はてなキーワード: 私塾とは
正直あまり良い話ではないのですが、貴重な経験であった事と、これを読む人にとっても、そういう事ってあるのだなという意味で、まあ他人の経験談って何かと考える時の材料になるので書こうと思いました。
っていうよりも自分の一つの記憶として一度整理しておきたいなと思ったってのが本当かもしれません。
あれは2008年の春の終わり頃だったのでもう3年も前ですが、ある個別指導の塾講師として採用され働きはじめた時の事でした。
それまで個別指導というのは家庭教師と同じ事をただ塾という場所でやっているものだと思っていたのですが、どうやら個別指導というのは会場に教壇や黒板のような物がなく、一人一人の生徒が個別に課題に取り組み個々の生徒の申し出に応じて講師が席まで行って個別に教えるというものだという事をこの時知りました。もしかしたら塾によって色々と違いはあるかもしれません。
だから同時に学年の違う生徒が同じ部屋で勉強できるので稼働率という意味では良いのかもしれません。それに講師の個々の技量もありますが、課題を制作するのは本部なので、その課題の出来具合も生徒の伸びが左右される、そんな所でした。
判ってはいたのですが、けっこうなハードワークで時には何十人もの小中学生のマシンガンのように「先生!」と呼びつけられます。朝は昼過ぎから始動なのでのんびりしていますが午後は終電少し前くらいまでが普通でした。
そんな中、接する事になった生徒や親、そしてそれに対する塾としての在り方として、どうしても嫌になってしまった事がありました。嫌な話をするのは嫌ですが、色々と考えさせられたという意味では良い話です。
一つ目は「え?」とビックリしてしまった親の話、まさかと思われるかもしれませんが親の中には「家に居て欲しくないから」という理由で塾に行かせている親がいるという事。本当にこれにはビックリしました。そんな発想はどこから出てくるのかと、ただ例え口でそう思っていると言わなくても態度や対応を見ていればそうとしか思えない。勿論断定するわけではありませんが「ああそうなんだな」と誰でも感じる事はあるでしょう。
それが僕の頭の中に浮かんだ印象です。
しかし、だからと言って塾として預からないわけにもいきません。なんか悲しくなりますよね。なぜ?なぜそんな親の手助けみたいな事をしなければならないのか?勿論塾として経営状況が素晴らしく良ければ、その事が子供にとって良かろうと悪かろうと塾としては生徒本人の「学びたい」「塾に行きたい」という意思を尊重すべきだと思うので、そういった場合拒否する事も不可能ではないでしょう。
そして、次これは小学5年生くらいの双子の女の子の話です。ちょっと記憶があいまいなのですが、たしかその双子の親は娘達を受験の必要な私立に中学に行かせたかったみたいなのですが、片方の女の子は良かったのですがもう片方の女の子があまり勉強が好きではない様子。やりたくなくてやりたくなくて仕方がなくすぐにイタズラ書きなど始めてしまい。「同じ学校に行けなくなると」と言っても「別にいい」という様子、そして母親は講師に対し「もっと厳しくお願いします」というもの。
だいたいにおいてそうですが「やりたい!」と思わせる事も大事ですが、色々とむずかしいものです。
最後に、いわゆる知恵の遅れた子供の話です。知能障害と言っても色々あるようにどう考えても今の制度では普通の学校ではなく養護学校などに行くことになってしまう場合もあれば「際どい」という場合もあります。比較する事がそのまま良いとは思いませんが、同年齢の児童と比べても明らかな差があってもある程度は親の裁量で普通の学校に行く、もしくわ養護学校側から断られる場合もあるでしょう。
例えば6年生で10÷2を計算する時に一々
2×1=2
2×2=4
2×3=6
2×4=8
2×5=10
あっ答えは10だ!ってならないでしょ?
