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2012-02-16

http://anond.hatelabo.jp/20120216094308

「適正な回数」なんか知らないよw

そんなのを知ってる人はこの世に居ない

自分としての回数なら教えられる

クランチ50rep3setをほぼノンインターバルでやる

次にダンベル持ってやる種目があるんだけどちょっと動きを説明しづらい

あとは気分でローラ





ただ言えるのは

あなたが考えてるよりずーっとrep数が多いってことだね

これは腹筋に限らないけど

逆にあなたの持ってる「10rep程度」の「理論的背景」も説明は出来ないと思うよ

それはあくまで目安だから

トップビルダーでも驚くほど低重量高回数を旨とする人はいくらでもいる

2012-02-10

復興庁、正式発足=野田首相らが看板掛けへ

東日本大震災から復興施策の司令塔となる復興庁が10日、正式に発足し、東京都港区赤坂の民間ビルに設けられた本庁で、野田佳彦首相や初代復興相に就任する平野達男復興担当相らが看板掛けを行う。設置期限は2020年度末までで、本庁、地方合わせ常駐職員約250人体制でのスタートとなる。

 復興関連予算の要求・配分を一元的に担うほか、被災地規制緩和や税財政上の特例を認める復興特区住宅の高台移転などに使える復興交付金も所管する。 

しかしたら、この記事を読んだ諸君は、「なんでもうすぐ一年にもなるというのにもっと早く立てなかったの?」とか、「なんで東北に立ててないの?」とか思いの方もいるやもしれません。

が、考えて欲しい。彼らが東北に立てた復興庁とやらに自ら足を運びたがるか?、ということだ。彼らが復興庁通勤するためには、東京にあるということは絶対条件なのだ

ついこないだもNEC社員と思しき人間宮城県のしょぼい街に異動になって阿鼻叫喚だったろう?「まともな人間」にとって東京以外というのは田舎しかない。ましてや出世から外れようとエリートであることには変わらない彼らが、どうして田吾作と一緒に汗水流して復興してやらねばならんのだ?というのが、大方の本音であろう。

というわけで、霞が関の外に庁舎が立てられたというだけ、被災者諸君はありがたやありがたやと拝まなければなりません。これは決定事項です。

2012-01-27

http://anond.hatelabo.jp/20120127110723

いちおうフォローしておくと

大規模SI,SE会社でも 部署によってはコードリーディングから始める部署もあるから 会社名というより部署名

同じ会社でも ビルオフィスが違うと 設計なんちゃって設計 だったり 設計コード読めるだったりする。

その辺が 大規模会社の 問題点かと思う。 できる部署もできない部署も 同じ会社名でよばれるからね。

それで、いや会社に出したんだから会社として責任取れよってお客さんは思うけど、そんなん別部署だし。

NTT東芝程の大会社ともなれば、部署が違えばもはや別会社

その辺を踏まえて 設計発注しないとお客さんはあぶないとおもう。

そうはいっても、 設計コード読めるレベルの人は高給取り確定で そこらの小さな会社いるかと言われると・・・

というレベルだし、やっぱり大企業に出すしか無いというのもまたけっこう真実だと思う。日本場合

結局、XXさんだから発注したみたいに、人の名前が入らないプロジェクトやばいよ。

で、いいたかったのは、おれらだけでも、なんちゃって設計設計と呼ぶのはやめようぜって話でした。ありがとう

2012-01-15

[]リスクコミュニケーション

リスクを考えて「ちゃんとコミュニケーションする」>

リスクコミュニケーション論 (シリーズ環境リスクマネジメント) - 平川 秀幸

リスクのモノサシ―安全安心生活はありうるか (NHKブックス) - 中谷内 一也

環境リスク学―不安の海の羅針盤 - 中西 準子

リスクに背を向ける日本人 (講談社現代新書) - 山岸 俊男



資本主義による対応

構造構成主義とは何か―次世代人間科学原理

未来をつくる資本主義 世界の難問をビジネスは解決できるか [DIPシリーズ] - スチュアート・L・ハート

ディープエコノミー 生命を育む経済へ [DIPシリーズ] - ビル・マッキベン

ワールドインク なぜなら、ビジネス政府よりも強いから [DIPシリーズ] - ブルース ピアスキー



経済学による対応

経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには (中公新書) - 大竹 文雄

貧困経済学-日本はまだ変えられる - 飯田 泰之

ウェブ資本主義を超える 「池田信夫ブログ」集成 - 池田 信夫




政治リスク

ザ・フェデラリスト (岩波文庫) - A.ハミルトン

2012-01-13

http://anond.hatelabo.jp/20120113161007

俺も新宿だけど、よく見るね。

この時期昼位まで寝てるやつたまにみるけど、あれは凍死らしい。


20年以上通ってるけど、三回くらいはみた。


一回はビル入り口とかで黄色テープまで張ってた。いい迷惑だ。


ただのホームレスならいいんだけど、職安通りガード下乞食は心底死んで欲しい。

排水溝にションベンうんこするわ。匂いキツイわ、きたないわで最悪。


朝の気分が台無し

あれ見て可哀想と思うとかいう人いるけど、朝の気分ぶち壊された俺は可哀想じゃないのか?と聞きたい。

2012-01-04

私の全て ④逃避

それからの私は仕事に没頭した。

から晩まで病院サーバ室でサーバ構築作業。

サーバ室は携帯電波が届きにくく、最低限の仕事上の連絡以外は誰とも連絡を取らなかった。


ただただ、作業に集中した。何も考えず。

病院と家との往復。帰宅したら、疲れて眠るだけだった。食べることすら忘れていた。


彼の事を忘れたいわけではもちろんなかった。

でも彼の事を思い出すと、どうしても後悔の底に落ちて這い上がってこれなかった。


不思議と、泣く事はあまりなかった。


そんな生活を2ヶ月続けて、私の心は壊れそうになっていた。

仲の良い友達ともほとんど連絡を取らなくなっていた。

「例の彼とはどうなったの?」」と聞かれるのが怖かったから。


壊れていたのは心だけではなく、体もだった。


1年前に普通に着ていたはずの服が、ぶかぶかで着られなくなっていた。

5年間使っていた金属バンド腕時計も、コマを詰めなければいけない程になっていた。

会う人会う人に「痩せたね」と言われ、そのうち「大丈夫?」と心配されるようになっていた。


自分では気付いていなかったけれど私の体重は急激に落ち、

1年前の健康診断から比較すると、10キロ近く痩せていた。

着られる服は全くなく、買いに行ってもサイズが合わないような状態だった。


もう、限界だった。

仕事に没頭する事で彼の事を考えないようにしていたはずなのに、

仕事に集中できず、彼の事ばかり考えるようになっていた。


それまで私は、夏休みを1週間取る以外で長期休暇を取ったことは一度もなかった。

そんなに仕事が好きだったわけではないけれど、

盆・暮れ・GWが書き入れ時の医療SEは、簡単に長期休暇は取れなかった。

それに自分仕事には責任を持ちたかったので、あえて休暇を願い出ることもしなかった。

そんな私が、初めての長期休暇を上司に申し出た。


激務が数ヶ月続いていたこともあり、休暇はあっさり認められた。

期間は2週間。SEになってから3年弱で初めての長期休暇。

少し心と体を休めようと思った。


私のスケジュールが突然「休暇」になった事を心配した別の部の同期から電話がかかってきた。

大丈夫だよー。ちょっと忙しくて疲れたから休んでる。すぐ戻るよ」

そう言ってごまかした。本当の事が言えるわけもなかった。


SEになってから3年弱で初めての長期休暇。


当時私がいた部は、元々希望していた配属先とは違っていたし

仕事内容自体も、どうしても好きにはなれなかった。

プログラミングができない、サーバの知識もない、そもそも大学文系の私に

SEなんて務まるわけもなかった。

配属されて初めてのプロジェクトでは、仕事がきつすぎて毎日泣いていた。

何かうまくいかないことがある度に、辞めたい辞めたいばかり言っていた。

実際、その年の頭には、転職活動を始めようとしていた。


そんな私に、彼がこんな事を言ったことがあった。


舞ちゃんがいつも頑張ってるの知ってるよ。

どんなに夜遅くなっても、自分仕事責任持って最後まできっちりやってること知ってるから

研修終わってから事務所戻ってきて仕事してたりとかさ。

そういうのちゃんと見てるから、辛いのは分かるけど、でも簡単に辞めればいいなんて言えないよ。


彼にそう言われてから、私は辞めたいと言わなくなっていた。

彼は仕事ができる人だった。だから彼に少しでも追いつきたくて必死勉強して、プログラミングアレルギーも克服した。


今の私を彼が見たらどう思うかな…。


そして私は、当初の予定を1週間延ばしたものの、3週間で職場に復帰した。


復帰後は、少しでも負担の少ない仕事を、という上司のはからいで、

同じ部内で別のグループに移って、全く違う仕事をすることになった。


残業は減ったけれど、上司や先輩がよく食事に誘ってくれた。

(というか無理矢理食べさせようとしたんだろうが)

結局帰宅するのは夜遅い時間だった。


そんな時、福岡に行かなければならない仕事が入った。

でも、彼とよく会っていた福岡にはどうしても行きたくなかった。

福岡だけでなく、彼と一緒に行った場所を私は避けるようになっていた。


ただ、九州支社はその年の5月に別の場所にできた新しいビル移転していて、

彼とよく会った古いビル九州支社はすでになくなっていた。


仕方なくそ仕事を受け、日帰りで福岡に行った。


仕事を終え、福岡空港羽田行きの飛行機を待つ時間

いつもなら、空港内にある有名なクロワッサン屋でクロワッサンを買う。

彼に「美味しいから一度買ってみなよ」と言われて買ってからお気に入りだった。

そして搭乗口で搭乗開始までメール電話をする。


もう、クロワッサンを買う気ににもならない。

メール電話をする相手もいない。

仕方なく、売店でお土産を買って時間を潰して搭乗時間を待った。


彼と初めて会ったのも、福岡での定例会だった。

距離が縮まるきっかけになったのも、福岡出張だった。

羽田福岡行きの飛行機を待っていたら、偶然同じ便で福岡に向かおうとしていた彼に会ったこともある。


博多駅から九州支社に向かう途中の道、彼と電話しながら歩いたこと。

九州支社の裏にある公園で話したこと。


色んな事を思い出しすぎて潰れそうだった。


結局その日は、ほとんど眠ることもできず朝になった。

翌日は土曜日で、午後から横浜に行く用があったものの、他にする事がなかった。


ふと、ある男友達の事を思い出した。

その人は会社の同期ではあるものの、職種が違うため仕事での関わりが全くなく、勤務地も違っていた。

それでも入社してすぐの研修で同じクラスになって仲良くなってから

定期的に二人で飲みに行っていた。彼と付き合っていた時も月1程度で会っていた。

私にとっては完全に「友達」で、恋愛対象として見たことは一度もなかったし、

それは相手も同じで、私を女として見ることはなかった。

から、二人で会っても大丈夫だと思っていたし、彼に対して、悪いことをしている気持ちには当然ならなかった。


その友達に彼のことは話した事は一度もなかったし、

私の色恋沙汰について何か聞いてくることもほとんどなかった。


ちょうどいいや…。


さすがに当日に連絡しても空いてないだろうなー、と思いつつ、メールをした。


福岡出張行ってお土産あるんだけど、いる?

