はてなキーワード: 陶磁器とは
平日しか開いていない多治見市文化財保護センターに行ってきましたわ。
もはや意地ですわ。
博物館設備は一室のこじんまりとしたもので、常設展はないようです。
現在は「カミさまホトケさまお医者さま」展として医療と祈りに関する
迷信と笑うのは簡単ですけど、原理のわからない病気に人々が感じていた
恐怖から救われたいという思いが伝わってきました。
平成23年になっても自分の患部と同じ部分に濡らした紙を貼り付けることで
治癒を祈願する紙貼り地蔵というお地蔵さまが作られているそうで驚きました。
ちょうど「西浦焼展」がはじまったばかりで明治に新しく生まれた
繊細な絵付けの陶磁器を鑑賞できました。
同じモチーフの器でも、花の描き方や配置が違うことで
金魚の絵がついた一輪挿しが特に素敵で、表面に網を浮き出るように
西洋風の立派な建物ですが、大きな窓の下の隅に力が集中するらしく、
そこから亀裂が走っている様子が目立ちました。上はアーチで受けているので大丈夫です。
裏庭にとても雰囲気があって、西洋の歴史の舞台に立った気分にひたれました。
たいへんな面積があるふどう園はすべて葉を落とした状態で、
わたくしお酒は苦手なので、売店でクッキーセットとニック・ナックを買いました。
瀬戸ドミニカン修道院の薄くて堅いクッキーがとても美味しゅうございます。
ニック・ナックはさらに素朴な「ぼうろ」みたいな味わいでしたが、
後味がとてもよかったです。
荒川豊蔵のアトリエの近くなのですわ。アトリエも再建中ですわ。
隠れ家的なおもしろさはありますが、日の射さない林道は寒かったです。
小さくても立派な建物を造るための資材の搬入方法が気になりました。
わたくしでしたら財力に物を言わせてヘリコプターで下ろさせますけど、
林道の突き当たりに臨時の軌条を設置させて斜面の上まで運んだのでしょうか。
それとも人力任せでしょうか。
全体をみるとバラエティに富んでいて鮮やかな印象を受けました。
荒川豊蔵の創意工夫のおかげでしょうか。
割れた竹を、焼いたときの割れが見事に再現した形の黄瀬戸破竹花入など、
1200℃で窯から取り出して急冷させることで漆黒にした瀬戸黒には高級車の風格がありました。
金で飾られた(あるいは継ぎを当てられた)作品は特に豪華な印象を与えます。
荒川豊蔵作品の茶碗や大きめの向付の中には赤い丸が入っていて、
お祭り中で入館料100円(通常は300円)、福引きができました。
上から6番目、下から1番目に良い景品のポストカードが当たりました。
美濃陶芸の明日展(あすてん)として現地の若手陶芸家の作品が特別展示されていました。
「せんぱい」と「ふれっしゅ」に分かれて別の部屋におかれているのですが、
二つの間の展示室には巨匠、荒川豊蔵のコーナーが存在していました。
創意を表に出さざるを得ない若手作品をみた後の
しぶい荒川豊蔵コーナーでは思わず「いいしごとしてますわね」と呟きました。
巻物に墨で書かれた彼の作品論も興味深くて、
「古いものに名品が多いのは時代を通じて淘汰されているからで、
直感を信じることの勧めには銀と金の美術商編を思い出しました。
「あすてん」では単色の陶磁器に無数の小さな穴をあけた新里明士氏の作品に
やはり存在感があります。この方の作品は各博物館に長く展示される気がします。
時間のかかる緻密な仕事ができる精神に作品を通じて触れることで、
ふれっしゅ部門では白木千華氏の壷に魚をたくさん張り付けた作品がユニークで魅了されました。
鯖もいたと思いたいですが、魚がカラフルすぎたので怪しいです。
後、常設展示の総織部の茶碗が気に入りじっくり眺めました。
ひ色が混じったこの茶碗のわびがなかなか出せていないように感じます。
ひたすら眺めたところ胎土も赤色のようでした。
総織部と言うのでしょうか。
休憩コーナーにはへうげものの全巻がおいてありました。
1935年、無断で日本に持ち出される…所蔵者を説得して韓国へ
朝鮮の石造の品が人気だった植民地時代…違法な持ち出しの規模は把握されず
1935年11月26日、東京・上野公園で大規模な展覧会が開かれた。
