せっくる
ある場で、ある女性が私を含む何人かに嘘をついていた。
私はそれが嘘だという事にすぐに気付いたが、その場で指摘して皆の前で恥をかかせるのはどうかと思ったし、そもそも私には関係ない話題だったので何も言わず聞き流していた。
しばらくして、彼女がこの嘘を私が思う以上の人数に吹聴している事が分かり、しかも私の親しい友人にも波及している事が分かったので、私は彼女に、これ以上嘘をつくのはやめるべきだという内容のメールを送った。
「何故その場で指摘しなかったのか」
「私が取り返しがつかない状態になるまで黙っているとは、あなたはなんて卑怯なのか。そんな人だとは思わなかった」
勿論、私はこの件を彼女以外の誰にも漏らしていないし、それはメールにも書いてあるのだが、そんなことは彼女にはどうでもいい事のようだった。
食卓にパックの納豆が出された場合「いただきます」は納豆をかき混ぜる前か後か、で意見が食い違い言い争う。夫はかき混ぜてから「いただきます」、妻は「いただきます」をしてからかき混ぜるべきと主張。互いの主張はこう。
夫(主に食べる側、料理は一応できる)「納豆はかき混ぜて食べるもの。かき混ぜたとき初めて納豆として完成する、つまり調理が終わる。だからかき混ぜてから『いただきます』するべき」
妻(普段食事を作る立場)「全部の皿を並べ終えて席に着いたときが食事の準備が整った合図なのだから、このときに『いただきます』するべき」
夫の訴えはそこからさらに「こちら〜になります」批判はおかしいという主張に発展。
曰く、料理は口に入るその瞬間まで変化し続けている。味にとことんこだわる料理人は、お客様の口に入る瞬間がベストの状態に仕上がるように皿を出す努力をしているという。例えばパスタのアルデンテというのはまさにそういう発想からくるものじゃないか。ならば料理が運ばれてきた瞬間はまだ未完成といえる。その間にも余熱でパスタが茹で上がっていて、まさにこれからお客様の口に届く瞬間にシェフが出したかった料理に“なる”わけだ。ウェイター/ウェイトレスがシェフの心意気を伝えるつもりで「こちら○○になります」というなら、それはむしろすばらしいこと。だそうだ。
どうでもいい。さっさと食え、メシが冷める。
別の言い回しにしているのだと思っていた。「うちのが」とか。
趣味のときに彼氏・ダンナの居ない人に彼氏・ダンナの話をすることや
なにか邪推されると思ってるんじゃないけど、一口で説明できない情報量の断絶がそこにはある。
(仲間内で一般化した話をしようとしても相手のこっち方面の情報量はこれだけ…と見切れてしまって相手が訊きたがってもないのにもっと正しく説明したくなってしまうのでそれを自制すると今度は5分と続かないわ)
自分は法律上「家族がこれ買ってくれた」みたいな呼び方だけど結婚してないときはやっぱり相方だの連れという言い方しかなかったと思う。
あと、自分はいつでもボッチサークルでしかないので趣味での相方(何の利益もかんがえずいつでも萌え話ができる人)を
つかまえていらっしゃるほうがもんのすごくうらやましいけど、
生活の相方をつかまえちゃった以上趣味の相方は一生ムリだな、と
ここでも自制してるとこあるよ。
だから言い換えを悪いとは思わないで欲しい。
昨日もやってだろうがーーーくそがーーー
男が若いやつ狙いだすとBBAの出る幕がなくなるからロリコンのレッテル貼って攻撃する
これは映像で語られる新しい文学の形だと思った。今後映像作品の制作に携わる人すべてが観なくてはならない。それだけの業を見せてくれる映画だ。
この作品を読み解く上でもっとも重要なキーワードは『風立ちぬ』である。私は前情報として、この作品はゼロ戦設計者・堀越次郎の半生と堀辰雄の小説『風立ちぬ』を組み合わせたものであること、および本筋は堀越の側から採られていることまでは把握していた。そこで抱くのは「ならばなぜタイトルが『風立ちぬ』なのか」という問いであった。
商業的立場に基づいたパッケージングと広報が随所で誤解を誘発させている映画であるが、それでもタイトルとオープニングは主題に正直だった。はじめにフランス語交じりのエピグラフを見せられれば戸惑いつつもやはり「この映画で私は文学をやりますよ」という表明と受け止めるほかない。ヒロインとの出会いのシーンではなんと——技師の卵・堀越次郎としては不自然極まりない——仏文学生のようなやり取りをみせられる。……オーケーだ。心を決めよう。わざわざ飛行機と大地震という刺激的なシーンの合間に配置したのはかえって本気が感じられる。こちらもそのつもりで観ることにした。
