はてなキーワード: 限界効用とは
これは政治学よりも経済学の「価格弾力性」の理論で説明したほうがいいね。
人間は欲深い事に好きな子と会話ができたら、今度は二人っきりになりたがる。より密着したがりからだに触れられるようになると官能的な魅力に求める。その次、その次と求めていくと、1度提供されたその子との繋がりが魅力的に感じなくなくなる。
こういうことってよくあるよね。地元スーパーの安売りにありがたみを感じなくなったり、何度も聞いていた音楽が魅力的に感じなくなくなったり…。要するに「慣れ」や「飽き」が来ちゃうんです。
より強い刺激を反日デモに植え付けなければ、「反日」というコンテンツは面白くなくなる。だから、車をひっくり返したり、日本企業を襲撃したニュースが流れ、今回のようにしまいには関係ない国の企業まで襲撃される。
日本人よりも損得に敏感で貪欲な中国人なら、なおさら強い刺激を求める。「価格の弾力性」はどんどん小さくなる。コンテンツは飽きられてしまうのだから、飽きがこないように日々違う刺激を与え続ける必要がある。
日本の科学力が高いと自惚れてるけど、実態としては10;・文系が科学に無頓着10;・技術者的な人間に冷たい10;・政治は金払う気ない10;んだもん。伸びていくわけ無いじゃん。一部の最先端の人が文系と愚民と政治家と報道に足を引っ張られて潰される。結果、アメリカに出てくか伸びる前に摘み取られるだけ— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2015, 10月 10
というわけで、「ノーベル賞を取った日本人は誇りだ」と手のひら返ししてるマスコミや政治家や、理系をオタク扱いしてきたパンピー達に「調子いい時だけ媚びへつらってきてんじゃねーよ、死んどけよ」と一番思ってるのは理系寄りの連中だと思うよ?10;10;https://t.co/FnwdZ4EBPg— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2015, 10月 10
これ自分が理系寄りの人間のつもりで書いてるよね。経済学部卒なのに経済学程度で必要とされる数学すら理解出来ず、初歩の初歩たる限界効用逓減の法則と価格弾力性を取り違えるなど理系的センスが壊滅的に無いことを露呈していたはずだがいつから自分を理系寄りの人間だと思いこむようになっただろうか。やっぱり三沢文也のtwitterは別の世界線の青二才が書いているのではないだろうか。青二才はSF。
ただのフィーリング。
日常生活で見たことない難解な論理的な文章/情緒豊かすぎる小説をセンター試験でよく見ますが、
なるほど。考えさせられる意見でした。
ちょっと考えてみたけど、てにおは は個人的には、日本語を100マスターする
上での残り30だと思っている。
いわゆる 日本語でおk? とか 日本語で説明する = てにおは をマスターするであると
日本人だと、ていおはがむちゃくちゃ = その他教育も大体おろそか = 論理構造なっていない人が
多いということに繋がりやすいと思うが、論理構造を説明する上で、てにおはは手段でしかない。
動詞、形容詞、名詞、あとは文章のメッセージがしっかりしていたらそれをくっつける複雑な
個人的には、英語をこれだけ長いこと教育している国で英語がサバイバルの言語として
教えられない、あるいは、仮説思考的にどんどんjump in していくのが大切ってことを教えれないのは
このへんの完璧主義
(いいほうに完ぺきだったらいいけど、実は別にゴールに向かう上での完璧さではない
ところでの枝葉末節と幹を切り離せて考えられない、ただの過剰主義と一緒なのでは?)
個人的にこの言説、ずっと、どうしたらいいんだろうと思ってきた。
個人的には、同時並行をすると、どちらかがおろそかになるという意味なのだろう。
非常にセコい言説だ。
それができると次にいけるという、非常に強い”もっともらしさ”を持っているが、
実はそんなところにたどり着いている人はいない。
しかし、100%の日本語を話せる”気”になっている人はいるが、
本当にそんな人はいるのだろうか。
時に図を使い、表を使い、それでもわからない、という事が日本語でも余裕で起こりうる。
大体日本語をそんなに”極める”ことに日常の意識をはらっているような関心の強い人間は
大体の日本人も日本語なんて80、もしくは70%ぐらいしかコンプリートしていない。
70→80に持っていく暇があったら同時並行で英語を勉強することのほうが限界効用的には
高いはずだ。
そういった事をわからない、もしくは英語、無学習の人間に限ってこのようなことを言う。
個人的には、語学を習得スる際に、文脈で不確定性の中で切り拓くという思考自体が
そもそも脳を鍛えてくれる活動で、日本語にstick している暇があったら激しくこちらの
方が頭に効く。
漢字をたくさん覚える限界効用と、英語を仮説思考的に運用するプロセスの限界効用は
どちらがいいのだろう。少し考えればわかると思うが。
投票しないと非国民扱いされるらしいので、昔、政治学の講義でならった学説をいくつか紹介しようと思う。
投票することによる限界効用が逓減しているという説。この種の人々にとって投票に参加することで得られる効用の増分は少ない。投票することで効用が下がってしまうことすら有るだろう。若者に世代間格差を訴え投票参加を促すことは効用の存在を提示する試みと言える。(無党派層が怖いから)雨で寝てればいいのにという政治家の発言も雨降りのなか参加するほどでもないという有権者の性向を巧みに利用したと思うと合理的である。
※前回のエントリーで、経済学を知らない人に「効用」を金銭的価値や利己的な利益と勘違いして批判されたのだが、ここでの「効用」とは経済学用語のそれである。例えば、自分には痛みのある政策であったとしても社会がよりよくなるならば、ある投票者にとっては効用があると感じる可能性はある。つまり自分自身の金銭的利得だけをさすのではない、いう点に注意。
今回の選挙で言うと、自分にとって重大な争点が無いという点も、投票行動に対する効用を低下させる要因である。
また、小選挙区制により、多数の無効票が発生する点にも注目したい。
現状の政治に満足しているため、投票に行っていないという説。この説によれば投票率の低さは、ある意味では日本の政治が一定の成功を収めていることの証左といえる。あまりに問題が多い社会だと、投票率は上昇するだろう。それ以上に問題があると暴動やデモになる。
過激な政治行動に対する緩衝材となるので政治的無関心にも一定のメリットがあるとする説。みなが政治に熱心な社会は、本当に平穏で健全な社会だろうか。考えてみてほしい。渋谷をうろうろする右翼のクルマ、国会前の反原発デモ、インチキくさいアメリカの大統領選挙の集会。みんなが政治に参加する社会なんて怖いだけじゃないだろうか。つまり、政治的無関心は過激な政治行動を起こす層に対するクッションとして作用しているのである。
意思表明には多種多様な方法がある。「最低でも白票を入れて意思表明しろ」という意見もあるが、それはそれで一種の価値表明である。参加しないことで行われる意思表明もある。