日本・朝鮮の陶磁器や木製の器具など2500点、石造の品100点、織物350点が展示された。
見事な美術品の間でひときわ目立ったのが、朝鮮から渡ってきたさまざまな石造の品。
高さ2.9メートルもある「新羅三層石塔」をはじめ、朝鮮の石灯、小型石塔、石人などが人気を集めた。
世界的な骨董(こっとう)商だった山中商会が主催したこの展示は、実は売るために物を並べた競売展だった。
山中商会は図録で「数年にわたって収集した朝鮮古代の各種石造物を展示し、見どころを豊かにした」と宣伝した。
最初の二日間はVIPを招待し、続く三日間は一般に公開、ほとんどの品を売り切った。
威風堂々たる「新羅三層石塔」は11月28日、ある日本人コレクターに売られた。
そのコレクターは、佐賀にある邸宅の庭園に石塔を運び、生涯これを鑑賞した。
当時一緒に購入された朝鮮の石灯や石人などは、駐車場などあちこちを飾った。
植民地時代に無断で日本に持ち出され、80年にわたり個人宅の庭園の飾りと化していた三層石塔が、故国に戻ってきた。
学古斎ギャラリーの禹燦奎(ウ・チャンギュ)代表は「10年かけて日本人の所蔵者を説得した末に購入し、昨年11月に韓国へ持ってきた」と語った。
石塔を研究している檀国大学のパク・キョンシク石宙善記念博物館長は「新羅の塔と誤認されたが、新羅塔の様式を継承した高麗初期の石塔。堂々としていて素晴らしい比例の美が際立ち、新羅から高麗に至る過渡期的な建築様式が生きている秀作」と語った。
朝鮮のどこにあって、いつ持ち出されたのか、正確な記録はない。
『石造文化財、その受難の歴史』の著者、チョン・ギュホン氏は「朝鮮において塔や仏塔は宗教的な意味合いが強い上、村の象徴などとして尊ばれており、個人の所有物だとは考えられなかった」と語った。
また、石塔を研究しているシン・ヨンチョル梁山市立博物館長は「贈り物としても数多く海を渡った仏像・仏画とは異なり、日本にある韓国の石造の品のほとんどは、植民地時代に違法に持ち出されたもの」と語った。
当時、日本では朝鮮の石造の品を「観賞用」として購入し、庭園に据えることが流行した。
石造りの物への需要が爆発的に増えたことを受け、士大夫(知識人・官僚階級)の墓にある「魂遊石」まで持ち出したという。
1933年11月に大阪で開かれた山中商会主催の競売展では、澗松チョン・ヒョンピル(1906-62)が日本のある財産家と最後まで競り合って「統一新羅三層石塔」などを買い入れた-という逸話もある。
現在、日本に韓国の石塔がどれだけあるのかについては、おおまかな数字を把握することも困難だ。
1965年の「文化財および文化協力に関する協定」で返還された文化財の中に石塔類が含まれなかったのも、ほとんどが個人の所有だったから。戻ってきた「高麗三層石塔」は現在、ソウル市昭格洞の学古斎新館横に立っている。
http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=shm&sid1=103&oid=023&aid=0003148851
>>1933年11月に大阪で開かれた山中商会主催の競売展では、澗松チョン・ヒョンピル(1906-62)が日本のある財産家と最後まで競り合って「統一新羅三層石塔」などを買い入れた-という逸話もある。
勘違いしてる奴が多いからハッキリ言っとくが、「金をかけていない状態」と
「ロハス」とか「スローライフ」とか「丁寧な暮らし」とかって、全く違うからな。
おまえんとこのお嫁さんがだ、デートの時はオシャレしてくるが、家ではUNIQLOのだるだるの服着てたとか、
一人暮らしの時は100均プラスチック製品ばっかりだったのに、結婚したら百貨店で陶磁器揃え出したとかなら判るよ。
そりゃ男の金が使えるようになったから欲望全開になったんであって、揉めてもしょうが無いと思う。
違うだろ。
単に「このバックなら1万円はしないな」とか見積もった金額が違ったわけだろう。見積もりミスだろ。
おまえのオカンは子どもと同じリンスインシャンプー使ってたかもしれないがな、染めてない黒髪でもお嫁さんの髪質違うだろ。
金遣いが荒いっていうのは、金銭感覚の違いというか、金を使うべきでないところに使っていると感じた時に言うセリフだろ。
