年金アク目指して、金融機関で働いてるんだけど、やりがいゼロ。
上司は無駄に偉そう。正会員ことを鼻にかけてんのか知らんけど、糞使えない資格のくせに。
会社では何故か庶務をおしつけられる。
社内の女性社員は婚期を逃したブスばっかり。
おまけに他にやることないから”お局化”して、職場の雰囲気サイアク。
資格試験も業界内の人間が仕事の合間に適当に作ってるせいで、ミス頻発。
みんな死ねばいいのに。
彼氏のこと、好きなんだろうけど、私が「会いたい」と思うのは「セックスしたい」と思うときであって、
淋しいとか切ないとか、そういう機微な感情はあまり感じられない。
そりゃあ、彼に会うと嫌なこと忘れられるし、何となく落ち着くし、もっと触りたいとか近づきたいとか思う。
でも「触りたい、近づきたい」って、私が「今日はセックスするぞ」っていう前提で会ってるから出てくる願望なのか、何なのか。
ただ彼のことが好きだからなのか、何なのか。
彼氏に「好き」と伝えたことないがないのは、言うのが恥ずかしいのもあるけれど、
もしかしたら言いたくないだけなのかもしれない。
こんな記事があった。
『制作は、調整役の漏れや遅れを巻き取るためにいるんじゃありません』
そーだなーとか思うところもあるけど、
この人寂しい考えだなーとか思ったり。
友達少なそう。
なんとなくw
頭が良くてスポーツもできちゃう奴はいいけど、スポーツはかなりダメだった。
保健体育で100点近く取ってしまうと確実に「エロ」いと思われた。
ガリ勉でエロくてもてないとは最悪だと思い、もてたくてアホになろうと思った。
保健体育で「ちんこ」と書くべき所は「まんこ」と書き「まんこ」と書くべき所は「ちんこ」と書いた。
アホになれたがもてなかった。
もてるやつにアホが多かっただけど、アホがモテるわけではなかった。
毎年3万人も自殺していると言う。
学生はいじめや進路に悩んで死に、社会人は仕事で鬱になって死ぬ。
結局は本人の問題で自殺にまで至るわけだが、
自殺するぐらいなら誰かを殺せばいいのにと思う。
死ぬほど悩んでるのに助けてくれない奴らなんて、殺しても問題ない。
知り合いから2,3人、一番嫌いな奴を選んで殺せ。
そうすれば、自殺するほど人を追い込んだら、
逆に自分が殺されるかもしれないって誰もが気づく。
そういう事件が年1000件でも起きれば、
いやおなく誰もが他人に優しくする世界になる。
自分を殺すくらいなら他人を殺せ。
後世に同じ苦労をさせないために殺せ。
自分を苦しめた奴は、どうせ他の誰かも苦しめる。
まだ会ったことのない他の誰かのために殺せ。
まず最初に断わっておくと自分は、どうでしょうの大ファンです。
多くの人の目に触れるように、タイトルは少し大げさに付けました。
タイトルを観ただけで気分を悪くした人がいれば、本当に申し訳ないです。
また、地方によって放送開始日にバラつきがありますが、最新作のネタバレが文中に
入っていることも予めお断りしておきます。(私は現在第7夜まで視聴済)
× × ×
現在、最新作の『アフリカ』が全国で順次放映中ですが、観ていても
「この4人が揃って旅をしているのが見られるだけで充分嬉しいんだけど、やっぱりなんか違うんだよなあ」
と、私は思ってしまうわけです。この違和感は、前作『原付日本列島制覇』から続いているものです。
その違和感の正体を自分なりに考え、予測を交えいくつかの項目にまとめてみました。
× × ×
①【企画を引き延ばし過ぎている】
最も大きな原因はコレかな?
