動物虐待とそれ以上の対人加害行為との相関については、たとえばhttps://www.mass.gov/files/documents/2016/09/qx/summaryofanimalabuseliteraturefinal.pdfこんな研究のまとめがあるよ。英語だけど面白いから読んでみたらどうかな。
それと動物虐待に罪悪感を感じない人とそれを繰り返す人ではまた違うと思うよ。罪悪感を感じないことは全てやらなきゃいけないなんてルールはないのだから。
たとえば私は信仰心がないから、誰かの墓を踏んづけることに罪悪感は感じないけれどわざわざそれをやろうと思わない。嫌がる人がいるのがわかっているし、やったところで得るものがないしね。
個人的な考えでは社会と動物虐待者のどちらが悪いとか正しいとかいうことを考えてもしょうがないとも思うね。第一、動物虐待に限らず何かに偏執的にこだわるだけでもそれ自体精神病的であるし治療の対象となりうる、それが他人に不快感を与える行為ならなおさら。他人に不快感を与える行為や他人の財産(ペットとか)の損壊を繰り返さないと生きていけないなら、それは不便だし、治した方がいいということになるよね。障害の「社会モデル」みたいなものだけど、まず社会があってそれから障害だとか精神病というのがある。社会で許容されるあり方というものに馴染めないから辛くなるんで、辛くなるから治療しましょうということ。そこでそういう社会が悪いんだ、社会が障害を作り出しているんと考える・言い換えることもできるけど、悪者を見つけ出してもつらさは解消されないでしょう?世間を納得させて風向きを変えられるような論があるなら別だけど(障害の社会モデルが持ち出されるのは大抵そういう論の見込みがあるときだけ)。
それと法律で愛玩動物と規定されている動物を虐待した時とそれ以外では当然法的な扱いが変わってきてそれは不公平に思えるかもしれないけど、法というのはどこまでいっても人間基準のものだからね。本質的には動物のための動物愛護管理法ではなくて、動物愛護しないと傷つく人間・文句を言う人間、それによって乱される社会を守るための動物愛護管理法ということ。だから人間に愛されやすい動物とそうでないものに区別があるのは仕方ないんだよ。そこらで殺されまくってる蚊とかハエとかからしたら腹立たしいだろうけどね。
来年で三十路になる独身男なんだけど、階段登ると息切れすごいし、昔ならメモせずに覚えれたことも今は必ずメモしないとミスに繋がる。夜の元気もないし、オールで飲み会やゲーム出来ない。
ナンでかな?
でも、それは結局俺たち健常者が「そういう歪な社会を作ってしまった」ということが原因であって
猫を殺すこと、犬を殺すことに罪悪感を抱けない人を責めるのは、
それは「同性愛者を悪とする社会でそれでも同性愛者を続ける人は頭がおかしいので差別されて当然」と言っているようなものだと思う。
「動物虐待者が殺人をしやすくなる統計データ」というものに関しても、
実は俺も前に調べてみたが(動物虐待者=悪であるという思想の正当性を探したくて)、
ロバート・K・レスラーなんかも、よく動物虐待=殺人予備軍の根拠として挙げられるが、
著書を読むとそんなことは欠片も書いてなかったり……
逆説的な言い方になるけれど、そういう世の中だから、つまり動物虐待が明らかな悪として糾弾される世の中だから、執拗に動物虐待を行う人は精神異常とされるのじゃない?