この子は確か九九を覚えていなかったのか、知能の問題で九九を覚える事ができないのか不明ですが、一私塾でそこまで広範囲な性質を持った児童にまで対応しきれません。こんな状態であるのにも関わらずそこに、さらに親の「息子に遅れがある」という事を認めたくないというエゴが相まりその児童に対し塾として毎日何時間もただ右から左へ数字を移動するだけのような拷問にも似た作業をさせ続けるという事をしなければなりませんでした。
かなり主観としての表現なので、そんな事でも長い目で見ればその子の役に立つ勉強なのかもしれません。けれどその時の自分にはどうしてもそうは思えなかったのです。
もちろん、こんな嫌な話ばかりではなく、伸び伸びと成長していく子供達とかかわり、元気がだだ溢れる環境で働けるというのはとても素晴らしい事であるし、一定の生徒にとってはとても有効に活用できる場でもあると思います。
ただ自分にはやっていけないなという思いと、どうにもならないなという無力感に尽き。その仕事は辞める事にしました。
今この瞬間も塾という場を利用して我が子を苦しめている親がいるかもしれないのかと思うととても悲しいですが、そういう事もあるのだなと知れた事が自分にとってはとても良い経験になりました。
子供は親にとっての何なのだろう?
お手伝いしなさい! なんて命令はなんの為?
例えば、食器洗いにしてみても
いまだに「嫌だったのにさせられたなあ」と思いだします。
そういう記憶だけはある
「いい いい 俺洗うから」とか
誰かの家で御馳走になった時に
「御馳走になったし、皿くらい洗わせてよ」
などと言ってしまう
洗っていいよ!だとか言ってしまったり
お母さん!ありがとう!
でも、こういう作業は嫌がる人の方が多い世の中だから
してあげると喜ぶよ!って教えてくれれば
それで良かったのに
教育問題が取りざたされて久しい。
私はとある私塾の講師として授業を受け持っていて、担当は高校3年生が中心である。
高校生ともなれば、ある程度の学力のばらつきが出るのは当然であり、
高校の授業内容を全員が等しく身につけることは必須ではない。
有り体な言い方をすれば、良い大学を受験したい人はしっかり勉強すればいいし、
そうではない人は適当にやっていればいい。
実質的に教育問題とは、とくに初等教育の問題であると考えてよいだろう。
特に、生活のリズム、社会のマナーを身につける小学校という場について考えてみたい。
一般的なのは、教育系大学あるいは教員養成系教育学部をもつ大学に進学することである。
http://www.keinet.ne.jp/doc/dnj/rank/12/k205.pdf
を見てみると、教員養成系の大学の偏差値は50~55程度が多いように見受けられる。
これらのレベルの大学を卒業した学生が教員となり、現場で児童に教育することになる。
http://www.keinet.ne.jp/doc/dnj/rank/12/k203.pdf
自分の高校時代を思い浮かべてもらいたい。
偏差値70のトップレベル集団と、平均点そこそこの集団は違う。
具体的な人間を思い浮かべてみてほしい。
さて、教育特に初等教育は、親からの目が特に厳しい職業である。
小学校の教員のもとには毎日まさに鬼のようなクレームが寄せられるらしい。
そんな業種として、他に医療が挙げられる。
そしてその医療の担い手として大きな役割を果たすのが医師である。
医師になるためには医学部医学科に入学する必要があり、その偏差値は理系の中でもトップクラスである。
http://www.keinet.ne.jp/doc/dnj/rank/12/k210.pdf
によると、国公立の医学部医学科の偏差値は65~70程度が多い。
教育も医療も、周りの期待が大きい。耐え切れないほどの重圧がのしかかる。
教員の立ち振る舞い方で、児童はいかようにも変わっていく。それが初等教育であると考える。
かつて、私立医学部に入学するのに必要な偏差値は50を切っていた時代があった。
今では軒並み65程度まで上がっている。
医療の現場では、患者やその家族との信頼関係を作るように現場レベルでの指導が行われ、徐々に大学医学部での教育も変容しつつあるようだ。
教育も同じであるべきである。その時に求められるのは教員がいかに児童や保護者との信頼関係を気づいていくか。
それを念頭に置いた教員養成のための教育が、今の限られた教職課程の授業の中で行われているのか。
そしてそれを実現できうるレベルの学生が今の教員養成系の大学に集まっているのだろうか?
教育を本当に志す者のための教員養成機関になっているだろうか?
