくても詰み。死ぬしかないのかもしれない。まあこの状況では、放っておいても人はばたばた死んでいくだろうが。
選挙に行っても詰み、行かなくても詰みの状態になったときに人間がどういう行動に出るのかは興味深い。どっちでも最悪の結果になるとわかっているとき、わたしたちはどちらの地獄を選択するのだろうか?