わたしは1995年生まれだ。ここ最近になって政治をめぐる世の中の温度感が急変したように感じていたが、わたしの記憶にある限り、本当に他者を思いやることのできた平和な時代など実はなく、物心ついたころからすでに物事はこの方向に向かって動き出していたのではないだろうか。2000年代にはすでに国家レベルでそういう状況に突入しており、わたしたちは今あの時代に張り巡らせた伏線をひとつひとつ回収しているのだと考えるほうが、世の中がここ何年かで急速に変化したと考えるよりも自然な気がする。
教科書に書いてあることはいつだって周回遅れだから、わたしたちの世代ならまだ、教科書をまじめに読んでいた人は一昔前の価値観に触れることができていた。かろうじてそれを正しいとみなして人格形成することもできた。しかし、見ないようにしていただけで、見てはいけないと自分に言い聞かせていただけで、そこにはすでに分断はあった。わたし自身、これまで分断を見ないようにしたり、うまいこと避けたり人のことを見下したりしてのらりくらり過ごしてきたが、そうした態度は結果的にこうした時代の到来を早めることに繋がったかもしれない。でもあの時はどうしようもなかったのだ。わたしも幼かったし、大人たちも幼かった。大人らしく振る舞うとはどういうことか、誰もわかっていなかった。わたしは教科書を読めたし、読めるのに読むなというのは無理な話だった。
2010年、わたしたちはRADWIMPSを聴いていた。給食の時間、校内放送のスピーカーは「僕が総理大臣になったら~」と歌っていた。「厨二」みたいなことを言って人々は馬鹿にするけれど、気づいたらこちらが馬鹿にされる側にまわっていたという意味では、本当に間抜けだったのはこちら側なのではないだろうか。
すごく怖い話をすると、もしかして自民党に投票する人ってリベラルなつもりで入れてんじゃないかと思う。Liberal Democratic Partyだけに。LiberalでもDemocraticでもないだろふざけんなと思ってきたが、まあ東谷さんに比べたらどう考えてもliberalだしdemocraticですね。
とにかくみんな余裕がなくなっている。自分と自分の身内以外の誰かほかの人のことを考えるにはあまりにも疲れすぎているし知性も足りなすぎる。コミュニケーションは日々奪われており、わたしたちの会話はゆっくりと、しかし確かに通じにくくなっている。誰にもこの流れを止めることはできない。
若い世代はそもそも思いやりという文化を知らない。それほど若くもない世代は、たとえ本人が忘れてしまっているとしても、そういう文化が存在していたこと自体は知っているはずだが、今ではみなそういう文化のことを冷笑するか雑巾を見るような目で一瞥するだけになってしまった。それほどまでに、今、わたしたちは貧しい。明日ご飯が食べられるかどうか、という次元にいる。
投票率が上がっても下がってもろくなことは起こらないような気がするという意味で、わたしたちは今、どうしようもないところまで来ている。そんなことはあり得ないだろうけれども、仮に次の選挙で政権が交代して志位さんが総理大臣になったとしても、その傍らで東谷さんのような候補は当選し続ける。投票率が上がるというのはそういうことだ。そして、投票率が下がれば、政治家の票田は市井から宗教団体に移り(実際には宗教団体の教団内部が完全に「市井」でないとは言い難いが、ここでは便宜的に二者を区別することとしたい。つまり、宗教勢力と政治家とのかかわりが密接なものとなるということだ)、今回のように銃撃に倒れる政治家は後を絶たないだろう。どっちにしても地獄だし、どっちかを選べと言われても困るのが実情である。選挙に行っても詰み、行かなくても詰み。死ぬしかないのかもしれない。まあこの状況では、放っておいても人はばたばた死んでいくだろうが。
選挙に行っても詰み、行かなくても詰みの状態になったときに人間がどういう行動に出るのかは興味深い。どっちでも最悪の結果になるとわかっているとき、わたしたちはどちらの地獄を選択するのだろうか?