はてなキーワード: 姥捨山とは
昔話が好きかどうかではなくて、そういう考え方が好きですか?という意味で。
いつも知識のブラッシュアップに余念のないはてなーの皆さんは、よくそれについていけなくなった人に引退を勧告しているように思います。
引退した人をどうするおつもりなのでしょうか?
職員さんは家庭を持っているのでしょうか?
仕事として他のお家でケアできなくなった高齢者をケアしたあとに家ではどんな生活を?
まさかとは思いますが、家にも手のかかるご家族がいて勤務時間外に見ているということはないですよね?
それとも専門に扱っているくらいの人だから仕事と家庭と両方しっかりやっていっても崩壊するような心配はない?
ではどんな形が相応しいのでしょうか?
考えてもよくわからんのですよ。
聞いている場所がまだ現役バリバリの人ばかりの場所だから想像しにくいかもしれませんが…
ただ私は誰にでも手厚く当たれないならいちばん大事な人を最優先にしてそれ以外の家族には目をつぶってもらうというのが苦手でね。
仕方ないからそれぞれの人に平均してできる限りのことをやってあげて、対象者が増えないように考えるかな。
子供を安易に作らないことで目配りしなくちゃいけない人を増やさない。
それぞれの実家は年金その他があってある程度の暮らしができるだろうから、たまに顔を出して様子を確認して、あとは自由にやってもらう。
ただ周りを見ていると家族の一部の人に対して家の中でも外でも悪態をついて心のバランスをとっている人が結構いるみたいでね。
ああこれはストレスのかかった現場に起きるいじめの構図そのものだな、と思うんだけれど、
やっている人は家庭で一番弱いものを中心において生活しないと弱すぎて死んでしまうから仕方ない、いや当たり前のことなんで、そちらから文句が出ても気にしないなんてことになるみたいで…
これは正解のないなにかなのかもしれない。
でも姥捨山におじいさん、おばあさんを捨てに行く考え方がとても嫌いなので悩み続けてます。
はてなーの皆さんは頭がいいのだと常に仰ってますから答えをお持ちなのかもしれない。
お知恵を拝借できませんかね?
父親は今70歳なんだが、59歳の時に脳梗塞をやってそれから一応車椅子には座れるけど半寝たきりのような状態だったんだけど、
今年の初めにインフルエンザで入院してから完全に意思の疎通が取れなくなった。
一番最初に入っていた急性期病院のころはまだ反応があったんだが、
その後転院した所がいわゆる老人病院ってやつで、手足が縛られて一日中寝かすようなところで、あっという間に悪化していった。
元々、在宅で介護していたんだが、完全に寝たきり状態になってしまった父親を家で見るのは厳しいだろうという話になり、
要介護度が高く緊急性が高いというのと、色んなコネを使って近くの特養に入れてもらえることになった。
特養は姥捨山のようなイメージだったのだが、独特の匂いは気になるものの、とても清潔にみなさん暮らしていて、
入居施設の介護職から始まり、生活相談員や居宅ケアマネも経験してきたけれど
たくさんの死を見てきたし、たくさんの奇跡的な回復も見てきた。たくさんの涙とたくさんの笑顔を見てきた。
高齢者やご家族の笑顔があれば頑張れるっていつまで思ってたっけ。でも感謝の言葉は素直に嬉しかったし、今まで介護の仕事を続けてきたことに後悔なんてしてない。
ずっとプライドを持ってやってきた。
不安定なところにプライドだけじゃなく、知識とか経験とかいろんなもの積み上げてきてたみたいで。
給料や待遇、社会的地位を上げてほしいとかそんな単純なことが言いたいんじゃない。
いつまで看護助手って言うの。
医療ドラマはもう見飽きたから介護ドラマなんでもっとしないの。若手俳優やアイドルは出てくれないの。
レクリエーションって何なの私が高齢者になった時も同じことするの。
そこのヘルパーは自分が1時間訪問するだけでどれだけの介護報酬が発生してるか知ってるの。
それなのに自分はそうならないと思っているの。
今40代以上の人は、この先死ぬとき誰かに看取られて死ぬんだろうなという見通しが立ってる人と、そうでない人に分かれる。
家族もなく60代〜70代のひとりぼっちの生活には、なにひとつ張り合いはないし心残りもないだろう。そんな状態の人間は誰かに看取られるより静かに死にたい。
今の人の死は、富裕層に合わせた死に方しかないのがいけない。「孤独死しないで!」というのは孤独死しない人達の言葉だ。どん詰まりの人間は孤独死上等なのだ。むしろ死んだ事すら忘れてほしいわけだ。だから自殺だとかになってしまう。それが悲しいのは孤独死しない人達の感情だ。
で、つまるところ孤独死の問題は体の問題だ。死んじゃった体がその辺に転がってると具合が悪いわけだ。今の時代に姥捨山では大炎上してしまうし、八方塞がりだ。