決して、就職先がない人の掃き溜めであってはならない。
強い信念を持った素敵な教員が増えることを願ってやまない。
もーちょいっていうか、一年持つくらいはある。しかし、いつになるやらね・・・。やらかしたからね、大家。
誠意とヤル気を見せるための保証金が首を絞めたねぇ。奨学金も年金も保険もあるっつーのに。
http://anond.hatelabo.jp/20110630235446
外資かぁ・・・。
外資は視野に入れてこうと思ってる。なんにせよ、また出資者捕まえられそうな
業界に入らないと。なにするにも、手持ち資金で勝負するのはきついわ。
俺も、生まれがいい奴らがにくいから
何とか貧乏人のガキに偏った思想と良質な学習環境を叩き込む場所を作りたいんだよなぁ。
気づけばモノになるガキは一杯いるはずなんだ。うまいこと、金持ちのガキから毟って
折角客種もそこそこいて「何とか二年以内に一匹東大ブチ込んで、カネ持ち用私塾として名を馳せてやる」
日本の場合さ、少し前までは大卒の社会人一年生になんか期待してなくて、自社で育ててたんだろ。
大学には受験時にどのくらい成績がよかったかを図るためのシグナリングの役割にしか期待してなかった。
どっかの研究でさ、政府による高等教育への投資と経済発展と相関はないっていうデータがあるんだってさ。
普通に考えると、質のいい学生をたくさん養成したら、質のいい社会人がたくさん出来るかと思いきやそうではないらしい。
社会を変えるのは、革新的なプロダクト、革新的なサービスを作るのは、官や学からじゃなく、いつだって民からだ。
アメリカ人ていったん社会人になってから大学に入り直したりする人多いじゃん。
日本はさ、そういう必要がなかった。
必要なものは会社が教えてくれた。
新卒採用、終身雇用、年功序列とセットで、社内での人材を育成もしなくなった。
学生に即戦力を望むが、即戦力を提供できるほど教育システムは変わってない。
上の世代に新人を育てる力はなく、新卒に社内を変える力もない。
かといって歩みを止めることもできず、壊れた自動車の外装を磨き続けるような、不毛さだけがある。
これが、閉塞感の正体だと思う。
極論だけ書く。
もう授業なんて出るな。出席取る授業は代返してもらえ。試験ができればそれで良いだろ。レポートは適当に友達と情報共有してなんとかこなせ。あ、でも、感謝の気持ちは、忘れないようにな。
その理由。
日本の大学の授業は、一部の例外を除いておおむねクソで、教授にやる気はなく、教える気もなく、一時間半という貴重な時間を浪費する。それは東大や京大でも同じだ。上から下まで基本的に授業は終わってる。だから、同じ内容で、もっといい授業を探そう。それはどこかの私塾にあるかもしれないし、書籍にあるかもしれないし、PodcastやiTunes Uにあるかもしれない。OCWってのもあるだろ。あと自主ゼミっていう手もあるな。iTunes Uは英語?まあ、それぐらい勉強しろ。「同じ内容で、最善の結果を得られる授業を探せ」。これがキーワード。だから、その授業が提供している内容が、最善と思えないなら、授業には出ちゃいけない。
バイトするな。これは厳しいかもしれない。なんせ経済がアレだから、親に仕送りしてもらえない人もいるだろうな。でもバイトはなるべくしない方が良い。
大学生のバイトは明らかに搾取だ。もっといい仕事はいくらでもあるのに、とりあえず働かなきゃ、とりあえず実績を作らなきゃ、とりあえず社会に出なきゃという焦りを利用して搾取してる。資本主義は搾取とか、資本家は搾取してるとか、そういう古式ゆかしきマルクス主義みたいなことを言うつもりはないが、バイトだけはやめたほうがいい。大学生の四年間という貴重な時間を空費するには、時給何百円だ千円だってのは、あまりにも見合わないぞ。
じゃあどうすればいいのか?