いるー!

いつあいてる?お菓子から賞味期限があるんだけど。

今日あいてるよー。


その日は横浜で待ち合わせをし、東急ハンズで買い物をして、飲みに行った。


それからの週末はしょっちゅう旅行に行き、家にいることはほとんどなかった。

北海道名古屋沖縄京都。。。


そして、旅行お土産だとか色々理由をつけて、その男友達と頻繁に飲みに行った。

ただ、時間を埋めてくれる人が欲しかった。

色々深く聞いてこないその友達が、一番都合がよかった。

そしてその人と一緒にいると、不思議と気持ちが落ちついた。


その年の年末は、女友達イタリアに行った。

前年の年末は、彼がリーダーをしていた病院正月システム本稼動があり、彼は当然仕事をしていて、一緒にいられなかった。

来年は一緒にいられたらいいね、と言っていた。だから日本にいる事すら嫌だった。


そうやって、現実から目を逸らすことで、どうにか自分を保っていた。

現実を受け入れた瞬間、私自身が壊れてしまいそうだった。


F1が好きだった彼と私は、いつも月曜日F1の話をしていた。

F1放送を見ると彼の事を思い出し、また後悔の螺旋に落ちて

這い上がれなくなるので、私は見るのをやめた。

二人とも読書が好きだったので、会うとよく読んでいる本の話をした。

仕事が早く終わった時はいつも本屋に行って本を買っていたのに、本屋に近づくことすらできなくなっていた。


今はどうにか読書をすることはできるようになったものの、F1はどうしても見ることができない。

2011-12-28

眠れないので、誰にも話したことのない話をする。

眠れないので、誰にも話したことのない話をする。それは僕の人生についての話だ。

僕の一番古い記憶は、二歳のときものである。祖父に手を引かれた幼い自分が、夏の祭ばやしの中でぼうっと立っている。そんなはっきりとしない風景のような記憶

その夏祭りと同じ年、祖父はまだ50代という若さで死んだ。大の酒飲みでもあった祖父が居酒屋からの帰り道に道路のど真ん中で泥酔して寝ていたところ、通りかかった車にひき逃げされたのだそうだ。犯人は結局見つからず、警察役人的な処理の仕方に家族は憤りを感じたらしい。そういうこともあり、僕の一番古い記憶は、僕がもっている祖父に関する唯一の記憶でもある。

ただ、この祖父との夏祭り記憶はおそらく後から作られた記憶なんじゃないかと、僕自身は思っている。なぜなら、祖父に手をひかれている記憶のなかの「幼い僕」は、記憶の観察者である「僕」のほうを見ているかであるふつう自分自身の記憶であれば、自分の顔がその記憶風景の中にあるはずがない。僕が一番古い記憶だと思っているその祖父との思い出は、一人称記憶ではなく、三人称写真的な風景なのだ。多分、祖父が死んでずっと後、僕が物心ついた頃に祖父との夏祭り写真をみせられたか、もしくは親類が思い出を語ってくれたことで自分の中で作られた記憶なのではないかと思っている。

祖父に関するもう一つ記憶に残っている話がある。それは僕の父が語ってくれた父の記憶だ。祖父がひき逃げされた数ヵ月後、御巣鷹山日航機墜落事故がおきた。日本中の人々の関心を呼んだその事故報道を見ながら僕の父は一人の目撃者や証言者もなく数ヶ月で忘れさられてしまった祖父の事故を思い、命の価値は同じはずなのにどこか不公平だと感じたそうだ。その話を父から聞いたのは僕が中学生くらいのときだったと思う。多くの人の命が失われた大きな事件なのだからそんな田舎ひき逃げ事件より注目を集めるのは当たり前じゃないかと、思ったのを覚えている。

僕の話に戻ろう。祖父との夏祭り記憶の次に覚えているのは、幼稚園の庭のすみで幼なじみ男の子と二人、もくもくと遊んでいる僕の姿だ。これも記憶というより、印象といったほうがちかいかもしれない。幼稚園では他にも友だちがいたはずなのだが、僕はいつもその幼なじみとばかり遊んでいた。他のこどもたちは幼稚園の庭の真ん中でみんなで仲良く遊んでいる。ただ、僕とその幼なじみけが庭のすみっこで別のことをして過ごしている。そういう記憶だ。

僕は自分マイノリティであるという漠然とした自意識をもっている。そういう自意識はおそらくこの幼稚園時代からもっていたのではないかと、特に理由もないのだが、なんとなくそう思う。はっきりとは覚えていないのだが、そんな幼稚園時代を過ごしたという印象だけ残っている。

その後僕は幼なじみと同じ小学校にあがった。幼なじみをKと呼ぼう。小学生になった僕はKのほかに、新しくJという友達ができた。Jは別の幼稚園に通っていたのだが、帰り道がKと僕と同じなので自然と仲良くなったのだと思う。なにをして遊んでいたのかはあまり具体的に記憶にないが、学校の帰り道やお互いの家、近所の公園などで過ごしていた記憶がある。たぶん、他のこどもたちも同じように過ごしていたんじゃないだろうか。幼稚園のころよりかは幾分交友関係が広り、幾分マイノリティでもなくなった。

だが、マジョリティではなかった事だけは確かだ。小学生だったことがある人はわかるかと思うが、子供のなかでは子供なりのカースト的な階層があるものだ。上位階層に所属しているのはもちろんスポーツが得意な子供である野球サッカーではエースで、なおかつ顔がカッコイイというWという同級生がそのカーストの頂点で君臨していた。僕は早生まれということもあってか運動がまるきりダメで、そのためカーストの中では下位に位置している存在だったが、意識して階層の外にいるように、つまり上位のやつらやその友人たちとはあまり接触しないように過ごしていた。交友関係が広がったとはいえ、マジョリティだとは言えない存在だった。要するに僕の自意識マイノリティのままだったのである

スポーツがまるでダメと書いたが、そのおかげでマジョリティになれなかった僕はスポーツというものに対してどこかしら卑屈な感情をもっている。マジョリティへの嫉妬が、スポーツができないという事に転嫁され、それがスポーツそのものへの憎悪に近い感情になり、その結果スポーツは僕にとって禁忌になった。自分がどこからしら劣っているのはスポーツができないからであり、その元凶であるスポーツには近寄ってもいけないという発想である運動ができない子供はみな同じような感情を抱くものなのだろうか? スポーツが僕の中で禁忌であるというこは特に誰にも話したことはないので、他の似たような子供はどう感じているのか正直よくわかない。

これは成人した後、それも社会人になってからの話だが、会社の同僚と学生時代部活の話をしているとき、僕はおどけた調子で「運動したら負けだと思っている」と当時ネット上で流行していた言葉をもじってスポーツに対しての卑屈な感情冗談めかして言ってみたことがある。だが、その時話をしていた元サッカー部という同僚がそれを素直に受け取ってしまい、おそらく彼には僕と同じようなスポーツに対してのコンプレックスがないのであろう、結果、彼の気分を害してしまった。その人自身は運動会系というより文化系人間だったので、僕の原体験を共有できるもの勝手に思ってしまった自分が悪いのであるスポーツに対して当たり前のようにコンプレックスをもたない人間を目の前にし、自分はやはりマイノリティなのだと再認識をした。

子供時代の話に戻ろう。

僕達の育った町は自然あふれる田舎でもなく、かといってビルが屹立する都会でもなく、よそから引っ越してきた人達がつくったマイホーム国道鉄道沿いに立ち並ぶ、いわゆる郊外と呼ばれる場所だった。「だった」と過去形で書いたが、現在でもその風景は変わっていない。駅の前には商店街や、小さな個人書店や、同級生の親がやっている歯医者国道沿いにはファミリーレストランや大きめのおもちゃやさん、そして西洋の城を中途半端に模したラブホテル。この国のどこででも見られるような平凡な風景だが、誰にでもそうであるように子供の頃の僕にとってはそこは唯一の場所であった。

他の小学校のことはよくわからないが、僕の通っていた小学校には他の町に遊びに行ってはいけないという「きまりごと」があった。僕の家は隣町との堺がちかく、同じ町の友達の家に遊びに行くのにも隣の町を一部横切っていったほうが近いといったようなところに僕は住んでいた。「きまりごと」はまもらないといけないと素朴に信じていた小学生の僕は、友達の家に行く途中隣町をちょこっと横切るだけでも、ちょっとした罪悪感を感じていたものだ。まして電車にのって別の町まで買い物に行くなどどいうのは親同伴でなければ許されない事だと、そう固く信じこんでいた。

断章

2011-12-26

pixiv女性向け同人サイトホスティングとして使う腐女子たち

最近は、女性向けの同人活動ということで、pixivをメインとした活動もされるようになった。pixivランキング女性向けのイラストが入っていたり、一部の方が大衆不快にしてしま行為をしてしまうけれど、女性向け同人として、pixiv同人活動においてなくてはならないものとなっている。pixivでの活動自体は、2年前ぐらいからはあったが、現在、さまざまなジャンルアンソロジーの企画ページを見ると、参加者の一覧での参加者ページのリンクpixivだけになっていることが多い。もう、同人活動のメインとして、pixivがメインなのだ

実際、pixivはあくまでもSNSサイトであって、ホスティングサービスでないのは事実Facebookを市のサイトとして全面移行しようとした佐賀県武雄市と同様に、腐女子pixivを作品を展示できるホスティングサービス勘違いしているのも事実

もし、pixivがなくなったらどうなるんだろうか。一からHTMLを学んで、レンタルサーバーを借りて、ホームページを作ったり、FC2ブログで似非サイトを作ったりするんだろうか。

私自身、pixivは、信用できない企業だと思っている。画像データIDCフロンティアデータセンターから配信されているのはいいのだけれども、メインシステムpixivオフィス、つまりデータセンター向けでない普通ビルにあるらしい。何かpixivオフィスであれば、サービス停止ということもあり得るし、セキュリティ的にもよろしくない。pixivブログサービスもそのうち停止してしまうらしいし、需要があるのかわからない「ショーケース機能」(有料で一定タグ宣伝できる)をリリースしたみたい。

