2013年08月22日の日記

2013-08-22

せっくちゅしたい

せっくる

卑怯者呼ばわりされたが納得いかない。

ある場で、ある女性が私を含む何人かに嘘をついていた。

私はそれが嘘だという事にすぐに気付いたが、その場で指摘して皆の前で恥をかかせるのはどうかと思ったし、そもそも私には関係ない話題だったので何も言わず聞き流していた。

しばらくして、彼女がこの嘘を私が思う以上の人数に吹聴している事が分かり、しかも私の親しい友人にも波及している事が分かったので、私は彼女に、これ以上嘘をつくのはやめるべきだという内容のメールを送った。

彼女からの反応は私の予想を遥かに越えるものだった。

「何故その場で指摘しなかったのか」

「私が取り返しがつかない状態になるまで黙っているとは、あなたはなんて卑怯なのか。そんな人だとは思わなかった」

勿論、私はこの件を彼女以外の誰にも漏らしていないし、それはメールにも書いてあるのだが、そんなことは彼女にはどうでもいい事のようだった。

直後、彼女はあたか自分被害者であるかのようにこの件を周囲に広めていたが、大半は彼女に同情しなかった。

しかし僅かながら、彼女の肩を持ち私を非難し始める人もいるのだから、世の中全く分からない。

HTL21アプデ

chrome+iWnnだとカーソル飛び直ってるけど、

他はダメだな

http://anond.hatelabo.jp/20130822202448

普通に「あの女の子って彼いるんだって」って言われたら恋人以外の意味ってないよね。

「あの女の子って相方いるんだって」って言われたら「なんの??」ってなる

現代おいては仰るとおり。

何十年か前にはどうだったんでしょうね。

逆に何十年か未来では『相方を「彼氏」と表現する人を(ry』とかなってたりして。

夫婦間で納豆論争勃発

食卓にパックの納豆が出された場合いただきます」は納豆をかき混ぜる前か後か、で意見が食い違い言い争う。夫はかき混ぜてからいただきます」、妻は「いただきます」をしてからかき混ぜるべきと主張。互いの主張はこう。

夫(主に食べる側、料理は一応できる)「納豆はかき混ぜて食べるもの。かき混ぜたとき初めて納豆として完成する、つまり調理が終わる。だからかき混ぜてからいただきます』するべき」

妻(普段食事を作る立場)「全部の皿を並べ終えて席に着いたときが食事の準備が整った合図なのだから、このときに『いただきます』するべき」

夫の訴えはそこからさらに「こちら〜になります」批判はおかしいという主張に発展。

曰く、料理は口に入るその瞬間まで変化し続けている。味にとことんこだわる料理人は、お客様の口に入る瞬間がベストの状態に仕上がるように皿を出す努力をしているという。例えばパスタのアルデンテというのはまさにそういう発想からくるものじゃないか。ならば料理が運ばれてきた瞬間はまだ未完成といえる。その間にも余熱でパスタが茹で上がっていて、まさにこれからお客様の口に届く瞬間にシェフが出したかった料理に“なる”わけだ。ウェイター/ウェイトレスシェフの心意気を伝えるつもりで「こちら○○になります」というなら、それはむしろすばらしいこと。だそうだ。

どうでもいい。さっさと食え、メシが冷める。

anond:20130822103843

相方と呼ぶ文化は故ナンシー関も書いていたが「芸人ごっこ」の延長。

http://anond.hatelabo.jp/20130822103843

ゲイだけど、周りにカミングアウトしてないし、男友達彼女がどうのこうのっていう話をするときがある。

そのときに「彼氏」とは言えないし「彼女」というと自分ウソつくみたいで嫌なので「相方」といってお茶を濁すことがある。

http://anond.hatelabo.jp/20130822103843

相方にしても、彼氏彼女にしても、なんか恥ずかしいか

別の言い回しにしているのだと思っていた。「うちのが」とか。

子供が生まれれば「お父さん」「ママ」とか。

元増田は「相方」を使っていた人に恨みでもあったのかな、と感じた。

anond:20130822103843

本当に申し訳ない上から目線だと自分でもおもうんだけど、

趣味とき彼氏ダンナの居ない人に彼氏ダンナの話をすることや

子供の居ない人に子供の話をするのがどうしてもイヤなんだ。

自分の持病の話と同じくらいタブーにしてる。

なにか邪推されると思ってるんじゃないけど、一口で説明できない情報量の断絶がそこにはある。

(仲間内で一般化した話をしようとしても相手のこっち方面情報量はこれだけ…と見切れてしまって相手が訊きたがってもないのにもっと正しく説明したくなってしまうのでそれを自制すると今度は5分と続かないわ)

