はてなキーワード: 定理とは
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組み合わせ論と言うのは、 通常できそうにないことの 適当な 組み合わせが存在するか、 特殊場合では、個数の間の定理とかを考察対象にしたものです。
だから幾何と整数と代数とは違います。組み合わせ論は、 「一見できそうにないことの組み合わせ」の解を求めるとか、できるかどうかの判定が言われますので
業界では鳩ノ巣原理を使うとかいうのもありますが、東大の入試問題だと、組み合わせ自体ではなくてその前段階の、基礎部分の方の、ただ個数を数え上げるとか、
CとかPの公式とか言うかなり次元の低いことしかやりませんので、高等数学1Aにも、 数え上げはありますが、あれは、組み合わせ論のつまらない事務作業じみたところだけを
紹介していて、定理とか、肝心なところは教えておりません。幾何はどうかというと、これも同じで、平成の指導要領では、チェバの定理とかのドリルはセンター試験とかでも入れているが
チェバの定理に基づく証明とか、パスカルやもっと有名な定理の適用になる証明になると誰も演習をやっていないので出来ない。
数え上げの応用問題は東大の入試問題に10年前くらいから大量に出るようになって応用問題としては色々あるが、肝心の定理とか魅力的な部分までは試験に出ない。
宮地昌彦先生はいつもカルデランの交換作用素の説明をするときにこれは簡単なことでなどと笑いながら説明するが、簡単ではないし、補完定理やなんかを使いますとと言っているときに
さらっと言っていますが簡単なものばかりではありません。ということで何を解説しているか分からない。遠くにあるタイルの順序関係を考えてその極大なものの要素を考えてそこにぶら下がっている
奴をひとまとめにしてこれをツリーと呼ぶことにしましょうというわけです。この1つ1つのツリーの分解したものの作用素ノルムが、e^2πiで上から押さえられるという議論をしまして
だよな、1000回出てきて何も教える気ないからなこいつら。
実際に教えたのは黒羽刑務所で、シャバの警察は何も教えていない。
(1) 法の規定は法的確実性のものであり、複雑に関係しているが、全ての規定が全部関係しているかどうかは分からないし、孤立しているものも想定しうるが、誰も習っていないから
その技術的構造については分からない 仮に警官が1000回出てきても分かるものではない
(2) 大体今時誰も知らないのに誰でも知っていると平気で抜かす。
(3) 警察官が出て来ること自体が驚愕であるというが、事実と違う。確かに警官は驚愕的なようにみえるが、 定理は関係で、発表されたときに驚愕され後日陳腐化する。
逆に、証明技術の中に出て来る技術は永遠の輝きをもつものがある。しかしこれは非常に魅力的なテクニックに該当するので教えられない。
この尾崎正和さんが書いた答弁書私の言い分と書いている文章に、 コンパニオンはひかるさんではなくセナさんを派遣されてもらっており、お前でいいけん脱げブタと言ったということですが
言ってないということです。東京簡裁の原ひとみが、尾崎がSNSに大量に書いた奴を印刷して簡裁の404号法廷に来いという大量の手紙を送って来たのを理解したのは認めます。
しかし原ひとみが404号法廷に来いと言ったのは確か、富澤がシェアハウス営業終了するR4.2.28のちょっと前で、私がイオンスタイルで買った黒い靴が、209号室の奴に処分されたりで
色々怒り狂っていたので。結論を出す能力があったらとっくに出してるって言ってんだよ。その技能がないから出来ないっていってんの。R4.2.28当日は、佳代子に追い出されてそのまま
帰ったじゃん。 そんな技能はありません。フェルマーの最終定理は、定理です。それの証明は、技能ですが、ノートに書いても書けません。そういう技能はありません。それが出来ないなら他の技能も