とはいえ、映像作品と文芸作品——殊に私小説とでは観る/読む姿勢に質的な隔たりがある。作者はこれをどう翻案してくるのか? ここでもキーワードは『文学』と『風立ちぬ』である。
多くの人が指摘しているように、劇中には『風立ちぬ』以外にも旧約聖書や『魔の山』といった西洋文学の中心作品からの引用がちりばめられている。しかしおそらくその意味や出典を理解することは求められていない。これは作者からのシグナルとして受け取るべきだろう。——あっ、今なんか文学っぽいこと言った。そして風が吹いた。そう感じた瞬間、我々は観客から読者へと推移する。実際、そのために尽くされた工夫こそが本作をこれまでにない映画として成り立たせている。
日本文学の伝統たる私小説とは一般には作者の個人的な体験を語ったものと定義されるが、その実は読み手が(多くは情緒面に欠陥を抱えた)〝私〟の情動を追いかけながらその文脈に自己を編み込んでゆくことで成り立つ極めて対話的な芸術形態である。ゆえにこれを映画で実行するためには観客からどうにかして主体性を引き出さねばならない。一体どうするつもりなのか。
一番にあるのは人物の造形と描写である。だいたい主人公からしておかしい。はっきりいってこんな身勝手な男には作者自身を除いて誰も共感などできまい。そのくせ彼の心情を伺えるのは原点である飛行機作りへの衝動のみであり、主題の一つに思える恋愛さえ観客からすればずいぶんな距離感をもって描かれている。この映画をいわゆる娯楽作品として楽しむのは大変な難行であろう。しかしそうした人物の〝得体の知れなさ〟と突き放した映像表現こそが観客を読者に変える上で重要な機能を果たしている。——いざ事件が起きた。けれども主人公がどんなリアクションをするのか、我々には予想もつかない。そこでその人物の行動と周囲の出来事だけが語られ、心理も感情も置き去りにされればどうなるか。我々は残る最後の手——自力でそれを補うことを選ぶほかない。振り返れば人物もまた文学を行う道具にさえ見えてくる。
しかしたくらみどおりに人を動かす要はやはり映像にある。シグナルである〝文学っぽい〟セリフに続くのは決まって突風と変事だ。さあっと吹く風に引きずられてカメラが空へ向かい、これまで観客が寄り添っていた主人公が突如フレームアウトする。視点人物の喪失が自然と不安をもたらし、そこでさらに思いもよらぬ出来事や主人公の行動を目にした観客は解決を求めて必死で事態を追うよう仕向けられる。こうして観客は気づかぬうちに主人公の心理を己の内に抱え込む。かくして映像言語による小説的描写が果たされる。みごとである。
そうして状況が収まり、不安が解消された次に訪れるのは〝平常〟である。正常にせよ異常にせよしばらくは事態の変化はなく、そうである限りは主人公の行動も我々の予想の範囲に収まる。主人公はどんな状況に置かれても自分の夢につながる道を一途に辿り、時には常識によって非難される。「だいじょうぶです。あなたの頭の中にある人物像はそれほど間違っていません。そのまま続けてください」そういう作者からの配慮を感じるひとときでもある。
このように、物語の進行は事件とそれに続く平常との繰り返しによって綴られている(それがふさわしい時代でもある)。
そして繰り返しの合間は主人公の夢を再確認する時間だ。飛行機への憧れを描くこのシーンは物語を区分けすると同時に、現実との対比を描く場でもある。印象的なのは、夢の中では誰もが等しく飛行機に乗り、笑顔でいるということ。理想が、道徳が語るものを主人公は明確に認めている。にも関わらず現実の彼はためらいを見せることがない。風は——? 空を飛んでいるかぎり、止むことはない。
先の見えない時代。戦前の文学の匂い。そして変事の前触れたる風。それこそが物語を支えるビートである。そのためにこの作品は『風立ちぬ』を必要とし、ゆえにこの映画のタイトルに『風立ちぬ』以外の選択肢はありえなかった。
(続く)
そうでもないだろ
キハ17はすわり心地が悪いと言ったり、夢空間に乗ると隔世の感があると言ったり、
夕張に行って炭鉱は人間の働くところではないからなくなって良かったと言ったりしてる