なので相方呼ばわりでもなんでもしてくれるだけいいかなと。

自分法律上「家族がこれ買ってくれた」みたいな呼び方だけど結婚してないときはやっぱり相方だの連れという言い方しかなかったと思う。

あと、自分はいつでもボッチサークルしかないので趣味での相方(何の利益もかんがえずいつでも萌え話ができる人)を

つかまえていらっしゃるほうがもんのすごくうらやましいけど、

生活相方をつかまえちゃった以上趣味相方は一生ムリだな、と

ここでも自制してるとこあるよ。

から言い換えを悪いとは思わないで欲しい。

おでんが煮えました 

「お電話代わりました」の代わりに「おでんが煮えました」でも問題なくいける

きょうやってみた

http://anond.hatelabo.jp/20130822124829

なんでやねん」とか「空気を読む」、「ハードルが上がった」と同じで、芸人用語を一般人が真似して広まったんでしょうね。

ただ、相方って言葉を使われると違和感を覚えるのは普通感覚だと思うし、正直「は?こいつ芸人かよ」って思いますね。

http://anond.hatelabo.jp/20130822200239

男が若いやつ狙いだすとBBAの出る幕がなくなるからロリコンレッテル貼って攻撃する

そして若さの魅力をBBA自身が良く理解してるから若く見える努力をする

まり嫉妬自己保身

自分を変えたい!ネクラ自分卒業

みたいに決意して、喋るのも得意になったけど

演じるのって疲れるし、どっかでボロが出るし

自然体が一番だわ

ツイキャス問題点は、スパム報告のシステムだ。

コメントしてる人間同士で相互監視してるんだが

本来、エロコメントなどを弾くための機能なのに

ロリコンが集合してる配信だと、

「胸とかみせちゃ駄目だよ」みたいなコメントスパム扱いで消されて、そのアカウントが凍結されたりする。

これは逆効果ですぞ

明日飲もうって3人誘ったのに誰からも返事が帰ってこない

つらい

技術を育てるのはエロ って言うだろ

ロリコン女子中学生に群がることで

ツイキャス中の人も、今ひっしにトラフィック?を捌く努力をしてるだろうし

ミクシだってラインだってある意味出会い系だし

から変わらないよ。

若い女性の魅力で、男を集めて、会社が成長するのさ

ツイキャススレみてはられるURLみたけど、

はまる理由がわかった

文春よ、『風立ちぬ』に芥川賞を与えよ

映画風立ちぬ』を観た。

これは映像で語られる新しい文学の形だと思った。今後映像作品の制作に携わる人すべてが観なくてはならない。それだけの業を見せてくれる映画だ。

何をしたい映画なのか

この作品を読み解く上でもっと重要キーワードは『風立ちぬである。私は前情報として、この作品はゼロ戦設計者・堀越次郎の半生と堀辰雄小説風立ちぬ』を組み合わせたものであること、および本筋は堀越の側から採られていることまでは把握していた。そこで抱くのは「ならばなぜタイトルが『風立ちぬ』なのか」という問いであった。

商業立場に基づいたパッケージング広報が随所で誤解を誘発させている映画であるが、それでもタイトルとオープニングは主題に正直だった。はじめにフランス語交じりのエピグラフを見せられれば戸惑いつつもやはり「この映画で私は文学をやりますよ」という表明と受け止めるほかない。ヒロインとの出会いのシーンではなんと——技師の卵・堀越次郎としては不自然まりない——仏文学生のようなやり取りをみせられる。……オーケーだ。心を決めよう。わざわざ飛行機大地震という刺激的なシーンの合間に配置したのはかえって本気が感じられる。こちらもそのつもりで観ることにした。

はいえ、映像作品と文芸作品——殊に私小説とでは観る/読む姿勢質的な隔たりがある。作者はこれをどう翻案してくるのか? ここでもキーワードは『文学』と『風立ちぬである

多くの人が指摘しているように、劇中には『風立ちぬ』以外にも旧約聖書や『魔の山』といった西洋文学の中心作品から引用がちりばめられている。しかしおそらくそ意味や出典を理解することは求められていない。これは作者からシグナルとして受け取るべきだろう。——あっ、今なんか文学っぽいこと言った。そして風が吹いた。そう感じた瞬間、我々は観客から読者へと推移する。実際、そのために尽くされた工夫こそが本作をこれまでにない映画として成り立たせている。

