俺のチンチンマリトッツォ!
持病で定職就けなくて、バイトしながら不特定多数の同性にふんわり養われて半分ヒモみたいな生活してる男の友人(普通に異性愛者)いるけど、その人見てると結局出会いと人柄だと思う
別に性別関係なく、あなたがその境遇を抱えながら今の生活出来てるのはあなたの人柄の良さと素敵な彼氏さんや周りの人に出会ったからだと思うし、それは誇れるものだと思うよ
sansanっていかにも商社と戦コン出身者が作った会社って感じで勘違いオラオラ文化が滲み出てるよな。
界隈でブイブイ言わせてるあの人もそういう人なので合ってるんだろうなって思うけど、最近のいい人風のアピールと取り巻きのヨイショはなんなんだろうな。
あの挑発的ないけすかない文面、謝罪文の「言語道断」「驕り高ぶり」に代表される特徴的なワードセンス
等々炎上の条件として光るものをいくつか備えていたとは言えるわけだけれども
ネットミームとして10年以上生き残り、地震の起こる度に、3.11の日付が到来する度に
風物詩のようにスレッドが立つだろうことが当たり前に予期されるまでになったのには、
砂と言う字を分析すれば、石が少々混ざってる
避けられてないんだよなぁ
雷にうたれればみんな避雷人さ
マーク・ザッカーバーグって呼ぶの草
お前ら女性政治家のことブサイクとか言ってるけど、小池とか高市とか普通に可愛いし、豊田だって小動物系で愛くるしいルックスしてる。ていうか、辻元ですら実際に見たら愛嬌があって可愛いよ。 蓮舫なんか人妻の色気ムンムンだし、井脇もスローガンが上手い。
存在してるだけで迷惑なやつが結婚という免罪符があるだけでちょっと不遇なだけのまともな人、みたいになるのは違和感。結婚って言葉はマトモだけどやってる本人達が迷惑で異質で異常ならそれは異常。
こんな話題とても表じゃ出せないし、こういう弱小アカウントは溢れてるから特別目新しいものでもないんだけど
https://twitter.com/karaage_kun_sun
断っておくと俺は彼のことが大好きだ
全てのツイートが「ユーモアのない逆張り陰キャオタク」を感じられてとても良い
まず固定ツイートから好き、2年近く落書きすら追加されてないモーメントを恥ずかしげもなくピン留めし続けてる
「無趣味オタクが『絵描きワナビ』のステータスを手放せないでいる」様がありありと感じられて微笑ましい
大抵絵が下手
https://twitter.com/karaage_kun_sun/status/1483789868774084608
おい俺より絵が下手なのに人気あるやつ順番に殺すべ
https://twitter.com/karaage_kun_sun/status/1483793574521368576
しかし彼は「自分は絵がうまい」と思っているのでプライドだけは一人前
時々他絵描きが発する啓発ツイートをRTしているのもポイントが高い
数年前にジョギングした程度で元陸上選手面できるのは普通に尊敬できる
この何番煎じか分かんねえ手垢の着きまくったネタ流れてくるツイッタークソ面白えわ超面白いこれを初めて見たようにオモロイオモロイ言えて羨ましいわ、バカで
https://twitter.com/karaage_kun_sun/status/1483795437060767752
この悲しきモンスターを生み出した原因の一部はお前にもあるんだぞ
石を持ち上げて虫を見る趣味がある人は是非覗いてみてほしい
そりゃそーなるわ。同情する。
障害者問題として騒がれているテーマは身体よりも発達、精神、知的が深刻なことが多く、特に知的障害の問題が本丸になっていたりするね。
身体障害者の話だけ出してくる奴は、知的障害の方がどうしようもなさすぎることを分かってて無視してるんだよな。言及すると自分達のストーリーや辻褄合わせが崩れるから。死ねばいいのにって思う。
原初、バーチャルYouTuberは“着ぐるみ”であったように思う。
黎明期にはよく「ふなっしー」にも例えられていたが、ディズニーランドのミッキーマウスでもいい。彼らが着ぐるみであり中にアクターが入っていることは誰しもが認める事実である。しかし彼らを目の当たりにしたとき、中に入っているアクターの存在を意識することはまずない。ディズニーランドでミッキーマウスに出会ったら「“ミッキーマウス”に会えた」と素直に嬉しくなるのが自然な反応だろう。事実として認識することと、それを日頃の場面で意識するかどうかはイコールではないのだ。
バーチャルYouTuberも同様の構造を持っていた。彼女たちにはキャスト、所謂「中の人」が存在する。それはファンだってみんな分かっているが、見ないふりをしているしそもそも意識することもなく、もっと言えば意識“させられる”こともない。ミッキーマウスが自分からアクターの存在を示唆するような言動を取ることはない。そういう暗黙の了解と微妙なバランスの下で成り立っていたのが、かつてのバーチャルYouTuberであったと思う。