ありません。 x^n+y^n=z^nはないということだったら、そこに、1,2とか、1,3と順に入れていってやるか、そういう性格に帰着させるか、理解できても、背理法、それ以上は分からない。
それはいいとしても、私は、おまえが、真夜中の運動会をした日はいつかに到達したいがその技能がない。大量にひらめいたらそこまで行けるかも知れませんがそれが出来ないからそこに行けない。
次に平成30年にあったことは完全に闇の中でこれも全然到達できません。だからどんな電気刺激を与えても、当時どんなことがあったか見ることは出来ないと思います。そういう技術がないからです。
東京大学が生活に使えないという理由で糞であるとの評価はしないが、残酷な悪人で、何を言っているのか分からないし、遊べないしつまらないし、何が面白いのか
分からないという理由付けで糞と言う結論を述べさせてもらう。特に法令であるが、法律自体が技術的にどのように制定されているか分からないし、制定された法律が
どのように解釈されているか全く分からないし、つまらないし、そこの内部に埋め込まれているものにしても、用いている技術にしても、魅力を認める余地はない。
現代数学であると、複数の関係する定理を発見し、それらを組み合わせてより高次の定理を証明し、次第に、最終的に目的とする定理の証明に至るという構造をしているので、
いわゆる高いところに登るのが好きな子供にとって魅力があるし、それをやって完成したときの感激はひとしおのものがある。これは、東京大学法学部の授業は一般に厳しいものとなる。
しかし・・・ 卒業したときの感激は何にも代えがたいものである、と、昔の学部長が述べていたのと同じである。
ところが一般に法科大学院で習う法令の技術は、三枝洋一先生が、しまった、ロースクールは止めたんだっけ、と言っているように、法科大学院で習うものは、上記のように、複数の定理を
教科書に書き、次第に目的の定理の構成に至るような構造をしているかどうか分からない上、東京にある工場の構造なども、それが哲学的にどのようなものであるか全く教えていないので
人気を認める余地はない。
地方創生をしている佐藤富美男が、フェルマーの定理の講義をする場合に、授業展開は次のようになると予想される。
① さてみなさん、黒板に、 a^n+b^n=c^n という式があります。これに当てはまる、a,b,cは存在しないという定理があります。
女子生徒甲・・・ だからなんなんですか? そんなの論外だし面白くねえだろ。
先生 あ?お前何が論外なんだよ。バカか。ただのパズルだろ。そんなことも理解できねえのかよ。確かにさー、行列の定理で、 det(AーλI)=0
とか言われて、行列だよ。論外に決まってるじゃん。行列なんて。なんで論外かって、何言ってるか分からないし。でも上の定理だったら驚愕だし必死で探すだろ。面白いだろ。
何が論外なんだよ。こっちが論外だと思ってるのは微分方程式とかだろ。種類も多いしあんまりきれいなかたちをしていないし暗記作業だしめんどくせえんだよ。
男子生徒乙 ・・・ 先生さー、数学何かやりたくねーんだよ、こっちはえろいことやりたいんだよ。
先生 ・・・ そういうのは家でやれよ、こっちは面白い問題を紹介してるだけなんだよ、わかんねえのかお前。
生徒B ・・・ 今1個1個、代入してるけど、確かになさそうっす。そういうのを発見した人がいて、証明できた人も歴史上いること自体は面白いと思ったっす。でもどうやって証明するのか
1つも思い浮かばないので、出来るかどうかで言うなら、さっぱりわやです。
ピコン
・・・ どうも、 竹内力です。佐伯は、山から送られてくる、ミネラルに富んだ水が、はるか昔から、守られてきました。 もうすぐ、佐伯駅です。
(1)初等的な数学の分野であると問題を発見してそれを解く作業となるが、現代数学の分野になると、大量の定理を発見して証明し、次第に大きな問題を迫っていくような
1つの教科書を書くことになるような作業をすることになるが、現在の裁判所は、そのような真面目で技術的に美しい領域には立ち入りたくないから。