別に良いんだよ。金使わなくても。
髪がボサボサでキューティクルが無くなって、上下ジャージで肌荒れのままコンビニ行くような女になっても良いんだったら。
金をかけてない状態と、丁寧な暮らしとか、清楚で可憐なお嬢様な状態ってのは、違うんだよ。
良い年した女がな、肌荒れしてなくて髪が綺麗だったら、そりゃ手入れしてるに決まってる。
おんなじようにな、離乳食だの自炊だのを無農薬だのオーガニックだので揃えたりとかな、
掃除は重曹を使うだの、わらで編んだ鍋敷きを使うだの、良いお茶を使うだのっていうのはな、
カネがかかるんだよ。直接マニーじゃなくても、時間を使うんだよ。
宝塚に行って化粧ばっちりしてバッグ取っ替え引っ替えしてる奴のほうがな、上手くオークション使って入れ替えしてたりとか、
近所にはUNIQLOにノーメイクごまかすマスクで出かけたりとかして、金使ってなかったりするんだよ。他で使うから。
おまえさんが書いてるようにな、カネ使わないってのは、
100均で揃えた食器で、スーパーの特売で買ったものを食べて、カットは1000円カットってやつだよ。
オマエのお嫁さんはQBハウスでカットしてるって恥ずかしそうに告白したりしてたか?
お客さんがたまにしか来ないからって、紙皿に特売の人参入れたカレーを食わせてくれたりしたか?
家具は全部ニトリで、あたしのブラウスしまむらで買ったの、とか言ってたか?
言ってないだろ。
地味清楚系って、地味ニトリ系とか、地味バリカン系とかじゃないだろ。
清楚だの綺麗だのってのはな、金がかかるんだよ。
まあ、モノを見る目がなかった、自分が見積もり下手だったと思って諦めるんだな。
人を見る目はあるみたいなんだから。
良い物使ってテンション上がったお嫁さんに作ってもらった美味くて体に良いもん食って長生きしろ。
著者はドイツ系アメリカ人。原著の刊行は1998年で、世界中の専門家の間に論争を巻き起こした。
本書におけるメッセージは、冒頭書き出しの1文に凝縮されている。
本書において私は、既存のヨーロッパ中心的な歴史叙述および社会理論をグローバル学的パースペクティブを用いて転覆しようと思う
「西欧=先進国、アジア=発展途上国」という、我々が慣れ親しんだ世界の図式は、たかだかここ200年程度のことに過ぎない。西欧諸国はむしろほとんどの期間を通じて世界の傍流にあった。本書において、著者はこのことを繰り返し強調する。
フランクは、まず1400~1800年の交易データを検討し、次のようなことをインプリケーションとして述べている(2章)。
最大の経済大国は中国だった。中国は絹織物、陶磁器、水銀、茶の生産などで圧倒的な輸出競争力を誇っていた(全地域に対して貿易黒字)。インドも負けてはおらず、綿織物という輸出産業があった。東南アジアも同様、香料や胡椒があった。一方で、ヨーロッパはアジアに対してほとんど何一つ輸出競争力を誇る製品をもち得なかった状態で、一貫して貿易赤字を計上していた。その結果、欧州から中国などアジア諸国への銀(貨幣)の流出が常態化していた。しかもこの銀も、もともとはアメリカ産のものを奴隷貿易でぶんどってきた物だから(当時、銀の主要産地といえばアメリカ大陸と日本ぐらいしかない)、ヨーロッパ自体は、実は世界交易について何ら価値創出に寄与しなかったともいえる。
また、大航海時代以降、海上ルートがユーラシア大陸の隊商交易にすぐさまとってかわられたという主張も、誤りとして退けられる。アフリカ周航のルートは陸上輸送とくらべて決してコストが安かったわけではなく、ポルトガルの喜望峰周りの交易も短期間しか続かなかった。(223p)
定量的には複数の歴史家の推計を引き合いに、アジア諸国の生産性の高さにも言及する。曰く「アジアは1750年において、依然として世界人口の66%未満であったが、世界総生産の80%を生産していた。つまりアジアは欧州、アフリカ、アメリカよりも生産性が高かったことが示唆される」(p305)