これらからpixivWebサービス提供者として信用できない企業だと思う。ホスティングサービスとしてのpixivに期待する腐女子もあれだが。しかし、pixivには安定した運営と、利用者の声を反映した運営をお願いしたい。というか、現在pixiv運営だと、コラージュ騒動のときと同様に、何かあったときにうまく収めることができるのかわからない。

さっさと、ペパボとかに買収されてしまえばいいのに。あり得ないけど、Googleとかだったら最高。

2011-12-25

http://anond.hatelabo.jp/20111225005319

同意

でも、子供大学生になってほとんど手がかからなくなったときに、働けるなら、社会に必要とされ正当な報酬を得られるなら、働く女性はいると思う。

たぶん、それを幸せと感じる人もいるだろう。

実際、薬剤師看護師にはそういう人がいる。

問題は、薬剤師看護師以外には、スーパーレジ打ちやビル清掃しか残ってないということ。

2011-12-08

もし大阪市長弁護士が『シムシティ4』をプレイしたら

#この文章は「シムシティ4」をプレイしたことある人向けですプレイしたことない人は、攻略サイトなどを見てから読むとより分かりやすいでしょう。

プレイする都市シナリオ
このミッションを橋下流でプレイすると…

シムシティ4起債も不可能となりいよいよ収入不足でフローマイナスになると「上院立候補のため市長退任」というゲームオーバーがある。国政転出ってなんかリアルでもありそうな話だw

#なお、この文章はネタです。橋下氏を批判する意図はありません。

2011-12-05

現役女子大生家事代行サービス 運営統括責任者 谷口秀昭

現役女子大生家事代行サービス

http://ide911.com/wpss/

現役女子大生専門店

http://ide911.com/

特定商取引に基づく表記

販売業者 ide(アイディーイー)

運営統括責任者 谷口秀昭

所在地 110-0052 東京都千代田区神田小川町3-10 Sビル駿河台3F

メールアドレス info8@ide911.com

屋号 家事代行アイディーイー

以下略

http://ide911.com/wpss/?page_id=25

億ションと毛玉ジャージ

街のヒエラルキーでいったら、最上級高層マンションが駅前にある。

いつかはそこで暮らしてみたいと思っていた物件だ。

庶民には夢のまた夢だ。



今日は、ドン・キホーテで、日常品の買い物をしてきたんだ。ちょっとした食べ物トイレットペーパーだ。

レジで並んでいるとき、毛玉のついたジャージを着た夫婦らしき人が前にいた。

並んでいるときは、気にしていなかったのだが、ふと気が付くとお店を出てからしばらくして、その夫婦の後ろを歩いていることに気が付いた。

帰る方向が同じようだ。

ドン・キホーテの黄色い袋を両手に持った夫婦は、どこに住んでいるんだろう。

服装から想像できるようなところに住んでいるんだろうなと勝手妄想していた。

しかし、この妄想はあっさりと裏切られて、私の夢は一気に崩れた。

毛玉ジャージ夫婦は、冒頭に述べた最上級高層マンション入り口に消えていったのだった。

あれだけの億ションに住んでも、ジャージドンキなんだ。デパートでお買い物ではないのか。

そんな生活はうわべだけであって、所詮人間が食べるものなんて大した差はなく、服としてはジャージが一番楽なのだ

ビル・ゲイツ氏は、

君が食べるマックハンバーガーとぼくが食べるそれは同じものではないか

と、言ったとか。

億ションビルさんのプライベートも知らない私がいうのもなんだが、

あらゆるものから見栄を取り除いてしまうと、人間が営む生活なんて大して変わらないのかもしれない。

2011-11-29

窓をなんとかしたい

会社の先輩(窓際)が超うざい。

仕事らしい仕事はしてなく、会社ビルの点検管理とか、

電球の交換ぐらいしていないのに、無駄にえらそう。



それで、電球が切れたから交換をいらいすると、

ものすごく面倒くさそうに「そっちでできないん?」

など横柄な態度を取ってくる。

そしてヒマだからそういった仕事の連絡だけも

話相手になるのか、どうでもいい話の引き延ばしをしてくるし・・・・・・。

なんかクビになってもらう方法ってないものですかね。

2011-11-15

昔の上司フリーダムな思い出

冴えないリーマンにとって、上司の悪口は洋の東西を問わず定番ネタらしい。

この日記もそんな話がダラダラ続く予定なので、興味ない人は無視しておkです


今まで何人かの上司の下に付いたけど、彼を超えるレベルの人に会うことは多分ないだろう。

課長クラスの人で、妻子持ちのバブル世代

性格は基本的に女好きオラオラ系とっちゃん坊やで、今だったらギャル男系のリア充に分類されると思う。

アグレッシブだし自信家だし向上心あるし目立つの大好きだし何故か迫力もあるけど、ナルシストというか。

しつこいセールスとかにも「いらねーっつってんだろ!?」とすごめるタイプかな。

30代前半で課長やってたくらいだから気さくで話し上手という具合でコミュ力は抜群だけど、なんというか「相手の気持ちを読んだ上で一切意に介さない」人だった。

相手への気遣い自分の気持ちを妥協させるのが嫌なタイプ

あとデリカシーという単語は、彼の辞書には多分ない。


若い頃は色々トライしていたらしく、「モテたくてテニスやったけど全然だったよw」とか「(モテたくて)ギターやってたけどメロディ弾けない人でさw」と某洋楽ロックバンドの名曲のイントロを弾いてたのを見たことがあった。「パチで負けてるときに店で同僚に会うとやりにくいよなw」とも言ってた。

仕事では要領を得ないことにはとても厳しかったっけ。

一部の社員は出社拒否になっちゃって、彼が電話で問い詰めた挙句「もうできません?じゃあお前今すぐ辞表持って来い。あ、夜持っていきます?ふざけんじゃねーぞ!」という具合でとても歯切れの悪い幕切れになったことも。

あとデブハゲ童貞に対しては徹底して差別的で心底バカにしていた。

「お前童貞?じゃあ風俗行け。幼女誘拐したら困るし色々捗るぞ」とか「なんでお前に訊くかって、そりゃこの事務所にデブお前しかいねーじゃんw」なんて会話もあった。

そこでスルー力を発揮すると「お前、俺がこの話するといつも聞いてないよな。『このオヤジまた言ってるよ』って顔するもんな」と鋭いツッコミが入るのでなかなか面倒。

幸いウチの会社は自社ビルを持っていないので、彼が電話で受付の女の子ちょっかいを出す事案は無かったが、女性社員からは「あいつのボケはツッコみにくいしキモい」と評判だった。


そんな彼も、後ろ盾になる部長が、無理な事業展開とそれによる損失を隠すための粉飾ギリギリの経理操作により会社ピンチに陥らせた責任を取って辞めてから、程なく元部長が作った別会社に船を漕いでいってしまった。この世渡り上手め。

まあ彼はその部長の手先という側面もあったし、部長のほかのシンパも数年で別会社移住した。

これによって膿が綺麗に流れ出た・・・ということにしておく。


でも今思えば、ああいう「イエーイ!!」の一言に尽きる生き方もアリなんだろうなーと考えるようになった。

後で梯子外されて突然死するリスクはあるにしても、そんなん当人にとっちゃ折込済みだろうし、一時期でもオラオラで稼げるならということもある。

まあ自分キャラ的には、こういういつまでも我に返らない生き方は絶対持たないので無理だけど。

俗にいう「スーツ○割増し」ってやつ

ある朝出社したら「おはよーございまーす」と休日のおじさんみたいな人に挨拶されて「…ん?」と一瞬とまどった。

よく見たら私服解禁したらしい新人君(22)だった。

ファッションにはうといので詳しい描写はできないが、

てっきり「新しく派遣男性でもやとったのか」「交代勤務後のビル管理者か」と思うほどナチュラルな「おじさん」がそこにいた。

さすがに「その格好はやめたほうがいいよ…スーツにしときな」と言おうと思った。

当社には服装規定は全くないし、仕事に何ら支障はないし、逆セクハラっぽくなりそうなのでやめた。

2011-11-13

http://anond.hatelabo.jp/20111113105353

真面目な質問なようなので、真面目に答えます



政府が「最終的にどうなるか」に関するレポートをもっているかどうかは「分からない」です。もちろん。一定のそれをもたずに一体どんな政策決定ができるのかは分かりませんが、もっていない可能性はもちろんありますですが、私が「算数の結果」と言ったのは、かならずしもそのことだけではありません。その点誤解があるように思います



まず、はっきり言えることは、「ただちに」を聞かされる側は「ただちに影響があるかどうかについてのコメント」(国語けが関心事ではないことくらい、政治家なら分かっているだろうということです。最終的に何が起こるかが分からないとしても、分からないなりにどのような事態や対策を想定しているかについて(算数)説明するのが適切であり、たとえば企業クレーム対応する場合などでも、そうした対応フォーマットが用意されているでしょう。そういった対応のことを「算数の結果」と言ったのです。影響が分かる場合も、分からない場合も、いずれの場合でも、「今後どのような予測があり、どのような対応が求められるか」についての説明が必要だ、ということです



なぜ、そう言えるかというと、枝野さん自身が「ただちに」という言葉は、すぐ影響がでるかどうか(国語)、ということだけを言ったのではなく、将来的にはどうなるか分からないよという意味を込めていた(算数の結果も含んでいた)と後になって述べているかです。算数の結果を言わなければならないということは、当然認識しておられた。にもかかわらず、国語の結果に見せかけて、もう言ってましたよ、と言い訳してる。次の動画をご覧いただければ、本人がそう述べてますリンク踏むのを警戒される場合は、youtubeで「枝野会見 直ちに影響」で検索し、5月20日付けの会見映像を探していただければオッケーです

http://www.youtube.com/watch?v=jf_vxPJuMZc&feature=related

国語の結果」だけ言ってすました顔をしてる。後から追求すると「国語ときに一緒に言ったつもりだったので」って、言う。そういう対応って、どうなんでしょうね。



国語とか算数とか言うとかえって分かりにくいですかね。たとえばビル一階で火災が起こったとする。下を見てきた管理人が、つめかける上階の住人に「ただちに火は回らないから」と説明する。それで説明になっているのか。「部屋でじっとしておっても直ちに影響はない」が念のため2階と3階の人は避難した方がよろしい、と。後から分かったことで、実は発生したガスで4階5階も汚染されてた、と。追求すると「ただちに影響はないと言ったが、それは、5分後とかにはまだ何も起こらないというだけの意味で、これからどうなるかは分からないという意味だった」と言う。



