容認する人の割合が減っているそうだね。
切り崩されてるのは、真ん中らへんの人じゃなく、ネトウヨ、極右だろうね。
朝鮮半島有事が引き合いに出されたことで、
となったんだろう。
実際、韓国が北朝鮮に蹂躙されたら、日本にとっては状況が悪化したことになると思うんだけど、
ネトウヨはそんなことは考えられないんだろうね。
使えるエネルギーも少ないし断熱効果のある脂肪も少ないし発熱する筋肉も少ない
BMIには健康な値ともう一個、美容BMIっていうのがあってさ
前者22で後者は19以下
1.言われなくても一番嫌がられる仕事をやる
2.上に対しては敬語
4.楽しそうに笑う。元気そうにする
5.会社に朝一番にきて机をふく
7.上が好きなお茶の濃さやタバコの銘柄を覚えていてすぐ買ってくる
10.明日の朝までにこれやっといてと言えば、徹夜でもやってくるかわいげがある
この10個だけやれば可愛がられるから、今年入ったヤツは絶対やったほうがいいぞ?
出世もするよ、きっと。
正直一話を見た後には少し肩すかし感があった。
映画版ピンポンの完成度の高さや、鉄コン筋クリートのアニメーションが頭の中にあったからだろうか。
それ以上に私の期待を裏切ったのは湯浅だった。
湯浅は私たちの見えないピンポンを見せてくれると勝手に期待していたのだろう
湯浅はこの程度じゃない。そんな事を周りのピンポンを見た人に言って廻った。
本題に戻ろう。
四話を見たんだ。ついさっき。
今まではピンポンという枠の中で湯浅が遊んでいたように感じていたのだが
これだよこれ!!!!!
何回もピンポンを読み直した私たちが想像もつかないピンポンの世界を見せてくれた。
本当にありがとう。そういう気持ちで今これを書いている。
ここからは私の勝手な予想なのだが、今後のピンポンは確実に一話くらい爆発した回が来ると思っている。
今は確実に全体の動きのスピード感をあえて抑えているように感じるのだ。
その時の圧倒的なスピード感のために今はスピードを抑えているような気がする。
私は勝手に期待してそれを楽しみに待っていようと思う。
一昔前のユースカルチャーだった洋楽やロックだのの衰退が著しい
http://xkxaxkx.hatenablog.com/entry/2014/05/01/164026
みたいなのを見た思ったけど、自分のころまで(現在27歳)にはこういう商売として採算が合うカウンターカルチャーみたいが瀕死ではあったけどギリギリあったので、
今のネット右翼やニコニコシーンみたいにネオナチじみた直接的な政治意図や政治動員を経ないである程度は音楽だの文化だの懊悩だのみたいなのに触れることができた、
みたいなのをそのうち説明いないといけなくなるのだろう。
(さらに昔のウッドストックだののころの反戦運動みたいなのはよくわからない)
ただもう自分のころはかなりIT系の合理化が進んでいてちょうどNapsterやWinampが技術革新ってもてはやされて雑誌が潰れ始めたころで、2chも草創期でネット右翼はきちんといたんだけど。
良く居る顔だもんな。俺のねえちゃんが高校の時こんな感じだった。
先日、ネット上へ公開された韓国船員兵役逃れ論説、UW論説とでも言えば良いのだろうか?
公開された時点からこの論説について語ってる連中をウォッチし続けていたのだけれど面白い特徴がある。
何とまあ意外にもいわゆる韓流ファンがブログへ転載したりリツイートなどをして積極的に拡散している。
大方の予想通り嫌韓派や在特会、ネトウヨが面白がっていいように改変して拡散してるのは予想外でも何でも無いいつものことなんだけど韓流ファンはそういうのを黙殺する傾向にある。
事実、地下鉄事故に関する情報は積極的な拡散を控えているようだ。でもなぜかUW論説はブログへ自ら書くほど積極的。この差は一体何なんだ。
更にウォッチを続けてると韓流ファンは総じて兵役制度自体にネガティブな意見が多いことがわかってきた。
なるほど。韓流アイドルが兵役へ行ってしまい見ることができなくなるから兵役が好きじゃないのか。
つまり、UW論説は韓国を批判する記事でありながら韓流ファンとしては気に入らない兵役を批判するための材料として使えるわけだ。
差別的発言や行為ってものすごい非難されたり罰を受けたりして、差別主義者を差別すると自己矛盾が生じないか?と常々思っていたのだけど、なんとなく自己解決した。
たぶん世の中には"いい差別"と"悪い差別"があって、例えば人種差別は悪い差別だけど、能力による差別は(多くの場合は)いい差別に分類される。
あといい差別には悪や穢れに対する差別や人間以外に対する差別なんかが含まれている。
悪い差別も人種差別とかは有色人種が人間と見られなかったり劣等とみなされたりして起きた差別だから、
それが信じられていたうちはいい差別だったけど、そうではないので今では悪い差別になっている。
男女差別ももとは能力差別から派生したものだろうし、思想・宗教差別ももとは悪に対する差別だったと思う。
