そういう人を寄せるフェロモンか何か出てるんじゃなかろか
呼んだ?呼ばれた気がしてここに降臨
古来、ケツの穴の小ささは心の狭さ、器の大きさに比例するという
大腸がん検査、それは「便潜血検査」、大腸がんとウンチョの細い太いには関係ない
ちなみにウンチョがのり佃煮(今、桃屋の「ごはんですよ」食べている人すまん)は胃の出血が原因だから胃潰瘍
便潜血検査は成人病検査の項目だ、つまりオッサン、40才以降毎年だったかな、必須科目だ
何をするかというと、自分のウンチョを目の前に持って来て、その表面をスティックでなぞるのだ
いつもは”こと”を済ませたら永訣のレバーをひねるだけだ
説明書にはトイレットペーパーを幾重に折って「受け止めろ」と書いてある
産まれ出る我がコを受け止めろとな
そうそうできる体験ではない
長い一本グソをすると手のひらのトイレットペーパーからはみ出るから肛門様に力を入れてねじ切る
ケツの穴の小ささは、その時にだけ役立つな
そして「我がコ」の表面をスティックでなぞるのだ
トイレットペーパー越しとはいえずっしりと感触がある我がコを目の前にする
まあ目の目に持ってこないと作業ができないが
その表面をスティックでなぞる、スティックには溝がありその溝にウンチョが均等に付着するように
便潜血検査の趣旨は、大腸をウンコが通るときに腫瘍から出ている血液が付いているかを調べることだという
テクニックはウンコの表面を撫でる、ウンコにぶっ刺してはいけない、撫でるようになぞるのだ
ここまで書けば十分だろう
嫌が応でもそのうちあなたも、朝からウンコを”こねる”日が来る
私はコネラーでは無いし、そのいわゆるスカトロジー的な思想も無い嗜好も無い
朝からウンコをこねた日は一日ブルーだ、見た目、手の感触、ひと肌のぬくもり、そして「臭い」
有休を使ってその日は休もうと思いたくなるが、理由が「ウンコこねた」では世間体が悪い
わかるな、皆まで言わすな、何も考えずに冷蔵庫に入れよう、考えるだけ苦悩が続く
救いたい
悩める増田たちを救いたい
あなたは生きているだけで尊重されるべき人間であるということを伝えたい
どす黒い内をさらした増田も皆、その文章に至る経緯を想像したら、何か素敵なことがあるような気がするのです(釣り煽りのたぐいでさえ)
他人を尊重する感覚が、自分で自分を尊重する習慣につながり、ひいてはよりよい明日につながると信じたい
ま、自分が救われたいんですけどね
そのスペックで相談所に行っちゃうような自分の市場価値を推し量ることもできないような女だからそんなクソみたいな男と会う羽目になんだよ。
小さいころからクソ真面目のいい子ちゃん優等生で来たけど会社入って狭い社会で日々過ごしていたら自分の一番なりたくない人種になっていた。
いつの間にかそうなっていた、というよりかは徐々に徐々に、そういうことに慣らされていったという方が近いと思う。
なんせ1年以上もかけて、じわじわと間合いを詰められていった。
これでもわたしは比較的社会規範とかそういうのを尊重しているつもりだし、まして裏切りや人目を憚るようなことは絶対にしたくないと思って、生きてきた。
それが、あれよあれよと事が進んで、終いには取り返しのつかないことになっている。
当人同士しか知らないのであれば、やっぱりそれはないも同じなのだろうか。
秘密の共有を楽しめれば、退屈な日常の刺激となっていいだろう。
罪悪感と背徳感と孤独感とで毎日のように泣いてるんだけど、どこをどうしたらこんなこと楽しめるんだろう。
聞いてみても、男の理屈はわからない。あちらもこちらも好きなんだと。
早く逃げたい。
A級グルメをおいしくいただく
↓
「ごちそうさま!」
↓
↓
「おげーげろげろ~!」
↓
吐瀉物をボウルに入れ、好みの材料を混ぜる
↓
鉄板の上に広げ加熱する
↓
かたまってきたら、小さなへら(ハガシといいます)でつついて楽しくいただく
お好みでまた腹パンしてもらうのもよいですね。