「ふざけんな!」とならないですかね。これでも「発狂してるのは放射『脳』だけ」なんでしょうか。



…とはいえ、私は枝野さんはそれなりによくやったと思ってます。あれだけの状況の中、責任あるポジション人間として国民の前に立つ、それだけで、気の弱い人なら心臓麻痺起こしそうなシチュエーションです。それを、碌に睡眠も取れないような状況下で耐えきり、パニックも起こさずしのいだ。それだけで、賞賛してもいいくらいです。嘘の一つや二つついても全然許せるレベル。ただ、そのことをもって、批判者を揶揄するのも、どうかと思うんですよ。嘘は嘘だし不完全は不完全。そこは認めるべきでしょう。「ただちに」を繰り返しやがって、と怒る人がいるのは、当然だと思います

2011-11-11

読売七日会・東京読売会合同総会(7月8日)での渡辺恒雄氏のあいさつ

 このたびの東日本大震災で、東北から関東の一部まで大被害を受けましたが、我が社も陸前高田坂井宏所長御夫妻とそのご子息および、各店の所長の御家族五人、YCスタッフ一〇人がお亡くなりになりました。深く哀悼の意をささげます。また、YC店舗は全壊六戸、半壊・一部損壊一七戸という被害を受けました。

 今回の震災の被害対策については、政府対応は誠に非能率で憤慨するところ大でありますが、グループ本社及び傘下各本社は、宮本副社長販売担当のもと、労力的にも、資金的にも迅速に対応し、その報告を聞いていささか心を癒されました。今後とも被災地YCの復興に全力をあげるつもりであります。また政府被災地全体にわたる救済、復興不手際については、紙面で厳しく批判し、督促してまいります

 さて、震災後の五月二十六日に、読売新聞週刊新潮無責任デマについて提訴した名誉毀損訴訟に対して賠償金の支払いを命ずる判決が出て、全面勝訴しました。

 この新潮報道では、二〇〇九年六月十一日号で、「新聞業界最大のタブー"押し紙を斬る"」というタイトルで、「読売18%、朝日34%、毎日57%が配られずに捨てられていた」と断定しております判決では「読売新聞においては"押し紙"が存在すると推察することもできない」として、新潮報道が全面否定されました。

 新聞が二割、三割、五割以上もの紙を配らずに捨てるというような不合理な無駄をしていれば、用紙代、印刷代、輸送費及び人件費の消耗で直ちに倒産しているでしょう。

 過去十年間の読売新聞決算報告をもとに数字を申し上げれば、この十年不況日本経済が停滞し、また新聞外のメディア特に電子メディアの普及等もあり、販売部数が減少したことは事実であります

 しかし、二〇〇二年三月期と、二〇一一年三月期の十年間の読売新聞の収支を申し上げると、販売収入は二六四九億円から96.61%の二五六〇億円に減少、その落ち込み幅は3.39%に過ぎません。その間のABC部数は一〇一五・二万部から98.74%の一〇〇二・四万部に減少、落ち込み幅は十年不況の中で僅か1.26%であります

 それに対し、景気を最も敏感に反映する広告収入は、一五〇六・九億円から53.16%の八〇一・二億円に減少、落ち込み幅は46.84%にも達します。

 それにもかかわらず、黒字経営を続けているのは資材、人件費の節減や、製造工程近代化、合理化による節減と保有株の配当収入不動産賃貸収入の安定もありますが、最大の原因は販売収入の減少が極めて僅かだったからであります

 週刊新潮の言うように、印刷した新聞の18%も捨てていれば、このような安定した販売収入はあり得ません。

 大きく言って、読売新聞収入構造は、販売6、広告2、不動産賃貸収入配当収入巨人軍等の事業収入2の割合です。そのうち二割を占める広告収入が十年不況で半減したのに、堂々たる黒字経営を続けていられるのは、ここにおられるYC所長の皆さまの日常努力による販売収入の安定でありまして、皆さまの献身的な愛社精神と堅実な経営努力に心から感謝申し上げます

 ちなみに、最近倒産の多発している米国新聞広告収入依存度は、七割から八割であり、これは宅配制度の不備によるものです

 さて、原発問題と今後の日本世界経済の問題について若干言及致します。

 現在稼働中の原発もいずれ点検による稼働中止になり、このままでは来年には、日本の全原発が稼働停止になります。もし、日本の電力の29%をまかなってきた原発が動かなくなれば、日本産業生産は縮小し、かなりの企業倒産し、失業者が増大し、税収は減り、国家財政破綻する恐れがあります

 菅首相は、現在9%の再生可能エネルギー20%とか25%に増大するという夢を語っていますが、彼の言う再生可能エネルギーのうち8%は水力発電です。これを増強しようとすれば、民主党政権の言ってきた「コンクリートから人へ」を逆転させ、ダム建設しなければなりませんが、それには五年、十年かかるし、また日本にはその適地もなく、コストは巨大になります

 菅首相の言う太陽光風力発電は、現在全発電量の0.5%くらいで、日本地理上、適地が少なく、風力発電は海上に巨大な浮体を作って乗せるほかなく、それも巨額な出費をもたらします。

 太陽光発電は、理想としては良いのですが、実際に広大なパネルを作ろうとすれば、それも巨費を要し、一朝一夕にできるものではありません。

 そうなれば、今問題になっている玄海原発のように、政府安全保証する点検済みの原発を再稼働させていく以外には、日本経済財政産業国民所得を維持する道はありません。

 今回の福島第一原発事故の原因は次々に解明されています

 私が枝野官房長官をはじめ、関係政府要人や専門学者達に聞いたところによると、福島第一原発事故は、地震によるものではなく、大津波によるものだということです

 つまり地震による揺れで原子炉破壊されたのではなく、大津波によって原子炉の冷却装置を稼働させる電源と冷却装置をつなぐ配電管が破壊され、冷却装置が止まってしまったこと、また海水を汲み上げるパイプ、そのための発動機の損傷もありました。

 海面上一〇メートルの所に作られた第一原発は壊れましたが、一五メートルの高台に作られた女川原発は、津波による被害がなかったので、今すぐにでも稼働できるのです日本海側、瀬戸内海側の原発は、二〇メートル津波かぶる心配はありません。静岡県浜岡原発も、完全な防潮施設を作れば安全になるでしょう。福島第一では電源を地下に設置してありましたが、浜岡では建屋の屋上に設置してあります

 福島第一の事故で、たくさんの人災的原因が明らかになりました。この経験と知識と高度な日本技術をもってすれば、耐震性は証明されている日本原発に対し、さらにどんな津波が来ても、外部電源とつながる炉の冷却装置を損傷しないような防御装置を構築することは可能でしょう。震災後四カ月たっても、こういう措置を稼働中止中の原発に対して取ってこなかった政府は、一体何を考えていたのでしょうか。

 ドイツ原発を中止したといっても、ドイツフランス原発から電力を輸入しているからできることです

 過剰な原発アレルギーで、日本の電力の三割を止め、節電とか自粛とかを連呼しているのみでは、日本はいずれ産業国家として世界三等国に転落し、貧困失業に悩まされるのではないでしょうか。

 読売新聞社は、この不況の中で、大手町の一等地に三三階の新社屋を建設します。首都直下型地震が来ても安全耐震性、非常の時の自家発電や、交通途絶対策としての非常食の備蓄等、完壁なビルを無借金で建てます

 私が社長に就任した二年後、借入金はピークで一六四一億円余ありました。社長就任以降今まで五六五四億円設備投資しましたが、現在すでに返済し、数百億円の預金があります。つまり、二十年前に千数百億円借金をしなければ、新規設備投資ができなかったのですしかし今、大手町に最新の建設技術の全てを取り入れた高層ビルを建てるのに、新たな借金は必要ありません。

 現在の我が社の基本的な経営体力は、皆さんの努力による安定した販売力、YCの店力、全従業員の愛社精神が基軸であります

 さらに、読売新聞の主張する税制改革案を含む財政経済社会保障産業政策等が、ポスト菅の内閣によって実現されれば、不況も解消し、広告収入の低落にストップがかかり、増収になり、その成果を皆さんとともに享受できるようになるでしょう。

 次に今回の読売グループ人事異動について説明します。すでに新聞等に細かく報道されているので、重点について述べます

 内山社長は昨年春、令夫人が大きな手術をして以来、術後が思わしくなく、そのショックで本人もいささか精神不安定になり、特に3・11の地震後の社務にはほとんどたずさわらないという状態になり、私宛に、夫人の看護に専念したいとの辞表が提出されました。

 内山君は私の永年の忠誠な部下であり、私には万感こもごも至る思いもありましたが、新聞社として緊急非常の事態の中、その辞表を認めました。

 老川東京本社長は定年に達していたので、グループ本社最高顧問としてグループ全体について指導してもらうこととしました。

 私は依然、事実上最高経営責任者として残りますが、八十五歳という高齢を考え、実務は白石二郎君に、グループ東京本社代表取締役社長を任せることにしました。白石君は、編集局長論説委員長、メディア戦略局長社長室長等を歴任、社務の全般に通じており、最適任と思います。また、政策理論家として社外でも評価されている早川準一君にグループ本社副社長兼副主筆として私を補佐してもらいます

 販売担当宮本友丘君は東京本社副社長に昇格、私の直轄下で、東西の販売政策を指揮してもらいます

 内山君の病気のこともあるので、八十五歳という最高齢で、事実上最高経営責任者である私の健康状態について報告しておきます

 今月、慈恵医大病院で、世界的な血管外科の大家として知られる大木隆生先生に、全身の内臓検査をしてもらいました。その検査結果の一部を読みます

 これは大木教授より読売診療所近藤所長にあてられた報告書です

 「渡辺さんは、息切れなどの症状もなく、極めて健脚です血液検査については、γ-GTが少々上っている以外、異常はありません。肝機能は極めて正常です

 次に、心電図と脈波検査を行いました。血圧は正常、閉塞性動脈硬化症がなく、脚の血流が良好です

 CT検査の結果、まず脳に関し驚くべきことに脳の萎縮が全く進行しておらず、頭がさえていることが見てとれます。脳動脈瘤甲状腺、嚢胞や腫瘍もありません。心臓肥大や大動脈石灰化もなく、極めて若々しい状態にあり、六十歳代くらいの若々しさと言えます。肺にはがん、腫瘍も認められません。極めて健康的な肺です膵臓が唯一の所見のある部位で、萎縮があり、前糖尿病と言えます。腹腔動脈、上腸間膜動脈、および左右の腎動脈に狭窄はありません。

 腰椎に高度の変形を認めます。腹部大動脈、腸骨動脈動脈瘤や狭窄病変などはありません。膀胱に異常はありません。現時点で治療を行う必要はないと思われます

 内臓脂肪が多く、膵臓が萎縮していますので、一層のカロリー制限と定期的な運動を続けられることは膵臓のみならず、高血圧、痛みのある膝関節にとっても良いことです

 最も素晴らしいことは、八十五歳と高齢であるにも関わらず、脳に萎縮が全く見られないことです人間にとって肝心な脳、心臓腎臓肝臓が全て六十歳代と思えるほどの若々しさです

 東京慈恵医科大学科学教授血管外科 大木隆生 読売診療所 近藤和興先生御侍史」

 以上が目下の私の健康状態なので、新社屋の完成する年、つまり米寿までは持ちこたえるでしょう。この世には小生が早く往生することを願っている人も少なくないようですが、その人達失望されても仕方のないことです

 最後に、ポスト菅の首相が誰になるかを予想することは、巨人勝敗予測よりも困難であることを告白してごあいさつと致します。

新聞新聞 2011年7月13日号)

2011-11-09

エレベータの混雑具合を各階で待っているときにわかると嬉しい

JR山手線などの車両、乗客混雑率を重みで計っている。

エレベータでも計って表示してくれないかな?