自分で仕事をもぎ取れ。この世にフリーランスとして関われる、割の良い仕事はいくらでも転がってる。あなたがこの春から通うことになる「立派な大学」に比べれば、しょーもない学歴の奴でも、立派に稼いでる人はいくらでもいる。確実に成長できて、自分の仕事を拡大できるような仕事を自分で取ってきた方が良い。
だから、覆すようだが、「自分の仕事を拡大する」ことの第一歩としてバイトすることは、むしろ推奨する。が、「その先」が見えないバイトはダメだ。たとえ大学生活の間だけでやめるつもりでも、きちんとその先、十年単位で食っていくためのキャリアプランを考えられるようなバイトに関わること。時給は関係ない。最初の時給がたとえ0円でも、のちのち何百万、何千万という富を生み出す仕事もある。もっとマッチョな言い方をすれば、今の時給がどうあれ、その「バイト」をのちのち何百万、何千万という富を生み出すような「仕事」に、あなたが、「変える」のだ。そういうバイトに関わることは、将来のリスクヘッジにもなる。
ここで扱うのは極論だから、「サークルには入るな」と言うけど、サークルを全否定するつもりはない。楽しければそれでいいじゃん、とは思う。実際、入るサークルによっては、結構、楽しい。
が。
いずれ就活のESに書くため、実績を作るため、みたいな打算で参加するようなバカは、サークルに入るな。それだけは言っておく。
だいたい、「サークルで○○をしました」なーんてESに書く野郎はどうして絶滅しないんだ?おまえのサークルが、おまえの世界のすべてだったのか?そんなしょうもない学生生活だったのか?残念な奴だな。そんな小さい世界で、チマチマ箱庭いじってるようじゃ、なあ。
それから、自分のプライベートタイムまで浸食してくるようなサークルもダメだな。
嫌々入ってるようなサークルのやめ方は、「四畳半神話体系」を参照のこと。
友達を作るのもダメだ。友達って「作る」ものか?無理すんなよ。ぼっちでもいいじゃないか。無理して友達を作ろうと躍起になってる奴ほど、ぼっちになるからな。かわいそうに。
ぼっちはぼっちどうしで集まるし、「リア充」がどうの、とか、気にしてる暇があったら将来のこと考えようぜ。
もう就活なんてすんな。残念ながら、就活する奴は負け組だ。結局「名も無き大学生」として生きるしかなかった、無名の学生たちの墓場だ。一人の人間として扱われたいのであれば、墓場に行ってはいけない。生きる道を選ばなければならない。そのために、大学生活四年間+αの期間には、できるだけ布石を打っておくこと。大人と一対一で渡り合うこと。企業と一対一で渡り合うこと。交渉すること。何があなたに利益をもたらし、金を生み出すか、知っておくこと。どういう仕事をすれば、何円の利益が出て、何円が懐に入るのか考えること。資本は、肩書きは、なぜ必要になるのか。何が信用を生み出し、それを持続させるのか。それらをよく考えよう。生きながらにして墓場に葬られ、石の下で腐らないために。
間違っても、「就活のために勉強」とかしちゃいかんぞ。「よりよい墓」を探したってなんにもなるもんか。
自分にはどんなオプションがあって、それらをどう行使すべきなのか、自分の頭でよく考えること。
「当然」とされていることを、疑うことから始めよう。
惑わされるな。
「誰にも当てはまること」なんて、ないんだから。
じゃ、がんばってね。
小沢氏関係の団体、不明朗な出入り15億円
小沢一郎・民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」が東京都世田谷区の土地を簿外の現金4億円を使って購入した2004年10月。小沢氏とかかわりの深い別の政治団体で、政治資金収支報告書に記載のない巨額の資金の入金があった。
自民党時代に小沢氏らのグループの政治団体として発足し、小沢氏が自民党とたもとを分かった後も存続している「改革フォーラム21」。同団体の銀行口座に同月、総額約15億円が入金され、約1か月後までにすべて引き出されていた。
その2年前の02年、当時、小沢氏が党首をしていた自由党は、同党幹事長だった藤井裕久・前財務相に、2回に分けて計約15億2000万円を「組織活動費」として支出していた。組織活動費は最終的な使途の詳細な報告を求められない。
「個人に支出され、どう使われたのか分からないのは納得できない」。05年2月、藤井前財務相への支出について、国会で自民党議員から質問が出た。背景には、支出された資金の原資が、議席数などに応じて国から配分される政党交付金だったという事情があった。