害獣とそうでないものの区別がいいかげんであることとか、量刑として今の状態が適切なのかという疑問には同意するけれども、「ちょっとイライラしてたときにぎゃあぎゃあ鳴かれてうるさかったから殴ったら打ち所悪くて飼い猫が死んじゃった」とかの一度きりの行為じゃなく、わざわざ殺すために野良猫を集めてきて殺し、その死体を見た人が嫌がるのを知ってて(あるいはそう予測して)公園とかの公共の場所に置く行為はそれ自体病的との判断を免れないものと思うよ。ある種の嫌がらせ・何かに対する復讐として動物虐待を選択する人が一定数いて、彼らが裁かれることはしょうがないとも思う。事前救済的な意味があるのだろうね。
私は面接が苦手だ。志望理由とかそういうのを書くのも嫌だ。でもやっぱり面接が一番嫌だ。ほとんどトラウマと言っていいかもしれない。
忌避感は中学生の経験がおそらく原因だと思う。そのころももちろん面接が嫌だった。周囲の高校はほとんど入試に面接があったが、少し遠いところに面接の代わりに小論文を課す高校があったので、私はそこを志望した。他を受けるつもりはなかった。
ところが中学校で突然学年全体で模擬面接の時間が設けられた。私は拒否したが、先生には「将来、絶対面接の機会があるんだから」と無理矢理参加させられた。
多目的室に学年主任とか教頭が座っていて、そこに生徒が4,5人入った。みんなすらすら答えていた。私は面接を受けるつもりがなかったから当然対策も何もしておらず呆然としていた。
私に質問が来た。たしか「最近気になったニュースは?」とかだった。世間話ならなんとか頭を回転させて答えられたかもしれない。でも無理だった。何も言えなかった。教頭か誰かが「おいおい、練習してきたの?」と苦笑いで言った。するわけない。する必要がないのだから。涙が出た。模擬面接が終わって、部屋の外で大泣きした。嫌だった。面接そのものも嫌だったが、なによりも、自分で嫌なものを回避する道を発見したのに、たいしたことのない理由で直面させられたのが本当に悔しかった。
いま私は無職だ。ほぼ奇跡的に面接を乗り越え入社した会社を4ヶ月で辞めた結果の今の境遇だが、再就職ができない。
退職の理由はいろいろ面倒なので割愛するが、概ね上司から理不尽な指導を受けたからということに起因する。理不尽。本当に理不尽が無理だ。
人と人が関わる中で自分は悪くなくても飲み込んでいかなければならない不条理もたびたびあるだろう。それは百歩譲ってよしとする。だけど、どうしてそれを「社会ではそういうこともある」と許容しなければならないのだろう。その態度の問題だ。理不尽なことには怒りをもって改善の道に向かいたいのに、なぜそれを許してくれないのだろう。
それは、きっと皆が疲弊しているからだ。環境が、それを許さないからだ。怒るにはエネルギーが要る。理不尽なことがあっても「世の中そういうこともある」と流してしまったほうが明日も生きていきやすくなる。
けれどそれは、どちらかといえば病んでいる、と私は思う。そして社会には、というか私がいた職場には改善へ向かう怒りを疎む空気があった。現場が回っているのだから、なぜ新人が口を挟むのかと。だから、辞めた。
仕事をしていた頃、駅までの行き帰りで何度も泣いた。中学生の頃感じた理不尽さがまた私の前に現れていたから。
上のような怒りを知り合いに表明すると「あなたはまだ若いからそう思うんだよ」と言われる。年をとるから、あんな風になるのか。それは、イコールではないはずだ。あれはただ、心が摩耗しただけのはずだから。私はなるべく心を摩耗させたくない。理不尽さに怒るのをやめたくないし、そもそも理不尽に出会いたくない。
せめて、理不尽さを無くすことに心を砕きたくても、それすら理解を得られない。
頑なに心がすり減るのを拒んだら、きっと何年も精神科に通う羽目になるのだろう。そんな人たちが周りにたくさんいる。
病むか、病む前に心を殺すか、結局その二択しか私の前にはないのだと思う。
うーん、そうか。
軽々しい事を言っちゃったかも知れん。ゴメンな。
でもその上で思うんだが、人間って別に性愛のみに生きてるわけじゃないじゃん?
変な例えだが、身体の相性が悪くても仲の良い夫婦として暮らしてる人たちはきっと大勢いて、俺の様に30過ぎても童貞の人間だっている。
勿論その人たちは性欲を発散するのに何も後ろ指指される事はないから気持ちの持ちようからして違う、と言うかもしれない。
確かにそれを言われると言い返せない。
俺が言いたいのは、性欲の事ばかり考えているとどうしても行動がそっちに寄っちゃうってことだ。
陳腐な答になるが、セックス以外に何か打ち込めるものを見つけるんだ。趣味でも何でも良いが、出来れば身体を動かす運動の方がより良いかも知れない。
私事で恐縮だけど、自分は何かに夢中になってる時ってほとんど性欲発散しないですむんだ。オナ禁1、2ヶ月とかしても全然苦じゃない。
勿論もしかしたら自分は平均より性欲が弱いのかも知れない。でも何か好きなことに課題を設定して取り組むと、性欲の方に気が回らなくなるというのは傾向としてあると思ってる。それに精神的にも前向きになれるから一石二鳥だと思う。
自分には「動物虐待」という行為が法律で罰せられなきゃいけないほど悪であるとは思えない。
猫や犬を殺しただけで犯罪者予備軍だったり、精神異常者だというのは差別とさえ思える。
だって、俺たちはゴキブリを殺すし、ガを殺すし、クモを殺すし、ドブネズミを殺すし、それが許されてる。
殺していい動物と殺してはいけない動物の境界線が知能だというなら、ドブネズミは相当知能が高いからおかしい。
有害性かそうでないかが境界線だというなら、ガやクモなんて野良猫ほど病原菌などの害は無いからこれもおかしい。
そんな当たり前のことを愚痴っても