前回の『原付日本列島制覇』から顕著になっている傾向ですが、番組の人気(加えて大泉洋の人気)が
飛躍的に高まったおかげでしょうか、一つの企画の放送回数が大幅に増え、ファンとしては長い時間
どうでしょう班の活躍が見られることは嬉しい一方で、結果的には一回一回の放送の中身が
レギュラー放映終了後の企画を順に追っていくと
2005『西表』全8回
2007『ヨーロッパ完全制覇』全9回
2013『アフリカ』全14回予定
となります。
レギュラー放映時に長丁場とされていた『対決列島』が全10回。
レギュラー最後の企画『原付ラストラン』が全8回(放映回数は全7回だが最終回が1時間枠)
と考えると、前作と新作が、いわゆる「取れ高」を引き延ばして作っている企画であることが伺えます。
逆に考えれば、例えば今回の企画の回数が半分の全7回であれば、これまで放送したシーンの内の
半分はカットされ、もっと笑いが凝縮された作りになっているはずなのです。
大泉さんのエッセイネタの繰り返しも、冗長なサバンナの動物のカットも、半分ぐらいの時間でちょうど良いのでは?
②【出演者が無茶をしなくなった】
二つ目の原因はこれでしょう。
テレビの業界事情に私は全く詳しくありませんが、全国区の俳優となり、過密スケジュールの大泉さんが
万が一どうでしょうのロケで怪我をし、仕事を休業せざるを得なくなった場合。あるいはそれ以上の
大怪我を負った場合に関係者に与える影響がとてつもなく大きい、と言うことは想像に難くありません。
そんな中での今回の『アフリカ』です。
最初、旅の行先がアフリカだと知った時、多くのどうでしょうファンは色めきたったことでしょう。
「ついにどうでしょう班が長年、未開の地として挙げていたアフリカに!」
「これはブンブンやベトナムを越える危険が降りかかるかもしれない!」
私も思いました。
しかし、実際今のところの放送内容を見ている限り、番組史上最高レベルと言っても良いほど
サバンナの動物たちを、安全な車の中から見渡すだけの旅。食うものにも何一つ困らない旅。
次々と映し出されるサバンナの動物たちは確かに生で見れば見応えがあるのかもしれません。
どうでしょう班が興奮する姿には実感が籠っていることは理解出来ます。
しかし、その映像って視聴者が本当に水曜どうでしょうに求めている大事な要素なのでしょうか?
キー局でお笑いタレントや人気俳優が出演する、ありきたりな○○アフリカ紀行と何が違うのでしょうか?
『ジャングルリベンジ』で剝き出しの軽トラの荷台に乗って野生のヒョウを観に行ったこと。
『ユーコン』で、いつクマに襲われてもおかしくない状況でテントに毎晩寝泊りしていたこと
『ラストラン』で異常な数のカブ渋滞を潜り抜け、事故車が横たわる悪路を走っていること。
それらを知った上で最新作を観ているのです。
パワーダウンした感は否めません。
また、これは身体的な危険に限った話ではありません。
なども含む、「出演者が嫌がっているのに企画に抗えないシーン」の欠如が前作・最新作には著しいのです。
もしも、人が苦しんでいる姿を見て笑うなんて、と言う否定をする人がいるならば、それは過去の
どうでしょうの企画の大半、この番組の根幹の部分を否定することになるでしょう。
③【旅の目的が無い】
例えば、過去の海外企画でも『中南米コスタリカ』は、身体への危険が起こる可能性はほとんど無い
企画でしたが、そこには「幻の鳥、ケツァールを写真に収める」と言う実際に高難度の目的があり、
そのゲーム性のおかげで、視聴者は最後まで緊張感を持って楽しむことが出来たのではないでしょうか?
(とは言え、この企画の一番の楽しさは制作陣が予期していなかったであろうバズーカの功績が
大きかったことは言うまでもありませんが)
では、今回の旅の目的は何でしょうか?
それともどうでしょう班が初めてアフリカに行く、と言う事ですでに目的は達成されるているのでしょうか?