小沢氏が塾長を務める塾がある。「小沢一郎政治塾」。各分野の若手リーダーを育成する目的で、01年1月に開校した。
「毎年30人前後の塾生を公募し、年2回、東京都内で3泊4日の集中講義を行っています。年4回のリポート提出もあります」。塾の運営委員会委員長を務める大久保潔重参院議員はそう説明する。03年までは自由党の主催だったが、解党後は小沢氏の私塾となった。塾出身者10人前後が国会議員に当選している。
塾の運営費の一部を負担しているのが、「改革国民会議」という政治団体だ。政治資金収支報告書によると、04~08年、講師料や施設利用料などの運営費として、計約1億2890万円を支出している。
改革国民会議は、もとは小沢氏が率いた自由党の政治資金団体であり、同党が民主党との合併に伴い解党した03年9月26日、自由党から党の資金計約13億円の寄付を受けた。この中には、同党が国から受け取った約5億6000万円の政党交付金が含まれている。
同団体の収入は04年以降、05年の約3000万円を除いてほとんどない。政党の資金が小沢氏の私塾の活動費に充てられている――。そんな構図が浮かぶ。
改革フォーラム21、小沢一郎政治塾、改革国民会議。この三つの団体の事務所はいずれも、東京・紀尾井町のオフィスビルの同じ部屋にある。改革フォーラム21と改革国民会議の会計責任者は、同じ男性が務めていた。この男性は06年9月に亡くなり、葬儀委員長を務めた小沢氏は、人目をはばからず涙を流したという。
かつて、自由党などで小沢氏と行動をともにした渡辺秀央参院議員(改革クラブ)は、この男性のことを「党や関連団体の金の流れをすべて握る『金庫番』だった」と語る。「使途や金の流れは、小沢氏と男性の2人以外には誰にも分からない」とも話した。
今回、東京地検特捜部が摘発した陸山会の虚偽記入額は、収入、支出を合わせて計約15億円。これ以外にも、不透明な資金の流れが小沢氏のかかわる政治団体で見え隠れしている。
いつまで逃げ切れる事やら。
私はしょぼい社長業をしているが、どうもまわりの経営者連中を見ていると、苦笑いしたくなる奴が多い。
寄り合いがある時などに、講演者を呼んだりするのだが、人畜無害な人もまあいるんだけど、基本的には反吐が出る奴ばかりである。
中でも、発展途上国の貧困をリアルに伝えるおばさんを呼んだ会はとくにやばかった。まじやばい。
アフリカの子供たちの貧困を救え、とか言われたら、そりゃそうだと普通思ってしまう。反論できない。
しかし、そこには裏のメッセージが込められている。
「お前がうだつが上がらないのは、お前が努力しないからだ。彼らに比べればチャンスは平等だ。」という。
このメッセージは気付きにくいだけに強烈だ。あなたも「自分が駄目なのは努力が足りないからなんだ…」とか、思っていないだろうか。
実は実際のところ、成功において本当の自己選択可能な努力成分は微々たるものだ。一般的に『努力』と呼ばれるものは、自分で変革可能なものでは無い場合が99%だ。『努力』できるのも才能のうち、という奴だ。もっといえば、目標みつけられるのも運だし、見つける前に家庭環境から仕込まれるかどうかも運だ。
成功過程には、良い条件で生まれる運と、何かを担保にしたギャンブルがほぼすべてを占めている。(これに拒絶反応を示すなら、搾取対象として十分洗脳されている)
そして、勝ったらそれを可能な限り守る、それだけの話だ。
この事実を認めることは、成功者自身にとっても恐ろしいことだ。だから成功本の出版によって「自分の成功は人より多くの努力や工夫があったからだ…」という既成事実化と自己洗脳を行う。
しかし成功本などによる自己洗脳よりも効率的なのが、この途上国貧困層支援である。これは、世界レベルの社会貢献という形の懺悔や名誉だけでなく、自分の立場も守れるという、とてもパフォーマンスの良い行為なのだ。
直接的ないわゆる小作農である、国内貧困層に金を蒔いて救ってしまったら、自分の立場がそれだけ危ぶむことを彼らは理解している。
だから、グローバルな視点かつ盲目的に、そうした究極の貧困だけを対象とする。
幸せ観は人生ステージによって変化するだろうが、突き詰めると行き着くところは大体同じで、最大公約数を取るとかなりシンプルだ。
今でも最終的に家族に行き着く人は多い。しかし、かつての名士などになると、さらに地域の幸せまで考えたものだ。家族企業も家族の次に社員の人生を考えた選択をしてきた。国会議員や官僚は地元に利益を持ってくるために働いた。(これは職責からすると問題あるけど)
そうした隣人への貢献が、意識のグローバル化とともに、対象が寄り大きな貧困へとジャンプしてしまったと考えるとわかりやすいかもしれない。