病原菌の保有者を隔離したりするのは穢れに対する差別の亜種かな。
たいていの悪い差別はいい差別(のつもり)から始まって、でもそのうちに相手は人間だし悪でも穢れてもないし能力も劣ってないよね、
現状悪い差別である人種差別を行う差別主義者は悪なので、人種差別主義者を差別することはいい差別として扱われているのだと思う。
つまり全ての差別主義者を差別すると矛盾が含まれるかもしれないが、悪い差別主義者を差別することはいい差別であって矛盾はないということだ。
もし差別をなくしたり今より減らしたかったら、「○○は悪だから差別してたけど、そうじゃないから差別やめよう。」じゃなくて「○○は悪だけど差別やめよう。」
ってなったら違うと思うけど、そこまでの寛容さを他人に期待するのはたぶん無理だろう。行き過ぎると社会を維持できないだろうし。
何となく生きること、自分に合ったペースで生きることが難しく、窮屈さを感じる人が多いのか。
躁状態で働き、体や心を壊す人もいれば、高すぎる期待に応えられなかったり、無気力になったりして仕事から離れる人もいる。
統計学の講義では、とにかく統計のウソを見ぬくことから始める。
だからこのような発言について、ウソかほんとか、見抜けるようになろうね、と教わる。
まあ統計学の講義でなくとも、日常生活でこのように考えるようになった人はいるだろう。
最近気になるのは、統計的な表現が出てくる日常会話に、統計的正確さを持ちこもうとする人のことである。
「日本人の3割が水虫」というのがウソなのか本当なのかあまり重要でない場面で、である。
統計的表現が出た途端、とにかく統計的に正確(のよう)でないと気がすまない。
例えば上の発言が単なる労いの言葉だった場面でも、3割もいるわけない、いやもっと多い、
もっとひどいと、「根拠もなく数字を出すのは云々」「話の主語が大きすぎる」「普通に労えばよいではないか」
彼らの多くは別に、正確なデータ等どうでもいいのだから、質が悪いし、よほど馬鹿らしい。
ただ相手を論破?攻撃?したいというきもちが止められないだけみたいに見える。
統計値が重要な会話については勿論指摘は会話として当然の流れだけれど、
比喩表現のひとつだな、というものにまでネチネチとこだわっているのは、単に読解力がないからなのだろうか?
あるいは、比喩だとわかってなお、ネチネチとこだわらざるをえない何かがそこにあるのだろうか。
話の本質に関係がないのに、安易に統計的表現がおかしいとこだわりだす人、読解力とかコミュ力がないんだなと見えてしまうと思うんだけど。
わたしが小さい頃、母はわたしをこうやって諭したり慰めたりした。
「世の中にはこんなに不幸な人がいるんだよ。それに比べてあなたは恵まれてるのよ。」
テレビでアフリカの貧しい人が映った時、湾岸戦争の時、駅の柱の下にうずくまっていたホームレス…。
わたしの家は貧しかった。父はわたしが生まれた直後に亡くなり、母はわたしを女手ひとつで育ててくれた。そのことは、本当に感謝している。何の技能も持っていない女が、社会に出てお金を稼ぐことの難しさを、わたし自身も社会人になってから身に染みて実感することができた。何度も心がくじけそうになったのだろう、そしてその度に母は上の言葉を自分にも言い聞かせていたのだろう。今ではそれがわかる。そうやって自分を奮い立たせ、わたしを育ててくれたのだ。
でも、当時のわたしはその言葉を聞きたくなかった。辛く悲しい気分になったからだ。自分より下の人間を見て、自分の幸福を噛み締める。では、もしわたしよりも恵まれている子(クラスの大抵の子はそうだった)が、わたしを見て同じことを思っていたら?
わたしに向けられた強烈な蔑みの目に、その架空の目に幼いわたしは怯えざるを得なかった。
「レナードの朝」という映画がある。原題は「Awakenings」といい、嗜眠性脳炎という不治の病を扱った実話にもとづく映画だ。数十年間昏睡状態にあり、石のように固まってしまった嗜眠性脳炎の患者たちに、新薬のL-ドーパを与えたところ一時的に意識を取りもどすが、次第に薬に対する耐性ができてしまい、また昏睡状態にもどってしまう。L-ドーパによって数十年ぶりに朝を迎える患者たちの”目覚め”と、この平凡で退屈な世界に対して驚き感動する患者たちが、周りの人達に与えた”目覚め”、この二つの”目覚め”が原題の複数形たるゆえんだ。
わたしはこの映画そのものはとても好きなのだが、ふたつ目の”目覚め”が言わんとするメッセージに、どうしても違和感を覚えてしまう。自分より不幸な人を見て気づか”された”幸せは、本当の幸せと言えるのか?もし幸せという状態があるとするならば、それは相対的なものではなく、絶対的なものでなくてはいけないはずだ。
2年前に早くして亡くなった母へ。
あなたの人生が、他の誰にも邪魔されることなく、幸せなものであったのなら嬉しい。だってわたしは、あなたの娘であるというだけで幸せなのだから。
おれをころしてくれええええええええええええええええええええええええ