それぞれの階にエレベータの在階表示あるでしょ?

もし日の字LEDに小数部分があるなら、そこを点滅させる速度を変えるとかさ。



インテリジェントビルの将来

空調、照明、トイレ個室の使用状況、エレの混雑度と停止階、

フリー駐車スペースの満空、自販機のラインナップ、

テナント食堂の混み具合と予約と日替わりメニュー情報と券購入、

受付訪問者の画像トレペ空や洗浄機器故障(自己診断failure)情報

将来はオンライン

山手線のWIFI実験みたく、iPhoneでも見られるようにするだろうか。



利用者への便宜とともに

ビル主へトイレの利用率など情報提供することも付加価値になるだろう。

監視社会未来が明るいかいか、良くも悪くも監視する・できるのが誰かによるな。

から揚げとか

http://ameblo.jp/dr-select/entry-11072233491.html

個々人の趣味とか嗜好はまぁいいとして。地下でから揚げやさん、しかも雑居ビルってどうなんよー

大須ビルって狭ーいイメージが強いんだけどなぁ……と思って調べてたら、案の定近隣の店舗が困ってた。

から揚げ側もネットで騒がれちゃって、てんやわんやなのかも。持ち帰り専門店なので購入側も買ったらさっさと出て行くが吉。

話の種くらいに食べてみたい気もするけど、ネットで騒がれて混雑してるだろうし、たぶん今後営業方針とか話し合われそうな感じだし、

今の時期はやめておこうかな。

2011-11-07

http://anond.hatelabo.jp/20111107094227

日本ハードディスク工場作ったとして

お前、働くか?



奴隷職は奴隷民にでもやらせておけばいい

日本人は、新宿の自社ビルコーヒー飲みながら

から降ってくるはずのクリエイティブ仕事淡々とこなすのが普通

近年、そういう職にありつけない若者がなぜか増えてるから、俺ら騒いでるんだよ)

2011-11-06

なぜ比較生産費説は失敗しているように見えるのか

比較生産費説は自由貿易を通して富が増加する=豊かになることを説明した理論です

ここでまず踏まえておかなければならないのは豊かになるとは誰が、何に対してかということです。物財の市場における総供給量が増え、需要者、つまり消費者が豊かになるということです

ここのところでの異論はあまりありません。説が唱えられてから既に200年の「実験」の蓄積があるのですから、上記の点については事実として扱ってよいでしょう。

比較生産費説が最近、ホットトピックになっているのは、TTPの問題があるからですが、アメリカでもTTP反対論は根強くあるようです

抗議に参加した人々はTTP協定が仕事環境に与える潜在的な影響に対して注意喚起したかったと言っています

「私たちは雇用を求めるためにここにいます」とロレーヌ・アシュビー(66)(シカゴの南東側からの引退した公務労働者)は答えています

「小さなビジネスを行って、本当の雇用を作り出す人々がここにとどまることが難しくなってきているのですTTP雇用を作り出す人々を後ろからナイフで刺すようなものです

「あまりにも多くの過去貿易協定は普通の人々犠牲にし、ウォールストリート大企業の役立ちました」と彼は言いました。

「私たちは、この地域から海外へ送られた何十万もの給与仕事を見ました。また、私たちが必要とするものは、シカゴで、および世界中労働者生活水準を実際に改善する貿易協定です

http://gigazine.net/news/20111105_tpp_trade/

日本TTP反対派の人たちもこの言い分には深くうなずくでしょう。日本でもアメリカでも互いを敵視しながら同じような言い分を言い合っているわけです

こうした言い分に対し、経済学の人たち、というよりもサミュエルソンっぽい新古典派総合っぽい人たちが、誤謬誤謬もっと勉強しろよって膝寄せて鼻を突きつけているわけですもっとも、その人たちも完全に歯切れがいいわけではなくて、「それは別の話」とか「一時的な痛み」とか、言及している「部分」もあるわけです

それが果たして別の話なのか、一時的な話なのかというのが、本当は問われるべき問題であろうと思います


80年代のレガノミックスは、一般に言われているのとは違って、大規模な財政支出と減税による「需要刺激による」景気刺激策でした。レーガンは言っていることはともかくやっていることは無茶苦茶ケインジアンでした。アメリカはそれ以後、蕩尽的消費社会突入してゆくわけですが、基本的に好景気インフレですしかし実際にはインフレ率はそうでもなかった。需要の増大を上回る供給がもたらされたかです。つまり輸入拡大です。この構造レーガン政権以後、現在まで基本的には続くのですが、では、81年から比較して、「一般アメリカ市民所得」は増えたのかどうかという話です。全消費者の消費可能量が増えたかどうかという話ではないですよ。リカードさんのおっしゃるとおり、全消費者の消費可能量は増えた、つまり市場は豊かになったに決まっていますしかしそれが、「一般アメリカ人所得」の増大につながったかどうかという話です

レーガンから現在までの話ですからね、すでに30年間の記録があるわけです

決して「一時的な話」ではありません。

結果は言うまでもありませんね。「パパはなんでも知っている」の頃は、パパがフルタイムで働けば子供大学に行かせられました。今では、ママも働いて、それどころかダブルワーキングをしても、かつかつの生活をしている人が大半になっています。そういう人たちに向かって、理論は正しい、おまえたちが間違っていると言っているのがサミュエルソンのシッポの人たちであるわけです


比較生産費説の理論完璧さにもかかわらず、どうしてこのような現象が生じてしまうのでしょうか。

答えは簡単で、産業ごとの特性が異なるからです比較生産費説は産業ごとの特性をならして、「単位」扱いするところからまります産業ごとの特性の問題には最初から対処しきれないというか、扱っている領域そのものが違うのです

例えばA国とB国がそれぞれ半導体カカオ豆に特化したとしましょうか。しかしこの両商品はそもそも需要量が違います。必要度合いも違います産業スタートさせる難しさの度合いも違います。他産業を発展させ、雇用を創出する能力も違いますもっと言えば収益性も違うわけです

不安定、低収益、低需要、低波及力の産業に特化した国、つまりモノカルチャーの国が国際経済の荒波にゆられて「豊かになる」どころの話ではなかった原因の根本はここにあります

労働集約的-資本集約的、高収益-低収益で相に分ければ4つの相が分かれることになります

国民雇用を確保し、そこそこ安定的な経済環境を構築する」のを目的にした場合もっと効果的なのが労働集約的-高収益産業です。ありていにいえば製造業第二次産業です

国民経済にとってはコアとなるこの産業が奪われたからこそ、「全体としては経済成長をしながら、格差の増大をもたらし、一般国民の貧窮化を招いた」のがアメリカの姿であるわけです

これに対して次のように説明するサミュエルソンのシッポがいます

給与の高い仕事転職するということは、比較優位産業労働力移転しているということである比較生産費説は労働者経済行動の中にあらかじめビルトインされている」

から雇用喪失は起きない、起きたとしても一時的な調整期間中ものだ、というわけですね。

あなた、30年間を調整機関と呼ぶ神経って、なんていったらいいんでしょうね。

東大に行っているあなた卒業したらゴールドマンサックスに入りたいなんて思ってるでしょ。給料いいですもんね。給料がいいってのは、生産性が高いということです。もうひとつ労働需要に対して供給が追いついていないということですあなたと同じレベルの人を400万円で雇用できるならそうしますよ、ロックフェラーでも。そうしないのは、需要に対して供給が追いついていないかです

失業率10%以上あってもそういう状況だと言うことです

農民が工場労働者になり、事務員になり、というところまではまあそこそこアメリカ労働者でも対応できたかもしれません。もちろんその過程でも脱落していった人はたくさんいるわけですが。

比較生産費説が言っているのはこういうことです製造業新興国に特化しても、先進国はさらに生産性が高い産業・職に移動してゆけばよい。みんながジョブスになれば1000万のアップル誕生して、たくさんのiPhone を手にできるよ!ということです

それが100年、200年のスパンならばあるいはそういうことも可能かもしれません。しかし現代においては変化はあまりにも急激でありすます


TTPを巡る議論で私が非常に気にかかるのは、TTP賛成派があまりにも気軽に「経済学」を看板にしたがるところです。そしてそれは、「おまえは経済学を知らない」と相手を貶めるために用いられているように見えます現実事象について具体的な論拠を求められれば、「経済学深淵でおまえには分からない」とばかりに現実の問題には何も答えないまま、モデルの話でけむにまきます

経済学はそういうものではありません。少なくとも、そういうものけが経済学ではありません。ガルブレイスが生きていたら、なんというでしょうか。

そうした言論的脅しに屈せずに、みなさんは分からないものは分からないと言ってください。納得できないものは納得できないと言ってください。説明できないのは説明できない人の責任であってあなた頭が悪いからではありません。

2011-11-01

http://anond.hatelabo.jp/20111031223226

増田の記事、妹のモナ・シンプソンが描くジョブズは、美しい。

だが、ほんとうのジョブズは、もっと冷酷な人間だったそうです

妹はさすが作家だけに、事実を美しく描くことに長けているけれども、たとえば、

はいつも、一緒に働く人々の恋愛生活を気にしていました。

というエピソードの実態は、

Macintoshの開発中にもスタッフらのガールフレンドや妻たちを酷評することは日常だったという。

だって自分彼女女房の悪口など他者から言われたくはないが ジョブズは他人の思いなどに気持ちが向く人間ではなかったようだ。

だったとしたら、笑えませんか?



ぜひ、ジョブズの妹の弔辞を読んだ後に、このブログ記事を読んでください。

(元の文は長いため、所々を中略している)。

スティーブ・ジョブズの陰の部分に光を当てる!