科学技術についても、近世以降は西欧がアジアを優越していたという”常識”を西欧中心主義の誤謬だと批判する。例えば、当時の「ハイテク産業」でもあった造船業。中国の船は、ヨーロッパよりずっと数が多く、かつ大規模で、長期り輸送が可能な代物だった(342p)。印刷業も、中国は世界のどこよりも早く木版印刷を開始し、1500年代の早くには5色刷りの技術が存在し、日本や朝鮮に技術を輸出していた。
そうにもかかわらず、「世界経済の中心国が16世紀はポルトガルで17世紀にオランダに移り18世紀にイギリスに映った」などという、まるでヨーロッパ人によって一貫して支配されていたかのような馬鹿な議論(ウォーラーステインの「近代世界システム論」])がまかり通っている。しかし「1688年に、アジア間の交易のボリュームは、いつかのインドの港からだけでも、すべてのヨーロッパ交易を合算した交易よりも10倍も大きかったのである」(p320)
であるならば、なぜ近代以降の世界経済をの主役はアジアではなくヨーロッパだったのか。この点についてフランクは6章で100ページにわたる議論を展開しているが、正直ピンとこなかった。その骨子は「アジアの景気循環的な衰退期がたまたま西欧の勃興期と重なった」というもの。まさかここで「コンドラチェフの波」を引き合いに出すとは思わなかった。これはひどい
その他、素人目に見て反射的に気になったのは4つ。
1.「一人当たり生産性が近代までアジア>西欧だった」という記述について。これの反証となるようなデータは俺でもすぐ見つかる(例えばアンガス・マディソンの推計「The World Economy」)。むしろ地域間の一人当たり生産性は、まだ優劣に決着がついていないとするのがおそらく妥当なところではないか。
2.貿易収支の考察について。1400~1800年までの2章の部分、「中国はどの国に対しても貿易黒字だった。その背景には圧倒的な輸出競争力があった」と著者は言い切っているが、ここもまた留保が必要だろう。中国の貿易保護策の影響はどうだったのか。そもそも、中国がそれだけ例外的な貿易黒字を確保していたのならば、中国のマクロ的な貯蓄率はかなり高かったといえるだろうが、その辺は、当時の中国史の中で言及はされているのだろうか。
3.フランクはまた「アメリカの豊富な銀資源を搾取してアジア世界の交易に割り込んだだけ。ヨーロッパ人自体に富の増大をもたらすようなものは何もなかった」と強調する。これも逆差別の感がある。資源や強力な輸出産業はなくてもヨーロッパ人は知恵を絞って自分のところに富を惹き寄せた、という解釈もできる。「ビジネスの仕組み」を考案した彼らの力については、それ自体十分競争優位になっている気がするがどうだろうか。
4・「オリエント」地域にあるヨーロッパの支配地域(インドにあるイギリスの所領など)を考慮にいれても2章の結果はロバストか。
5. では、近代以前のヨーロッパにおいて、オリエントに(経済力、軍事力、知識等で)負けているという認識はどれほどあったのか。NOならばそれはなぜ?YESならば、彼らはその状況をどういった風に克服しようとしたのだろうか。
なんか適当に立地条件を喩えるならば、
楽天市場を東京都の原宿に喩えるなら、Yahoo!ショッピングは大阪府の南のあたりかもしれない。
Amazonが名古屋市ならば、ビッダーズは兵庫県の神戸市くらいかなぁ?(あってるかな?)
ネットのどこに、店をだそうか迷っているよ。取り扱い商品は手作りの陶磁器にする予定。
しかし、どこも場所代が高いw
テナント料は楽天市場の5万円が一番高いけど、続いてビッダーズの2万円とYahoo!ショッピングの9000円。その次がAmazonの定額5000円プラス売上の15%。
集客力に見合うだけのテナント料ならば良いわけだけど、売れなければ大赤字だ。
良い場所探します。
追記、私の家は九州の端っこの田舎だから、普通に自分の家に商品並べているだけならば、夏と冬は全然売れません。
今年の夏は特に極貧だったよ。
でも、なんとかネットは繋げているからネットに希望を託したい。
忘れてたけど、ライブドアデパートの立地条件は何市にあたるかな?
自分でブログでASPやってみたことあるけど、売るって難しいよね。
逆に自分がお客様の立場ならば、ブログで買い物とかよほどのことがないと買いにくいもんね。