(2) 警察の末端の職員が、テクニックという言葉に拘るにしてもなんにしても、技術の話をすると、いきおい、受験勉強の話に流れていくことになるが、地方創生の時代にあって、
教養や文化的な話をすると、その辺に住んでいるバクサイの労働者が困ることとなるので、文科省や司法の職員は、へぇ、はいという応答をするように命令されており、難しい
話はしないように指示されているから。
(3) 東大総長の藤井輝夫は理工学系の研究者で、東京大学にも多くの理数系のエキスパートが存在するが、地方創生で経済実利優先主義の世の中にあって、高等学校の
多くの数学者は最も美しい証明を見つけることに意欲を持っており、数学を芸術の一形態と呼ぶことがよくある。
「なんて美しい定理だろう」「なんてエレガントな証明だろう」と言う。
完璧な部屋の形状は、ルネッサンスの建築家によって、壁が一定の比率を持つ長方形の部屋であると定義され、それを「黄金分割」と呼んだ。
建築家は今日でも、最も調和のとれた部屋には黄金分割比があると信じている。
この数値は、多くの数学的現象や構造に現れる (例:フィボナッチ数列の極限)。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、均整のとれた人体と顔の黄金分割を観察した。
西洋文化やその他の文明では、均整のとれた人体の黄金分割比は、上部 (へその上) と下部の間(へその下)にある。
モザイクは、固体部分(木、石、ガラスなど)を重なりや隙間なく平らな面に組み立てる芸術形式である。
その洗練された形式では、モザイクには認識可能なパターンがあり、それが 2 つの異なる方向に繰り返され、中心も境界も優先方向も焦点も特定されない。
19 世紀には、数学的な観点から、タイリングには 17 個の対称性しか存在しないことが証明された。
アルハンブラ宮殿のモザイクは、考えられる 17 の対称性をすべて表していることが発見された。
タイリングを形成するとは、2 次元平面を幾何学的形状 (多角形または曲線で囲まれた形状) で重なりなく完全に覆うことを意味する。
タイリング画像を変更せずに仮想的に回転または反射できる場合、タイリングは対称と呼ばれる。
歴史上最も印象的なモザイクは、中世のイスラム世界で活躍した芸術家、特にスペインのアルハンブラ宮殿の美しく洗練されたモザイクを作成した芸術家によって制作された。
アルハンブラ宮殿は、グラナダの旧市街を見下ろす赤土の丘に、13 世紀初頭にムーア人によって建てられた。
ここは、膨大な量の模様、装飾品、書道、石の彫刻など、イスラム教の建築とデザインを展示するものである。
オランダ人芸術家MC エッシャーはアルハンブラ宮殿を 2 度訪れ、宮殿と周囲の中庭のタイルに見られる華やかな模様をスケッチし、カタログ化した。
これは、タイルが一定の間隔で表示または発生することを意味する。
何百年にもわたる熟練した建築、タイル張り、 (調和する力としての)対称性への深い敬意、(宗教と商業のための)幾何学の研究と知識により、17 の考えられる対称性グループすべてがアルハンブラ宮殿の壁に表現される。
自然界の結晶(雪の結晶、鉱物、宝石など) は、秩序と対称性規則に従って原子的に構築される。
非周期的タイリング、つまり周期性のないタイリングは 1960 年代に数学的に可能であることが証明されたが、当時は秩序はあっても周期性を持たない固体構造は自然界には存在しないと考えられていた。
1982 年、イスラエルのテクニオン大学のダン シェクトマン教授は、後に準結晶として知られる自然が作る非周期結晶の存在を予測した。
このような自然で作られた石は、ロシアの山岳地帯で最初に発見された。
2009年、この発見はプリンストン大学の教授であるポール・スタインハートによって科学的に発表された。
2011 年、シェクトマンはその予測によりノーベル化学賞を受賞した。
そうでないなら、美しさは見る人の目にあるか?
