占い屋に通う人達って、洗脳されているみたいで怖いとずっと思っていた。そんな自分が気まぐれに占い師にみてもらったのは、昨年の秋。その日はやたらと陽射しが眩しかった。
通りですれ違うカップルや呼び込みの笑い声が鬱陶しくて、溢れ出す疎外感を振り払うように「占い」と書かれた看板に足を向けた。雑居ビルに入ると外の喧騒が嘘のようで、冷んやりとした空気に一瞬ひるんだ。奥のほうにはもうひとつ「占い」の案内が出ており、ドアを開けると、ビル管理人の休憩所のような一室に、落ち着いた色の服を着た老婦人が座っていた。
「あらいらっしゃい、どうぞお座りになって。」
軽く会釈して席につく。
一呼吸置いたあと、老婦人がじっと私を見て言う。
「嘘はだめよ、あなたが損する。どうせ面談は今回一回切りかもしれない。とは言えそれなりの金はかかるのだから正直になさい。いいわね?」
これは手練れだ。彼女が長包丁を構える板前に見える。我が身の虚飾がバサバサと切り落とされていく予感がする。
「今から最低限のことを聞いていくから正直に言って。ただ、言いたく無いことは言わなくていい。出来るだけ言ってくれたほうがあなたにとって良い、それだけ。いい?」
相手のペースに任せ、コクリとうなずく。自分の表情がぎごちなく弛緩していくのが分かる。
老婦人の質問は、本当に最低限のことだった。氏名、生年月日と、相談したい悩みの大まかなジャンル。ジャンルは仕事、恋愛、結婚などいくつか示されたが、悩みが具体的に思い浮かばず、選ぶことができなかった。中年なのに独身で周りからは浮いている。しかし、有難くも趣味や定職があり、取り急ぎは食べられている。実際ここに飛び込んだ理由は、表通りが眩しかったから。それ以外無かった。答えに窮していると、それなら「お悩み全般」でみるわね?と促された。
占いにはいろいろな種類があるらしい。この老婦人は、九星気学というものを専門にしており、先ほどの質問に対する回答を方位盤というシートに当てはめて、今後の運勢とそれに対する心構えをサバサバと説明していく。
しかして内容は、非常に雑駁な言い方をすると、今後暫くは辛い時期が続くが辛抱しろ、周りの人間関係を大切に努力を続けろ、そうすれば大波を越えた後、勢いに乗れる、というものだった。
それ以外の細かい生活態度についてもいくつかアドバイスをもらい、五千円強を支払った。
文字にしてまとめると、本当に味気ないものに見える。しかし、人生というものが持ちえる波に対してどう備えるか、という視点は、今現在の状況や周りの体裁にばかりとらわれていた私には新鮮だった。
思春期の頃、カウンセリングに通ったことがある。そのとき私が受けたカウンセリングでは、カウンセラーに話すことで「自分のなかに既にあって自覚されていない答えに気づく」ことにポイントが置かれていたと思う。実際、そこで得た答えは、その後動き出すための支えになった。人生に迷った時に戻る原点、と言えば伝わるだろうか。
それに対して、占いにおいては、答えは自分の外にあった。鑑定師から示されたのは、大げさに言えばこれからの人生の地図だった。それもサーフィンに例えて説明してくださったことで、どの時点で用心し、どの時点で肩の力を抜くかという、今後の気構えに関するヒントを得ることができたと思う。
「占いなんてカウンセリングの一種だよ」という一般論があるが、実感としては別物だった。
愚痴ればいろいろアドバイスをくれる友人はいる。上司もいる。しかし、身近な人から耳の痛いことを言われると、ときにプライドが邪魔をして素直になれないのも事実だった。それが、自分の過去を全く知らない、かつ「鑑定師」というポジションの人からの指摘には、不思議と素直になった。
加えて、目の前の出来事に偏りがちな視点を変える機会を持つことで、視野を少し遠くに持つことができた。鑑定料金は決して安くはなかったが、同額の飲み会で同僚に愚痴って憂さを晴らすだけでは得られないものを得られたと思う。
それきり占いには行っていない。しかし、貰った名刺だけはしっかり取ってある。いずれまた機会があればみてもらうかもしれない、というぐらいには占いのハードルが下がっているのが現在のところ。
カウンセリングと違って占い師には手応えがない。あったとしてもそれは年の功とか長年のテクニック、大人としての経験が客に響いたときで、占い行為そのものには実感がわかない。...
面白そう