常に誰にも尊重されてないと感じてる人にとっては「じゃあ誰か俺を尊重しろよ」って話なんだよな
尊重し、尊重されるループに入るための愛情の貯金がないんだよ。
親から種をもらって適切な環境でそれを育てて、花が咲いて実がなって
初めてその愛情っていう実を他人に分け与えることができるんだ。
種ももらえず、枯れ果てた土地で成長せざるをえなかった人間には
これを自分勝手なクズと思うなら、そう思える人間に育ててくれた親もしくはそれに準ずる人の存在に感謝するといい。
愛情を与えてくれる誰かがいたはずだ、それに気付けなかっただけだと思うかもしれないが
「これが愛情なのだ、自分は大切にされてるんだ」と気づくためにも
生まれてから物心つくまでに、一番身近な人間に愛情の作り方・増やし方を教われなかった人間は
成長してから自力でそれを習得しようとしてもかなりの努力と苦労を伴うし、できるようになるのも難しい。
それに愛情を教わらずに学校に入った時点で大多数の同級生に疎まれいじめの対象になり
人間不信がエスカレートしていく悪循環が始まるからほぼ不可能と言ってもいい。
もし多少マシになったとしても、ずっと愛情を浴びて正しく導かれた人間には遠く及ばない。
そうやって大人になってしまったら、「持てる者」から奪うことでしか
愛情・尊重・思いやり、そういった類のものを得る手段がないんだ。
結局は初期の教育、幼少期にどれだけ安心感を持てる環境に身を置いているか
それに尽きると思う
「付き合っている人がいるんだ」
耳を疑った。
「えっ、そうなの…。知らなかった。ごめん」
今まで行った自分のアプローチがすべて空虚となり、恥ずかしさと同時に申し訳ない気分になった。
やさしく微笑むと、どんなヤツなんだと想像する隙もなく、聞いてもいないのに恋人について語り始める。
失恋直後の自分には残酷過ぎた。これ以上は詳しく聞けなかった。
今週末もデートするに違いない。先週末もデートだったに違いない。それどころか今までずっと週末はデート三昧だったに違いない。毎年クリスマスを一緒に過ごしていたに違いない。お正月は二人で初詣に行ったに違いない。家族ぐるみの付き合いをしているに違いない。ご両親も認める仲に違いない。「昔はここで一緒に遊んだっけねー」なんて言って、近所の公園でもデートしているに違いない。「あの先生はどうだった」「あのクラスメイトはどうだった」なんて話題が尽きないに違いない。修学旅行は一緒の班で回ったに違いない。運動会も同じチームで協力し合ったに違いない。体育のときはフォークダンスで手をつないだに違いない。バレンタインデーには机の中にチョコを仕込み合ったに違いない。席替えのとき、クラス替えのときは「一緒になれたらいいね」なんて言い合ったに違いない。同じ学校に進学するか話し合ったに違いない。受験勉強も励まし合ったに違いない。学校卒業するときは一緒に泣いたに違いない。卒業式の日、伝説の木の下で告白したに違いない。初めてのエッチは照れまくりだったに違いない。そして休みの日は猿のようにやりまくったに違いない。子どもの時から「結婚しようね」なんて約束しているに違いない。好きなこと嫌いなこと、すべてを知り尽くしている仲に違いない。今まで生きてきた分の、語り尽くせない思い出がいっぱいに違いない。
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
勝てない…。
「恋人がいる人を好きになった」「略奪愛」「彼氏持ちを落とす方法」「彼女持ちを落とす方法」なんてキーワードを検索して出てきた恋愛指南の記事を要約すると、こうだ。
「諦めずに良好な関係を続けよう。そして、ケンカするときを待とう。不仲を相談している隙に心を奪おう。長期戦は覚悟だ!」
そもそも、幼なじみ同士が別れることなんてあるのだろうか。あまりに強すぎる絆。越えられない壁。どうやったって今から相手の幼なじみになることはできない。
ふと、自分には何故こんな素敵で仲の良い幼なじみがいないのか。いらだちを覚えた。