理学部数学科で数学に価値が置かれるのはほとんどその形而上学の美の継続時間が長いことによる。人文社会科学系における例えば、 英語による詩作
にも同じような側面が認められるが、美の継続時間が短い。いわゆる 時代を超えて永遠に語り継がれる、というものも歴史学には多いが、最近の社会では、
そういうことも存在しないことが立証された。人文社会科学系にも、数学と同じようなものが認められる可能性はあるが、その数は少ない。
数学の教科書は大体次のような内容になっている。 有意義だからそのように定義する。広範に存在する有益なものだから、確定させておいていたるところで使う。
美しい定理を証明する。 定理の特徴として発見されたときに驚愕されるが、あまりにも時間が経過していると、その界隈でも、さすがに、それはもう終わったことではないか、ということで、
数理談話会
会場: ハイブリッド号室(大学院数理科学研究科 大講義室+zoom)
講演者
講演題目
© 2024 東京大学大学院数理科学研究科 ビデオアーカイブ・プロジェクト
講演題目
フェルマーの最終定理は、 x^p+y^p=z^pには解がないという定理として確立したもので、不定方程式と素数という一見無関係なものの間を統一する定理である。
しかし、不定方程式に対する解の不存在性は、無限降下法の他に、まどろっこしい方法しか知られておらず、初等数学界では、どのようにしたらいいのかが知られていない。クンマーのイデアル理論は、z^p-y^pを因数分解して迫る理論である。しかし、それによっても、全部を解くことは出来なかった。1つの考え方として、国際数学オリンピックの問題作成者、解答作成者たちに解答を求めるという方法もあるが、
東京大学を含む学会では、そのアプローチを試みた者は誰もいない。そこでこの講義では、高校生向けに、なぜこの問題が解けないのかの様々な理由を紹介することとしたい。
人文社会科学系と、自然科学系の違いをどうしても述べると言えば、 人文社会科学の場合はおそらく、 ゲーテもいうように、虹でも、15分も経過したら誰も見向きもしないだろうという
のごとく、美しいものでも、数分を経過したら誰も興味がない。しかし、数学のような形而上学であると、偉大な定理は発表されたときに驚愕されるがその美しさは永遠には続かない。
ウィキペディアでは、 1970年代に発表された7次元の超球の定理について、「現在では」 誰もに美しいと言わせるものではない、と述べている。しかし、数学の定理が一般的に、
その美しさを失って陳腐な真理と化すまでには、30,40年はかかることを説明している。したがって数学でも、 永遠不変の美が存在するとは一般には思われていない。しかし、
ウィキペディアによっても、証明の技術については、永遠不変の美があるように書いている。
ゲーテが、人間だけが不可能なことをなしうるし、不可能を信じる者を神は愛すると書いているが、フェルマーの最終定理は、400年の間、不可能の象徴であるとされてきた。定理はもちろん
予想であり、それを確定できるかは、証明である。その証明は不可能であると信じられてきた。しかしここでの形而上学においても、どうしても、永遠不変の美はないように書いている。
すなわち、ゲーテを解釈すると、 人生は有益なものから真を通じて美に至ることであると書いているが、 結論美の永遠性の不可能性についてはまだ誰も論じていない。
法的安定性と具体的妥当性は、一見矛盾する概念である。 人間は、一度決めてある規定を機械的にその通りにしたくて、事案に関する中身のことは考えたくない。
しかし数学でも、一見矛盾する概念がなぜかつながっていることがある。 有名なものは、 e^πi +1=0という、オイラーの等式である。 虚数単位が実数とつながっているというフォーミュラ
であり、数学界では、絶賛されている。昭和30年代の裁判官は、 法的安定性と具体的妥当性という矛盾する概念の統一を務めてきて、それをなんとかやった。数学でも、 自然対数の
底を i 乗して、ー1になるわけがない。しかし、そういう、一見矛盾する、いたるところに存在する有益な概念同士がつながっていることを示唆する数学の公式は大量にある。
数学という、自然法では、 結論の定理の関係と、支持証明の手順の手段方法の2つを、法と言うように、 法学部では、人間社会関係の複雑な事項に関する関係と支持証明関係
を法と言う。
