はてなキーワード: 衆道とは
衆道も「しゅうどう」だと思っていたら、なぜか変換できなくて「しゅどう」だと知った。
異性じゃないからセーフだという言い訳の元、どう考えてもセクシュアル・ハラスメントな行為を行っても「同性だからセーフでしょ?」と済ませてきた奴らの罪は重い。
酔っ払ったオッサンが女性の胸を揉みしだいたのを「スキンシップ」と言い張れば一発レッドだということを裁判官は理解してくれるが、男同士だとセーフになってしまう。
これは駄目だ。
ホモはやはり悪だ。
全員撃ち殺す必要がある。
もしも撃ち殺されたくないのなら、ホモ自身がホモによる悪を裁くのだ。
悪のホモを裁く正義のホモが、この世に生まれ続ける全ての外道衆道を断罪し尽くしたその日、初めてホモは世界に受け入れられると思え。
被害者面はもうやめろ。
貴様の手を一度でも穢れた同胞の薄汚い血で汚したことがあるのか?
そうして野放しにした悪人どもがどこかで誰かを精神的に殺して自殺に追い込んでゆくのを見て見ぬ振りをして、なぜ自分たちに正義があるなどと言えるのか。
だから昔は(特に武家の)結婚というのはまず家同士の繋がりと跡継ぎの確保が第一であって、
当事者同士の恋愛感情なんてものは別になくてもよかった事実がある
そして個人の恋愛自体、同性間だろうが異性間だろうが、マイノリティとして隠れるべき立場にあった
単にどちらも抑圧の対象でしかなかったというだけのことを、なぜ「昔は同性愛に寛容だった」
ということにしなければならないのか、これが衆道ageに対する個人的な疑問
で、この制度が形を変えつつ敗戦まで続いた以上、制度としての結婚は異性間のものだった、
というのはもう疑いようのない歴史的事実だ
ばかくせえんで反論すんのもめんどくせえ。
なんでこういうバカってLGBT議論で旗色が悪くなるとロリペドを引き合いに出すんだろうな。
それと今議論してるのは自民党の老害議員の竹下が「同性パートナーなどと不敬なものを天皇陛下に合わせるわけにはいかん。それが日本の伝統」って話であってそれ以上でも以下でもない。
それでも一応言えば
近世までの規制ゆるゆるの時代においてはそれは何でもありだったんだし、それはそれで今更歴史の書き換えなんてできない。
そういう近世的な価値観では強いものが弱いものを犯して好きにするという価値観が常識だったろう。
それが現代になって弱いものを保護するべきという価値観が出てきたことにより、近親相姦とかロリペドとかは規制されるようになった。
婚姻制度も極端に女性の立場が弱いことがなくなったし、売春も基本的には禁止されて衆道という男性の売春も表向きには規制された。
今同性婚がどうとか言われる話の裏側には「日本の伝統は男女の結婚である。子供をたくさん生むことである」みたいなものすごく短期間に無理やり醸成されたことがあたかも古来延々と続いてきた価値観であるかのように思われていることがある。
しかし過去には衆道という同性愛を当然とした売春方法が社会制度として確立されていたという事実がある。
つまり日本の伝統的に「恋愛や性交渉は男女のもの」というのは後付価値観であり、同性愛は当たり前に存在していた。
そのことを今のLGBT議論において主張をしているわけであって、再び衆道のような一部の男性の権利を著しく奪うような売春制度を復活させようとしているわけではない。
ていうか男性だろうが、女性だろうが、子供だろうが本人の意に沿わない性行為は極力避けるべきというのが現代的価値観である。
だから衆道は過去の負の遺産かもしれないが、同性と寝たいという願望を持つ人は世の中に確実に存在していて、それが今まさに公共の権利として認められようとしているという話であるわけ。
とか言っても根本的に自分の価値観を壊さない範囲で理解しようとするバカにはいくら言葉を並べても理解できないことはわかってるので、とりあえずお前はバカだってことをまず自覚すべきだとだけ言っておく。
でもロリペドや近親性愛は判断能力の低い側が被害者になりやすいから殴っていいことになってるし
さらに言うと同じ理屈を援用して立場や年齢が上の男が下の女に言い寄ること自体がキモい扱いで
それはまあある程度しょうがない部分もある、と理解もしてるつもりだけど
上下関係という話で衆道を持ち出したときに、女性が圧倒的に不利な立場におかれる婚姻制度もあったということで話をしているのであって、
全人口のほんのわずかのわずかにあった女性の血筋だけがものすごくよくて立場の低い男が無理やり結婚させられたという事例があったことを反証にされても意味がないっていうんだよバカ。
同性愛の正当化の問題じゃなくて、国賓として相手国の婚姻制度の話でしょ。
衆道が上下関係によるものであるなら、それこそ婚姻制度なんて男女の奴隷契約だったわけだから上下関係によって正当性を議論しても仕方ない。
LGBT議論で衆道が引き合いに出されるのは、キリスト教的な「同性に性的行為をするのは悪(←というのも聖書の極端な解釈なんだけれども)」という価値観にのっとられたことへの反論でしかない。
キリスト教的に「同性を愛する人なんて存在しない」という意見に対して、昔は同性を異性同様に性的対象としてきたということの証明にすぎない。
江戸期以前に遡っても、同性間の性交はあっても同性婚はなかっただろう。
同性で祝言挙げたとか所帯を持った例なんか有史以来なかったはずだ。
衆道とかお稚児さんは主従関係による性欲処理であって、みんなそれとは別に子を作るために女性を娶っている。
我が国の伝統としては「同性間の性交は許容するけど婚姻相手は異性に限る」と言うのが正しくて、