一番貧困なのはどこかを探して、金を投入するのは全く間違い。こういうのは国レベルで行うべきスケールの話なのだ。そんなに気になるなら、JICA等、政府外郭団体はあるのだから、そこで労働力提供したほうがマシである。
そもそも、貧困の度合いをスケールにするのが間違いである。自分の身近さをスケールに貢献対象を絞っていくのがよい。その方が自分も生きやすくなるし、幸せにもなれる。
考えればもっとやることはあるはずだ。
対象を決めて、ただ金を適当に配るこだけでは問題があるだろう。
弱者層はよく『平等』を口にするが、実際は公正を望んでる人たちの方がダントツに多い。どっかの団体が無学を良いことに勝手に便乗しているだけだ。
本当に自由競争が正義だと思うなら、運が無いだけかもしれない人たちの、確率を底上げしてやらないと機能不全を起こすだろう?それを怠るのは欺瞞だよね。
「(グローバル視点で見れば)日本に格差ははない」とか、醜いこと言ってんじゃねーよ。ばーか。
べつにだれに追い抜かれようとどうでも良いだろうが。隣人さえ幸せならさ。そういうのって返ってくるぜ、自分にさ。広く種蒔いてれば、それだけ広く返ってくる。宗教っぽいな。でも人間ってそんなもんだし。結果的に再起不能も防げるし。悪いことなんかどこにも無いだろう。
うーん、残念。しかし、「私塾」というイメージから言えば、その『教科特別講師』は「志無き」生徒の面倒を見る謂われはない(本来それは教諭の仕事)なので、公教育内でも「志無きものは去れ」が可能な授業であって良いと思う。そもそも希望者全員に受けさせるというわけにもいかないだろうし。
アカポス志望者に企業を立ち上げさせ、彼らにそれがうまく運営できるかというと、多分無理だと思う。逆にうまく運営できても困る(それなら民間にはもっとうまく運営できるはずだし、その競争に勝てるくらい優秀な連中には、そもそもそういった努力より本業の研究にその能力を注いで貰いたいから)。だからこそ、半公務員扱いにして身分を安定させたいわけだ。3年なり5年なりの契約で複数校に所属するものとし、研究日も設ける。
考えてみれば、英語のネイティブを語学講師として配置してるような感覚であり待遇である、と考えてみれば非常に分かりやすいかもしれない。
「志なきものは去れ」
の前提があったからだと私は考える。
したがって、私塾は公教育とは相容れないものであると考えている。
当初、私が考えていたのは、1980年頃には既に言われていた産業転換にさしあたって、
「教育=子供が受けるもの」という発想からの脱却が不可避だと考えていた。
それは、生涯学習などという生ぬるいものではない。
例えば、正規労働者の基準的な週休を3日にし、休日の3日のうち、2日を語学学習にあてるといった、
例えばITエンジニアは週休を3日にし、
増えた休日を新技術の習得といった能力の最適化に使ったほうが、
全体の生産性があがると考えている。
これを社会主義的というかどうかは、自分でもよくわからないのだが、
こうした機能を、国が用意するか、民間が用意するか、悩むところではある。
国が用意すれば予算の面で心配はなくても、速度が遅い。
民間が用意すれば速度は速くとも、利益がでなければ消滅する。
では、三セクか?と問われれば、
という経験則がある。お互いの良さを打ち消すだけである。
以上を踏まえて、子供の教育に関していえば、私塾の運営母体となる企業をアカポス志望者で立ち上げて、
学校の場所を借りて(賃料は学校の収入となる)私塾を開くといった杉並区方式が一番現実的ではないかと思う。
(後述)
一晩置いてみたが、アカポス志望者でドイツの職人ギルドのようなものを作って、
理研や民間研究所を相手に派遣会社のような請負業務(テクニシャンなど)をやると良いのではないか。
あくまでアイデアに過ぎないが。
(おまけ)
ところで、こういう話を知っているか。
講演を聞くことができるのは、年間ウン十万円の会費を納めている人だけだ。
ところが、そのコンサルタントのお弟子さんの講演は一見さんでも1回1000円で聞ける。
これはイベントビジネスと同じで、「チケット売上 - (ルーム代 + 師匠への上納) = お弟子さんの取り分」だ。
で、それだけじゃない。
このお試しセミナーを通じて、有名コンサルタントの年会費ウン十万の会員になったら、
お弟子さんにフィーが支払われる。
1990年くらいの「朝生」で学校教育について話し合ったとき、戸塚宏氏が
その伝で自分なりに考えたが、学校教育を教える側の視点で生徒達に、
・親や大人や社会の言うことをきくこと!を軸にする教育なのか、