…「彼女たち」が“着ぐるみ”を脱ぎ始めたのはいつ頃からだっただろうか。たぶん、ある人気VTuberが引退をして、そのキャストが生身の配信者として活躍し始めたことがきっかけにあると思う。それ以降少しずつ、VTuberのキャストがバーチャルではなく生身の配信者として活動しているのを目にするようになった。
彼女たちからすれば一種の逃げ場なのだろうと思う。VTuberとしての活動はとかく制約が多く、強いられる仕事もあり、キャラクターの“着ぐるみ”を着ている以上常にある程度の嘘をつき続けて活動せねばならない。それでいてファン数の増大に伴って誹謗中傷に晒されることも増えていく。そんな彼女たちにとって、本来の「自分」としてありのままの姿で居られる生身での活動は、少なくともVTuberとしてのそれよりは気楽で休息になるものなのだろうと感じる。それでいて生身の活動にもファンがついてくることは偉大な先例が証明してくれている。それらを踏まえて、キャストが生身での活動を加速させるのは至極懸命な判断であると思うし、その判断や活動を責める気は毛頭ない。
しかし、私はオタクとして、“着ぐるみ”としてを好きになったのだった。確かに、人格という本質的な概念は“着ぐるみ”もその“アクター”も完全に同一である。それでも、私が好きだったのは“着ぐるみ”だった。そこに究極的には理由はないと思ってもらっていい。好きという感性には突き詰めれば理由など存在しない。
ミッキーマウスのアクターが、着ぐるみを脱いで生身でミッキーと同じようなグリーティングを始めたらどうだろう。見ないふりができていた事実を否応なしに意識せざるを得なくなり、アクターはもちろん「ミッキーマウス」の方だってもう今までと同じように捉えることはできなくなるのではないかと思う。端的に私の身に訪れたのはこの現象であった。
私はVTuberのオタクをやめた。いや、VTuberのオタクで居ることができなくなった。中の人を強く意識してしまうようになってしまっては、もはやVTuberをVTuberとして見ることができなくなってしまったのだ。本当はずっと応援し続けたかったし、何とか戻れないかと思考実験を繰り返したが、最後に残ったのは「受け入れられないものは受け入れられない」という理由のない感性からの拒否であった。
もちろん、これは私自身の感性の問題である。キャスト名義のアカウントにVTuberとしてのファンが多くコメントしていたりフォローしていたりするのを目にして、よく平然と受け入れられるなと私は正直驚いた。しかし考えてみればそちらの方が自然なのかもしれない。先に述べたように人格という本質はVTuberとしてもキャストとしても完全に同一なのだから、VTuberとしてを好きになった人が全く同じ意味合いでキャストとしての方も応援するのはむしろ当たり前とも感じる。ただ、私にはそれがどうしてもできなかったのだ。それは私の感性の問題であり、あるいは“着ぐるみ”という形にこだわるというある意味で古い価値観を持っているせいとも言えるかもしれない。いずれにしても、原因は私自身のみに存在することは間違いない。
VTuberのオタクをやめることは…推しから離れることは本当に辛かった。好きな趣味をやめることがこれほど辛いことだとは思わなかった。それでも、あれほど愛した推しが、界隈が「not for me」になってしまった今、そこに身を置き続けることが不可能な私が進み得る道は他になかった。そうしてやめて数か月たち、最近になってようやく心が落ち着いてきたところだ。それでも時折思い出しては胸が締め付けられることもあるが、それはもうこれから一生背負っていかなければならない十字架なのだろう。
繰り返しになるが、この文章を読んで貰った人に勘違いしてほしくないのは、「彼女たち」は全く悪くないということである。自分の置かれた環境や周囲の事例を判断し、自らの幸福追求のために人生の選択をしている。それを尊重することは憲法でも保証されているくらいだ。VTuberオタクをやめたのは、あくまで私自身にすべての原因がある。
この文章を書いた目的は別になく、ただの自己満足に過ぎない。自分の身に起こった経験を文章にまとめ、インターネットの海に放流することが、私にとってVTuber趣味に対する送別式なのだと理解してもらいたい。哀れなオタクが居たものだとご笑覧いただければ幸いである。
最後になるが、今でもVTuberの「彼女たち」のことを嫌ってなどいないし、むしろ今でも好きである。もう応援することは叶わないが、「彼女たち」の成功と幸福を心から願っている。