要するに、法とは、関係であるとともに、技術であって、小学校で習う道徳的垂範事項ではないから、面白いはずであるが、 裁判官である佐藤富美男の話を聞いていても、少しもまんこが
濡れたことがない。 逆に・・・ 国際数学オリンピックのいわゆる超難問では、 天才が発見した問題があり、それに対する証明も天才的である、そういうものがあることを知ったときに、子供心にも
へえ面白い、と思うのは当然であるが、 法については、判例六法に、文章が平板に書いているだけで、何が面白いのかと思ったことは一つもない。
平成時代において法の、特に、弁護士と検察に関する、ネタ晴らしをした弁護士や検察官がいなかったわけではない。検察官の土屋大気は、何を言ったか。これはテクニックである
(が存在していない)。延岡の検察事務官は、平成27年、ダイマー模型理論で有名な植田一石、志村の松本、検察事務官は、はいはいここにはありませんからどうぞお引き取りください
と言われた。また別の職員は、要するに、年寄りだが、で、ここにきた目的は? 悪いから止めたい、と言っていた。
また、弁護士の方は、 そういうものである、と言っただけでそれ以上のことを言わなかった。このときに、検事の土屋は、判例六法については沈黙して、あたいの前に放り出した。その
判例六法に書いてある体系がどんなものになっているか、それを説明する者は最終的に誰もいなかった。 別の老人は、うれしそうに刑事訴訟法の判例を読みながら、司法試験では、
必要性、緊急性、相当性と書いておけば大体通るから、そうやってあたいに教唆した。その辺を考えると、法律学の場合は、専門的、技術的で高度に複雑である可能性がある。
しかしそれが具体的にどんな構造になっているかと言うと、その説明は1つも聞いたことがない。
初等数学の証明の技術は大体次のように分かれると思うが、全部ではない。全てのsolutionまでは分からない。 結局は、フェルマーの小定理を用いている。 方べきの定理や相加平均
相乗平均によっているが、その際の使い方にコツがある。一見無関係な定理を適用する。しかしその全体を見ても、何の魅力もない。裁判官の佐藤富美男は、45歳で、司法試験と国家試験を
3冠して、たまに私に電話をしてくる。しかし、この者の話を聞いていても、一度としてやる気になったことがないし、話に魅力をもったことはない。
逆にわたしは黒羽刑務所で実際に体験したため、体験した限りの事は自信をもって言える。ところがそこで実践演習もなかったし、習わなかったことについて、堂々と語ることはできない。
要するにあたいはここで、偉そうなことを言っているわけではないのである。法学部にはなんの実益があるのか、もしくは、何が興味深いから学生が集まるのかというそういう当たり前
の議論をしているのである。面白くなければ学生が集まるはずがないからである。有名な法学入門では、法律は、専門的で技術的なものである、としか書いていない。確かに、数学でも、
現代数学は間違いなく、初等数学に比べて、 専門的であろう。 しかし、技術的かどうかでいうならば、初等数学の証明も技術的であるので、初等数学は専門的ではないが、
現代数学は専門的である。ある楕円関数が有理格子点を通るか通らないかの判定には初等分野では理論がない。従って、複素関数など話が専門的になってくる。
東大法学部の法学者の佐藤富美男によれば、法律は作って使うものだから数学とは違うと述べる一方で、数学との関係性は何も述べない。 逆に、法は、警察官によって強制される暴力装置
であり、警察官が出て来ること自体が驚愕であるとか、驚愕は半分くらいでいい・・・などといった抽象的なことしか述べない。逆に、数学では、偉大な定理のほとんどの美が驚愕の一要素から出ている
とか、証明の中には、一見無関係な定理から演繹される驚愕的な証明があるなど、「魅力的なネタバラシ」が大量にある。それに比べて、法学者の佐藤富美男は、実務法律学における、
立法技術、解釈技術、解釈学について、何一つネタ晴らしをしない。このような経緯では、大声をあげて怒鳴られるだけで、誰一人、法律学や数学の勉強をしてこなかったのも当然である・・・。
ジュピターが神に問うたとき、神は、移ろいやすいものだけを美しくしたのだ、と答えた。逆に、数学の問題は、ただ存在しているだけで移ろいやすいものではない。従って、数学とそれ以外の文科系