2010/04/23 by松田純一



スティーブ・ジョブズはいまや世界もっとも有名な経営者でありそして大金持ちのひとりである

アップルの共同経営者LisaMacintoshは勿論 iPodiPhoneといった世界的ヒット商品を生み出したというだけでも歴史に名を残すのに十分だが、瀕死のApple復職した後の活躍たるやまさしくスーパーマンである

しかし彼は常に負の部分を多く持つ人物としても知られている。

(中略)

彼の負の部分、陰の部分とは 誰の人生にもあるであろう例えば青春の一時期…粗野で他人を顧みない言動をする…といったことではない。

私が最も忌み嫌うことは 信頼している人たちを裏切るというその一点にある。

筆者は、ジョブズが人を裏切る例として、まずは、比較的よく知られた、ジョブズ詐欺話を紹介している。

アタリからブロック崩しゲーム機設計を頼まれたジョブズ。彼は親友スティーブ・ウォズニアック一人に仕事を丸投げし、ウォズニアックは48時間設計を完成させた。

ところが1,000ドルという報酬額を隠し、「600ドルをもらったので折半しよう」と言って、400ドルを懐に入れてしまった。

親友を裏切ったジョブズ。後日それを知ったウォズは、泣いたという(多分ほんとうだろう。ウォズは感激屋で、ジョブズが亡くなったときインタビューでも、泣いている)。

しかジョブズは、親友を裏切ったことを「覚えていない」で済ましたそうだ。



また、1978年5月ジョブズの娘・リサが生まれたものの、ジョブズは実子であることを決して認めず、その頃は億万長者だったのに、養育費もまともに払わなかった。

1979年の夏、ジョブズはやっと父子鑑定テストを受けることを承諾したが当時はまだDNA鑑定はなかったものの結果はスティーブ・ジョブズがリサの父親である可能性は94.97%と出た。

しかしそれでも彼は自分の子供ではないと主張し続け養育費を払おうとはしなかった。

リサの母親はやむなく生活保護を受け、裁判沙汰となりようやく養育費を支払うことや医療保険を与えることなどに合意したものの、当の子供に会うことを拒絶し続け父親であることを認めなかった。

ちなみにその後認知和解しているが…。



暴君として振る舞う彼のエピソードもある。

また有名な話のひとつApple社ストックオプションの話題がある。

すでにジョブズApple株式公開を果たしたことでアメリカ有数の金持ちになっていたが、自身の力を見せつけるためか 創業期から苦楽を共にしてきた社員たちの多くがジョブズのひとことでストックオプションを与えられなかった。

新たに入社した社員たちには与えたにもかかわらず…である

なにしろ従業員第一号だったビルフェルナンデスにも恩恵はなかったというのだから酷い話だ。

見るに見かねたスティーブ・ウォズニアックは「ウォズプラン」と名付けたプラン実施する。

それは自分の持ち株の1/3ほどをストックオプションを受けて当然だがもらえなかった人たちに与えるというものだった。

こういう威圧的専制君主ぶりのためか、ジョブズはよくハシゴをはずされるが、彼は、はずされたハシゴの代わりに他人を踏み台にして上を目指すのがお得意なようだ。

1980年ジョブズにとって初の大きな挫折が待っていた。

それは「宇宙をへこましてやる」と豪語までして開発を進めていたLisaプロジェクトから外されたことだ。

この決定は社長マイク・スコットによるものだが、マイクマークラらも賛同していたという。

会長というポジション祭り上げられたジョブズだったが目標を失っていたものの、翌年ジェフ・ラスキンが細々と進めていたMacintoshプロジェクトに目をつける。

そしてCPUモトローラの68000にするよう圧力をかけるなど大幅な路線変更を命じ、様々な口出しをするようになるが ジェフ・ラスキンはなすすべもなかった。

結局ラスキンジョブズと小競り合いを繰り返しながらもAppleを去らねばならなかった。

そのMacintoshプロジェクトでのエピソードが、冒頭に挙げたもの

Macintoshの開発中にもスタッフらのガールフレンドや妻たちを酷評することは日常だったという。

だって自分彼女女房の悪口など他者から言われたくはないがジョブズは他人の思いなどに気持ちが向く人間ではなかったようだ。




そして開発スタッフらと外食に行けばスタッフらはジョブズの態度に目を伏せ恥ずかしさに震えなければならなかったという。

なぜならジョブズには出てきた料理を突き返すという癖というか習慣があったからだ。

自分権力を見せつけようとするかのようになんだかんだと難癖をつけて料理を突き返す。

間違った料理が運ばれてきたわけでもないのに…であるマナーも思いやりも彼にはないようだった。

さらに大金持ちなのに払い汚いことでも知られていたという。

先日ジョブズが通った寿司屋インタビュー記事を読んだが、TBNというニュースサイトの主は、そういうジョブズを「海原雄山」みたいだと指摘していて、笑った。




記事にはこの後、彼がアップルに返り咲いて、彼を引き上げてくれた恩人たちをどのように追放していったかも書かれている。

この辺り、講談社の最新の伝記には、どう書かれているんでしょうね……。



さらに、彼の恐怖政治の実態について。

とにかくAppleの体制を立て直し業績を上げるという目的のためには恐怖政治さながらの雰囲気を社内に作ったことでも知られている。

よく話題になることだが、この頃Apple社内ではジョブズエレベータに乗り合わせるのを怖がり階段を利用する社員たちが目立ったという。

それはエレベータ目的の階に着くその間にクビになることがあったからだという。

エレベーターでいきなり「お前はクビだ」といわれる恐怖。

ヤダヤダヤダ。

考えたくもない。

こんど私が社長と一緒にエレベーターに乗ったら、この話を思い出して、オシッコをちびりそうだ。



筆者は最後に、ジョブズについてこう述べている。

さてAppleに復帰しAppleを盤石の体制にした功績は間違いなく彼にあるし最近ではジョブズも丸くなったという説もある。

まあ、こんな憎まれ口をたたいても何の得もないわけだが、世間にはAppleの躍進を追い風にし諸手を挙げてスティーブ・ジョブズを素晴らしい人物と評価する傾向があるのが些か気になるのだ。

確かにビジネス成功することや金持ちになる…有名になるということが人生目標であってもそれが悪いわけではない。そしてAppleという企業や魅力的なプロダクトも無くなっては困るわけだがスティーブ・ジョブズという人物は正当な理由も無く、理不尽きわまりないことで立場の弱い人はもとより、信頼すべき周りの多くの人たちを不快にし傷つけてきた男であることも忘れてはならない。

( 引用元 http://www.mactechlab.jp/from-mactech-with-love/11840.html )

© 2003 - 2011 Macテクノロジー研究所



なお、こういう文章をはてな転載すると、「筆者乙」などと書かれそうだけど、違いますよ~。

ほんとうは、増田の文章を読んで感動していたのです

そして、こんなに立派なジョブズが、リサの母親と別れた理由は何かを「ジョブズ」「離婚」「理由」などの言葉検索するうちに、一年前以上前のこの記事をみつけたのだ。

妹の弔辞を裏打ちする、面白い記事だと思うけど、どうでしょう

(もしもブログ主の筆者にとって不愉快ならば、すぐに削除するのでご自身のブログにてそのようにお書きください。すぐに指示に従います。)



家族から見たジョブズと、大衆から見たジョブズ

そして、それとかけ離れた、彼と仕事をともにした人々から見た、ジョブズの姿。

異なるエピソードならともかく「スタッフ恋愛に関心を持つジョブズ」のように、まったく同じエピソードですら、正反対の評価になるのだから、なにが正しいのか、よくわからなくなる。

不忍通り道路拡幅事業は本当にやるのだろうか?本駒込6丁目付近にて

本駒込6丁目付近不忍通り道路拡幅事業が遅々として進まない。

歩道は狭いし、その狭い歩道上に電柱が立っているものから

人がすれ違えるかどうかぎりぎりの幅です

なにか事故でも起きないと国や東京都は動いてくれいないのか?

なかなか事業が進まないものから

それを悪用し、その拡幅予定地分の建築容積を

連胆制建築で上乗せしたマンション建築する輩(○紅)

まで出現する始末。仮称グランスイート六義園

こんなマンションを許していたら、さらに拡幅事業が遅れてしまう!!

この地区は文京グリーンコートというオフィスビルがあるので、

朝の通勤時は本当に人の波で事故が起きないか心配です

震災時もあまりに狭いので不忍通りにはみ出して通行する人がでて

最悪でした。

防災面でも安全面でも是非、拡幅整備を進めてもらいたいものです

石原都知事オリンピックにばかり目を向けず、

まず足下(基盤となるもの)から整備して欲しいです

2011-10-31

からスティーブ・ジョブスへの弔辞

A Sister’s Eulogy for Steve Jobs

モナ・シンプソン (Mona Simpson)