・親兄弟だろうが社会だろうが、出し抜いてとにかく生き延びろ!を軸にする教育なのか
で立場が変わると思う。
私塾は黒船・外圧という回答のない未曾有の国難にどう立ち向かうべきだ?を議論する場であった。
今の学校教育を従来並の「体制順応者」を育成することなのか、地球上のどこに行っても生きることの出来る人間を育てるのか、どっちだ?と聞けば、そりゃ文部科学省は前者を言うに決まっている。
云々。
そのアイデアは、こちらのアイデアの「『教諭』でなく『教科特別講師』という身分」を活用する現場のイメージと、発想の根を共有し、従ってリンクさせることが可能なのではないかと思う。
現在初等中等教育の現場で、現場がもっとも悩んでいることに一つに「総合学習」枠が活用しづらいという問題がある。少し調べれば分かるが、これはまさに現在の公教育内に「私塾」を作るという発想に近いんだ。でも現場にこの枠を活用できる余裕がない。
そこで、「総合学習」枠で『教科特別講師』がそれぞれ小さな私塾を作るというのは、現在の教育制度の延長線上で実現可能な、そして効果のあるあなたの発想の具現化ではないかと思うがどうだろう? 反応乞う。
元増田は「アカポス志望者の経済的安定のために」という視点で、
議題を提起してくれたわけだけども、
教育の話題が挙がるたびに、
もうちょっと大局的な見方が出てきて欲しいと思っていた。
以前、
「誰に何の教育をするか」
といった根本から考えなおさないといけないのだね。
と書いたのだけども、反応がなくて非常に寂しい。
せっかく「教育の三要素」を整理したうえで問題提起までしたんだが。
「日本の立ち位置」とか、意味不明なことを書いている人はいるし、
「無駄こそが文化」とか、脳花もいい加減にしろよ、と思う。
結局、
誰に? | 子供に |
---|---|
何を? | 教科書を |
という枠組みから抜け出す発想が出てこない。
いくら現場に優秀な教師がいたところで、
あるいは、博士号を持つような優秀な教師を現場に配置したところで、
この枠組みから抜け出さなければ、
それらは機能不全に陥ってしまう。
現行の枠組みにおける「正しく教育された人間」像は実に陳腐だと思わないか。
そして、そのような陳腐化された人間に、
次世代の教育の一部を任せるのか、といった問題が付きまとうのだ。
では、どうするか。
過去の
といった「誰に何の教育をするか」の
パラダイムに続くものを考えないと、
教育予算が益々減り、一方でアカポスの減少・不安定さから院卒・オーバードクターが余ってたり講師で食いつなぐ人が多い日本なわけだが、
という政策を提言したい。
「教員免許更新制」はハッキリ言って百害あって一利無しの愚策であり廃止されるのが妥当だが(根拠はググれ)残念ながら現在の教師の育成システムでは保護者から「教育への信頼」を取り戻すのが難しいのは事実で、だから教育改革は必至。ただし予算はカツカツ。そこで上の政策。余っている頭脳を、必要な所へ。「研究の最前線」で活躍している人が小中高と連携する。スーパーサイエンスとかそういう政策よりも遥かに実になる現実的なプランで、しかも予算は安くて済む。そして、準アカデミーポストの人が教育の最前線に関わることにより、教育への信頼は復活する。
この政策のミソは、身分が「教諭」とか「常勤講師」でなく「特別教科講師」という新設身分であること。まずは大学の多い府県などを特区指定して、そこに、定数外/常勤で配置する。のちに「教諭」になるのでなく、あくまでメインは「研究」であることが保証され論文を書き、将来はアカポスを得る予定の人が一時義務教育・初等中等教育に関わることが大事。
ここには書ききれないが、実現すれば様々なメリットや相当な効果が期待できる。とりあえず研究職を目指す人の生活の安定も含めて検討すべき政策だし、その意味では急いで検討を始めたどっかの私立進学校とかがパクってやり始めるのも可。その場合卒業生中心に声をかけたりすることになるんだろうな。
(追記)
ちなみに、この話題を自ブログでなく増田に放流したのは、自分の立ち位置を予断に含めて欲しくなかったこともあるけど、現在の増田が非常によいブレストの場になってると考えているから。未熟なアイデアを、しかも小出しみたいな形で出してるのはそれが理由。なので「私塾良くね?」みたいなレスポンスはとても楽しい。ありがとう。あとブクマが増えてることにも感謝してます。適宜そちらにも反応返せたらと思います。そちらのみなさんもありがとう。(反応返してみた:http://anond.hatelabo.jp/20090219230021)