日本文学伝統たる私小説とは一般には作者の個人的な体験を語ったもの定義されるが、その実は読み手が(多くは情緒面に欠陥を抱えた)〝私〟の情動を追いかけながらその文脈に自己を編み込んでゆくことで成り立つ極めて対話的な芸術形態である。ゆえにこれを映画で実行するためには観客からどうにかして主体性を引き出さねばならない。一体どうするつもりなのか。

語るな、見せるな、考えさせろ

一番にあるのは人物の造形と描写である。だいたい主人公からしておかしい。はっきりいってこんな身勝手な男には作者自身を除いて誰も共感などできまい。そのくせ彼の心情を伺えるのは原点である飛行機作りへの衝動のみであり、主題の一つに思える恋愛さえ観客からすればずいぶんな距離感をもって描かれている。この映画をいわゆる娯楽作品として楽しむのは大変な難行であろう。しかしそうした人物の〝得体の知れなさ〟と突き放した映像表現こそが観客を読者に変える上で重要機能果たしている。——いざ事件が起きた。けれども主人公がどんなリアクションをするのか、我々には予想もつかない。そこでその人物の行動と周囲の出来事だけが語られ、心理も感情も置き去りにされればどうなるか。我々は残る最後の手——自力でそれを補うことを選ぶほかない。振り返れば人物もまた文学を行う道具にさえ見えてくる。

しかしたくらみどおりに人を動かす要はやはり映像にある。シグナルである文学っぽい〟セリフに続くのは決まって突風と変事だ。さあっと吹く風に引きずられてカメラが空へ向かい、これまで観客が寄り添っていた主人公が突如フレームアウトする。視点人物の喪失自然不安をもたらし、そこでさらに思いもよらぬ出来事や主人公の行動を目にした観客は解決を求めて必死で事態を追うよう仕向けられる。こうして観客は気づかぬうちに主人公の心理を己の内に抱え込む。かくして映像言語による小説的描写が果たされる。みごとである

そうして状況が収まり不安が解消された次に訪れるのは〝平常〟である。正常にせよ異常にせよしばらくは事態の変化はなく、そうである限りは主人公の行動も我々の予想の範囲に収まる。主人公はどんな状況に置かれても自分の夢につながる道を一途に辿り、時には常識によって非難される。「だいじょうぶです。あなたの頭の中にある人物像はそれほど間違っていません。そのまま続けてください」そういう作者からの配慮を感じるひとときでもある。

繰り返される風景

このように、物語の進行は事件とそれに続く平常との繰り返しによって綴られている(それがふさわしい時代でもある)。

そして繰り返しの合間は主人公の夢を再確認する時間だ。飛行機への憧れを描くこのシーンは物語区分けすると同時に、現実との対比を描く場でもある。印象的なのは、夢の中では誰もが等しく飛行機に乗り、笑顔でいるということ。理想が、道徳が語るもの主人公は明確に認めている。にも関わらず現実の彼はためらいを見せることがない。風は——? 空を飛んでいるかぎり、止むことはない。

先の見えない時代戦前文学匂い。そして変事の前触れたる風。それこそが物語を支えるビートである。そのためにこの作品は『風立ちぬ』を必要とし、ゆえにこの映画タイトルに『風立ちぬ』以外の選択肢はありえなかった。

(続く)

http://anond.hatelabo.jp/20130822200535

そうでもないだろ

キハ17はすわり心地が悪いと言ったり、夢空間に乗ると隔世の感があると言ったり、

夕張に行って炭鉱人間の働くところではないからなくなって良かったと言ったりしてる

 

宮脇批判をすることで自分を大きく見せようとする川島・原の藁人形叩きに騙されてない?

http://anond.hatelabo.jp/20130822194506

でも、どんなに結果を出したとしても、曲者曲者だし、邪道邪道だ。千葉くんは一流にはなれない。

お前の定義ではね。

でも、本当にすべて自分の判断だったんだろうか?監督による誘導はなかったか?「チームのため」という圧力は無かったか

あったとして、だから何なの?

普段の指導教育はどうだったのか?

いっそ花巻東体罰問題があってそれが明るみになって欲しいんだろ?

済美の安楽といい、今年の甲子園特攻隊のような役割をやらされている選手が目立つ。

組織に属してるんだからあれぐらいやって当たり前なんだが。

上司死ねと言ったら死ね」という意味じゃないか勘違いしないように。

甲子園の喧騒が、軍靴の足音に聞こえるのは僕だけだろうか。

どっかの新聞は「議論を呼びそうだ」っていう言葉が好きだよね。

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