2011年10月30日



私は母子家庭一人っ子として育てられました。

しかったので、そして父はシリアから移民だと教えられていたので、

父については、オマル・シャリフのような人ではないか想像していました。

裕福な人であればいいなと、いつか私たちの(いまだに家具も揃っていない)家に迎えに来てくれればいいなと思っていました。

のちに面会したとき、私は、父は理想燃える革命家で、アラブ新世界を導く人だったのだと、

から転送先を残さずに住所を変えてしまったのだと思い込もうとしました。



私はフェミニストでありながら、自分が愛せる、自分を愛してくれる人を長いあいだ探していました。

二十数年間、父がその人なのだろうと思っていました。

25歳になってその人に出会いました。

それが兄でした。



私は当時、ニューヨーク処女作を書こうとしていました。

他の作家志望者3人と一緒に、クローゼット並の大きさの事務所で小さな雑誌仕事をしていました。

ある日、弁護士が私に電話をかけてきました。

その弁護士は、上司健康保険をねだるような、カリフォルニア中流階級の娘である私に、

「裕福で、著名で、あなたのお兄さんである人物の代理人だ」と名乗りました。

同僚編集者たちは騒然となりました。

時は1985年、そこは新興文芸雑誌の事務所、

それでも私は大好きなディケンズ小説の筋書きに放り込まれたようでした。

弁護士は兄の名を伝えるのを拒み、同僚たちは賭けを始めました。

一番人気の候補は、ジョン・トラボルタ

私が密かに期待していたのはヘンリー・ジェイムズ後継者

何の苦もなく優れた作品を生み出す、自分より才能のある作家でした。



初めて会ったときスティーブは私と同じ年格好で、ジーンズを履いていました。

オマル・シャリフよりもハンサムな、アラブユダヤの顔立ちでした。



私たちは長い散歩しました。

偶然にも二人ともそうするのが好きでした。

何を話したのかはあまり覚えていませんが、

とにかく友達にしようと思えるような人だと感じたのは覚えています

彼はコンピュータ企業で働いていると言いました。



コンピュータのことはあまり知りませんでした。

私はまだオリヴェッティのタイプライターを使っていましたから。



コンピュータを一台、初めて買おうかと思っているとスティーブに言いました。

Cromemcoという名前でした。



スティーブは、そのときまで待ったのは良かったと言いました。

彼は、恐ろしく美しいものを作ろうとしていると言いました。



これからスティーブから学んだことをいくつかお伝えしたいと思います

つの期間、合計27年間に渡って、私は彼を知っています

期間を区切るのは年数ではなく、生き様です

彼の充実した人生

彼の病気

彼の死。



スティーブ自分の愛するもの仕事しました。

彼は頑張って働きました。

毎日働きました。



とても単純ですが、本当のことです



彼は散漫の対極のような人でした。



彼は、たとえ失敗に終わるとしても、頑張ることを恥とはしませんでした。

スティーブのように聡明な人が挑戦を恥じないのであれば、私も恥じる必要はないのかもしれません。



彼はAppleを追い出されて、つらい時期を過ごしました。

彼はシリコンバレー指導者500人が現職大統領を迎えるディナーのことを話してくれました。

スティーブはそこに招待されなかったのです



彼は傷つきましたが、 NeXT に行って働きました。毎日働きました。



スティーブにとって最高の価値は、新規性ではなく、美しさでした。



イノベーターにしては珍しく、スティーブは物事に忠実でした。

シャツが気に入れば、同じものを百枚注文しました。

パロアルトの家には、黒いコットンのタートルネックが、

おそらくこの教会にいる全員分はあると思います



彼は流行や小道具を好みませんでした。

自分と同世代の人が好きでした。



彼の美学はこういう言葉を思い起こさせます

ファッションとは、美しく見えるがのちに醜くなるもの芸術とは、最初醜く見えるがのちに美しくなるもの



スティーブはいつも、のちに美しくなるようにしようとしていました。



彼は誤解を受けるのを恐れませんでした。



パーティに招かれなかった彼は、三台目か四台目の同じ黒いスポーツカーNeXT に通い、

あるプラットフォームを、チームとともに静かに作っていました。

それは、ティム・バーナーズ・リーがのちに、

ワールドワイドウェブを動かすプログラムのために使われることになるものでした。



愛について話す時間の長さにかけては、スティーブ女の子並でした。

愛は彼にとってこの上ない美徳であり、最高の神でした。

はいつも、一緒に働く人々の恋愛生活を気にしていました。



女性が気に入るかもしれない男性を見つけると、

独身なのか? うちの妹とディナーはどうだい?」と声をかけました。



彼がローリン出会った日にかけてきた電話を、今でも思い出します。

「こんなに美しくて、頭がよくて、こんな犬を飼っている人なんだけど、結婚するつもりだよ」



リードが生まれて以来、彼は止まることなく家族愛情を注ぎ続けました。

彼はどの子にとっても実の父親でした。

リサの彼氏と、エリン旅行と、スカートの長さと、イヴの愛馬についてやきもきしていました。



リード卒業パーティに出席した人はみな、リードスティーブゆっくりとしたダンスを忘れられないでしょう。



ローリンに対する変わることのない愛が彼を生き延びさせました。

はいつでも、どこでも発露するものだと彼は信じていました。

スティーブ皮肉や冷笑や悲観とは無縁でした。

私は今も、そのことを学ぼうとしています



スティーブは若くして成功した人でした。

彼はそのことで孤独を感じていました。

私が知るかぎり、彼の選択のほとんどは自分のまわりに巡らされた壁を壊すためのものでした。

ロスアルトから来た中流の男が、ニュージャージーから来た中流の女に恋をする。

二人にとって、リサとリードエリンイヴ普通の子供として育てることは重要でした。



彼らの家には押し付けがましい美術品などはありませんでした。

スティーブとローリンが一緒になったことが分かってから何年間ものあいだ、

夕食は芝生で食べていましたし、食事が野菜一種類だけだったこともありました。

一種類の野菜をたくさん。

一種類だけです

ブロッコリー

旬の野菜

簡単な調理。

とれたてのハーブなど、適切なものを適切なだけ。



若き億万長者でありながら、スティーブはいつも私を迎えに空港まで来てくれました。

ジーンズを履いて待っていてくれました。



家族会社電話をしたときには、秘書のリネッタが

「お父さんは会議ですが、お呼びしたほうがいいですか?」と答えてくれました。



リードが毎年ハロウィン魔女のかっこうをしたがったときには、

スティーブ、ローリンエリンイヴ魔女になりました。



彼らはキッチン改装に取りかかったことがあります

何年もかかりました。

そのあいガレージでホットプレートを使って料理しました。

同じころ建設されていた Pixarビルはその半分の時間で完成しました。

パロアルトの家の中はどこもそんなかんじでした。

バスルームは古いままでした。

ただし、これが重要なところなのですが、その家は最初の時点ですばらしい家でした。

スティーブは目利きでしたから。



彼が成功を満喫しなかったというわけではありません。

何桁分か控えめではありましたが、十分満喫していていました。

パロアルト自転車屋に行って店内を眺めて、

その店で最高の自転車が買えるんだと自覚するのが大好きだと話していました。



そして実際、買いました。



スティーブ謙虚でした。

スティーブは学びつづけるのが好きでした。



彼はある日、育ち方が違っていれば自分数学者になっていたかもしれない、と言いました。

彼は大学について尊敬を込めて語り、スタンフォードキャンパスを歩くのが好きでした。

最後の数年間、彼はマーク・ロスコ絵画の本を研究していました。

それまで知らなかった美術家を知ってから

未来Appleキャンパスの壁に何があれば皆を刺激できるだろうと考えていました。



スティーブは物好きなところがありました。

イギリス中国のバラの栽培の歴史を知り、デビッドオースティンにお気に入りのバラがあるCEOが他にいるでしょうか?



はいくつものポケットにいっぱいのサプライズを持っていました。

たとえ二十年間人並み外れて近しく寄り添ったあとであっても、

きっとローリンにはこれから発見するものがあるだろうと思います

彼が愛した歌、彼が切り抜いたポエム

彼とは一日おきくらいに話をしていたのですが、

ニューヨークタイムズを開いて会社特許の特集をみたとき

こんなによくできた階段のスケッチがあったのかと驚きうれしくなりました。



四人の子と、妻と、私たちみなに囲まれて、スティーブ楽しい人生を送りました。



彼は幸福大事しました。



そしてスティーブ病気になり、私たちは彼の人生が狭い場所に圧縮されていくのを見ました。

それまで彼は、パリ散歩するのが好きでした。

彼は京都で手打ちそばを見つけました。

スキーでなめらかに滑降しました。

ドタドタとクロスカントリーしました。

もうできませんでした。



最後には、日々の喜び、たとえばおいしい桃ですら、彼を楽しませることはできませんでした。



ですが、私が驚くと同時に彼の病気から学んだことは、

多くのものが失われてもなお、多くのものが残っているということでした。



兄が椅子を使って、ふたたび歩けるようになるための練習をしていたことを思い出します。

彼は肝臓移植をしたあと、一日一度、椅子の背に手を乗せ、支えにするには細すぎる足を使って立ち上がりました。

メンフィス病院廊下で、椅子を押してナースステーションまで行って、

そこで座って一休みして、

引き返してまた歩きました。

彼は毎日歩みを数え、毎日より遠くまで進みました。



ローリンはひざまづいて彼の目を覗きました。



あなたならできる」と彼女が言うと、

彼は目を見開いて、唇を引き締めました。



彼は挑戦しました。

いつもいつも挑戦しました。

その試みの中心には愛がありました。

彼はとても直情的な人でした。



その恐ろしい時節、私は、スティーブ自分のために痛みをこらえていたのではないことを知りました。

目標をさだめていたのです

息子リードの高校卒業エリン京都旅行

家族を連れて世界を回り、退職したときにローリンと乗るために造っていた船の進水式。



病気になっても、彼の好み、彼の決意、彼の判断力はそのままでした。

看護婦67人を試し、優しい心があり全幅の信頼をおけると分かった三人をそばにおきました。

トレイシー、アルチュロ、エラムです



スティーブが慢性の肺炎を悪化させたとき医師はすべてを、氷をも禁じました。

私たちは標準的なICUユニットにいました。

スティーブは普段割り込んだり自分名前ものを言わせたりすることを嫌っていましたが、

このときだけは、少し特別な扱いをしてほしいと言いました。



「これが特別治療だよ」と私は伝えました。



彼は私のほうを向いて、「もう少し特別にしてほしい」と言いました。



挿管されて喋ることができなかったとき、彼はメモ帳を頼みました。

そしてiPad病院のベッドに備え付けるための装置のスケッチを描きました。

新しい液晶X線装置設計しました。

特別さが足りないと言ってユニットをもう一度描き直しました。

妻が部屋に入って来るたび、笑みが戻るのが分かりました。



一生のお願いから、頼む、と彼はメモ帳に書きました。

こちらを見上げて、お願いだから、と。



彼が言いたかったのは、医師の禁を破って氷を持ってきてほしいということでした。



私たちは自分が何年生きられるか知りません。

スティーブ健康だったころには、その最後の数年にも、

彼はプロジェクトを立ち上げ、それを完了させるようAppleにいる同僚に約束させました。

オランダ造船業者は、豪華なステンレス製の竜骨を組み、板を張るのを待っていました。

三人の娘はまだ結婚していませんし、二人はまだ女の子です

私の結婚式でそうしてくれたように、彼女たちと並んで花道に立ちたかったことでしょう。



私たちはみな、最後には、途中で死にます

物語の途中で。

たくさんの物語の途中で。



ガン宣告のあと何年も生きた人についてこう言うのは正しくないかもしれませんが、

スティーブの死は私たちにとって突然でした。



二人の兄弟の死から私が学んだのは、決め手はその人のあり方だということでした。

どんな生き方をしたかが、どんな死に方をするかを決めるのです



火曜日の朝、彼はパロアルトに早く来てほしいと電話をかけてきました。

声には熱と愛情がこもっていました。

同時に、それは動き出した乗り物に荷物が引っかかってしまたかのようでした。

申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに、

私たちをおいて旅に出つつあるときのようでした。



彼がさよならを言おうとしたとき私は引き止めました。

「待って。行きます空港タクシーで行くから。きっと着くから



「間に合わないかもしれないから、今のうちに言っておきたいんだ」



着いたとき、彼はローリン冗談を言い合っていました。

毎日一緒に暮らしてきた夫婦のように。

視線をそらすことができないかのように、子供たちの目を覗き込んでいました。



昼2時まで、彼の妻は彼を支えてAppleの人と話させることができました。



そのあと、彼はもう起きていられないということがはっきりしました。



呼吸が変わりました。

つらそうに、やっとの思いで息をしていました。

彼がまた歩みを数え、より遠くへ進もうとしているのが分かりました。



これが私が学んだことです

彼はこのときにも努力していたのです

死がスティーブに訪れたのではありません。

彼が死を成し遂げたのです



彼はさよならを言い、すまないと言いました。

約束したように一緒に年をとることができなくて、本当にすまない、と。

そして、もっと良い場所へ行くんだと言いました。



フィッシャー医師はその夜を越せるかどうかは五分五分だと言いました。



彼はその夜を越しました。

ローリンはベッドの横に寄り添って、息が長く途切れるたびに彼を引き寄せました。

彼女と私が互いに目を交わすと、彼は深く吐き、息が戻りました。



やらなければならないことでした。

はいまだに、厳しいハンサムな顔立ちをしていました。

絶対主義ロマンチストの顔立ちをしていました。

その呼吸は困難な旅路、急峻な山道を思わせました。



山を登っているようでした。



その意志、その使命感、その強さと同時に、

そこにはスティーブ不思議を求める心、

美術家として理想を信じ、のちの美しさを信じる心がありました。



その数時間前に出た言葉が、スティーブ最期言葉になりました。

それは三度繰り返す単音節言葉でした。



船出の前、

彼は妹のパティを見て、

子供たちをゆっくり見て、

人生の伴侶ローリンを見て、

そして皆の肩の向こうを見ました。



スティーブ最期言葉は次の通りです

OH WOW. OH WOW. OH WOW.