の事柄、 法学とか文学と数学は違うように思う。数学の定理は、一般に、発見者は、偉大でありなおかつ天才であると評価される。しかしそれならば、数学でないもの、例えば、法学において
特定の規定や解釈を発見したとき、なぜその人は天才とは言われないかというと、よく分からない。学会では、理学部数学科のしていることは極めて特殊で毛色が違っており、同じ理学部でも物理学科や
数理科学科とは違うし、更には、法学部や文学部、経済学部とは違うのではないかと言われている。しかし、その辺りの事は分からない。
文学部では、朝から晩まで、16世紀のフランス革命の、中世の人々が何回も戦争をして殺し合った結果として、近代市民社会ができたといったような凄惨な話ばかりしている。
実務法律学には、~による、とか、適用するという言葉がある。平成16年に全国の大学に法科大学院が出来てから、実務法律学はそこでするということになった。実務法律学の技術はもしかしたら
その透明なヴィルディングの中で教えているかも知れないが、東京大学でも、そこに入れる人は限られているので、1つも分からない。
逆に法学部では、法の歴史を習うだけで、法の結論や技術は1つも教わらない。法の結論がどのように美しいのかとか、法にはどのような可能性があるのかとか、法の何がいいのかとかそういう興味の
あることは何も教えない。
しかし黒羽刑務所のような制限的生活の中で集中していたとしても、森脇と言う驚愕的な体験があるので、それなりに成長すると思うが黒羽には座学授業がないので、系統的体系的に
何かを教わるわけではない。幾何学の授業はない。 驚愕の森脇に、古典の長谷川、が10工場の中身である。長谷川が古典的な生活を指導して対象事物の中に真理を見出させ、
森脇が驚愕させて発見させたり技術的に完成させる。しかし、森脇が驚愕させたとしても、受刑者が発見するのは指数定理程度である。森脇が驚愕させることでIMOの問題が発見できれば世話
はない。ゲーテは非常にあいまいなことを言っており、真理は深いところに収まっているので、誰でも発見できるものではないという。そういうことになると、幾何学なら、定理や問題も発見できなくなるし
教科書に書いている基本的な方程式すら発見できなくなる。これだと何が天才で何が平凡であるかの区別も分からない。
経時的時間の中で美しいものだけが最終的なものであろうと思う。しかし、数学では、定理は、一般には美それ自体とはされていない。数理哲学者のロタは、定理は、永遠不変に美の輝きを
持つわけではなく、 発表されたときに驚愕される。逆に、証明における驚愕的な証明は、その証明自体が永遠不変の輝きをもつとされる。したがって数学では構成の手段の中に永遠不変の美が
あり、結論における美は、そのうちになくなるということである。そうすると、神は、技術的構成中の美において永遠不変を認めて、結論の美については、いつまでもそれに対して美を与えないという意思
があるように思う。
ゲーテの言っている、 未知の無限の可能性、可能なものの限界は測ることはできないから絶望よりは希望する方がよいと述べているが、仮に到達不可能な領域があるとしてもそれも結局、
次の文章は、佐藤富美男による「成長の本質とは何か」という文章の一部である。これを読んで後の設問に答えよ。
人間は脳神経により物事を知覚する物体であるから、成長の度合いが置かれている環境その他に、見えていないから理解できない、また人により物事をどのように認識しているかは分からない。
仮に警察がこれを織り込み済みのものとして行動していると解するとしても、自己中心的で迷惑な話であり、理解できない。次に西洋人やオーストラリア人は、 成長は驚愕的体験からくると
されるが、日本列島は、驚愕的体験をするような環境がない。価値のあることをひらめくということは感情的に驚愕することと同じである。制限的生活の集中の中でいかに驚愕するかで古典的に
到達できるところが決まってくる。古典的ではなくローマン的なものは病的で間違った方向にいくというということは、ゲーテが既に言っていてここでは考える価値がない。
数理哲学者のジャックカルロロタは数学の偉大な定理のほとんどは驚愕の1つからくるとされている。証明の技術の方は様々である。残念ながら中華人民共和国には法がない。3つぐらいの
条文しかないという。日本にもない。我が国に本格的なそういうような法が導入されたのは、1868年である。明治天皇がやっきになってドイツ憲法からもってきてやったということである。