アフリカと言うセンセーショナルなイメージを与える場をロケ地に選んでおいて
冒頭で藤村Dが言っていた
「アフリカに着いてからの流れはムゼーにすべて任せている」と言う趣旨の言葉は恐らく真実でしょう。
そのノープラン至上主義のスタンスはどうでしょうらしいのですが、いかんせん企画の骨子の部分すら無く
それを14週持たせるのは、いくらなんでも無謀すぎたんじゃないかなあと感じてしまいます。
④【その他】
偶然的要素が強い部分ですが。
思いつくままに箇条書きで
→西表のロビンソン、ベトナムのニャンさん、アラスカのジム、ユーコンのピート。
・アクシデントが起こらない
ただこればっかりは狙って出来るものでは無いのでしょうがないですね。
・名言が出ない
→不作かなと個人的には思っている前作でも「文久三年!」などは印象に残っているのですが
最新作では、今のところ名調子が無いなあ。死の危険が迫っているとかじゃなくっても
暑いとか寒いとか眠いとか腹が減ったとか、そう言う時に大体名言が出るんですけどねえ。
× × ×
などなど、次から次へと文句ばかり書きましたが、それでもやっぱり私はどうでしょうが好きですし
一生どうでしょうするつもりです。
冒頭にも書きましたが、出演者の高齢化も進み、いつまで全員の元気な姿が見られるかも分からない中で
あの四人が揃って旅をしているだけで嬉しくて仕方が無いのです。だからこそ、昔の放送の方が良かったなんて
懐古主義には陥りたくないとも思うのです。
であれば、企画の方向性の見直しは必要なんじゃないかなあとは。
・長期の放送スケジュールに耐える企画の創出。あるいは、スケジュールの短縮。
これらを踏まえた上で、カントリーサインとかサイコロの海外版とかって駄目でしょうかね?
それか試験に出るどうでしょうの世界史版とか(安田さんのスケジュール抑えるのも大変だ)
あまりに熱狂的なファンの前では、どうでしょうって否定しずらい雰囲気があるし、頭ごなしに否定する
一部の自称お笑い好きにも辟易しているのだけど、同じように感じてくれる人がいたら嬉しいです。
「今ちょうどテレビで新しいのやってるから観て!」って、どうでしょうを知らない周りの友人に
自信を持って勧めたいんですよ。
「昨日見た!?」って周りのどうでしょう好きと言い合いたいんですよ。
ほんとそれだけです。
まかり間違って、制作陣の目にこの駄文が触れることで、何かを考えてもらえるキッカケになれば
最高なんですけどね。そりゃ無いか。
ちがうよーつうか都下は東京じゃねぇwあっちを東京に入れるなら神奈川も東京だし、神奈川はさらに子育てしにくそう。住んだことないからわからないけど
(※腐女子=オタク女 という解釈もありますが、ここでは腐女子=BL好きのオタク女 として下さい)
とある作品の中でAとBの仲がいいと「原作の時点でABはホモ」とか「○○話の時のABは夫婦」とか、「恋人関係ではなく、同性愛者であるという設定もない2人」に対して恋人という関係性を捏造するのが不思議。
原作が好きでそのキャラクターの事も好きなはずなのに、そのキャラクターの大事な要素である性癖を自分好みに捻じ曲げるのはなんでなんだろう。
腐った妄想は出来ないしやりたいとも思わないけど、誰かが垂れ流す腐妄想に対しての嫌悪感はない。単に興味が薄いんだけなんだと思う。
それでも「ABはホモ」発言に若干イラッとするのは、性癖の捻じ曲げになるからだなと最近結論が出た。
元々ホモ設定のキャラ同士だと「ABはホモ」発言にもなんとも思わないし。
Twitter上の知り合い(大半が腐女子)に向けてこれを言ってみた所で、要約すると「申し訳ないとは思ってる、でも腐女子はそういう生き物だから」みたいな答えしか返ってこないんだよね。
好きなキャラをホモにするのが最早習性になっちゃってるのかな、とは思いつつ、私も知ってる話のキャラについて語ってるのを見てると「ええーその話を読んで二人がホモって認定するか!? ただの友達だろどう考えても!?」ってびっくりする。
原作で交流が無い二人とか、話しても一言二言レベルの二人でも容赦なくホモにするのにもびっくりする。
腐女子すごいわ。
そっとしとこうよ