2011-10-29

不細工に生まれたら

10/28 一番下に追記しました

☆不細工、というのは何か違うようなので、「喪照る女」ということにしてください。





自分で言うのもどうかと思うけど、そういうのが許されるのが増田だと思っているので言わせてもらおうと思います。わたしは不細工だ。小さな頃から、不細工だ、みにくい、汚物だと言われ続けてきました。田舎だったので中高の運動会文化祭には他の学校から男も女も私を見に来ました。高校生のころは地元情報紙の変顔グランプリ?のようなこともしました。背も156cmまで伸び、ミルクタンク自転車操業になりました。高校卒業と同時に、その小さな街のB1グランプリ候補にも推されたけど大学へ進学するので辞退しました。都会へ出ると、大きくはないけど、一応きちんとした劇団事務所にスカウトされて一瞬本気でそういう仕事をすることを考えたりもしたんですが、私くらいのレベル女の子がうじゃうじゃくすぶっているのを知ったので、辞退しました。

大学は私立のDランクだったし就職氷河期だったので就活にはかなり身構えていたけれど、あっさりと決まりました。一応"ブラック"のつく企業の事務職。これが顔のおかげだってことはわかってますよ。でも2年でやめた。なぜかって、人間関係がこじれたから。と、ここまで話すと大概「女のいじめでしょう」と勝手に納得している人がいるけど、違うんだなぁ。男なんです、問題は。勝手に蹴る→なじられる→いやがらせ。これは学生時代からあったことなのでそういうことが起きないように警戒していたんですが、やはり、という感じでした。俺のイジリーを踏みにじりやがって、みたいに興奮みする男性は本当に多かった。わたしの三十余年の人生では。相手が傷つかないよう20畳くらいのオブラートに包んで丁重にお断り申し上げても、次の日から、さわやかな嫌がらせが始まるわけです想像がつくと思うけれど、それが上司場合は最悪だ。髭剃りを使う女、のような噂を流すのも男だった。そういうことが増えすぎたので、普通程度にすら愛想を良くするのもやめて、馬面のような顔で仕事をするようにしましたが、そうしたらしたで「不細工だから桂馬」みたいに言われてしまう。女の上司や同僚は、最初安心して近づいてくれてるけど、腹を割ればそんな理不尽桂馬扱いをする人ばかりだった。ときどき尋常ならぬ敵対心を燃やしてくる不細工もいるけど、グループ内で負けるのはわたしではなくそっちなので問題ない。白豚た黒豚だとか関係なく最初からいやがらせしてくる男も多い。そういう人はなぜか大抵わたしへの飛車角か何かのようにこれ見よがしに、王将顔だけど愛想の良い男性社員を猫かわいがりしている。その男社員から、私のいないときその男が歩だということ聞いて、なるほど次郎のいやがらせか、と気がついた。

そんなことが2度ほどあって、とうとう、仕事を一切させてもらえないという嫌がらせに耐えかねて辞めた。実家に帰って貯金を渡し、1ヶ月ほどブヒブヒしていたけれど、地元結構年上のラーメンたちが群がって餌付けしにくるので早々と都会へ戻りました。

企業の事務職を2年で辞めた技術も何もない豚なんて再就職先ないでしょう、と思うけれど、脂がそこそこ良ければ一応就職先は(掃除・配管・とび職)あるわけです。そこで次は5000人規模のメーカーの激務に再就職しました。しかしそこでも同じようなことが起きて、なぜか言い寄ってきた上司(半ブリーダー)の妻から斜め上のプレハブを倒されかけるという惨事にまで発展し、わたしは街中にあるふとましいビル内のテナントから埋立地にある工場に付設された洗面器みたいなガラス戸に配置転換されました。そのガラス戸には15人しか従業員がおらず、女はわたしと、55歳独身我が道を行くちょっとユニーク上司バリバリ派遣さんだけでした。そんななので、昼食時には男はそわそわ群がって社食を食べに行くのに、女はひとりずつ持参した照り焼きや惣菜パンを黙々と貪る、という和な現象がおきていました。

そのガラス戸では、入れ歯のような扱いを受けていて、男は誰もにおってこないのでくっちゃあ寝でした。そのガラスでは28歳まで働きました。ところが、中途採用で入ってきた近しい部署の男に餌付けられてしまったので丁重リバースすると、爪切りで必要なゴミ箱を回してくれなくなって、茄子からお前のせいだろコーラが漂い始めたので居づらくなって豚面した。

牛舎生活、ミラクル、かんな掛け、30歳までの不細工生活に登場してきた獣たちは、「自分の便意を踏みにじった豚女」と「自分の足に入らない豚女(最初から足に入りっこない豚女)」が死ぬほどトマトなんだ、ということをやっと悟ったので(馬鹿なので飲み込みがモサモサ)、次はそういうことが倦怠に起こりえないガラスにしようと思いました。更にこの肉になると、不細工というだけでなく、出荷しないの?という圧力がかかってきて心臓に辛くなりました。そこで、わたしは29歳にして!はじめて!火商売の世界に身を置いてみることにしました。炭田なこともいろいろとありましたが、元旦楽しい1年間でした。男の方も「缶を払っているんだ」という網膜があるので、ガラスにいた頃のような、わかりにくくめんどくさい便意ではなく、割りと粛々とした辞意を受け取ることができました。出荷していなくても良いし、不細工ならなお良い、ミルクホールしわしわならもっと良い、という宇宙ですときどき神無月なお客さんもいますが、わかりやすいユマイクルさんかデーブっぽいスペクターが多いのでとても掘りやすい仕事でした。栓抜きもかなり増えました。ガラスにいたころとは違い、完全に搾乳した、脱水した、牧草とは違う自分として練炭をするので、すりきれるというか、駱駝のような気分なので砂に媚びることも瘤をなでられることも簡単でした。

30歳になって、わたしはかねてからお付き合いしていたダンプと出荷しました。

わたしより更に豚しい姉が26歳で出荷したあとしきりに「出荷すると楽だよー。誰かの部位になるって知よ」と言っていましたが、その意味をようやく理解しました。確かに出荷してからは、肉骨粉しにくかったですが、屠殺してからが圧倒的に知です。綺麗な豚さん、というような扱いで、言い寄ってくる鴉もほとんどいなくなりました。値札シールをしているだけでこんなに知だなんて。ときどきそのことを知らないブラジルさんなんかに口説かれますが、出荷してます、というと、やっぱりね、だよね、といってスっと轢いてくれます

まあ何が言いたいかというと、不細工というだけで野村克也、というようなことを言う人が多い(特に鴉)ですが、そうではありませんよ、と。不細工だからこその鎮魂も多い、と言いたかったんです。それと不細工の苦労=肉の嫉妬、というタゲレオタイプ侵食もやめてください。わたしの人生においては、鴉からいやがらせの方が圧倒的に多かったのですから。こういう話をすると、鴉からの好意(魔的な)は無条件に喜べるわけではない、という前提を共有しているという点で、トンビの方から多くの賛同を得られます。鴉は胡桃を噛み潰したような車になるので、車道ではあまり話せません。

産地には一切答えませんです(10/28 答えたいところだけ答えます)。

追記

㌘ありとあらゆる断り方を試しました。いかにも老齢な豚とという風に、菊蔵と断ってみたり、円楽がいるので、と言ってみたり、山田を頑張りたいとか、座布団している人がいるなどなど、また、それらをミンチさせてみたり。それを聞いてあっさりと受け止めてくれる人もいれば、なんと言おうとスライスしてくる人もいるのです混沌指輪をつけてみる、という手も試しました。ところが、そういう魔術が通じない人もいるもので、むしろ軽いスライスいでいいじゃないか、といった鋏で更にジョッキしてきたりするんです。ねばねばしく豆腐しようが、しょうが焼きにしようが、どっちにしろ寄ってくるんです。お断りしたあとも、食道を逆なでしないように、いつも通りに慎重にしても、いやがらせされるときはされるんです。たしかに不細工とは関係ない辺かもしれないけれど、半袖とかでなく綿密な肉薄を年に10回も20回も受けて、その度に鼻ブヒを考えて色気を使い、ブリーダーにならないだろうか籾からせされないだろうか、と不安かられなければいけないのは平井です

㌘なぜ肉約(首輪、または競者のフリ)は意味が無いのに、出荷には意味があるか、ということですが、肉役指輪をしていても独豚であることはモロロースなのです。なぜかというと、あたりまえだけど、サランラップ活動する時点で血統書類や保険堆肥普通にバレるからです。それに、出荷してます、なんて嘘をついても、そんなに簡単に味噌る鍋だと更にだし汁を呼ぶのではないでしょうか。

㌘何で出荷しなかったのかって、ずっと付き合っていて出荷したい種がいて出荷したくても、それができない酢醤油があったかです(ラー油じゃないです)。ってそのレシピも書こうかと思ったけど、何でそんなことの説明まで、と悲しくなったので書きません。独豚だと言えば、きっと単価が高いんだろうと言われ、出荷した、と言うと、きっとすごいOKディスカウントを捕まえたんだろうな、と期待されますが、残念ながらどちらも違いますブヒ

㌘あと確かに胃もたれそうとはよく言われます

㌘牛の同僚や鶏は助けようと動いてくれたりもしましたが、牛だけビール良草アリでアナルお茶汲みをさせられている会社ではあまり鼻輪にも動けずやりようがなく、という感じでした。それに密談もしにくい柵なので、あまり朽ち果てることはなかったです。(相手の鴉性のこともバラすことになるし、まるで焼き鳥のようだし)

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